宦官の誘い
狩りから帰った劉盈は、お付の家臣たちと離れて、ひとり未央宮の小川のそばを歩いていた。
皇帝とは難儀なもので、どこへ行くにも、大勢の家臣たちと共にしないわけにはいかない。せめて宮殿の中くらいは、自由に羽根を伸ばしたいと思う。
未央宮の庭園には、外の川から水を引き込んだ小川が南北に流れている。春になると畔に植えられた木々が花を咲かせて、それは見事な景色になる。南の方には、大きな池まで造ってある。
もっとも今は冬なので咲く花も無いのだが、川岸の所々につもった雪が川面に映り、華やかさとは別の趣を生み出している。それは咲き誇る梅や桃の花にも決して劣らぬ情景であった。散歩でもしながらゆっくりと眺めていたい気もするが、何はともあれ、今は如意に会いに行くのが先である。
さすがに寝坊助の如意も起きた頃だろう。狩りに行けなかったのを残念がっているだろうか。あれでも、結構楽しみにしてたからな……。無理にでも叩き起こしたほうが良かったかな。うーん、やっぱり一緒に行きたかったなあ。
今日は天使の寝顔に負けてしまったが、次こそは……。そしていっしょに馬車に乗って、俺が直々に弓術を教えこんで……って。それはまだ無理なんだった。来る日のために、ちゃんと練習しておこう……。
劉盈は心の中でそう決意を新たにしつつ、小川から寝室の方に足を向けようとすると、向こうから痩せ細った男が一人、とぼとぼと歩いてきた。服装からして、禁中に仕える宦官に間違いはない。
宦官というのは皇帝の身の回りの世話をする役人で、後宮にも出入りするから、皇帝の妾たちと悪しき行為に及ばぬように、あらかじめ去勢されているのである。男としてはなんとも可哀想なことだが、意外にもその高待遇に惹かれ、進んでこの職に就くことを望み去勢手術を受ける者も多いそうだ。そのような自分から宦官になった者の他に、何かの罪を犯し、宮刑……つまり去勢の刑を受けた人間で、仕方がなく宦官になった者もいた。
彼がそのどちらであったかは今のところ不明だ。
「今、後宮では面白いものが見られるとか。陛下も是非ご覧くださいな」
彼は宦官らしい甲高い声で、劉盈にそんな誘いをした。
「後宮?」
その甘美な単語に、この思春期真っ盛り皇帝はつい反応してしまう。
あやうく妄想を繰り広げてしまうところだった。
だが、川面に写った、顔に似合わない立派な冠が、自分の立場をちゃんと思い出させてくれる。そう、自分は皇帝なのだ。
確かに最近まで高祖の喪に服していて、遊びごとは我慢させられてきた。とはいえまだ昼にもなってない。こんな時間から後宮なんかに入り浸っているのを見つかったら…教育係の叔孫通あたりがお説教に飛んで来る可能性が大だ。
叔孫通は皇太子時代から劉盈の教育係で、今は奉常という、宮中の儀礼を司る官職に就いていた。彼は儒学者で、漢王朝に儒学を広めるという大きな野望を抱いているらしく、民を教化するにはまずはお上から、というのでとにかく教育には熱心であった。確かに知識豊富で思慮深く、頼るところも大きいのだが、しばしば熱意が暴走して鬱陶しいところもある。そんな人物だった。
川の流れの中に、そんな叔孫通のいかめしい顔が出現しそうになったので、劉盈は宦官の誘いを断ろうとした。そうでなくても、とにかく今は如意のことが気になって仕方がない。
もっとも皇帝であろうとなかろうと、この世において先祖の血を絶やすことほど不孝とされていることはない。だから女と交わり、ひとりでも多くの子を残すことは、決して悪いことではない。それは叔孫通も当然肯定するはずだ。ただ物事には程度というものがある。それだけのことだ。
いくら世継ぎが居ないとはいえ、まだ十七歳、そんなに先を急ぐ必要もないだろうに。ましてや昼間から……。
持ち前の想像力をめぐらし、勝手にそんなことを考えてしまった劉盈であった。だがもう少し話を聞いてみると、その中身はどうも劉盈の考えているようなことではないらしい。
宦官いわく、皇帝に見せたいものがある、という、ただそれだけであった。
どうやら、またいつもの妄想癖が出てしまったようだ。結構恥ずかしい。
「いったい何だって言うんだよ、こんな時間から」
頑張って精いっぱいの威厳を絞りだし、さらに詳しい説明を求めたが、恥ずかしいのは変わらない。
「行けばわかります」
劉盈が無視しようとすると、宦官が衣の袖をひっぱって離そうとしない。
どうやらこの宦官は、何としても自分を後宮に連れていきたいようだ。
「今ここで話してくれ」
「太后さまの仰せでございます」
太后、という言葉を聞いて、劉盈ははっとした。
そして一瞬だけ、身震いがした。冷たい空気が、身体の中から起こるような、そんな感じを覚えた。自分でもうまく説明できない。なんだろう、この感覚は……。
すこし、怖い。
「分かったよ。そんなに言うなら」
冷静になって、劉盈は答えた。
呂太后……母のお呼びであれば、子として拒む訳にはいかない。事情はわからないが、結局のところ、劉盈は後宮へと向かうことを承諾するしかなかった。
後宮も同じ敷地の中にあるとはいえ、さすがに未央宮は広い。後宮に行くには、だいぶ北に歩く必要がある。歩き始めてから、劉盈が何を聞いても、宦官はもうそれ以上話そうとしなかった。ところで今の劉盈が後宮という単語から想像できるのは結局のところ、華やかで楽しい女の園というイメージだけである。そこで劉盈が考えた結論は、必然的に、
(新しく入った宮女の紹介だろう)
といった程度の事柄となる。そうであって欲しい。
(杞憂だよね)
それをいち早く実証したいと思い、劉盈は聞いてみた。
「どんな娘だろう」
やっぱり返事はない。この無礼な宦官は本来であれば然るべき罰を受けるべきだと思うが、太后の使いであれば致し方ない。
「面白いことだって言ってたよね」
劉盈は念を押すように、聞いた。
宦官は小さく頷く。
(やっぱりそうか)
後宮の面白い話…それはすなわち、面白い女の子が入ってきたという意味だったのだ。そういう解釈が最も適当だ。劉盈はひとり大きく頷いた。
やっぱり杞憂だったのだ。
(よほど凄い娘なのか?)
そう考えると、なおのこと心が弾んでくる。そして宦官の何かを隠しているような素振りを察知して、
(もしかしたら、可愛いだけでなくとてつもない特技でも持っているのかも。)
そんなことを考え始めた。
後宮に入ってくるような女の子だから、可愛いに決まっている。問題はその先だ。
人を驚かせる特技を持った娘というのは、覚えがある。
これはちょっと前なのだが、確かにすごい娘がいたのだ。
その娘は一見すると何の変わったところもない、少し小柄で可憐な少女だったのだが、ある時、後宮の庭でその特技を開陳してから、宮女たちの間ですこぶる話題になっていた。
その娘は庭に出ると、一枚の布切れを取り出した。その布切れをぱっと広げて見せた後、くしゃくしゃに丸め、何かのおまじないのような仕草をした。そしてその布をまたぱっと開いた。すると、数羽の雀やら烏やらが一斉にその布の中から音を立てて飛び立った。それを見た他の宮女たちは、驚いたり怖がったりして大騒ぎをした。
また彼女が他の日にやって見せた術では、逆さにした杯の中に隠した数枚の銭が、次の瞬間にはずっと離れたところにいる人の冠の中から出てきたりもした。そして杯を開けてみると、そこあったはずの銭はすっかりなくなっていた。その冠の持ち主は、なぜ自分の冠の中から銭が出てきたのか、全く覚えがないということであった。
彼女はその他にも、いろいろな術が使えるらしかった。本当に不可思議な娘であった。
これは只者ではない、おそらくこれこそが世に秘められた仙術の技に違いがない。
劉盈はそれを遠くから観察していた。どれもこれも魅力的な妙技の数々だった。いつの日かその術を学びたいと心に秘めていたのだが、劉盈が喪に服して後宮遊びを我慢しているうち、その娘の話は呂太后の耳にも入った。ところが呂太后は気味悪がって、彼女を後宮から追い出してしまったのである。こうして劉盈が仙術を学ぶ機会は失われてしまった。
惜しいことをしたものだ。今でも残念に思う。
実は劉盈は、この手の神秘の術にけっこう興味があったりする。いつかは人を呼んで習いたいと思っていたが、儒学者の叔孫通が、
「そのような不届き者の妖言に惑わされてはならぬ。」
とかなんとか言うに決まっているので、こっそりやらなくてはならない。彼は仙術とか、方士の類を嫌っているのだ。
そういえば、かつて高祖に仕えていた、智謀の士と名高い張良が、今は引退して仙術に凝っているという噂だったが……、彼を招いても良いのだろうが、可愛い女の子から習えるならそれに越したことはない。それに、後宮の娘を師とするならば、そのような教えを受けていることが、外部にバレることはないだろう。叔孫通もまさか後宮の部屋の中までは踏み込んではこまい。まあ、あまり頻繁に後宮で遊んでいるとお説教されるかもしれないが。
煩悩を捨て去るべき仙道の立場からすれば、なんとも矛盾甚だしい考え方であったが、劉盈はこれこそ合理的だと思っている。実際には単に欲望に忠実すぎるだけであった。
(またそんな仙術使いかな、今度こそは俺に教えを授けてくれ!)
ともかく、劉盈は脳内で勝手に美仙女(?)のイメージを作り上げて、期待に胸を膨らませながら後宮へと辿り着いた。