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8/34

 番外1.あの日

【文字数】

 12000字ほど


【作者コメント】

 「わたし」が部活に参加するようになるまでの経緯を描いた話です。

 ところで、改めて書いておきますと、今作は平日毎日更新予定の作品です。

 土日は番外を投稿しますが、今回は比較的短いので一話のみ。明日は更新をお休みします。


【目次】

 1.わたしが部活をやめるまで

 2.先輩との出会いの話

 3.わたしに突き刺さった漫画の話

 4.いまのわたしが思うこと


1.


「あれ?」


 先輩来てないじゃないか。

 おいおい、なんだよ。鍵閉めだけじゃなくて、鍵開けるのまでわたしの担当なのかよ。




 本日土曜、絶賛テッカテカのお休みである。

 ちなみにテッカテカってのは天気の話で、初夏の太陽は元気いっぱい。孟夏の太陽だと意味が変わってくるので注意が必要だ、とまあ、これは思考が道草食ってるな。(※1)

 そんな暑い中、ひいこら言いながら図書予備室まで来てみて、わたしは驚いた。鍵が閉まってるのだ。あの人、時間には正確だから遅刻は考えづらいんだけど。

 ギリギリになっちゃったし、まだ来てないとは思わなかったんだけどなあ。

 トラブルってこともあるだろうし、ちょっとくらい待ってみるかとも思ったが、すぐに無意味だと気づく。別に鍵を貰いに行けばいいじゃん。

 じゃあ、ついでに一つ、メールでも送って皮肉るかな。


『定刻人間の先輩が遅刻なんて、珍しいですね』


 我ながら、実に可愛げのないメールである。絵文字を使えとは言わんが、人をなじるとき、この敬語はさぞ癇に障ることだろう。皮肉なのだから、癇に障ってもらわないと困るけど。

 図書予備室から図書室までは、さほど距離がない。だから、このくらいの皮肉で許してやろうじゃないか、先輩。


 うちの学校の校舎は大きな「コ」の字をしていて、先輩曰く鶴翼の陣という陣形らしい。なんの話だ。

 それはさておき、とにかく、この中央部分――そのまんま中央棟というのだけど――を陣取っているのが図書室である。ガバっと気前良く一階部分全部が図書室の管轄で、それに見合った蔵書数などは県下でも上位ではなかろうか。自習用のスペースも広い。

 その中央棟の、南寄りの位置にある別室がこの図書予備室である。司書さん方が主に駐在する図書準備室や、表に出していない本を収納する図書保管室が別途あるのだから、この学校のハンパない図書室への優遇っぷりは感じてもらえると思う。ちょっとした図書館かよって話。

 でも、音楽室も(中央棟三階を陣取って)優遇されてるから、わたし、文句なんて言わないよ。


 で、さて、「ごめんくださーい」と三河屋さん風に図書室併設の図書準備室に赴いたのだけど、司書さん方がきょとんとこちらを見ている。ぼちぼち顔見知りだし、用件を告げなくても「はいはい」と鍵を貰えそうなもんだけど。なんじゃらほい。

 え? あ、はい、古典部なんですけど(本当は違うが、そこは置いておいての受け答えである)……へ? 古典部って土日はやってないんですか? な、なんですと。

 失礼しました、と。

 図書準備室を出て、しょんぼり。

 そりゃそうか。よくよく考えてみたら、やってるわけがない。先輩一人の部活だ。休日まで出張ってくる理由が見あたらない。

 先輩が「やる」と連絡してきてるわけでもないのに、どうしてわたし、朝一から来てるんだろう。

 朝一とはいえ、外からも、校舎内からも、人の気配は感じられる。部活がもう始まる頃だ。ブラバンの、管楽器の音。タンキングしてるのはクラリネットだろうか。それに混じってかすかに聞こえてくるのは、歌声。

 ……ああ、そうか。習慣か。

 わたしはいつも、朝、誰よりも早く来ていた。その感覚が残っている。土日もあって当然だと思って、やってるどうかなんて訊きもしないで来てしまった。

 バカだなあ。まだ、引きずってるんだ。




 一つ、昔話をしようか。

 といっても、たいして昔の話でもないのだけど。わたしはちょっと前まで合唱部に所属していた。

 テレビなどで、コンクールに励む合唱部を観たことがあるかもしれない。その合唱部である。わからない人は、ベートーヴェンの第九か、モーツァルトやヴェルディのレクイエムか、あるいは少女革命ウテナの「絶対運命黙示録」でも思い出してほしい。

 まあ、ウテナは東混(東京混声合唱団)だからガッチガチのプロだけど、要はあれの部活版である。

 うちはコンクールに血道を上げるような部活ではなくて、県の合唱祭(六月くらい)や他校との合同コンサート(夏冬)、その他ちょっとしたイベントでちょこちょこ歌いつつ、年度末(三月くらい)の定期演奏会に向けてのんびりやっている部活である。

 そんな部活ではあるが、例年の部員勧誘には力を入れていて人数は多いんだ。合唱って人がいないと成り立たないから、結構頑張ってるんだよね。

 まあ、人数が多いと、多いなりの難しさもあるのだけど、少ないよりは合唱として成立しやすい。だから、ポテンシャルはあるのだ。

 わたしは合唱オタクだから(広い世の中にはそういうオタクもいるのだ)、そんな気軽な部活でガチンコでやりたいと思い、そうした。してしまった。

 合唱部の先輩方にも目をかけてもらったし、正指揮として指名もされたもんだから、張り切った。先輩方はわりと熱心だったし、その雰囲気を受け継いで、より良い合唱をやろうと励んだのだ。結構、真面目にアレコレ勉強してみたりもした。わたし、元々は聴く方がメインのオタクで、部に入るまでは歌う技術について疎かったしね。

 そんなこんなで、先日、合唱祭を終えて、わたしはめでたくクビになった。勧誘シーズンを抜けた五月から、六月上旬までの短い指導者生命だった。


 間の話が抜けてるけど、しかし、まあ……あんまり思い出したくないのだ。


 少しずつ、みんなの反応が悪くなる日々の練習のこと。

 もちろん、新入生相手には手加減もしたが(私なりにね)、二年だけでやる練習ではガチンコだ。よく見知った身内しかいない練習での、あの雰囲気の悪さ。思い返すだけで胃がキリキリくるな。

 いま思うと、副指揮には大変世話になっていた。雰囲気を悪くしないように、ものすごく気を遣ってくれていたと思う。楽しい練習にしようと、冗談をたびたび飛ばして。でもその当時のわたしは、その冗談すらも疎ましく思えていたのだ。練習の邪魔だ、と。

 そもそも、素人のする合唱には限界がある。普段運動をしない人が、いきなり一流のアスリートになれるわけがないのと同じように、基礎的な声作りができていない素人の歌にはボロがそれこそボロボロ出てくる。

 対症療法でそれを埋める日々。ダメ出しばかりの指導だ。

 合唱祭までになんとか形にはなったけれど。結局、それだけだった。

 正指揮を変わってくれ、とわたしに言ったのも副指揮の彼だった。いま思えば、申し訳ない役どころをさせてしまったと思う。


 でも、わたしは、自分の合唱が否定されて、それでも部活を続けていられるほど強くなかった。だからやめた。そういう話である。

 仲の良かった部員もいたが、六月に入った頃にはもう、話もしてなかったよ。だけど、そのことに気づきもしなかった。合唱祭までに形にしようと必死で、そんな当たり前のことにも気づけなかったんだ。

 結局、独り相撲だったのだ。誰も求めていなかった。

 ……いや、さすがにそこまで卑下することもないか。最後まで副指揮の彼は裏で擁護してくれていたと、風の噂でそう聞いたし。

 ただ、少なくとも、大多数の部員はそこまでのものを求めていなかったのだ。




2.


 合唱部をやめると、途端、暇になった。

 たかだか八分の舞台のために(※2)、毎日のように楽譜とにらめっこしていた日々は終わり、するとやることがなくなってしまった。わたしはいったい、暇な日をどうして過ごしていただろうか。なんか、定年退職した仕事人間のお父さんみたいである。

 元来、わたしは本読みである。忙しさに(文字通り)心を亡ぼされて、ちょっと忘れてたが、そういやそうだった。本を読めばいい。

 久々の、何かに追い立てられることのない時間が得られたのだ。傷心からは目をそらし、わたしはその時間を満喫しようと思っていた。

 思っていたのだ。

 だが、まあ……考えてもみれば、わかるが。図書室は自習のためにも開放されている。

 空元気のまま図書室の扉を開いた私は、ぞっとするような心地で、そのまま扉を閉めた。

 先輩だ。部の先輩方が、勉強してる。

 当たり前だ。すでに引退された先輩方が、放課後に図書室で勉強していて何がおかしい。思いつかないわたしの方がおかしいのだ。

 あれだけ目をかけてもらっておいて、辞めたわたしがどのツラ下げて会いに行けるというのだ。

 めまいがした。

 合唱部は大きな部活で、わたしはそのコミュニティからはみ出た半端者である。このコミュニティを避けて生きるのは、本当に難しい。クラスにだって部員はいるんだ。それだけでも窮屈なのに。

 わたしは大好きな本すら読めないらしい。この学校では、そんなことも許されない。

 吐き気がした。


 その場でうずくまりそうになって、膝に手を突きうつむいてひたすら耐える。こんなところで騒ぎにでもなって、先輩方に気づかれたら……そう思うと、耐えるしかなかった。

 波のように身体を襲い、打ちのめそうとする強迫。怖気のように全身をくまなく走るそれが小康を迎えるのを、ただただ待つ。胃がぎりぎりと締め付けられ、たまらずみぞおちを押さえる。耐えろ。耐えろ。

 無限にも思える時間だった。


 実際には、十分も経っていなかったと思う。

 絞り出すように息を吐き出して、あえぐようにまた吸い込み、どうにか顔を上げた――上げられた――わたしは、目の前にある人影を見た。

 きゅっと、確かに心臓が締め上げられた。喉奥を抜けた空気は、声帯を震わせず、声帯原音にも似た意味のない音を鳴らした。

 誰、誰。まさか、そんな、先輩じゃあ……!


「君」


 男性の声。やや高めの、涼やかなテノール。

 おののき、顔を見たわたしは、へたりこみそうなほど脱力した。知らない顔だ。大丈夫。先輩方に見られたわけじゃない。

 眼鏡越しにまじまじとこちらを見つめるその男性の、一つ上の先輩なのだろうか? どことなく年上らしき雰囲気を帯びたその人は、空っとぼけた口振りで話しかけてきた。


「君……じゃないな。ちょっと、そこの彼女」

「は……?」

「ちょっとお茶でも飲まない?」


 あまりの台詞に目が点となる。

 ナ、ナンパだと……! この校舎内で堂々とか……! っていうか、古いの通り越して化石物だろ、そのフレーズ……!

 わたしの精神状態は途端、混沌に陥った。混乱している余裕すらなかった。

 次いで、その人は付け足した。


「お望みなら付き合うよ。保健室まで」

「け、結構です」




 ……結構です、と保健室行きを断ったわたしが、この人と一緒に得体の知れない部屋――まあ、実際は図書予備室である――に行ったのは、さて、いかなる心理的変遷があったのやら。

 言葉巧みだったわけではなかった。

 わたしに、断るだけの余力がなかったのはあるだろう。

 強引というか、飄々と誘うこの人の物言いが断りづらかったのもあるだろうか。

 誰かに寄りかかりたい、でもいまこの場にそんな相手なんていない。そんな寄る辺のなさが原因だろうか。

 後に想像するところは多々あるが、しかし。出会ったこの日から、わたしはこの人に、すっと入られてしまっていた。その事実だけが確かなことなのだと思う。後は全部、後付けに過ぎない。


「図書室に後で寄りたいなら、ここに居てくれて構わないよ」


 図書予備室に招いたその人は、そんな風に言っていたと思う。

 入り口近くの席に座って、感情の整理が付かないまま鞄を胸に抱くわたしに、その人は思いついたかのように付け加えた。


「ああ、そうそう。お茶を入れよう。備品にあるんだ」

「……ありがとうございます」


 急須、茶碗、茶筒を棚から取り出し、ケトルで手早くお茶を入れるその人を、ぼんやりと見やる。

 見直してみても、やっぱり知らない人だ。見覚えもないから、学年は違うのだろう。だから、おそらく先輩だろうと思う。

 お茶を受け取って、もう一度礼を言う。


「夏でも熱い茶を飲んだ方が身体に良いそうだ。まあ、飲みたまえ」

「はあ……」

「ズズズとな」

「は、はあ」


 この人は何を言っているんだ、と思いつつ、茶を一口。ズズズと飲む。熱いお茶をこうしてふーふー冷ましながら飲んでいると、初夏でも身体が温まるような心地よさがある。知らず知らずの内に冷えていた身体をお茶が巡るような、そんな不思議な感覚。

 みぞおちの違和感が溶けていく気がする。ほう、とため息が漏れた。

 いまさら片手に抱えたままだった鞄に気づいて、ひとまず隣の席に置いた。


「えっと、先輩……ですよね? あの、その」

「なんだ」


 少し離れた席に――後に気づくが、この位置は先輩の定位置である――陣取った先輩らしきその人に、声をかける。やっぱり先輩であっていたか。

 ただ、その無愛想な返答に、わたしは少しばかり気後れしてしまった。


「すいません、あの……さっきのあれ、なんの誘いだったんですか?」

「うん? どうも具合が悪そうだったから、茶に誘っただけだ」

「はあ」

「なに、心配は要らん。茶を飲んだから帰れ、とは言わんさ」


 そういう心配をしているのではないのだけど。


「こういうの、訊くの、変な話ですけど。わたし、ここで何をすれば……?」

「好きにしてくれ」

「好きに、ですか」

「こっちも好きに、本を読んでおく」


 わたしは目を瞬(しばたた)かせた。確かに、先輩の席には文庫本が三冊ほど置かれている。カバーが掛けてあって、中身は知れない。


「部活か何かのサボりなんですか?」

「違う」

「え、でも、空き教室で読書って……」

「立派な部活動だよ」


 なんの部活だよ、おい。

 見回す部屋は、長机が口の字に整えられたちょっと学校っぽくない構造をしている。会議室か何かに見えた。

 そんな部屋に、一人ぽつんと、先輩がいる。


「……部活?」

「幽霊部員続出で、開店休業中だがな」


 この人、一人なんだ。

 そこに生じた感情は、なんだろう。言い尽くせない何か。ただ、あまり綺麗なものではなかったと思う。

 哀れんだような、蔑んだような、それがそのままひっくり返って、共感してしまったような。

 そんなわたしの感情の機微などちっとも気にしないで、先輩は言葉を続けた。


「だから、君も自由にするといい」


 頬杖を突いただらしない姿勢で、なんでもないかのように言う。


「いますぐ図書室に行きたいなら行けばいい。少しお茶でも飲んでいたいなら、飲んでいればいい。本を読みたいなら、一冊貸すよ」


 言葉を溜めもしなかった。


「吐き出したいことがあるのなら、なに、本を置いて聞くさ」


 この言葉に、わたしは、かっと頭が熱くなったのを感じた。

 喉の奥で何かが詰まって、ぐ、とうめきのような何かが出ていた。


 気づけば、話していた。

 一度、突いて出た言葉は止まらなかった。


 わたしがこれまで必死だったこと。良い音楽をしようと、尽くした一月だった。

 わたしの言葉を皆が、聞いてくれなくなっていったこと。

 音楽室がとても静かで、わたしの声だけが防音された壁に響いていたこと。

 本番は、悪くなかったこと。

 その日のうちに、副指揮に呼び出されて、クビになったこと。

 やけっぱちになって、部を辞めたこと。


 言い訳がましいという自覚はあった。

 関係のないこの人に言って、いったい何になるのかとも思っていた。

 それでもわたしは、確かに吐き出したかったのだ。

 一人のこの人なら、一人になったわたしのことをわかってもらえるのではないか。そんな、わたしの中に芽生えた甘い願望に、わたしは抗することが出来なかった。

 ただ、静かに、先輩は聞いてくれた。


「わたしは……」


 声が枯れた。こんなに感情的になって話をするのは、いつぶりだろうか。思い当たらないくらい、久しぶりだった。

 話し声は、喉に負担が大きいから。合唱部に入ってから、長話さえ控えていたのだ。

 冷めたお茶で喉を潤わすと、すっと、言おうとした言葉が口から漏れて出た。


「わたしは何が悪かったんですかね」


 述懐だった。

 答えなんて期待しちゃいない。いや、他人であるこの人に何がわかる。賢しらぶった答えも、慰めの言葉も、求めちゃいない。

 本当はわたしは、共感さえ、要らなかったんじゃないか。なんだ、ただ吐き出したかっただけだなんて、なんて自分勝手なんだ。

 苦笑いを浮かべて、相手の顔を見やると。

 頬杖突いて、こちらを覗き込んでいたその人は、一言で答えた。


「息苦しかったんだろ」


 その言葉は、たやすくわたしをえぐった。

 うろたえる間もなく、わたしは口を開いて、それでも何かが言えるはずもなくて。

 ただ、酸素不足の金魚のように、口を開閉しただけだった。


「君は明日の放課後、時間があるかい?」

「……ありますよ」


 時間なんていくらでも、ある。

 歯の根があわないくらい、ガタガタ震えながら、わたしはうつむいて答えた。この激情が、怒りなのか、ショックなのか、なんなのか、それすらわからないまま。

 わたしの耳に入った言葉は、なんの緊張も感じられなくて、そのことには確かな怒りを覚えた。


「なら、明日も来るといい。君向きの本を用意しておくよ」




 ――言うまでもないが、これが、わたしと先輩の出会いである。

 女の子向けの恋愛物語でもないが、しかし、なんともまあ最低な出会いである。最初の印象は、もちろん、芳しいものではなかった。




3.


 前日に、先輩の誘いに付いて行ったのは、百歩譲って「気の迷い」で済むだろう。

 なら、翌日もその部屋に向かったわたしは、いったいなんなのだろう。これはもう気の迷いでは済まない。

 ただ、あの口振り、挑発的な言動に、一晩経っても頭に来ていることは間違いない。どんな物を用意したんだか、見てやろうじゃないかと。そういう気分があったのだ。

 だが、そんな気分も、先輩が手渡してきた本ですっかり失せてしまった。


「……なんですか、これ」

「君には馴染みがないかもしれないが、ジャンプ・コミックスだよ」

「集英社か小学館かを訊いてるんじゃないです」


 っていうか、漫画かよ。

 あれだけご大層に、こっちの期待を煽っておきながら、漫画かよ。

 呆れた。これだから男というのは、つくづく幼稚なのだ。


「ふむ。君は」

「なんです」

「君は読みもしないで、本を評する類の人間だったか」


 この人は肩をすくめ(またこれが、嫌みなほど似合っていたのだ)、続けた――「なら、帰りたまえ」と。

 声がゆがむほどに苛立ち、刺々しく返す。


「意味わかんないんですけど」

「そのままの意味さ。君は、作品に触れもせず、偏見の目で見ている。それじゃあ読んでもらっても意味がない。お互い時間の無駄だから、帰った方がいい」

「どれだけご大層なもんなんですか」


 たかが漫画が、とまでは言わない。

 だが、あくまで「少年ジャンプ」だ。いい年して読むほどの価値があるとは、とても思えなかった。


「ご大層なものだよ。何万、何十万、もしかすると何百万という人を虜にした物語だ」

「そんな風に言えば、大したものに思えますね」


 だが、娯楽に過ぎない。

 わたしがいま抱いている苦しみにとっては、薬にも毒にもなるまい。

 わたしのそんな――後に思えば噴飯物の――頑なな態度に、先輩はため息一つ、ページを開いて見せた。

 忘れられない。それは30巻の118ページだった。(※3)


「とりあえず、ここを読んでわからないなら帰るといい」

「途中から読んでわかるわけないじゃないですか」

「大丈夫だ。一シーンだけの話だからな」

「設定もわかんないってのに」


 悪態吐いて、わたしは渋々漫画に目を落とした。

 まあ、作品名くらいは聞いたことがある。「SLAM DUNK」といえば、確か、バスケットボールを題材に取った作品だったか。


「赤木というのが主要登場人物でな、他はモブキャラだよ」

「…………」

「彼らはさほど強くないバスケ部に所属していて、そこで話に出ている海南や翔陽は地元の神奈川では強豪校で――」

「黙っててください」


 声が掠れた気がする。

 だけど、そんなことはどうでもよくて。

 わたしは確かにこのとき、時間も場所も忘れて、作品の世界の内にいた。


 なんてことのないシーンである。設定がわからないわたしでも、文脈が読み取れる程度の。

 部活がキツくて(先輩の表現を借りるなら、モブキャラの部員が)サボっているのを、部のキャプテンである赤木という人が叱りつけて、それに彼が文句を言って返して……ただそれだけのシーンだ。

 こんなでかい高校生がいるか、とか。

 あれ、この人、高校生でいいの、とか。

 なんか、本当にしょうもないことが思考の脇で躍っているのに、脇目もふらず、わたしは何度も何度も、ページを進め、ページを戻して、読み返していた。

 強要するなという言葉が胸に刺さる。

 息苦しいという言葉が腑に落ちた。

 この、彼の言っている言葉が、わからないのに、わかってしまう。あいつにはついていけない、か。

 ……そうだ、わたしのいる学校は、この学校の合唱部は、別にコンクールに血道を上げるような部活なんかじゃない。

 それなりに真面目ではあるけれど、それでも、和気藹々と楽しんで合唱をする部活だった。

 わたしは、そんな雰囲気が好きだった。

 先輩方が作って、残してくれたそんな部活をもっと良くしたくて、信頼してくれた先輩に応えたくて、頑張った。


 強要するなという言葉が、再び突き刺さった。

 そっか。息苦しかったんだ。わたしの指揮って。


 わたしはもう、耐えることなんてとても出来なくて、その場で嗚咽を漏らして泣き崩れた。




 そのひとときが、どれぐらいだったか、見当も付かない。

 ただ、顔を上げたときには、もう窓から見える日光は茜色に深く染まっていた。


「お茶、いるか」

「……ありがとう、ございます」


 声をかけるでもなく、見守るでもなく。

 二つほど離れた席でマイペースに本を読んでいた先輩は、顔を上げたわたしに、本から顔も上げないで訊いてきた。

 その距離感が、本当にありがたかった。


「すまんな」

「え?」

「まさかそこまで泣くと思ってなかったから」


 お茶を手渡した先輩が、そんなことを言ってくる。カッと、顔が熱くなった。

 思わずうつむいたわたしの前には、力任せに開けられて、涙でしわしわになった漫画の哀れな姿があった。


「あ……先輩」

「なんだ」

「すいません、漫画、弁償します」

「いいよ。気にするな。古本で買い足すし、貰うなり捨てるなりしてくれ」

「……ありがとうございます」


 いや、こう言っちゃなんですけど、30巻だけ貰っても……。

 でも、なんとなく、この本は捨てない気がした。


「ところで、だが」

「はい」

「下校時間まで少し時間があるが」


 先輩はニヤリと笑った。


「ここに、残り30冊ばかり、漫画があるが……読むかい?」




4.


 そんなことがあって、残りの漫画を読みに行くようになったのが、わたしがこの古典部に関わるようになった始まりである。

 そうしてシリーズを通して読んでみて、改めて30巻のあのシーンにたどりついたときには、また別種の感動があった。

 読んでみるとわかるが、あのシーンで赤木さん(この作品の熱心な読者なら、彼のことは呼び捨てには出来まい)はモブキャラの彼とのことがあった後、体育館で相方の木暮さんと会っている。

 夕刻にコトがあってから、体育館に戻ったのが夜、という時間経過にも、見えてくるものがある。

 皆が帰った後、一人で練習している木暮さんに、赤木さんは笑って憎まれ口を叩く。だが、あの瞬間、確かに赤木さんは救われたのだろうと思う。

 わたしはあのシーンが「SLAM DUNK」という作品の中で一番好きだ。あの男同士の友情に、心の底から憧れの念が湧く。

 最初は、あんな友達が欲しかったと、そう思った。

 しかし、徐々に、わたしは赤木さんではなくて、その女房役の木暮さんのようになるべきだったのだと、そう考えが変わっていった。

 三年間という時間を掛けて、たとえば三井寿を怒鳴りつけたシーンのように(不良漫画化していたあたりの話だ)、心の底から仲間を信じていて、だから裏切られたことに本当に怒っているような。

 あるいは、陵南戦の直前のように最後まで仲間のために働き、そして陵南戦の終盤に起こした奇跡のスリーポイントシュートを神様からもらえるような。

 そんな三年間を生きるべきだったと、そう思う。

 コミックス#21、話数で言えば#183(このナンバーも空で言える)の「メガネ君」で描かれた木暮さんのバスケ人生は、多くの示唆に満ちている。悩みながら、それでもバスケを続けて、三年間を全うした彼の生き様には思うところが多い。

 わたしにとっては、試合後の桜木花道の台詞と、敵方の田岡監督の男前な試合後コメントとあわせて、ひどく印象深いところである。

 あの人は、わたしの憧れだ。あの日は先輩との出会いの日だけど、同時に木暮さんとの出会いだったと言って過言ではない。

 ……うん、思い返しながら若干イタい気もしてきたが、それだけあの作品にのめり込んだということでもある。そうしておこう。

 漫画そのものもすばらしかった。特に山王戦終盤の、無言の表現には息が詰まった。読む手が止まらなかった。圧巻だ。あれは、小説には絶対に真似できない、漫画にしかできない表現だろう。

 漫画を幼稚なものだと思っていた一ヶ月前までのわたしは、愚かだった。本当に考えなしだったよ。


(しかし)


 しかし、そういえば。

 初対面の相手のために、先輩、わざわざ31冊ものコミックスを学校に持ってきてくれたのか。

 そのことに、いまさら気がついた。


(あの人は、まったく……)


 いつもマイペースで、好き勝手に論説ぶってわたしの反論なんて聞かないし、こっちがドン引きするような本でも平然と貸してくるし、頬杖突いて行儀悪いし、地味にラーメン好きでどこか食いに行こうってなったらすぐラーメン屋行こうとするし、いいって言ってるのに奢ってくれるし。

 基本的に困った人だけど、でも、まあ、優しい人だと思う。

 うだうだと話をしているのも、聞いてて楽しいし。本読みだからか、筋道立てくれてるから、聞いててそのままの流れで理解できるしね。


「あ、そっか」


 そうか。

 わたし、部活が楽しみだから、来たんだな。

 合唱部のこともあるけど、だからって楽しくもない部活に(部外者の身で)休日まで来ようと思うほど、わたしは奇特な人間じゃあない。

 勘違いもあったけど。でも、楽しみだったんだから、そういうのも仕方ないか。

 ため息一つ。


「帰るかあ……」


 いつまでも、こんな図書予備室の前でうだうだしていても仕方がない。

 よし、と気合いを入れて伸びも一つ。

 振り返ると、先輩がいた。


「帰るのか?」


 ポカーンである。えっと、振り返ればヤツがいる的な……?(※4)


「まあ、帰るのなら、それはそれで構わんが」

「えっ? 先輩、何してるんですか?」

「君がどうも、部活があると思っていたようだから」


 肩をすくめる先輩。あれ? あ、私服だ。初めて見る。

 襟裏から青の小花柄が覗く白シャツに、シンプルな銀のボトム。カジュアルな黒のローファー。なんか、カジュアルはカジュアルなんだけど、休日の割にだらしのなさのない格好で、実に先輩らしい私服である。


「……もしかして、先輩、わざわざ来てくれたんですか?」

「駅前には出ていたからな。メールを見て、その足で来ただけだ」(※5)


 あ……しまった! 昔のことを思い出して感傷に浸ってて、メールにフォロー入れてなかった。

 わたしはあわてて頭を下げた。


「すいません、勝手に勘違いしてて、それで刺々しいメールなんか入れちゃって」

「気にするな。勘違いは誰にでもある。改めて言っておくが、古典部は土日祝が定休だ」


 それに、と先輩は前置きして、詫びてきた。


「昨日、まぎらわしいことを言った気がしてな。こっちこそ済まなかった」

「まぎらわしいこと?」

「なんと言ったか、確か『明日もある』とかなんとか、言ってしまった気がする」


 あ、そういや言ってたな。

 でも、それが原因で勘違いしたってわけでもないとは思う。


「あれは、せっかくの休日をダメにしないように言ったつもりだったんだが、悪かったよ」

「いえ、たぶん勘違いの種はそれじゃないんで、気にしないでください」

「そうでなくとも、そもそも活動日を伝えておくべきだったしな」


 いや、うーん。部外者のわたしにそこまで必要だろうか?

 それならいっそ、部外者のわたしが「参加していいですか?」とお伺いを立てるべきだと思うんだけど。


「とりあえず、出ましょうか。その格好ってマズいですよね?」

「大いにマズいな。校門から入るとき、すごく気まずかった」

「いや、気分の問題じゃなくて。システム的にまずいんじゃないかと」




 なんやかんやと言いながら、先輩とわたしは学校を出て、それから適当にお茶して帰った。わたしは制服のままだったし、そんなにうろちょろするもんじゃないから。

 先輩、迷惑かけたってまた奢ってくれたんだけど(そういうの、学生なんだし、本当に要らないと思うんだけどなあ)、今日はお金も持ってきてなかったし、正直助かった。ありがとうございました、先輩。


 にしても、誘い文句が笑えた。あの日と同じのなんだから。

 まったく、「ちょっと、お茶でも飲まない?」だなんて。

 先輩、このフレーズに気に入ってるのかなあ。確かに、もはや古典的ですらあって、面白みすら感じられるけど。


 でも、まあ、無駄足だったけど、そんなに悪くない一日だったよ。


 わたしによるネタ・元ネタ解説。


※1

 「孟夏の太陽」は宮城谷昌光……先生を付けないと先輩に叱られるか、宮城谷昌光先生の著作である。

 あ、そういえば、孟夏って初夏って意味らしいから、意味は変わらないか。間違ってたな、わたし。


※2

 多数の団体が参加する合唱祭では、一団体ごとに制限時間がある。段取りがあるのだから、これは当然だろう。

 都道府県ごとに差はあるだろうが、十分以上というのは考えづらい。

 ただ、事前申請して例外的に延ばしてもらえることもある。


※3

 改めて指摘しておくが、井上雄彦の「SLAM DUNK」30巻の話である。

 王者・山王工業との対戦中、ふと赤木キャプテンが思いだした昔の話で、気楽に部活を楽しみたい人間と、真剣にやりたい彼の相克が鮮やかに描かれた名シーンである。

 何一つ言い返せず、思い出したときもただ涙を流した赤木キャプテンの男前ぶりはハンパない。

 それを見守る木暮さんの良妻賢母っぷりもハンパない。


※4

 「振り返れば奴がいる」は三谷幸喜の初のドラマ作品、らしい。

 作品名を知ってるだけで、よくは知らない。


※5

 うちの学校はわりと駅近である。


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