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嘘つき衛のサウダージ

作者: 安藤ナツ

「これを見るのも、三年振りか」

 高峰衛は椅子代わりに置かれた丸太に腰をかけ、そんな風に呟いた。成人扱いになる一六歳の春に村を出てから早くも三年。思い返してみれば信じられない程に濃い時間を経験してきた若い彼にとって、三年と言うのはあまりにも長い年月であった。

 少なくとも、感情の起伏に乏しい彼が、郷愁を感じる程度には。

「ねえねえ。衛! 何が始まるの? せんそー?」

 対して、衛の肩に腰を置く小さな友人、妖精のアナスタシアの心を占めるのは好奇心だ。

 森の知恵を持って生まれた『躯の森』の大妖精と言えど、所詮は生後半年。人間の営みについては無知も無知。何もかもが珍しく、新鮮で、全てが興味深く、面白い。

「戦争じゃあないさ。むしろ、その逆かな? いや、根底と言えるかもしれん」

「こんてー? こんてーって?」

「まあ、黙って見ていろ」

「うん!」

 そんなアナスタシアに一々付き合っていられないと、衛は面倒臭そうなのを隠さずに顎で前を指す。幼い妖精は、瞳を輝かせてそれを見た。

 視線の先には老若男女を問わず、五〇人前後の百姓が一列に並んでいる。全員が清潔そうな白い服装に身を包んでおり、左手には苗の入った籠を抱えている。

その正面には初老にさしかかる男と、成人を迎えたばかりであろう若い男、そして若い女の三人。初老の男――衛の叔父にあたる町長の智が声高に何かを喋っており、他の全員はうんざりした表情を隠そうとして真剣に耳を傾ける振りに集中していた。

 そして彼等の背後には、田圃。土はいい具合に肥えている。

 そう。これから始まるのは田植えだ。

 衛もその起源は知らないが、この町では田植えを始める時は白い服を着て、後ろ向きに田圃に飛び込むと言う儀式を行うことになっている。てっきり、全国的な物だと思っていた衛であったが、どうやらそう言うわけではないらしい。確かめたわけではないが、恐らくはこの地域だけの豊作祈願の行事に違いない。

 ならば、この儀式には何の意味もないのだろう。と、衛は思った。勿論、口には出さない程度の分別が衛にもある。

 長過ぎる智の挨拶が終わると、それと同時に、若い男が百姓達の前へと歩み出る。衛の従弟である聡也だ。三年振りに見る弟分は少年から青年へとしっかりと成長していた。頼り甲斐のようなものが出て来た気がしないでもない。

 未来の町長は、少し緊張した面持ちで、しかし堂々と百姓達の前に出ると、一言二言だけ挨拶をすると、すぐさまに自らの役割を実行した。本来であれば、もっと何か話すべきなのだろうが、偉大なる先立が言いたいことを全て言ってしまったのだろう。

 もしくは、場の空気を読んだのかもしれない。

「では!」

 と、聡也が気合を入れると、百姓達が手に持った籠を足元に置く。

「今年も豊穣と繁栄を願って!」

 そして掛け声と同時に、「トー! ホー!」と全員が田圃に向かって一斉に後ろ向きに飛んだ。老いも若いも関係なく、とても楽しそうに。勿論、背後は田圃。着地地点の足元はぬかるみ、バランスは非常に取り難い。大抵の人間はそのまま背中から泥の中へと倒れ込む。春先とは言え、水はまだまだ冷たい。忽ち人々の間からは悲鳴と笑い声が上がり始める。何とか倒れなかった少年も、母親らしき女性に引っ張られて泥の中へと沈み、更に笑いが起こった。

 遅れて、智や聡也、そして若い女が助走をつけて田圃へと飛び込んでいく。何が可笑しいのか、また笑いの渦が起きた。

「衛! 皆何をしているの?」

 突然の出来事に一瞬は驚いたアナスタシアだが、直ぐに持ち直すと、衛のもみあげを引っ張りながらバタバタと両足を上下させる。

「豊穣祈願だ。お米が沢山取れるよう、神様にお願いしているんだ」

 退屈そうに質問に答えると、衛はアナスタシアを肩の上から引っ張り上げる。他の村人達とは違い、衛だけは白装束ではなく、型落ちした詰襟の軍服を身に付けている。軍による新大陸開拓が失敗し、大量の在庫が市場に出回っている物だ。通気性に若干の難があるが、動きやすく丈夫なことから若い探索者の間で人気な一品であった。

「神様? 神様はもう死んじゃったんじゃあないの?」

 首根っ子を掴まれ、猫のように持ち上げられたアナスタシアが不思議そうに呟く。北の聖職者が聴いたら驚きそうな発言ではあったが、大して信心を持ち合わせていない衛は妖精の発言に眼を細めるだけだった。

「妖精の間じゃあ、神様は死んでいるのか?」

「うーん? わかんない!」

「わかんないかー」

 予想していたアナスタシアの答えに、衛は満足そうに微笑む。産まれたばかりの彼女に『目覚めた女』と言う名を与えたのは他ならぬ衛であり、以降の半年間ずっと一緒に行動をしている。妖精と言う種や形が持つ記憶や能力には目を見張る物はあるが、基本的にその知能は幼子とさして変わりはしないことも既に理解している。

 勿論、その人格や思考においても、アナスタシアは子供と同等だ。

「遊んで来い」

 衛が首の後ろを抓んでいた指を離すと、白いワンピース姿の妖精は両手を広げて「良いの?」と瞳を輝かせる。妖精のライフサイクルは完全に謎に包まれているが、少なくともアナスタシアの場合は人間の子供とそう変わらなかった。好奇心と知識欲の塊だ。

「踏み潰されないようにな」

「うん!」

 許可を得たアナスタシアは、真っ直ぐに水田へと跳んで行き、水にそうするように泥の中へと跳び込んだ。勿論、水と泥では抵抗がまるで違う。後先も考えもなしに頭から突っ込んだアナスタシアの上半身は泥に沈み、脱出しようと身体を捻じる度に更に深くその身体は囚われて行く。

 仮にも妖精が窒息死するようなことはないはずだが、衛は早まったかと自分の安易な言葉に少しだけ後悔を覚える。その直後、五歳程度の鼻水を垂らした男の子に乱暴に拾い上げられ、その子の姉らしい女の子に奪われ、他の子供達に玩具のように取り合いの対象になっているのを見て、後悔よりも罪悪感が芽生えた。

 助けに行くべきか否か、衛は丸太から腰を浮かしかけるが、

「衛兄さん」「衛君!」

 それは十代後半の一組の男女に遮られた。二人とも田圃から上がったばかりで、頭から足先まで泥まみれだ。良い歳をした連中が何をしているんだと呆れた顔をしながら、腰を完全におろして衛は対話の構えを見せる。小さな泥団子の運命は、少年達の善意と道徳観に任せることに決めた。

「聡也に愛…………だよな?」

 泥の塗られた顔を見比べて、衛は自信なさそうに二人の名前を呼ぶ。

「えー! 弟の顔を忘れちゃったの!」

「こんな可愛い女の子を忘れちゃったの?」

からかうような声に、面倒臭い連中だと衛は無言で手拭を投げ渡す。二人は礼を言って、真っ白な手拭を泥で汚した。

「衛君は入らないの? 冷たくて気持ちいいよ」

 顔を洗った女――愛が、笑いと叫び声の坩堝と化した田圃を指差す。町の名物である酒を製造している酒蔵の娘である彼女は、最後に見た三年前よりもぐっと垢抜け、美女になったと思っていたが、悪戯っぽい笑みや、ことある毎に『衛君、衛君』と呼ぶ所は変わっていない。きっと、何年時が経ったとしても、衛にとっては可愛い妹分のままだろう。

「アナ曰く、『神は死んだ』らしいからな。入る意味がないさ。そして、俺は無意味なことが嫌いだ。知っているだろう? 人生は有限なんだ」

「そのアナちゃんが思いっきり泥団子になっているよ。って言うか、アレ、大丈夫なの? 子供達の玩具にされているけど」

「平気だろう。限界を感じれば、泣いて逃げてくるさ」

 既に「衛! 助けて!」と泣いているのだ、見て見ぬ振りをしておこう。悪意ある魔術師ならまだしも、少年少女に滅せられる程に妖精は脆くない…………はずである。アナスタシアと行動を共にしてから、妖精に対する衛の認識はぶれ続けている。

「しかし流石は衛兄さんだ。まさか、妖精を連れて帰って来るとは思わなかった」

 逸らした視線の先に立つ聡也が、腕を組んで深く感じ入るように頷く。この聡也は、衛の実父の弟の息子、つまりは従弟なのだが、幼少から同じ屋根の下で暮らす衛のことを『兄』と呼んで慕っていた。

 三年と言う時間は、三人の関係を少しも変えていなかったようだ。

「買い被りだ。聡也。偶然と幸運と不幸の重なった結果だ。実力なんて入る隙間もない」

 思い出したくもないと衛は口元を歪める。

「…………何があったんだよ、兄さん」

「それは、俺の冒険譚の三巻『妖精との出会い編』を読んでくれ」

「え! 冒険譚なんて出したの? いつ? 行商人に頼めば手に入るかな?」

「嘘だ。そんな物を、俺が書くかよ」

「兄さん、駄目だよ。愛は、兄さんの言うことなら何でも信じちゃうんだから」

「そんなことないよ! 私だって、もう大人なんだから――」

 しかし、その関係性もいつまでもは続かない。

 衛が探索者として生きることを決めたように、二人も又、歩む道を決めたのだから。

「――私は聡也のお嫁さんになるんだから。何時までも、衛君の妹じゃいられないよ」

「そうだったな。改めて、おめでとう。聡也、愛。祝福するよ」

 本物の兄妹のようだった聡也と愛が、結婚するのだ。

 町長の息子と、大酒蔵の一人娘の結婚は、政略的な意味合いも十分にあるのだろうが、この二人の前では無意味だろう。衛の祝福は、心からの物だった。

「ありがとう。衛兄さん」

「うふ。ありがとう。衛君」

 珍しく微笑んだ衛に驚きながらも、二人は笑みを返す。そして、そっと手を結ぶ。

 嘗て、右手と左手に握りしめて歩いた二つの手が、衛抜きで繋がっている。

 真っ直ぐ進む時も、寄り道する時も、転んでしまった時も、もう衛の手は必要ない。

 それはきっと、素晴らしいことだろう。

「でも、僕達も嬉しいよ。三年も連絡つかなかったのに、式の一週間前にふらっと戻って来るだなんて、思ってもなかったよ。式までいてくれるんだよね?」

「いや。仕事で通り道だっただけだからな、明日の朝には発つ。悪いな」

「えー! 良いじゃん。私の花嫁衣裳、見たくない?」

「泥塗れのお前の方が素敵だよ」

「本当?」

「嘘に決まっているだろう」

 単純過ぎる愛の反応に若干の不安を覚えるが、今更どうしようもないだろう。

 それに、どうにかするのは、もう兄貴分の衛の仕事ではないのだ。

 衛は溜息と共にゆっくりとベンチから立ち上がる。ここはもう、衛の居場所でもない。

「聡也」

 こびり付いた泥が渇き始めた頭に手を乗せ、昔のように衛は聡也の頭を乱暴に撫でた。嫌そうに聡也は首を横に振り、それを振り払う。愛が苦笑し、衛と聡也も釣られて小さく笑った。

「夜飯は一緒に喰おう。奢らせてくれ。店は任せる」

「え? ああ。わかった。兄さんはどうするの?」

「アナを拾って、町を回って見るよ。三年は、変わるには長過ぎるみたいだからな」

 肩を竦め、田圃へと衛は駆けた。

 流石に両手を引っ張られて綱引きの綱になるのは、可哀想だ。

 



 狂おしい程に怪しく輝く月に照らされ、蛙や虫の鳴き声に包まれた畦道を一組の男女が歩いている。いや、正確には三人と妖精か。

「飲み過ぎだ、馬鹿が」

 悪態を吐く男は、高嶺衛。逞しい身体つきをした軍服姿の探索者の背中には、義弟である酒々井聡也の姿があった。口元と言わず全身が酒臭く、苦しそうに呻き声を上げている。ただならぬ悪夢と苦痛の中にいるようだ。

「あはは。聡也君、あんまり強くないからね、お酒」

 その横を歩くのは、アナスタシアを両腕で抱える新里愛。豊かな胸にうずまるようにして眠っている金色の妖精からも、少なくない酒精の匂いが漂っている。愛も多少は飲んでいるようで、顔が少々赤く、その足取りも何処か覚束ない。流石は酒蔵の娘と言った所だろうか?

 昼間に約束した食事の帰り道だった。

場所は、最近出来たと言う街外れの宿屋の酒場。この田舎町には似合わない瀟洒な内装の店舗に、その昔帝都で名の売れていた料理人が腕を振るった料理と、名店と呼ぶにふさわしい酒場だったのだが、だからと言って聖人君子ばかりが客として訪れると言うわけではない。

 衛達が入店した時、店の中は既に沢山の酔っ払いで埋め尽くされていた。

意外に思われるかもしれないが、田植えの儀式が行われた後に食事会のようなものが公式に行われる伝統はない。やはり理由は知らないが、何かしら意味や由来があるのだろう。

 だからこそ、三人が水入らずの食事をすることが出来たのだが、娯楽のない田舎町のことだ、何かと理由を付けて飲みたがる人間は多い。そう言った人達が、ちょっと奮発してこの宿屋を選ぶと言うのは意外なことではないだろう。

 不思議なことに、何処に行っても、酔っ払いと乞食はいるものらしい。衛は溜め息を吐くと、店員になるべく彼等から離れた席に案内するようにと注文をした。

 が、その気遣いは無意味に終わることとなる。

 アルコールに犯され、気の大きくなった無神経な男共は、聡也と愛の姿を見つけると図々しくもテーブルに近寄り、「祝いの酒だ」と何杯も何杯も、町の名産品である地酒を飲むように勧めて来たのだ。

 それもそうだろう。町長の息子と、町一番の酒蔵の娘の結婚ともなれば、今後十年はないだろうビッグイベントだろう。これで盛り上がらない町民がいるわけもない。特に、規模の小さな町であれば、町民全員が顔見知りのようなものであり、その繋がりは強固で重要で尊重すべき物である。

 衛のような放浪者ならまだしも、聡也のように街に居残る人間としては、渡された盃を断ることは難しい。結局、店に入ってから出るまでの間、お節介な男達の介入は止まることを知らず、時間の経過と共に増えて行く客と共に酒は増え、まともな会話ができるチャンスなど、三度もなかった。

「これだから、酒飲みは嫌いなんだ」

 歩きながら、負ぶった聡也の位置を直し、衛が憎らしげに呟く。が、その頬は心なしか弛んでいる。背中の義弟の重さが、妙に心地良かった。

「衛君は一滴も呑まなかったよね。全部断ってて、おじさん達可哀想だったよ」

「可哀想? 知っているか? 愛。酒を飲むと、記憶力や判断力が鈍る。身体能力にも大きな害が出るし、依存症になる危険性もはらんでいるんだ。あんな物を好き好んで飲まされる肉体と魂の方が可愛そうだ。俺は王になったら、制限をつけるな」

「それ、酒蔵の娘に言う事?」

 嫌味ったらしい衛の言葉に、愛は困ったように笑う。

「ああ。酒なんてあらゆるトラブルの元さ。飲まない方がずっとましだ」

 真理であるのかのように断定する衛の言葉に、愛は苦笑いをし、直ぐに表情を引き締めた。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出して、「ねえ」と会話を続ける。

「どうして町に残ろうと思わなかったの?」

「ん?」

「きっと、衛君が町に残っていたら、衛君が町長になっていたと思うよ」

 衛は答えない。ただ、歩幅を少し狭め、喋ることに集中している愛と速度を合せる。

「皆ね、言っているんだ。『どうして衛は出て行くんだ』『正当な後継は衛じゃあないのか』って。聡也君もね、言っているの。『義兄さんの方がよっぽど向いている』『義兄さんならもっとこの町を大きく出来る』『義兄さんは何でも知っている』って」

 愛の言葉は、それほど新鮮味のある物ではなかった。

 三年前、十六になり成人を迎えると同時に、衛は探索者として生きることを決めた。その判断を否定し、彼を引き留める声は多かった。今日だって酒場で何度も「戻って来い」と肩を揺すられた物だ。

「俺が町長にならないのは、単純に向いてないからだ」

 しかし衛自身は、その判断の正確性を疑わしく感じていた。

 確かに、人並みに能力はあるだろう。が、高嶺衛は、人の気持ちがわからないのだ。

 感情と言う物が世の中に在ることは知っているし、納得もしている。それが重要で、世界中に溢れていて、中心だと分かっている。そして、それが自身に欠けていることも、同時に理解していた。

勿論、完全にないわけでもない。それに感情のある振りをすることはできる。感情的に振舞うことはできる。

 しかしそれは所詮人真似であり、本物ではない。言ってしまえば、嘘だ。

 そのことがきっと、複雑な人間関係の中で、取り返しのつかない問題を起こすだろう。

 一度見て来たように、衛にはそんな確信があった。

 だから、衛は深い人間関係が必要な町での暮らしを諦めた。人間関係から逃げ出した。

「本当に? 聡也君は『自分が不甲斐ないから、義兄さんが譲ってくれたんだ』って、かなり気にしてるよ」

「そんなことはない。コイツには適任だ。俺よりもな」

 その点で言えば、背中で寝息を立てる義弟には能力があった。昔から周囲に可愛がられたのは聡也だったし、彼がいなければ衛の幼少時代はもっと暮らしにくい物だっただろう。

「適材適所さ。肴に陸で暮らせと言う程に残酷なことはない」

「衛君に取って、ここでの十六年間は、地獄だった?」

「ああ。平和過ぎて、気が狂いそうだった」

 即答して見せたが、嘘だった。この町で暮らした記憶など、霞がかかっていて、正確に思い出すことができる思い出など、片手で余る。探索者としての三年間と比べれば、それ以前の時間など全く取るに足らない物だった。

 それが欠陥だと感じ取れるのが、救いなのだろうか? それとも罰なのだろうか? 衛には判断がつかない。

「探索者になっても、衛は何も変わらないね。安心した」

 言葉とは裏腹に、酷く悲しそうに愛が呟く。月を眺めて足を止めた彼女に強く抱きしめられ、アナスタシアが小さくうめいたのが聞こえた。仕方なく、衛も歩くのを止め、同じ月を眺めた。中途半端な形の月は、大陸の何処からみても同じで、代わり映えしない。

「人は変わらないんじゃないか?」

「ううん」

 小さく、しかし今までで最も力強く愛は言った。まるでそれが真理であるかのように。

「人は、変われるよ。私は、変わった」

「そうだな。綺麗になったよ」

「そうじゃない」

 愛には珍しく強い否定の言葉、驚いて彼女へと視線を向ける。変わらずに、愛は月を眺めていた。表情は見えない。

「知ってた? 私、衛のこと好きだったんだよ」

 そして、そんなことを問うた。一瞬、言葉の意味が分からなかったが、それはやはり一瞬。会話は止まることもなく続く。 

「知らなかった。なあ、愛。今、幸せか?」

「うん。とっても幸せ」

 衛の方を見ず、ただただ闇夜に浮かぶ月を眺めて、愛が応える。

「そっか。じゃあ、俺を置いて幸せにおなり」

 空を仰ぐ愛の頭を、衛はそっと撫でた。

 彼女の瞳から流れた涙の意味は、ついぞ聞くことができなかった。




 二年後。

『特務魔導士』と職を変えた衛が二頭の龍を追って再び故郷を訪れた時、愛は既に死んでいた。

 二頭の龍の襲撃によって大きく姿を変えた町で事情聴取を行っていた際に、衛はその話を耳にした。

 が、しかしその情報は大して驚くべきものではなかった。

 先遣隊は全滅。町の半分以上が劫火によって焼き尽くされ、町の人口の三分の一に相当する死者が出たと聞いている。衛の運であれば、その程度の確率は当然の様に引くだろう。

 しかし、その死因が『自殺』となると話が変わって来る。

「衛! 田植えしてるよ! 遊んで良い?」

「後でな。それで? 婆さん。詳しく教えてくれないか? 聡也はどうしたんだ?」

 僅かに残った田圃に、新たな苗を植える百姓達を見て騒ぐアナスタシアを適当に相手して、衛は中身のない米蔵の廃墟の裏に御座を敷く盲目の老婆に皇国銀貨を一枚握らせる。

「酒々井の若旦那様は、嫁さんが自殺した後、失踪したよ。その首を持ってね」

「首?」

 猟奇的な言葉を衛は繰り返す。ただ、妖精と契約した魔導士としては、気になったのは異常性に対してではない。頭部。つまりは意思が宿る脳髄を持ち去ったと言う点が気にかかった。ネクロマンシーやら錬金術やら、聖堂教会にすら、人の脳を使った禁術は存在する。もし、この二年の間にあの弟分がそう言った魔導に手を出していたとしたら、少々厄介なことになるかもしれない。そんな嫌な予感が頭をよぎったのだ。

 が、今はその可能性を考慮するべき時ではない。老婆の話しの続きに耳を傾ける。

「ああ。若旦那様は、結婚の前後から少しおかしくなっちまったのさ」

 言われて、衛は最後に在った時のことを思い出す。が、狂気に蝕まれている様子は記憶にはない。隠していたのか、それとも、まだ正気だったのかまでは判断できないが。

 いや、もしかしたら…………。

「若旦那様には、兄弟同然に育った、三つ上の従兄がいたんだけどね。それはそれは、優秀な人だったんだよ。町長に相応しいのは、その従兄だったんだろうね。私みたいな婆がこんなことを言っては悪いと思うけど、若旦那様は器が足りなかった」

 どうやら、老婆は目の前の自分がその従兄だと気が付いていないらしい。目深に被った帽子のせいだろうか? それとも、三年間と言う時間が衛を変えてしまったのだろうか? もしかしたら、単純に目が見えなくなって日が浅く、声での判断に慣れていないのかもしれない。

「そのことを、一番気にしていたのは、他ならぬ若旦那様だった。兄と慕ったその男のことを引き合いに出して、『兄さんなら上手くやれた』『兄さんなら失敗しなかった』って自分を責めるようになったのさ。日を増すごとに、自責は度を増して行ってね、穏やかで人当たりの良かった性格がすっかりと変わってしまったよ」

「新婚の奥方はどうしたんだ? 何か、サポートはできなかったのか?」

 にわかには信じられないと、衛が口を挟む。

「したさ!」

 と、途端に老婆が声を張る。興味なさそうに田植えを見ていたアナスタシアが驚き、肩から落ちそうになったが、美しい金色の羽根をばたつかせ、何とか姿勢を保った。

「あんなにも献身な嫁さんはいなかったよ。あの子は十分頑張っていたよ。でも、心を病んでしまった旦那様に、その声は届かなかったよ。『義兄さんの方が良かったんだろ?』と大きな声で叫んで、町民の前で殴り倒したこともあったよ」

「女の子に手を上げるなんて、サイテーね」取ってつけたように、妖精が相槌を打つ。

「若旦那様も、性根は、決して悪い子じゃあなかったんだけどね。そして、愛様が身籠ってからだよ、本当に酷かったのは。あろうことか、一年以上も会っていない従兄との不倫を疑い始めたんだ。そこからは、もう、それからは見ていられなかったよ。神経が衰弱したんだろうね。あの二人は支離滅裂な言葉と理屈で怒鳴り合うようになっちまった。若旦那様は怪しい男達から、妙な薬を買っていたと言う噂もあった。あの子はちっとも姿を見せなくなって、龍が来る少し前に庭の井戸で首を吊って死んだよ」

「なるほど。そして、狂った聡也は、彼女の首を抱いて消えたと」

「そうだよ。本当は、愛様のことを愛してなさったんだろうね。そして、それ以上に、あの子には従兄の衛様が必要だったんだよ…………って、あんたどうして若旦那様の名前を? まさか!」

「ありがとう。参考になったよ」

 強引に老婆の台詞尾を遮って、衛その場を後にした。




 その足で、衛とアナスタシアは町を出ることにした。少し早く歩けば、次の村にはなんとか日暮れまでには辿り着けるだろう時間帯である。龍の被害を受けた町だとは言え、一泊する程度の施設は探せばあるかもしれない。が、昔の知り合いに見つかれば厄介なことになるであろうことは、目に見えている。

 それでなくとも、龍の行方を追うのは火急の任務であるし、他にも頼まれ事は少なくないのだ。それに愛の頭部を持ち去ったと言う聡也の件も気にかかる。ただの精神錯乱からの行動であればまだましだが、仮に『反魂』の禁忌に触れるような魔術の触媒とするのであれば、何が何でも止めなければならない。

 特務魔導士として、兄貴分として。

「悲しいの? 衛?」

 自然と険しい表情になり、早歩きを始めた衛の頬を撫でながら、アナスタシアが訊ねる。小さな手が、涙のように皮膚の上を何度も流れた。

「そうだな。悲しいな。この景色の何処にも、あの二人がいないなんてな」

 きっと、普通の人間であればそう言うのだろう。衛はいつものように嘘を吐く。

「あ! ねえ。衛。田植えって、人生みたいだと思わない?」

 そのことを知ってか知らずか、アナスタシアは会話の矛先を変えた。指先には荒廃した町並みの中に無理矢理に引かれた水田と、そこに苗を植える人々の姿。

「自分の足痕と、周りの人を見て、俯きながら一歩ずつ慎重に後ろ向きに進んで行くの。過去しか目にできず、何があるかわからない暗闇の未来に向かって」

「上手いことを言うようになったな」

 これは本音だった。後ろ向きに進む姿を見て、どうしてポジティブな考えが浮かぶのだろうと、妖精の人から少し離れた感性に感心する。

「でしょでしょ。褒めて褒めて」

「アナは詩人だ。金が入ったら、お前の詩集を出そうか」

 指先でアナスタシアの頭を撫でる衛。

「本当!」

「嘘だ。そんな金はない」

「えー! 嘘吐いちゃ駄目なんだよ!」

 何故、こうも人は簡単に騙されるのだろうか? 「悪い悪い」と衛が笑うと、「もう! 衛なんか知らないんだから!」とアナスタシアは小さな身体を羽根で浮かせると、風に舞うようにして道の先へと跳んで行ってしまう。

「そうかな? あの時、もう少しましな嘘がつけていたらと、俺は思うんだけど」

 先行するアナスタシアを走って追いかけながら、衛は想像する。

 あの夜の告白を聴いていた聡也の気持ちを。

 自分のことを好きだったと言った愛の気持ちを。


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