幽霊少女
油灯に照らされてそこに立っていたのは、確かに声のとおりの少女だった。髪を背中まで垂らし、刺繍がはいった深衣を身に纏っている。歳は十六、七といった所だろうか。やはり宮女のようだが、思い当たる名前は出てこない……だが不思議な事に、どこか見覚えのある顔立ちをしていた。
誰だったかな……。
劉盈の僅かな記憶を引きずり出すかのように、彼女は言い放った。
「戚姫よ!」
「せきき…」
劉盈はその言葉を反復すると、咄嗟に布団にくるまって身体を震わせた。戚姫……もとい戚夫人。実は生きていたのか、いやそんなはずはない。確かにこの目に焼き付けた、戚夫人の凄惨な死体。あれはたしかに戚夫人だった。……ということは。
「や、やめろ…」
鮮烈な記憶が蘇り、吐き気を催しそうになる劉盈だったが、その記憶ほどこれを証明するものはない。戚夫人はこの世にいない。それはこの目に焼き付いた事実だ。ということは、そうだ! これは趣味の悪い悪ふざけにすぎないのだ。そうなのだ。
「お、俺を脅かそうっていうのか。皇帝の、この俺を…」
そんな真似をする輩がいるのだろうか。皇帝に対する侮辱も甚だしい……そんな悪戯をすれば、ただでは済まないのが普通だ。一瞬、そういう考えも脳裏をよぎったが、手のほうは少女の衿に掴みかかっていた。
「ふ、ふざけるのもいい加減に……」
その瞬間。
するっ……と劉盈の身体は少女をすり抜け、寝室の床に転がり落ちた。
硬い床に全身が打たれて、かなり痛い。
「な、なにするのよ!」
少女の声が聞こえたが、劉盈は恐怖で立ち上がることもできない。なんとか少女の方を見上げるのが精一杯だ。
こいつは只の人間ではない。それは劉盈も薄々感づいていた。恐ろしいので考えないようにしていただけだ。
「ゆ……幽霊?」
言いたくなかった二文字を言ってしまった。
少女はしばらく黙っていたが……。
「まあ、そんなもんね」
やっぱりそうだった! 戚夫人は俺を呪い殺しに来たのだ! やっぱり俺はここで死ぬんだ……。などと考えて、劉盈は床の上から少女を見上げたまま、身体を震わせた。
「や……やめてくれ!」
つい先程までの死を覚悟していたはずの劉盈は、この期に及んで命乞いを始める。死ぬのは怖くないけど、やっぱり幽霊は怖い。いや本当は死ぬのも怖い! 劉盈は目をつぶって叫んだ。
「俺に何の恨みがある!」
次に返ってくる言葉はだいたい予想できる。
お前は我が子、趙王如意を見殺しにしただろう。呂太后と共に私を惨殺し、共にその亡骸を貶めたであろう。その報いである。……と。
そこまで考えてしまったので、まだ何も返ってこないうちに、
「し、知らなかったんだ……俺は何も、母上が何をなされたのかも……本当だ!」
と弁解の言葉を続けてしまった。
ところが、少女、もとい戚姫の口から出てきたのは、意外な言葉だった。
「別にあんたには、何の恨みもないけど」
ナンノウラミモナイ。
どういう意味だ、と思って頭のなかでその言葉を反復してみたが、頭が混乱してよく理解できない。
目の前に幽霊がいる。しかしそんなわけはない。
劉盈は必死になって、いちばん合理的な考えを探した。
そうか、俺は幻覚を見ているんだ。
ちゃんと魔除けの音楽もやったし、悪魔祓いもしたし、幽霊が来るわけがない。
酒に酔って、おかしくなってしまっただけなんだ。
よかった、幽霊はいなかったんだね。
「さよなら、幽霊さん……」
劉盈は手を振った。さよなら、俺の幻覚。さよなら恐怖。
戚姫はしばらく黙っていたが……ふと何を思ったのか、机の上に放置されていた、劉盈が呂太后に送るはずだった例の竹簡を手にとると、劉盈の肩にびしっと叩きつけた。
「いたっ」
ただでさえ痛い身体に追加の一撃が走る。
「もっとちゃんと見てよ」
痛みを堪えながら、劉盈は戚姫を見つめた。幽霊は俺の幻覚かもしれない……でも、この痛みは本物だ。痛みが本物なら、今その手に竹簡を握っている、この幽霊も本物……?
目をこすり改めて見ると、確かにこの十六歳くらいの少女には、戚姫の面影がはっきりと見て取れた。きらりとした目は、まさに高祖を魅了した戚夫人の容貌そのものである。
認めるしかないのか、目の前の戚姫を。
そこまで考えると、劉盈はようやくまともに口がきけるようになった。
「ほ、本当に戚姫なのか? 確か二十代半ばくらいだったはずじゃ」
「別にいいじゃない、もう死んでるんだから」
幽霊になると、容貌まで若返るのだろうか? そんな話は聞いたことがないが……たいてい、幽霊っていうのは死んだ時の姿で現れるものじゃないか。
そう思ったが、目の前にいるのは確かに幽霊としか思えなかったし、自分で戚姫だと名乗っているので、そこはとりあえず納得することにした。変に反抗するともっと恐ろしい目に合うような気もした。
そこまで落ち着きを取り戻したので、今一度先ほどの言葉について、おそるおそる聞き直してみる。
「恨みはないって言ったけど」
「そうだけど」
「じゃあ何でここに来たんだ」
すると戚姫は、思い出したかのように訊いた。
「私の劉如意は、どこに居るか知らない?」
劉如意……劉盈ははっとした。
そうか、戚姫は劉如意が死んだことを知らないんだ。あの日、戚夫人の死と時を同じくして、如意が呂太后の手で殺されたことを……。
そう思うと同時に、如意との楽しかった日々が脳裏に蘇る。鞠や双六で遊んだこと、毎朝の散歩、お勉強、楽しい夕食……。自然と、涙が流れた。
「劉如意は、もうこの世に居ないんだ。俺が、守ってやれなかったばっかりに……。許してくれ……!」
自分が目を離したばっかりに、みすみす如意が殺されたのは本当のことで、とても弁解する気になれない。今度こそ俺は殺される……と劉盈は覚悟した。
「そう、やっぱりね……」
戚姫は大きくため息をついて、そう言った。