5.文章表現
【文字数】
15000字ほど
【作者コメント】
これまでで最長ですが、そのくせ章分けが少なくなっているので、読み疲れにお気をつけください。
1が話の流れで異様に長くなってしまっています。
【目次】
0.承前:作者論と読者論
1.推敲作業から得られる二つのメリット
2.読書の重要性について
0.
昨日の会話で、一つ気になったことがあった。
どうして先輩はそんなにも誤字脱字を嫌うのか、である。
「話がわかりにくかったか?」
「いえ。作者側が誤字脱字について、厳しくあるべきってのはわかったんですけど。でも、なんか腑に落ちないって言うか」
「すると、理解はしても共感はできない、というアレか」
「いや、そうでもないです」
うーん。なんだろ、どう言うと適当なのかな。
「……ああ、そういえば先輩、ネット小説で誤字報告やってるって言ってましたよね」
「おう」
「普通、誤字に気づいても『うわ、誤字ってるじゃん』って思うくらいで、わざわざ報告まではしないと思うんですよ。いちいちメモ帳か何かに控えておいて、後で報告するわけでしょう? 文章作法上のミスは覚えていればその点を指摘すればいいわけですけど、誤字は該当箇所のコピペが必要ですもんね。それだけの手間をかけられるのって、誤字嫌いが根本にあると思うんですよ」
「まあ、そうだな」
「やっぱりそうなんですか。うん、で、そうなると、なんでそんなに嫌いなんだろうなーと」
「そこに引っかかったか」
先輩は「むー」と考え込んだ。うつむき加減で顎をなでている。
顔色を見るかぎり、触れてはいけない話題ってわけでもなさそうだ。何かしらイヤな思い出でもあるのかと、おそるおそる訊いたんだけど、無用な心配だったみたい。よかったよかった。
いや、誤字脱字に関するイヤな思い出ってなんだよって話だけどさ。
でも、ほら、わたしってば、考えなしにしゃべってると、結構無神経なこと言っちゃうからね。こういう、話を掘り下げて聞くときは注意が必要なのだ。特に先輩にはどこか遠慮がなくって、ついぽろりとこぼしちゃったりするから。
「……そうだな」
ややあってから、先輩はゆっくりと言葉を紡いだ。顔を上げ、しかし視線はまだ正面に向けたまま。
自分自身に確かめながら、語っているように見えた。
「洗われていないから、だろうな」
わたしが小首をかしげていると、先輩は一つうなずいてから、いつものように肘を突いてこちらを見た。
「文章は洗われたものでなければならない。作品とはそうしたものだと思うんだ」
「あらう、というと、ウオッシュの?」
「そう。誤字脱字そのものが問題なんじゃない。文章が洗われていないことが、とても嫌なんだ」
目を細めた先輩は、音吐に力を入れた。
「表現とは選び抜かれたものでなければならない」
わたしの中に浸透するのを待つかのように一呼吸置いて、先輩は話を続けた。
「果樹園で不要な果実が刈り取られ、選ばれた果実だけが栄養を得て育まれるように。選別されたものが残り、そこに無駄などなく、物語を描くために適切な表現だけが小説の中にある。そうあるべきだと思うんだよ」
「そういう、理想論ですか」
「違う。理念だ」
はっきりとした否定だった。ちょっと珍しいくらい。
先日、誤字の例を語り始めた先輩は、こっちが驚くぐらい興奮していたけれど、その理由がかいま見えているような気がする。
「より良いものを作ろうと思い、悩み、あるいはその途上で誤ったとしても構うまい、その理念に沿って進むことが作家としての義務だ。プロ作家ならば締め切りがある。飯を食っていくために妥協もやむを得ない。だが、アマチュアは違う」
繰り返しになって悪いが、と言う先輩に、わたしは構わないと首を振った。
アマチュアの目の前には、プロからすれば無限にも等しい時間がある。そのことを、先輩は本当に厳しく見ている。
わかるんだよなあ。うん。わたしの中にも似通った考えがある。わたしの専門である合唱というジャンルもまさにそうなのだから。
「もちろん、あくまで理念の上での話、心構えの問題だが、同時にそうであってほしいという読者としての理想論でもある。この点では、君が言うようにね」
「先輩にとっては、理想なんですね」
「ああ。そうあろうとする人は美しい。高校野球の例などまさにそうだ。向上心がないからといって馬鹿にするつもりは毛頭ないが(※1)、求道(ぐどう)は美しい。その道こそ正道だと思う」
これはね、と先輩は告白した。
「読者についても、同じだと思うんだ」
「読者も?」
「おう。作品を介して、作者と読者はつながりを持つ。そこでどのような態度を取るか。口汚く罵るのも個人の自由だし、ただただ賛美するのも悪くない。だが、正道ではない」
「ああ、なるほど。誤字報告は、作品をより良くするための、読者の側の求道であると」
「君は本当に察しがいいな」
あきれるような、嬉しがっているような、どちらとも取れるような表情。
先輩はまぶしいものでも見るかのように目を細めて、言った。
「ネット小説は、より直接的に作者と読者を結びつける。作者に作者の義務があるように、読者には読者の義務がある。その点が理解できないのなら、作品について口を開くべきではないな」
そして、締めくくった。
「世に優れたネット小説はごまんとあるが、感想掲示板が作品をより高めている作品も少なくない。より多くの作品が、そうした良質の関係であってほしいと思うよ」
無粋な話であるが、一つだけツッコミ。
「でも、先輩」
「なんだ」
「誤字報告だけが書き連ねられてる感想掲示板って、あんまりいい感じには見えないですよ」
「それはそうだけど」
と、先輩は不服そうに口をとがらせた。
1.
理念だけを話していても仕方がないので。
「で、先輩」
「なんだ」
「理念はそうだとして、実際に文章を洗うにはどうすべきだと先輩はお考えで?」
「そうだな」
先輩はちょっと、困ったように言う。
「誤字の件とは別に、これも対案と言うべき対案はないんだ」
「と言いますと」
「門外漢が何を言っても、説得力に乏しいだろう。いくら孔子が『人を以て言を廃せず』と言おうが、現実、人は人を見ているものだから」(※2)
「その道のプロだ、っていうのは大事ですよね」
プロ作家が教える文章の洗い方とトーシロのそれとでは、説得力が違うもんなあ。
先輩もうなずいて、付け加えた。
「そうだよな。『影響力の武器』という、人を騙す技術についてまとめた学術書があるんだけど、その中でも権威というものの重要性は指摘されているんだ。権威はそれだけで、詐欺にも転用できるくらいに説得力を帯びる。それを思えば、物を書いたこともないたかが一読者が文章表現についてアレコレ言ってもね」
とまあ、そんな風に先輩は言うけれど。
肘突き、こちらを眺めやりながらなのだから、それこそ説得力がない。話は終わってない、って証拠でしょうに、その姿勢。
「そうは言っても、持論はあるんですよね」
「まあね。門前の小僧だよ」(※3)
「ああ。経文は読めると」
「そうだ。それに、ネット小説に限って言えば、それなりに数を読んでるつもりはある。この点に関して言えば、門前ではない小僧のつもりだ」
先輩は「まあ、おじさんに至ってはキャリア十年超えてるみたいだけど」と要らん付け加えをした。
十年以上もネット小説読んでるんだ。古参もいいところだな。いや、十年くらいなら、むしろ思ったよりは短いと思えばいいのだろうか。
案外若い方なのかもしれない。何それ、ちょっとうらやましい。うちの伯父さんは四十代(推定)なのに。最近は下腹がもりもり成長していて、なんだか無性に泣ける感じなのに。
そんなわたしの無駄な思考はさておいて。先輩は話を続けた。
「さて、そんな立場から言うと、ネット小説は十分な見直しが行われていない場合が多い」
「誤字脱字でも、だいぶ厳しく言ってましたよね」
「前方不注意の自転車に文句を付ける感覚だよ、あれは」
「ああ」
フラフラしながら、もうずっと周りばっかり見て前を見てない自転車っていますもんね。まあ、下や手元ばっか見て前見てない歩行者も多いけど。皆さん、前を見ましょう、前を。
「文章を洗うというのは、つまりは推敲作業のことを言ってるわけだ」
「すいこうって言いますと……ああ、おしたりたたいたりする」
「そうそう。細かく表現を洗い直して、この表現で通じるか、もっと易しい表現がいいか、この文はつながりがおかしくないか――そうやって見直していけば、結果的に誤字脱字は修正していけるはずだ」
「ああ、だからさっき『誤字脱字自体が問題なんじゃない』なんて言ってたんですね」
「君は人の言葉をよく覚えているな」
と先輩は一つ、感心してうなずいた。
いや、ついさっきの言葉を忘れるとか、若年性健忘症でもなし。
「この作業で見直せる一つのポイントとして『重複表現を減らせる』点がある」
「重複表現ですか?」
「おう。少し難しい言葉であったり、癖のある言葉を多用するのはあまり勧められることではない。特に、違うキャラ同士が同じ語彙を使っていると、キャラの独立性が損なわれる」
「えっと、曖昧すぎてちょっとわかりづらいです」
「そうだな」
先輩は思案し、ややあってから一本指を立てた。
「たとえば『一日千秋の思い』という言葉を使うとする」
「はい」
「文語調のやや硬い表現だが、主人公がそんな思いで遠距離恋愛の恋人を思っていたとする。つまり、地の文にそんな記述があるわけだ。で、電話か何かで恋人の方も『一日千秋の思いです』と述べたとする」
「ああ、それで重複」
「そう。文章では、偶然一致しました、が通用しない。恋人だから同じ気持ちはアリだが、まったく同じ表現はナシだ。その点、現実以上にご都合主義へと厳しい視線が向けられるんだよ。他にも表現がある以上、そうした類似した表現へ変更することが望ましいな」
「推敲していれば、そうした点にも目配りが利くと」
「そうだ」
大きくうなずいた先輩は、一本指を下ろした。
「そのためには、見直す際に類語辞書が手元にあるといいな。適切な表現を探るのに最適なツールだ。ネットでもフリーのものがあるからそちらでも構わないが、個人的には紙媒体の方が読み込みがいいと思う」
「やたらめったら勧める人がいますよね、紙の辞書を使えと。先輩もそっちの派閥ですか」
「まあね。携帯やパソコンを使うのも悪くないんだが、ちょっとコンパクトすぎて無駄がないな。情報が一発で出てくるから、引っかかりがない。前に話した外人ネームみたいなもんだよ」
「覚えづらいと」
「そうそう」
ああ、なるほど、それならわからないでもない。検索結果だけバーンと出ても、なかなか頭に入らないもんなあ。
紙媒体で何度も見直した項目だと、その周りの文章も目について特に印象に残るだろう。これがネット検索だと、何度も検索させられる手間だけが印象に残りそうだ。
「あるいは、『一日千秋』という例だけど、これを口頭で使う、言うってのはなかなか考えづらい」
「なかなか口にはしない言葉ですよね」
「だよな。会話文を見直して、そうした難しすぎる表現や口語になじまない表現を削ったり入れ替えたりするのも、推敲作業の一環だな」
確かに、四字熟語なんかを使ってるのを見ると、浮いて見える。
なかなか普段の会話で「これはしたり。画竜点晴を欠きましたな」とは言わないし。っていうかなんだこの口調。時代小説じゃないんだから。
「もちろん、小説における口語と実際の口語は違う。ちょっとくらい難しい表現を使っても構わないし、むしろライトノベルでは慣用句や熟語が多用される傾向があるけど」
「あれ、そうでしたっけ? ちょっと覚えがないですけど」
「このことを念頭に置いて読んでみれば、わかるよ。まあ、会話で使うことはないにしても、地の文ではよく使われている」
へえ、ちょっと今度から気をつけてみよう。
「このように、平均して二、三ヶ月に一冊出す多産のライトノベル作家の下であっても、表現が洗われていることがよくわかる」
もちろんピンキリだけどね、と付け加える先輩。
「ちなみに、これは余談だけど、ライトノベルの応募規定文字数は原稿用紙で三百枚程度のようだな。これがだいたい一冊なわけだ。前に話した毎日四千字書いて一月。これをどう見るかは人によって異なるが、ただ書くだけでも一月はかかる、と考えた方がいいだろう」
「うーん」
ピンとこない。自分に引き寄せて考えてみようか。
演奏会がある。それで、ただ練習してそこで歌う曲を十分に読み込むだけで、一月はかかる。これは解釈がどうこうというレベルでなくて、ただ音取りをして、指示されている音楽記号通りに歌えるようになるまで、である。
なら、その曲のテキストを調べたり、作曲家が作った経緯を調べたり、時代背景を把握したり、外国語なら発音をチェックしたり、もちろん楽曲分析をしたり……とそれ以外の準備作業を考えたとき、毎日練習して一月かかる曲。
うわ、これ、相当大変じゃん。
「うわあ。メチャクチャ大変じゃないですか。いや、すごいですね、プロ作家って」
「すごいよ。速筆の人なら毎月一冊本を出す。下調べの少ないジャンルもあるにはあるが、それにしても毎月というのは相当だ」
「専業作家にしても、それ、ホントに相当な苦労がかかってるでしょうね……」
先輩がプロ作家とアマチュア作家を分ける理由が、ようやくピンときたかもしれない。そりゃ大変だわ。
そういや、東混(※3)は年間百近い公演を行っていると聞いたことがあるけど、いつ聴いてもそこまでのパフォーマンスじゃないんだよね。でも、それも公演数を考えたら仕方ないんだよなあ。
わたしも歌うようになってから、コンディションを整える難しさを知ったよ。調子の良いとき悪いときってのは、どうしてもある。でも、プロはそんな弱音は吐けない。
プロ作家も、毎日毎日(商業的に)読むに堪える文章を書き続けなきゃならないんだから、それだけでも並大抵の苦労じゃないんだろう。
その辺を述べてみると、先輩もうなずいて、自分のジャンルから話を引き出した。
「プロサッカー選手もそうだな。試合に出るってだけでも、週に一度、十キロ近く走らなきゃならない。それも全力疾走を含めて、体を激しくぶつけ合いながら、だ。場合によっては日曜から次の日曜までに三試合、なんてこともザラだ」
「うわ、八日で三十キロ走るってわけですか。それだけでもメゲそうですね」
「しかも、頭はフル稼働だからな。ただ走ればいいってもんじゃない。90分間戦術的な動きを続けて、ミスできず、誰かのミスをフォローし続けて、それでも試合を決めるようなミスをすればバッシングは免れえない。考えただけで胃が縮むな」
「作家も、一冊でも凡作を出せば『あいつも落ちたもんだ』と陰口たたかれますもんね」
「プロの感じるプレッシャーは、素人が考えるものよりも桁違いに重いものだろうな……と、しまった、話が大きくそれたな」
「あ、そうですね」
首を傾げて「どこまで話したんだっけ」と言う先輩に、わたしは「『一日千秋を誰も彼もが使っちゃおかしいし、会話文にも使えない』までです」と指摘した。
「そうだったか。本当に君は記憶力がいいな」
「わりと、教科書を読んだら覚えられるタチです」
「ああ、テスト前後に妬まれる側の人間だったんだな」
なるほどね、と感心する先輩を見ながら、わたしはふと胸の奥で痛みを覚えていた。
そうか、わたしは妬まれる側の人間、恵まれた立場の人間だったのか。
そのことに自覚がなかった。わたしは、たぶん、そのことがわかっていなかったから、だから他人を傷つけることもあったのだろう。部活でもそうだったのだろうか。
……こうして、ふと昔のことを思い出してしまうあたり、どうもわたしは精神的に不安定なのかもしれない。
「さて、そうだな」
と、先輩が話を引き戻す。
はっと気づいて先輩を見やれば、なんでもないかのような表情で先輩は話を続けようとしていた。こういう、気遣いのなさが、いまは心地良かった。
「表現を洗うとき、気をつけたいポイントとしてもう一つ、『曖昧な表現をしない』点を指摘しておこうか」
「……曖昧ですか?」
頭が働いていない。理解がうまくできないでいるわたしに、先輩は「そうだ」とうなずいて見せた。
「小説というと、なんかしら高尚なテーマを織り込まねばならんと思う向きもあるだろうが、テーマの複雑さと文章の複雑さは異なる。文章はシンプルに、もっとも約分された状態が望ましい」
「やくぶん?」
「最大公約数、と言い換えたらわかるか?」
「ああ、約分」
そうそうと先輩は再びうなずく。それを目で追いながら、わたしは話についていこうとする。
「たとえば、だが。『とか』という表現がある。断定を避ける、口語ではよく使う表現だな。君はパスタとか、好きかい?」
「パ、パスタですか。いや、嫌いじゃないですけど、物によります」
思わず素っ頓狂な声が出た。ちょっと恥ずかしい。
でも、パスタか……そうだな、ほうれん草とベーコンのクリームパスタなんて反吐が出る。
ペペロンやボンゴレなんかは美味しいけど、やっぱり口臭が気になるところだ。イタリア料理は常にニンニクを警戒しなくてはならないところが厄介である。
「……ってな感じです」
「なるほど。参考にするよ」
「なんのですか」
「うん、まあ、この質問は単なる例だが、このように例示する形で使うわけだ。いくつも並べ立てるときに使うべき表現だが、一つでも構わない」
「そうですね」
「この表現、実は文章では多くの場合、不要なんだ。強い表現を避けたいのはわかるが、曖昧にする必要はない」
いまいち理解できずわたしがきょとんとしていると、先輩は辛抱強く説明を続けてくれた。
「たとえば、そうだな。何か趣味はあるかと訊かれたとする。そのとき『映画とかよく観ますね』と答える。口語ではアリだろう。ただ、文章で見たとき、気にならないか?」
律儀にも、立ち上がって先輩はホワイトボードに「映画とかよく観ますね」と書いた。
気になる、気になる……うーん。気になる、かなあ?
「これもピンとこないか」
「すいません」
「いや、例えが悪いんだと思うけど、そうだな、何か良いネタはあったかな」
先輩もうーんと考え込む。
「なら、こういうのはどうだ。ラーメンを食べたときに『コショウとかないんですか?』」
「味への強い不満が感じられますね……」
「うーん。じゃあ、こういうのはどうだろう。いい年したおっさんが言うんだ。『昔は渋谷とかでブイブイ言わせてたんだぜ』」
「悪ぶるおっさんにしか思えませんね……」
「これでもダメか。なら、これならどうだ。プロポーズの言葉だが『君の味噌汁とか毎日飲ませてほしい』」
「おいおい、いったい味噌汁以外に何を飲む気だ、ってなりますね」
「それだ」
ホワイトボードがいい加減「とか」だらけになってきたところで、先輩はズバリ言ってきた。
「そう、それ。それ以外はなんなんだよ、ってことだ」
「え?」
それ以外? コショウ以外に、渋谷以外に、味噌汁以外に?
なんだか頭がこんがらがってきた。うーん?
「しまった、全然ピンときてない」
「なんか、すいません」
「いや、無駄な例えが多すぎた。つまり、『とか』と言ったとき、そこで省略されているものが見えてしまう。そこが問題なんだ」
「とか」という表現はあくまで羅列して例示するものだからね、と先輩は言う。
ら、羅列して例示するもの?
「さっき、パスタが好きかと訊いたな」
「は、はい」
「あれは別にパスタ以外でも構わないだろう。寿司でも、天ぷらでも、すき焼きでも」
「それは……そうですね」
単に好みを訊いているだけだろうし、確かに構わないだろう。
うなずくと、先輩はホワイトボードをペンでペシペシ叩いた。「コショウとかないんですか?」のところだ。
「じゃあ、ラーメンに入れるもので、コショウ以外のものはあるか?」
「え? いや、ラー油か何かじゃないですかね」
「ラー油はコショウの代わりになるのか?」
「いや、なりませんよ。全然違ったものですし」
そうそう、とうなずく先輩。
「『コショウとかないんですか?』と訊いたとき、コショウ以外の何かはないんだ」
「断言できるのか、微妙じゃないですか?」
「いや、ない。断言できる。そりゃ、入れるものはラー油でも山椒でも生にんにくでも構わないよ、個人の自由だ。ただ、コショウがないか訊いてるのに『生にんにくならありますよ』と返されて納得するか?」
「それは……納得しないでしょう。コショウを訊いてるんですから」
「だから、『とか』は不要だと言ってるんだ」
んん、ちょっとわかってきた気がする。
「振り返って、最初の例を見ようか。『映画とかよく観ますね』。なら、こう返してみるとどうだろう――『とかってことは、映画以外にどんなものを観てるの? 歌舞伎とか?』」
「話の流れがおかしいですね」
「そうなんだよ。最初の発言者は明らかに、映画の話をしようとしている。なのに、『とか』を使っているから、それ以外の余地が生まれている。まあ会話では気にならんし、歌舞伎の話を始める相手もどうかしてるが、文章ならその余地は行間となってしまう。これがマズい」
「うん……もうちょっと続けてください」
「おうとも。渋谷の例もそうだ。このおっさんの中では渋谷=悪いヤツがゴロゴロしてるってわけだ。世田谷あたりでブイブイ言わせてたり、言わせてなかったりしたかは話の範疇外のはず。でも『とか』は、その範疇外を範疇内にしている」
「はいはい」
「で、味噌汁。味噌汁を毎日作ってくれ、というのは定型句だが、『とか』を入れると意味がぼやける。そりゃ、飯を作るなら味噌汁以外も作るだろうけど、定型句として成り立ってない」
「うん、わかりました。言いたいことわかりましたよ。『とか』は不要なんですね」
「よかった。このまま通じないのかと思ってハラハラした」
なんか、今日は察しが悪くてすいません。
「この『とか』という表現は気になっていてな、調べてみると古くは『とか弁』などと称したようだ」
「初耳です。弁って、関西弁とか、そういう弁ですか?」
「そうそう。方言並に耳につく、ってわけだな。不要な部分に『とか』を入れて、例示されているものを変数にしてしまう」
変数かあ。それはなんともイヤな話である。
「口語では、まあ、とやかく言うものでもないだろうが、文章では気になる表現だ」
「それこそ目につくと」
「推敲するなら、すぐさま赤で二重線を入れるポイントだな」
ホワイトボードの例を消した先輩は、再び席に着いた。
「『とか』を使うのが悪いわけじゃない。不適切な部分で使うべきではない、ということだな。これは別に『とか』に限った話じゃないが、この言葉は特に乱用されがちだ」
「さっきの話を引き継げば、別に他の表現でも構いませんしね」
「おお。良いところに気づくな。そのことも話そうと思ってたんだ」
正面から「君は記憶力だけじゃなくて、察しも良いな」なんて誉められると、なかなか恥ずかしいのだけど。
ちょっと目線をそらして、先輩の話を聞く。
「『とか』のように例示するなら、他にも『など』『なんか』『なんて』『あたり』……他にも何かあったか、まあ、とにかく、事程左様に類似した表現はあるのだ。最初に言ったように、重複表現は避けるべきだから、曖昧にすべきところでは他の表現も使うといい」
再び立った先輩は、ホワイトボードに口にした別の表現を書いていく。
しかし先輩……「事程左様に」て。乗ってるなあ。眺めやれば、本当に楽しそうに先輩はキュッキュとマジックを躍らせている。
「こういう部分部分で、適切な表現を探っていく。よりわかりやすい表現を、より美しい文章を望んで見直していく。推敲は大事な作業だ」
「見直しは大事ですね」
「テストと同じだな。解答はシンプルでいい。筆算は消して、必要な計算過程だけ残して提出する」
「嫌な例えを……」
テストの話はやめなさい。現実が見えて嫌になる。
夏も近づく頃である。あと何日だろうね、期末まで……やめなさい、わたし。期末試験までの日数なんて、数えるもんじゃない。
「む。君は記憶力が良いのだし、真面目に勉学にも励んでいるようだから、テストを嫌がる理由もないと思うのだが」
「誰だって苦手教科くらいありますよ……」
わたしは数学が嫌いだ。でも、なぜか先輩はいつも数学で例える。的確な嫌がらせである。
数学はやめて。わたし、数字は好きなんだ。数字でいいんだよ。なのに、なんだよ、なんでアルファベットやギリシャ文字が出てくるんだよ。意味不明だよ。
中学の頃からあなたが嫌いでした。変数なんてもう見たくない。
2.
取り乱したわたしに先輩はお茶をいれてくれた。なんか、今日はホントすいません。
お茶を片手に、休憩がてら少し談笑する。
「君が数学嫌いとは知らなかったな」
「本読みなんて文系に決まってるじゃないですか」
「それは偏見だ」
「知ってますよ」
単にわたしが数学が嫌いってだけだ。そんなの知ってるよ。
「なら、国語系科目はどうなんだ?」
「物にもよりますが、学年でトップテンは堅いですね」
「……君はつくづく文学少女だな」
「違います。合唱少女です」
それは違いない、と先輩は笑ったが、おそらく意味はわかっていないだろう。
合唱オタクは国語系教科に強い。なぜか。多くの名文・名詩が曲として存在しているからである。メロディ付き、ハーモニー付きで覚えられるのだ。しかも、CDのブックレットや演奏会のパンフレットには、テキストについての情報も載せられている。
なじみのある作品であれば、勉強するのは容易だ。わたしにとって、多くの詩や古典の名文が、なじみある存在なのである。
わたしには千原英喜先生という強い味方がいる(※5)。鈴木憲夫さんもいるから、宮沢賢治なら雨ニモマケズも永訣の朝も暗唱できる。なんなら般若心経だって空で言ってやろう。まあ、機会はないが。
ほら、点数稼いでやる、「祇園精舎」も「百代の過客」も「春はあけぼの」もどんとこい。
ちなみにであるが、「祇園精舎」のフレーズが出てくる合唱曲「那須与一」は超カッコいい曲である。重厚なハーモニーと歯切れの良い音楽。「これを射損ずる者ならば、指切り折り自害して人に二度面向かうべからず」のあたりの男声のメロディなんて痺れるものがある。
まあ、言ってる内容はアレなんだけどね。弓外したら自害とか、マジで賭けてるものがハンパない。当たって良かったよね。
「……というわけで、古文や詩については、物によっては覚える手間が省けます」
「なるほど。それはうらやましい」
「先輩も聴きますか? CD貸しますよ?」
「機会があればな」
それはさておいて、と先輩は話を戻す。
「君が合唱で国語を学んでいるのは別として、君のもう一つの習慣も国語系教科に大きく影響を与えているはずだ」
「と言うと?」
「読書だよ」
なるほど。言われてみれば、そりゃそうだ。
「君ぐらいの活字中毒者なら、漢字の読みには強いだろう。読解力に乏しいならそもそも読書を楽しめるはずもない。その上、合唱までついてくれば、鬼に金棒だな」
「鬼に金棒とか、本当にやめてください。全然、これっぽっちも誉められた気がしません」
鬼て。金棒て。
バールのようなもので戦う(※6)のもアレだが、金棒装備はさらにアレである。花も恥じらう年頃の乙女に何を言うか。
「表現が悪かったか、すまんすまん」
「謝罪が軽いですよ」
「まことに申し訳の次第もございません」
「謝罪が重いですよ……」
軽く手を上げる謝罪から、腰折り九十度の礼へ。椅子の高さまで頭が下りてるよ。あまりに鮮やかな転身に、最初からそのネタをするつもりだったのかと疑ってしまうわたし。
たまに、先輩のギャグは瞬発力があり過ぎてビビることがある。ああ、頭上げてくださいよ、先輩。
「まあ、なんにせよ、君の国語系スキルだけで見ればトップランカーなのは、読書によるところが大きいはずだ」
「トップランカーて」
ネットゲームじゃあるまいし……いや、間違ってはいないんだけどさ。
「小説でも同じことが言える」
先輩は一つ指を示して、話を本題に乗せた。
「鬼に金棒なんて、普段は口にしないだろ?」
「してたじゃないですか、先輩」
「活字中毒者は、ちょっと語彙がおかしいんだ。そうだろ?」
「わたしも仲間みたいに言わないでください。確かに先輩はおかしいですけどね」
失礼な。わたしの語彙はそこまでおかしくない。
「ん、そこは認めないのか? まあいい、とにかく、小説が持っているコンテクストは小説を読むことでしか理解しえない。語彙もそうだし、作法もそうだ。こういうときにはこの表現が適切、なんて読書以外でどうやって知ることができる? 文章を洗うためには、十分な読書によって、小説に必要なスキルを高めておく必要がある」
「課金したからってスキルレベルが上がるわけじゃないですしね」
「そうだな。高価な絵筆を買っても絵が描けるわけじゃないし、ハウツー本を取り揃えても小説が書けるわけじゃない。だからあえて言おう、『外出をやめよ、書を読もう』」
「あれ、なんか聞き覚えが……なんでしたっけ、それ」
「寺山修司のもじり」
ああ、なるほど。確か「書を捨てよ、町へ出よう」。
「これはおじさん曰くだが、書き始めると読んでる暇がないのだそうだ。当然だな。読書に当ててたような空き時間を書くために使うんだから」
「学生だなんだと言ったって、余暇なんて限られてますもんね」
「そう、だから、何かを書いてみようと思っている人は、急いで本を読まないといけない。公共広告機構風に言えば知層だな。なんかそういうもんを蓄えておかないと、書くのも見直すのも覚束ないだろうよ」
「けど、誰かに影響を受けたくないから本は読まない、という人もいるんじゃないですかね」
どこかでそんな意見を見かけたような気がする。
が、先輩ははっきりと首を振った。横に、である。
「本を、小説を読んでいないというのはそれ以前の問題だよ。さっき言ったように、小説の約束事がわからないってことに他ならない」
「あー、約束事ですか。それは確かに」
「それに、本当に影響を受けたくないのなら真っ白な部屋で、パジャマみたいな水玉模様の服を着て、なんかよくわからんでっぱりを触りながら小説を書く他ないだろう」
「なぜに松本人志」(※7)
「白い部屋で連想しちゃったから。まあとにかく、外部からの情報を完全にシャットアウトでもしないかぎり、影響を受けないことはありえない。小説はアウトだけど、ドラマや漫画やアニメや映画はセーフ? そんなわけないだろ」
「なるほど。そりゃそうですよね」
そもそも、まったくなんの影響を受けずにいてどんなアイディアが湧いてくるのか、想像もつかない。神の啓示でも降りてくるのだろうか。
先輩もそもそも論をぶる。
「そもそも、他の作品からアイディアを得るのはアウトじゃない」
「ほほう」
思わず出てしまった奇態な返事に、つい「それでそれで?」と付け足したくなるわたし。自粛自粛。煽ってどうする。
「そりゃまんまパクリはダメだが、自分の脳みそという途中経過を経て作品に昇華されているのなら、オマージュもリスペクトも創作の範疇だ。たとえば『ゼロの使い魔』が三銃士をモチーフにしてることなんて、後書きでバラしてるくらいだしな」
「ああ、その作品、いろいろな人の名前がそのまんまらしいですね」
「そうそう。シュヴルーズ夫人が固太りの教諭になってるのが泣けるアレだ」
そこは言ってやるなよ……。人は中年になると太りやすくなるらしいんだから。と、心の中でうちの伯父さんを擁護するわたし。
「他にもいくらでも例があるだろうが、そうだな、『ひとりぼっちの地球侵略』という漫画では『星の王子様』の一節が提示されていて、それがストーリーや登場人物の関係を強く示唆している。これなんて上手いオマージュだな」
何それ、ちょっと読んでみたいんですけど。貸してくださいよ、また今度。
「わかってるわかってる。また今度な。あとは、『東京喰種(トーキョーグール)』という漫画では、名作からの引用がシーンの印象を強めているな。他の作品を素材として使うことに、遠慮なんて要らない。幻冬舎新書も言ってるじゃないか、『あらゆる小説は模倣である。』とさ」
「いや、知らないですけど」
「そういう本があるんだよ」
読みたければ貸す? いや、要らないですけどね。
ところで、「星の王子様」と聞いて、ついお腹が空いてしまった。カレー食べたいなあ。
「もちろん、存命の作家の作品やネット小説から引くのは著作権的にアレでソレだから、著作権的にアレでソレでない古典作品から引いてくることが望ましい。ただ、アイディア自体は著作権の保護範囲外だから、文章をそのまんま引くんじゃなければ、極端な話、ネット小説から引っ張ってくるのも法的には問題ない」
「法的には、ですか。意味深ですね」
「意味深というか、そのまんまの意味だ。類似作品と展開が似通ってきたなら、そりゃ『あの作品のパクリですよね』って叩かれるに決まってる。ネット小説なんて口さのないネットユーザーのお膝元もいいとこじゃないか」
「叩かれやすいと」
「むしろ叩かれない理由がないな」
先輩は「あくまで、作品のアイディアとして活かすのであって、誰かのアイディアをパクるのはダメだ」と付け加えた。
その違いは微妙なところではなかろうか。
まあ、でも、それも仕方ないだろう。現実社会では境界線があやふやなものなんてありふれている。自分なりに判断するしかない。判断を誤れば叩かれるだけだ。
「アイディアの利用の仕方についての話はこんなところだが、まあ、とにかく読書は大事だ。アイディアを得るために色々な体験をすべき、という意見もあると思う。でも、それは次の段階だ。まずは本を読んで知層を蓄えること。文章を書けるようになってからでないと、どんなネタでも宝の持ち腐れになる」
「今日はガンガン熟語を放り込みますね、先輩」
宝の持ち腐れ……これくらいなら、会話でも使うか?
「それはいつものことだと思うが」
不思議そうにわたしを見やった先輩は、「ああ」と一つ納得した風にうなずいた。
「だいたい話は尽きたし、これで今日は終わりにしようか」
「あれ? 今日はずいぶん早いですね」
携帯を確認してみても、やっぱり早い。
わたしが目をパチクリさせていると、先輩は苦笑して返した。
「君、今日はお疲れだな。まぶたが重そうだ」
「……あー、すいません、そういや今日はプールでした」
だいぶ注意が散漫になっていた気がする。顔を振ってみるが、晴れない違和感。むしろ自覚したことで、身体の芯にまで染みてついている疲労が意識されてしまった。身体重っ。うわ、こりゃ、今日はよく眠れるな。
「プールの日は午後が辛いな。明日もある、早く帰って早く休むといいさ」
「すいません、気を遣わせちゃって」
「こっちも、ちょっと乗りすぎたな。喋り通しで悪かった」
「いや、それはいつもですけど」
というわけで、今日はここまで。
小腹を満たしに、先輩とカレー屋にでも寄って帰りますか。
わたしによるネタ・元ネタ解説。
※1
言うまでもないだろうが、夏目漱石の「こころ」のアレを先輩はもじっている。
※2
先輩曰く、孔子は「誰が言ったかなんて気にすんな。内容が良けりゃいいのよ。オーケー?」と述べてるのだとか。
でも正直、誰が言ったかは大事だよね。
パンクブーブーという芸人コンビが漫才で、良い感じの教訓を「って万引きした主婦が言ってた」「ダメじゃねえか」って感じでネタにしていたが、それが現実だろう。
※3
ことわざ「門前の小僧、習わぬ経を読む」のことである。
人は環境に影響される生き物だ、ってくらいの意味だけど、先輩は「習わなくても経くらい唱えられるぜ」的な意味で使っていたみたい。
※4
東混とは東京混声合唱団の略称である。
確か、「日本で唯一レギュラーコンサートを行うプロ合唱団」と謳っていたはず。超有名な団体である。
改めて調べてみたら、年二百回公演とあって、目ン玉が飛び出た。マジか。あの人ら、超人か。
※5
わたしが敬愛する作曲家・千原英喜先生の作品には、わりと暗誦向きの曲が多い。
枕草子、平家物語、奥の細道などの古典と、雨ニモマケズのような宮沢賢治作品などなど。
学生さんにはお勧めの作曲家である。全集も出てるしね。
※6
些末なネタだが、これは「這いよれ! ニャル子さん」というライトノベル・アニメの話である。
※7
松本人志監督の映画「しんぼる」の話である。