暗澹
その日から、劉盈の目に映る世界は、大きく変わってしまった。
呂太后が如意を恨んでいることは薄々知っていた。けれど、自分にとっては如意はかけがえのない存在で、呂太后だって、きっとそれを分かってくれているはずだと、劉盈は思っていた。しかしそうではなかった。
宦官たちは、日頃から自分が如意を大事にしている所を十分に見ているはずなのに、呂太后の蛮行に加担して自分を裏切った。
「お前たちは太后に命じられて、その手で戚夫人を殺めたのか!穢らわしい奴だ!」
劉盈は側仕えの宦官にそう言って、以後、寝室に近づくことを禁じた。服くらい着ようと思えば自分で着れるのだ。
それだけじゃない。宮女たちも、必ずや何らかの手助けをしたに違いない。きっとそうだ……。
そういう思いを巡らせているうちに、劉盈の疑心暗鬼は、どんどん大きくなっていった。
それは後宮だけに留まらなかった。やがて劉盈の目には、周りの全ての物体が、常に巨大な悪意を蓄えているように映った。そしていつか、それが何の前触れもなく噴出し、自分にその黒く醜い塊を浴びせるではないかと恐れた。そう考えると、どこに行っても落ち着かなかった。どこに悪魔が潜んでいるか分からない。ここは悪魔の館だ。人間も、花も木も池も、外は綺麗に着飾っているが、中はきっと真っ黒に染め上がっているに違いないのだ。
積み上げられ始めた長安城の城壁は、今や自分をこの悪魔の城に閉じ込めて、逃げ出せないようにする陰湿な企てのように思えた。
この宮殿に住み続ける限り、悪魔から逃れる術は無いのか?劉盈は考えを巡らせた。
そして結局は、ひとつの結論に行き着く。自分が助かる方法は一つしか無いのだ。
それはもしかすると、如意に会える方法かもしれない。
だが劉盈には、まだそれを実行するだけの勇気がなかった。
そうしてしだいに引きこもりがちになり、食事も十分にとらないでいると、家臣が心配する。食膳の前にひとり座ってみるものの、肉の羹は戚夫人の死体を思い起こさせ、どうにも口にする気にならない。
ある時、食膳に焼き魚が出された。劉盈が箸をつけようとすると、偶然に、魚の目玉がぽろっと落ちた。劉盈は膳をひっくり返して席から逃げ出し、寝室に飛び込み布団を被って震えた。
「俺は何も知らなかった!何も見ていなかった!」
と一晩中泣き叫んだ。
あの美しい池も、壮麗な建物も、もはや劉盈の心を楽しませることはなかった。
恐ろしい記憶から逃れるために酒浸りになり、身体は日に日にやつれていった。それでも劉盈の心を潤すものは、他に方法がなかった。
戚夫人と劉如意が殺されてから、十数日が経ったある日。
劉盈は、一通の書簡をしたためて、呂太后に送った。
そこには、こう書かれてあった。
「あれは人間のすることではありません。あなたの子である私には、天下を治める資格などないのです」
それは母に対する最後の抗議であり、そして弁解でもあった。
これ以降、劉盈の酒浸りは、ますます酷くなっていった。