馬車に揺られて(プロローグ)
いつの時代も、二代目というのは影が薄い。
江戸幕府の二代将軍は何をやったか覚えてないし、鎌倉幕府や室町幕府の二代目は名前も知らない。ましてや、海を隔てて中国漢王朝、今から二千年前の二代皇帝が誰かなんて、知らなくても一向に差し支えがない。
時は、紀元前二世紀初頭。
季節は冬の十二月。
澄み渡った空の下、前後を騎馬に守られて、音を鳴らして進む四頭建ての馬車がひとつ。その中に乗っていたのは……。
「今日の狩り、けっこう良かったよね?」
十七歳の少年だった。十七歳と言っても数え年だから、我々の考えているよりは多少若年である。
「陛下はだいぶ上達されましたな。昔は弓を引くのもやっとでございましたのに……」
確かに「陛下」と呼ばれた。そこで彼の頭の上を見ると、なるほどそう呼ばれるにふさわしい荘厳な冠を頂いている。衣服もそれに相応しく、綺羅びやかな刺繍が入っている。しかし残念ながらそのどちらも、顔にはあまり似合っていない。穏やかといえば聞こえがいいが、威厳というものがおよそ感じられない顔つきであった。
この頼りなさげな少年こそが、漢王朝二代皇帝、劉盈である。何? そんな奴知らない? まあ、歴史の教科書には出てきませんし……。
ガラガラガラ…。
さてこの皇帝劉盈は、さきほど都の郊外で早朝の狩りを終えたばかり。今は馬車で長安城に戻る道中であった。長安城といえば、言わずと知れた漢王朝の首都である。
冬の真っ只中とはいえ天候は快晴。適度に運動したおかげで身体はぽかぽか暖かい。
ところで、馬車の中というのは、特にすることもなく退屈な時間だったりする。特に皇帝の馬車は毎度毎度同じ道しか通らないから、景色もだんだん見慣れてきて、暇で暇で仕方がない。
こういうときは、つい考え事を始めてしまう。
「やっと喪が明けたか……」
高祖劉邦が崩じて八ヶ月、即位式からは半年しか経っていない。劉盈は出来たてほやほやの皇帝なのだった。しかし高祖、つまり父については、あまり良い思い出がない。特にこうやって馬車に乗っていると、幼き日の嫌な記憶が蘇りそうになる。
気分を変えよう。
こういう時は、楽しいことを考えるに限る。
そういえば都に残してきた劉如意は、もう起きただろうか……。
劉如意は、三ヶ月ほど前に都にやってきて、それ以来一緒に暮らしている弟なのだが、それはそれは可愛い弟なのだった。天真爛漫、天衣無縫といった言葉がよく似合う、元気いっぱいの男の子である。
「お兄様、今日は鞠で遊ぼう~」
言っておくが、これでもいちおう十四歳。
少女と見まごうような容貌もさることながら、信じられないほど子供っぽい性格をしていた。
「今日もご飯が美味しいね!」
ご飯を食べるときも一緒にする。それまでは一人で食べるしか無かったので、膳の上は華やかでも会話のない寂しい食卓だったのだ。
「お兄様、ここはどう読むの~?」
また見かけによらず読書人で、書物を開いて分からないところがあると質問にやってくる。が、如意に分からないところは十中八九自分でも解読不能な箇所なので、そういう時はこっそり教育係の叔孫通のところに聞きに行って、あとで教えてあげる。すると、
「えへへ、お兄様はなんでも知ってるんだね~!」
と目を輝かせて喜ぶので、なんとも恥ずかしい気持ちになる。それで如意が来てからと言うもの、俺はちょっとだけ、勉学に励まざるを得なくなった。
そんな愛らしい弟の如意だが、母親は俺と違って、皇太后の呂雉ではない。つまり、俺の異母弟というわけだった。如意の容貌は、その母、戚夫人に由来しているに違いない。
戚姫とも呼ばれた戚夫人は、高祖劉邦の数多い妃のうちの一人で、その中でもひときわ大きな愛情を注がれていた。高祖がいつ頃彼女と出会ったのか知らないが、高祖が項羽と争っていた頃にはすでに側にいて、宮廷だろうと戦場だろうとお構いなしに連れ回っていた。その容貌は、高祖を虜にするだけあって大変に優美で、そして何といっても彼女は若かった。呂雉、つまり母と比較して、二十歳ほども年下だったのだ。
美しさと若さで高祖の寵愛を一身に受けた戚夫人は、やがて我が子劉如意を皇太子に立てようと運動を始めた。それは当然……俺を皇太子の座から引きずり落とすことを意味する。
けれど、それは結局うまく行かず……、周昌、叔孫通、張良といった名だたる家臣が代わる代わるにやってきては諫言し、それで高祖はついに首を縦に振れなかった。やむなく如意は趙王に封じられて領地を貰い、都を離れ領国で暮らすことになった。
父は本心では如意を皇帝にと望んでいたらしい。「如意は俺に似ているなあ」と、口癖のように言っていた。本当に似ているのかはともかく、確かに父は如意を愛していた。それは……今でもよく覚えている。
それ以上父のことを考えるのはよそう。
……領国で過ごしていた如意が都に帰ってきたのは、三ヶ月前のことだった。召し出したのが今や政治の権を一手に握っている母呂太后だと聞いて、なんとなく、不穏な感じを覚えた。それで長安の東、灞水のほとりまで如意を迎えに行き、都まで連れて帰ってきた。
如意がやってきてからというもの、皇帝としての息苦しい生活も、少しばかり楽しいものになった。
皇帝はもちろん宮殿にひとりぼっち、なんてことはなく、大勢の家臣たちや、身の回りの世話をする宦官たちがいつも側に仕えている。ただ、高祖決起以来の家臣たち、いわゆる「元勲」たちは年の差もあってか、気軽に話せるという関係ではないし、一方の宦官たちは確かに身近な家臣ではあるけど、彼らはただ黙々と仕事をこなすだけで、何を考えているか分からないところがあり、正直不気味でもあった。それに、皇帝と家臣の間には、どんなに親しくとも、決して超えられない一線が引かれている。
「お兄様、明日は一緒に狩りに連れて行ってね、約束だよっ!」
如意の無邪気な笑顔を見ていると、疲れた心は安らぎ、陰鬱な気分は吹き飛んでしまう。特にその寝顔は、破壊力抜群だった。赤ん坊じゃあるまいし……と自分でも思うが、本当に不思議なオーラが漂っているから困る。
だから、今日も狩りに出かけるとき、如意を連れていくことができなかった。
朝一番で寝室を見に行くと、如意は気持ちよさそうに寝息を立てていた。さすがにこの歳になって朝寝坊は、教育上どうかと思い、一度は叩き起こそうとしたのだが、
「おにいさま、こんどはどこいくの~」
と、本当に幼児のような寝言を言っている如意を見て、すっかり気が抜けてしまい、そのまま寝室を後にした。
もうそんな年じゃないだろう、と思うのだが、何故か如意だけは、そんな子供のような寝顔を、いつまでも見せてくれるような気がした。
そんなことを長々と考えている間にも、馬車はもうずいぶん走ったようで、大きな河がすぐ目の前に迫ってきている。
長安城の北を流れる渭水の支流だ。架けられた橋の向こうに、屋根の立派な建物が並んでいる。長安城とか言うわりに城壁はまだ造られていない。近々建設工事が始まるということだった。そんなわけで何もかもがよく見える。城壁がないから、当然城門なるものもない。
庶民でにぎわう市場を横目に通り過ぎ、民家と役所の庁舎が点在する脇をさらに南へ進むと、ようやく馬車は未央宮に到着する。ここが皇帝の住処というわけだ。
朱塗りの柱に黒黒とした瓦屋根の建物が並び、所々に残った雪がそれをいっそう際立たせている。立ち並ぶ内朝の庁舎、華やかな後宮の建築、そしてひときわ高い丘の上には、群臣と面会する前殿がそびえる。さすが皇帝の宮殿だけあって、どれも贅を尽くした荘厳な様式になっていた。
劉盈が馬車を降りると、体の熱はすっかり冷め、ひんやりとした冬の空気を感じた。
早朝の狩りで温まったとはいえ、季節はまだ冬の中。北風にはかなわない。