敬して遠ざく
「知ってたのか?」
「なんとなく、ね」
戚姫は静かな声で、そう言った。
「そうか……」
実の母親だ。異母兄の俺なんかより、ずっと……。そうだよな。
しばしの沈黙が流れる。
「あの……」
戚姫が何か言おうとしたのと同時に、劉盈は訊いた。
「そ、それを聞きにここに……?」
戚姫は、え? と不意を突かれたような表情になり、それからまたしばらく黙っていた。やがて劉盈の顔をまじまじと見つめ、何かを思いついたような素振りを見せると、にこっと笑って言い放った。
「あんたの身体に乗り移って、呂太后を殺しに行くわ」
「い、いま何て……?」
劉盈は全身の血の気が引くのを感じた。
「だからー、あんたに取り憑いてー」
「やめて、お願いだから!」
「えー、どーしよっかな」
「俺は人殺しはしたくないんだ! やるなら自分で……やっぱりそれもやめて!」
「あんただったら呂太后も油断しないだろうし、案外簡単に殺れちゃうかも!?」
「やめてよ!」
戚姫の口ぶりからはあまり……というか全く、怒りとか、恨みは伝わってこなかったが、幽霊の考えていることは分からない。笑いながら呂太后を殺すつもりかもしれない。全く油断できない。
戚姫が呂太后を恨んでいるのは間違いがないのだ。そりゃそうだ。あの光景がまた少し劉盈の記憶に顔を出す。あれだけの酷い仕打ちをされて、戚姫は殺されたのだった。
戚姫の恨みのほどは十分に理解できるが、劉盈としてもむざむざ自分の母親を殺させる訳にはいかない。たとえそれが呂太后であってもだ。
とにかく戚姫には怒りを沈めてもらうしかない。
どうすれば……どうすれば戚姫は帰ってくれるのか、必死に思案を巡らせる。幽霊に贈り物なんてしても無駄だろうし……そうだ!
劉盈は叔孫通から教えてもらった言葉を思い出した。
『鬼神を敬して、これを遠ざく』
孔子様が伝えた由緒正しい幽霊撃退法である。鬼神というのは、幽霊と似たようなもんだろう。
というわけで、さっそく実行に移そう。
劉盈は背筋を正すと、床の上から戚姫に向かって平伏した。そういえばまだ床の上に居たのだった。
「あなたの怒りはごもっともです戚夫人様。廟を建てて毎年生贄を供えますので、どうかそれでお許し下さい」
戚姫はきょとんとしている。
「あんた何言ってるの?」
「生贄は牛一頭がよろしいですか。二頭ですか。豚も要りますか。玉帛の数は……」
ビシッ。
尻がひっぱたかれる音がした。というか、まだ持ってたのかよ、それ。
「ふざけてるの?」
「痛いです戚夫人様」
ビシッ。
劉盈は痛みに耐えてなお続けようとする。
「奉祀官の人数は……」
「それ以上続けたら、本当に取り憑くから」
そこまで言われて、劉盈はようやく諦めた。
「はあ……どうすりゃいいんだよ」
孔子様のありがたいお言葉も届かず、劉盈は途方に暮れた。
このまま自分は取り憑かれてしまうんだろうか。
そんなことを考えながら、劉盈が床から立ち上がった瞬間……、劉盈の足が、つるっ、と床を滑った。
「うわっ!」
勢いのまま、寝台の上に手をつく。そっち側でよかった。
「ちょっと、なにすんのよ!」
振り返ると、戚姫が顔を真っ赤にして怒っている。
「あんた、さっきから、わざとやってるんでしょ!」
そういえば、今、目の前の戚姫の体をすり抜けて……。
先程寝台から床に落ちたときとは逆だった。このときも、劉盈は戚姫をすり抜けたのだ。やはり戚姫は幽霊なんだ、と再確認する。
「き・も・ち・わ・る・いのよ! 私の体に触らないで! 私に触っていいのは陛下だけ! わかった?」
「痛い痛い、というか今は俺が陛下だよ!」
「はあ? 私の陛下は一人だけ。如意を入れても二人だけ。だれがあんたなんかを……!」
ビシッ。ビシッ。
「わ、わかった、俺は陛下じゃなくていいから、それはやめてくれ!」
気のせいか、戚姫の攻撃が威力を増している。
「これに懲りて二度と私の体に触れないこと、次にやったら、呪い殺すから」
「分かったからやめて! 痛いんだよ! 呪われる前に死んじゃうよ!」
「怪しいから今のうちに叩いておくわ」
理不尽な理由で戚姫の連続攻撃を受けていた劉盈だったが、その状況でふと冷静になってみると、あることに気づく。
あれ、こいつ、乗り移るって言ってたよな。
身体に乗り移るって。それで呂太后を殺しに行くって。
だから、聞いた。
「乗り移るのは気持ち悪くないの?」
戚姫は湯気の出るような顔になって言った。
「じょーだんに、決まってるでしょおおおおお!」
ビシッ!
強烈な一発が、劉盈の脇腹を直撃した。