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人豚

 劉盈は宦官の後をついて、ついに後宮へと足を踏み入れた。生まれて初めて入る、華やかな女性の花園……のはずである。

 だが、劉盈の想像と違って、後宮の中は特に騒ぎになっているのでもなく、むしろ気味が悪いほど静まり返っていた。

 廊下の左右にはいくつもの部屋があって、そこに宮女たちが暮らしているはずなのだが、どういうわけか可愛らしい声の一つも漏れてこない。

 みんな今頃は散歩にでも出かけているのだろうか、と劉盈は思った。後宮のしきたりに精通していない劉盈には、彼女たちの生活実態というのがイマイチよくわからない。


 そんな劉盈の疑問をよそに、宦官は宮女たちの部屋を通り過ぎ、後宮の奥へ奥へと歩いて行く。

「こちらです」

 と、劉盈が案内されたのは、意外な場所であった。

「厠?」

 厠……つまりトイレである。

 床に排泄のための穴が開けられ、その穴の中から、動物の鳴き声が聞こえてくる。

 ぶーぶーというこれは……豚の鳴き声だ。


 厠の下には穴が掘られて、いわゆる肥溜めになっているわけだが、そこに豚が飼われていた。その豚は人間の排泄物を食べて生きているそうだ。まあ気持ち悪いといえば気持ち悪いと言えなくもないが、ある意味究極のリサイクルなのである。野菜だって人糞を撒いて育てるじゃないか。

 でもやっぱり好き好んで見るものでないのは確かである。劉盈にそういう趣味はない。妄想力豊かな彼も、そこだけは確かに健全である。


「これのどこが面白いんだよ。ただの厠じゃないか」

 美仙女のイメージで膨らんだ脳内後宮を、あっけなく崩壊させられた上に、朝からあまり気分の良くないものを見せられたので、劉盈は宦官につっかかった。

「ま、まあ……もっとちゃんと見て下さいな」

 宦官がそう言ったので仕方なく、劉盈はあまり見たくない肥溜めの中を、上からちょっと覗き込んでみた。すると。


 豚に混じって、何かが落ちていた。


 劉盈は、それが何なのか分からなかった。豚にしては小さい。それに、細長い肉のかたまりのような物体が、周りに2つ、3つ……。

「まだわかりませんか……」

「分からない……何だろう」

「戚夫人にございます」


 戚夫人……? その言葉を口にしかけた時、突然、長い髪を纏った人間の頭部らしきものが目に飛び込んできた。一瞬、肥溜めに散らばる肉の塊は一つになり、かつての高祖を魅了した美しい女性の姿を作り上げる。そして次の瞬間には、もとの肉の断片に戻っていた。しかしもはやただの肉片ではない。それは凄惨な人間の屍体だったのだ。

 驚いた劉盈が、思わず肥溜めから目を背けようとする間際、眼球を抉られて黒々とした夫人の目が、こちらを睨みつけていた。


 劉盈は、わけがわからなかった。いったい何が起こったのか。自分は確かに後宮に来たはずだった。何かの間違いではないのだろうか。そんなことを繰り返し考えた。考えても分からず、ぼうっとなってそこにいた。

 そして少し経ってから、ようやく自分が置かれた状況が理解できるようになった。その時になって初めて、今までに感じたことのない戦慄が劉盈の身体を襲った。

 劉盈は、もう何も言うことができず、後ずさりしようとして腰を抜かし、そのまま起き上がれなかった。ただ底知れない恐怖と、後から追いついてきた吐き気だけが、劉盈をその場に縛り上げていた。自分はこんなものを見に来たのでは無かったはずだ……もっと楽しい、享楽を味わいにここに来たはずだった。それも今となってはもう二度と訪れることがない、永遠に失われた楽しみのように思えた。


 あの華やかな後宮は、今や悪魔が棲む館に変わってしまった。上に見える宦官の笑みが、いっそう恐怖を助長する。彼らは知っていたのか? 知っていて俺を呼んだのか?

 宦官たちは特にたじろいでいる様子もなかった。

 それだけじゃない。散歩になんか出てやいない、部屋の中で、息一つ漏らさずに口をつぐんでいる宮女たち。彼女たちも、みんな……?

 みんな……知ってたのか。

 やはりそうだったのだ。自分だけがこの異常な空間に迷い込んだのだ。

 部外者は自分だけだ。

 その時だった。


「どうでしょう、『人豚』の様子は」

 聞き覚えのある声が、後ろから響く。とっさに、劉盈は振り返った。

「母さん……!」

 呂太后だった。彼女は廊下の後ろの、少し離れたところから、厠に向かいじっと目をやっていた。あの宦官たちよりもずっと、それはそれは満足そうな笑みを浮かべて。

 それを見た劉盈は、考えうる最も恐ろしい事態が、目の前で起こったことを知った。

「これは、母上が命じられたのですか?」

 劉盈は、かすれたような声で聞いた。

「あの女は高祖を惑わせ、あなたを皇太子から引きずり落とし、趙王如意を皇帝に立てようとしたのです。謀反を起こしたも同然、これは当然の報いというもの。あなたもお喜びになりますよう」


 趙王如意……という呂太后のその言葉を聞いて、劉盈ははっと正気を取り戻した。今まさに寝室に居るはずのあの麗しい少年、彼こそが戚夫人の子、趙王劉如意である。劉盈は力を振り絞ってなんとか立ち上がると、後宮を飛び出して如意の寝室に走った。

 その後ろ姿を、呂太后は無言のまま見つめていた。


 寝台のとばりを開くと、そこには早朝と変わらない如意の姿があった。

 劉盈は寝台に上がり、如意の体をゆすって起こそうとした。しだいに強く、大きく、劉盈は体をゆすり続けた。

 如意は、目覚めなかった。

「如意、起きろ、起きてくれ!」

 可愛らしい顔をそのままに、如意はまるで人形のように動かなかった。

「朝だぞ! 今日という今日は、叩き起こしてやる!」

 劉盈は大声を出して如意を脅かした。

「起きないと、こうだぞ!」

 劉盈は、如意の頬を思いっきり叩いた。赤い手のあとだけがそこに残った。

「頼む。起きてくれ! 如意! 如意……!」

 その後は、ただ泣き叫びながら、その名前を呼ぶだけになった。

「くそっ! 俺がちゃんと見ていれば、こんなことには……こんなことに」

 後悔の念が劉盈の心を突いた。もはやどうにもならないのだ。それが分かっていても、劉盈は、無我夢中でその名を叫び続けるしかなかった。

 あのとき、如意を叩き起こしていれば。いや、もしかしたら、狩りが終わった後、すぐにでも如意のところに駆けつけていれば、もしかしたら。

 毒を盛られたのか、それとも別の方法かは分からない。だが、それが実行に移されたその時、自分は狩りを楽しみ、あげく後宮遊びなどにうつつを抜かそうとしていた。

 最期の時、如意は必死に助けを求めたのだろうか。何を思って死んでいったのだろうか。俺は、そばに居てやれなかった。それを想像すると、本当に悔しくて、申し訳なくて、自分が情けない気持ちになった。

「すまない、如意、本当に、すまない……俺、お前のこと、守ってやれなくて……!」

 如意と過ごした楽しい日々は、もう二度と帰ってこない。自分にとって唯一の、心を許せる友と言っても過言ではなかった趙王劉如意は、もういない。

 たった数ヶ月の間とはいえ、如意との日々は、劉盈にとっては宝石のような思い出だった。男女の仲とは意味が異なるといえど、愛していた……という言葉を使っても、決して間違いではなかった。


 さきほどの宦官が側に来て告げた。

「残念なことでした。今朝方、急に体調を崩されたそうで……」

 今更そんな言葉を信じることはできなかった。如意は殺されたのだ。劉盈は確信していた。

「そんなわけがあるか!」

 劉盈は怒鳴った。

 いつも怒らない劉盈が怒鳴ったので、宦官は驚いて退出し、ひとり劉盈だけが如意の遺骸の前で、いつまでも泣き続けていた。

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