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 番外3.そのとき (前編)

【文字数】

 前後編合わせて、27000字ほど

 前編では12000字ほど 


【作者コメント】

 今回も本編にはほとんど関わらない話ですので、読み飛ばしても問題ありません。

 一部16話にも流れが引き継がれますが、問題ない程度です。


【目次】

 0.承前:間抜けなわたしの話

 1.わたしが知らなかった先輩が、少し知れた話


0.


 世の中、きっちりした人というのはいるものだ。

 さしづめ先輩のような感じの人のことなんだけど、こうした人間には二種類いるんじゃないかとわたしは思う。

 一つには、根っからのきまじめ人間だ。上手く手を抜く方法を知らなくて、なんでもかんでもきっちりしてしまう。中でも、デキるタイプの人はそれでやれてしまうものだから、本当にきっちりしてる。先輩はそのタイプだろう。

 一方で、きっちりしていないと際限なくダレてしまうタイプの人もいるはずだ。気を抜くと失敗するから、自分を律しておおやけの場ではきっちりする。でも、ダレて構わないプライベートでは怠け者の地が出てしまう。オンオフがはっきり出てしまうタイプである。

 かく言うわたしはこの後者のタイプで、もうちょい正確に言うと、母にきっちり教育されてなった後天的なきっちり派である。プライベートでも時間にルーズだったりしないのは、母のおかげだろう。いや、助かってます。演奏会に遅刻しないで済むのはホント、おかげさまです。

 それでもどこかに怠け者としてのタチが残っているようで、寝汚(いぎたな)いところだけは直らない。休日だと、何度寝する気だってくらい寝ちゃうんだよね。

 あ、あと、これは疑ってるだけなんだけど、たぶんわたし、酒癖も悪いんじゃないかなあ。「きっちりしなきゃ」って強迫観念から解放された自分はちょっと恐い。




 古典部がない土曜の朝方。わたしは目を覚ました。ゆるーい覚醒である。ゆっくりと水面に顔を出したクジラのように、もうすぐにも眠りの海へと落ちようとしている。

 手に握ったままの携帯を覗けば、まだまだゆっくりで構わないだろう時間。クジラなわたしは下降への準備に入った。

 と、そこでふと気づく。

 ああ、そういえば昨日、先輩とメールしてて寝落ちしたんだっけか。ありゃりゃ、メール書いてる途中だ。おおう、電池が死にかけ。

 充電コードをいじりながら、やりとりをぼんやり見返す。他愛ない話だ。「GS」のあのシーンが良かったとか、もう読み終わったから何か他のお勧めを貸してくれだとか、そんなの。

 続きは、まあいいんじゃないかなあ。自然に切れてるよね。じゃあ、また別のメール送ろっか。


『先輩先輩、起きてます?』


 わたしはもう寝ますけどねー。じゃあ、おやすみな……。


『なんだ』


 ……ああ、ああ、先輩ったら、メールでまでこんな無愛想な返ししちゃって。モテないぞー……。


『質問に質問で返しちゃダメでしよー。はいかいいえかでどおぞ』

『起きてるよ』

『はいかいいえかでどおぞ』

『……はい』


 あはは、先輩、困ってるなあ。


『いまなにしてます!』

『駅近くにいるが』


 うわあ、先輩、早いなあ。さすがだなあ。


『じゃあひまなんてすね』

『……ああ、うん、まあな』

『そおてすか。じゃあでーとしません!』


 夢見心地のわたしが思い浮かべるのは、この前の、先輩との合唱ざんまいな一日のこと。

 あの日は本当に楽しかった。夢中で話して、なんでも聞いてもらえて、うん、先輩、なんでもちゃんと聞いてくれたんだ。本当に楽しかった。

 でも、と思い出す。

 最後の最後で、わたし、落ち込んじゃって。

 あんなのわたしの都合だと、そう思ったのは、いつのことだったか。テスト勉強の手を休めたときだったかな。一瞬の思考の隙にすっと差し込まれた小さな楔(くさび)が、いまも深く心をえぐって外れないでいる。

 先輩がお膳立てしてくれた楽しい一日を、最後の最後でひっくり返したのはわたしだ。嫌だよ。あんなのダメだよ。わたしにとってもダメだし、わたしのためにやってくれた先輩にもダメだよ。

 だからわたしは、そう、わたしから、デートに誘おうって、楽しい時間をやり直そうって、そんな恥ずかしいようなことをちょっと思って、さすがに恥ずかしいよねってやめたんだ。あれ、いつだったかなあ。テスト前? テスト中?

 まあ、そんなね、デートに誘うだなんて、夢だから言えるようなね。思えるようなことでね。

 ……夢だから? 夢の中?

 …………ええ?


「えっ」


 霞がかった思考が晴れやかになっていく。

 手に握られた携帯はとっくの昔に画面オフ。灰色の液晶である。


「えっ? ええっ!?」


 いやいやいやいやいや。ちょっと待とうか。いや、待って、本当に待ってくださいおねがいします。

 わたしは呆然と、指を動かす。視界の中で指がふるえている。

 送信済みメールを見てわたしの頭は真っ白になった。

 うわあ、わたし、うん……いっぱい誤字ってるねー。

 いやあ、だめだよね。スマホってこうね、文字打つのむずかしいんだよね。あはは。あ、うん……えーと。


「お、おおう」


 わたしはめまいで倒れた。枕に顔から突っ込む。な、なんちゅーこっちゃ。あかん、あかんやつやこれ。

 ええ? いや、まずなにしなきゃいけないんだ。誤字ったこと謝る? いやいや、そうじゃないよね。先輩に暇だろって言ったの謝る? いやいやいや、そこじゃねえよ。そこも謝るけどさ。

 ……で、デートのこと、どうにかしないと。

 いきなりの誘いやで。前振りもへったくれもあらへんやん。先輩困ってはるでぇ。

 うわ、やば、さっき意識飛んでて十分くらい空いてて、でも先輩からまだ返信来てなくて、いやそうだよね、こんなイミフな誘いなんてね、いや、どうしよ!

 わたわたしてるわたしの前で着信音が鳴り響く。

 この流れるようなメロディは、近松門左衛門の今際(いまわ)の際を歌った「ラプソディ・イン・チカマツ」の弐の段。うわー、誰だろうねー。先輩に決まっとるがな!


「せ、先輩!」

「おはようさん」


 お、おはようございます。どうも、わたしです……。


「先輩、あの、あのですね、いまぶっちゃけ布団ん中って言いますか、そのですね……」

「君、寝ぼけてメールしてきてたんだろ」

「おっしゃるとおりで、はい……」


 面目次第もございません……。


「誤字についてどうこう言う気はないが、さすがにどうかと思うぞ」

「はい、反省してます……。あと、昨日寝落ちしてすいませんでした……」

「いや、そっちは構わんが」


 ちょっと沈黙が挟まる。先輩が、こちらの発言を待っているようだ。

 ああ、デートのこと、ちゃんと言わないと。寝ぼけてたって。寝ぼけてたから、撤回……撤回、するのか?


「あ、あの、先輩……」


 わたしの呼びかけに反応がない。不安がどっと膨らむ。

 謝ろう。やっぱり、撤回、しないと。わたしがそうやって、重い口を開きかけたとき、先輩の「で」という言葉が飛び込んできた。


「それで君は、何時頃に来れるんだ?」

「あ、あの……え?」

「するんだろ?」


 なんでもないように、先輩は言う。


「デートをな」




1.


 取るものも取りあえずバタバタと出かけたわたしだったが、それでも家を出られたのは、先輩から電話をもらってからゆうに一時間が過ぎ去った頃のことだった。

 寝汗をシャワーで流す暇もなく顔だけ洗って、髪をまとめてる間なんてどこにもないってのに見事なボサボサっぷりに一人でキレて、もちろん化粧は最低限、服を選ぶ余裕もなくカワイゲもへったくれもないパンツルックで飛び出す。汗がしたたるほどに駅まで走ったはいいが、うへえ、ハンカチもハンドタオルもねえですよ。

 汗もそのままに浴びる電車の冷房が気持ちいい。でも、このままじゃ身体冷やしちゃうよね。冷房から逃げるように空いた席に座って、電車のイス特有の温かさに身体を預けた。

 うぐぐ、急展開も過ぎるって。subito(急に、を意味する音楽記号)ですよ、subito。寝転けてる観客をタマゲさせてやろうってハイドンさんの遊び心が爆発した交響曲「驚愕」みたいな subito の forte ですよ。

 いや、あれはsfz(sforzand その音だけを特に強く、を意味する音楽記号)なのかな? 合唱じゃないし、楽譜見たことないや。

 とまあ、ぼんやりと音楽愛好家気取りのしょーもないことを考えていると、徐々に思考が落ち着いてきた。

 まあ、電車の中ではどうしようもないからね。ただ着くのを待つしかない。

 そういや、さる関西の芸人さん(※1)は大遅刻した際、少しでも早く東京に入ろうと新幹線の先頭車両に立っていたそうだけど、さすがに見習ってもしょうがないしね。っていうか、そっち側に階段があったらいいけど、なかったら無駄だよねって話だし。

 本当に彼は天然だよ、うん、あはは、あはは……あああああ。

 もうね……なんでこんなことに。

 冷静になったはいいが、冷静になればなるほど逆に顔が赤くなるわたし。穴があったら入りたいとはこのことか……。

 デートはね、うん、いいんだ。せっかくだし楽しもうと思うよ。他の誰かにメールしなくてむしろ助かったよ。先輩なら、まあちょっとくらいからかわれたりするかもしれないけど、言いふらしたりしないだろうし、たぶん引いてもないと思うしね。

 ……えっ。引かれて、えっ?

 ……な、ないよね。

 ズーンと頭が重くなるわたし。おもうほど、こうべをたれる、わたしかな。

 寝ぼけてデートに誘う女か。はっ、笑っちゃうよ。はしたねぇ女だな、おい。わたしのことじゃなかったら、鼻で笑ってたよ。

 誰にでもこんなことしてると思われたらショックなんだけど……。

 いや、いやいや、わたしそういうキャラじゃないし。言い訳させてくださいよ。脳内でしても意味ないけどさ。

 そりゃ、男友達とも遊ぶことだってあるさ。二人でってのもなくもない。演奏会となりゃ、副指揮だった彼と連れ立って行くこともたびたびあったさ。

 でもさあ、それってデートじゃないし。むしろ日常だし。わたしにとって演奏会に行くってのは、小腹を満たすためにマック行くぐらい平常運行なのだ。あ、いや、演奏会をファストフードみたいに思ってるわけじゃなくてね。それだけいつもどおりって話。

 デートってなれば、そりゃあね、花の乙女たるもの気合いの入れ方が違うもんですよ。たぶん。いつもと違って「明日(の演奏会)は二時半開場三時開演だから、二時半前にホール着けばいいかな。当日券買わなきゃだから早めに出とくか」みたいなてきとーな計算を前日にするような、そんな気の抜け方じゃダメなわけですよ。

 それがこのていたらく。はあ。ため息も出るっつーの。

 つられたように電車も減速を始めたよ。

 なんの準備もできてないし、誘い方もあんなだったし……ううう、ホント、引かれてないかなあ。

 格好だって、ユニオンジャックのプリントTシャツにスキニーなデニムジーンズ、某スポーツブランドのスニーカー。ふっつーの家でごろごろ休日スタイル、ちょっとコンビニで買い物でも編である。ハンドバッグもシンプルな物で、服装とか今日の気分とか関係ない、もはや単なるカバンである。コーデも何もあったもんじゃない。

 デート? はは、そうらしいですね。

 こんな格好で? はは、そうなんですよね……。

 停車した電車と一緒に、わたしのテンションは底まで落ちた。

 あまりの絶望感に、蹌踉(そうろう)たる足取りでわたしは電車を降りる。

 ゾンビかと言わんばかりにのそのそと歩くわたし……って、ああ、いかん、遅くなってるんだった、下手に電車でクールダウンしたのが悪かったな。急げよわたし。のろのろするなわたし。

 休日の朝、片田舎の駅のこと、閑散とした駅構内を足早に抜ける。

 改札の外で、先輩は文庫本片手に待っていた。

 その姿を前にして、焦るわたしはさらなる失態を犯した。改札で失態と言えばおわかりだろう、タッチミスである。晒し者感がハンパないアレだ。ぐへえ。おい、恥の上塗りはやめろ。


「……お疲れさん」


 息を乱し、緊張と羞恥と息切れで顔を赤くしたわたしを見て、先輩が思わずといった風に言ってきた。


「ふ、触れないでください、こんな格好ですいません……急なお誘いですいません……」

「ああ、いや」


 文庫本をショルダーバッグに直した先輩は、まじまじとわたしを見やる。や、やめて、こんなわたしを見ないで……いやネタとかじゃなくて、マジで……。


「ラフな格好だが、良いんじゃないか。似合っていないわけでもなし」

「もっと、もっとちゃんと選んで来たかったんですけど……」

「そりゃあ使い古したヨレヨレの服で来られたら反応に困るが、そういうシンプルなスタイルでも良いと思うよ」


 ……あれ? わたし誉められてるの?


「参考までに一つ言っておくと、男ってのは基本的に保守的なんだ。流行に敏感ではないし、とがったファッションはむしろ苦手だ。それくらいシンプルな方が受けはいいと思うよ」

「……先輩は、どうなんですか?」

「もう言っただろう。良いと思うよ」


 わたしの質問に目をぱちくりさせてから、先輩は付け加えた。


「そうだな、もう一つ言っておくと、男は基本的にいちいち誉めない。誉めるときは本当に良いときだし、気に入ったときだ。そっけないところが女性を混乱させるかもしれないが、まあ男ってのはたいがい照れ屋だから許してやってくれ。これは本能に近い」

「は、はあ」

「ご大層な言葉を使ってないからって、勘違いするといざこざの元だな。逆によく誉めるような男は、それが効果があるって知ってるわけだ、ちょっと気をつけた方がいい。女慣れしてるよ」


 いつものように流々と話す先輩に、まだ頭が起ききってないわたしは理解が遅れる。


「まあ、なんだ。わかりやすく言うと、その格好、気に入ったってことだよ」

「あ……」


 混乱しきった頭に、その言葉はすっと入ってきた。


「……ありがとうございます」

「おう。どういたしまして」


 先輩は一つ笑うと、進路を手で示した。


「とりあえず駅ビルに行こうか。格好のことを言うってことは、君、満足な準備もできなかったんだろ?」

「はい、そうなんですよ……わたしから誘ったのに、本当に悪いんですけど……」

「謝らない謝らない。なら、とりあえず、花でも摘んでくればいい」


 とっさに、先輩らしいな、と思った。

 さらっと隠語を使うところに、「本読みは語彙がおかしい」と先輩が言っていたことを思い出した。


「ちょうどこの本がもう終わるんだ。ゆっくり待ってるから、しっかりと身だしなみを整えてくればいいさ」


 優しいような、なんか気恥ずかしくなるようなそんなことを言ってくれて、わたしは少しうつむきがちに小さく頷いたのだった。




 わたしは仮にもきっちりタイプだから、事前準備をちゃんとしていないと気が済まないタチである。

 演奏会ではラフな予定組みをするが、これは単にどのホールまでどんくらいで行けるか計算しなくてもわかるってだけなんだよね。着いたら後は聴くだけだし。

 このタチ、裏を返すと、事前にちゃんとしておかないとノープランでは動けないってことなんだよ。実は。

 う、うーん。どうしたものか。

 お手洗いで鏡とにらめっこしながらちょっと考えてみたけど、そんなすっと思いつくもんじゃないよね。

 今日のデート、楽しもうと思ってるよ。でも、今日は「演奏会に行こう」だとか「ショッピングに行こう」だとか、そういう自分の楽しみが主ではなくて、この前の失敗の埋め合わせのつもりなんだ。だから、ホストがわたしで先輩はゲスト。わたしが楽しませる側なのだ。

 そこんとこを加味すると、途端に見えなくなる。

 ショックだよ。わたし、先輩のこと全然わかってないじゃん。

 いつもどこで遊んでるのか、どういうものが好きなのか、って言うか今日も朝から駅前に出てたらしいけど、それだってどうしてなのかも知らないし。

 うーん……。休日に外出していたなら、何か理由があるはずだ。まさか地元であてもなくそのへんを散策していた、みたいなことでもないだろうし、そこを突破口にプランを決めようか。


「いままで何をしていたか?」


 お手洗いから出て早々、そんな質問をしたわたしに先輩はおうむ返しした。


「そういえば、前にも先輩、この時間帯に土曜出てましたよね。わたしが勘違いして学校に行っちゃった日のことなんですけど」(※2)

「ああ、そういえばそんなこともあったな」


 頷いた先輩は、なんの気負いもなく説明してくれる。


「土曜の朝はコーヒー片手に読書するって決めてるんだ。行きつけの店があるんだが、そこでモーニングをいただきながら、コーヒーを一杯お代わり。それで一冊消化すると決めてる」


 うへえ、突破口にならんかった。

 先輩@定刻人間に相応しい定期的なスケジューリングではあるけど、完全に手詰まりになっちゃった。せめて、何か買い物でもあるなら、そういうのに付き合うって感じでいけたんだけど……。


「そうでしたかー……」

「良い店だよ。自家焙煎のブレンドコーヒーは重すぎず軽すぎず、飲み疲れしない。君の家はコーヒー党だったよな。コーヒー豆も売ってるから良ければ使ってみるといい」

「ああ、紹介はありがたいんですけど、うちはちょっと消費量がゴイスーなんで……インスタントじゃないとエンゲル係数跳ね上がっちゃうんですよね」


 お酒を飲む人がいない代わりに、コーヒーでお金が飛んでるイメージである。うちはコーヒー飲む度に十円支払うってローカルルール(※3)があるんだけど、万いったときがあるだよね。みんなお休みの八月にさ。四、五人で一月千杯ってわけだけど、小銭を入れるインスタントの空き瓶が日々埋まっていく姿は、ちょっとしたホラーである。

 じゃなかった、ええと、どうしよう……。


「ん? どうかしたのか?」

「あ、いや、この後どうしたもんかなって。ごめんなさい、ホント、なんも考えてなくて」

「いや、おたがい突然だからな。それはしょうがない。君にはどこか行きたいところ、ないのか?」

「あ、えっと」


 そうではないのだ、と説明しようとして、少し頭をひねる私。埋め合わせなんてこっちの都合なんだし、そういう言い訳はいいよなあ。どう言ったものかな。


「その、前は先輩、付き合ってくれたじゃないですか。合唱ざんまい」

「そうだな」

「だから今回は先輩にお付き合いしようかなって、そう思うんですけど。先輩こそどこか行きたい場所とか、買いたい物とかあったりします?」

「なるほどね。そうきたか」


 首をかしげる先輩。

 いまさらだが、先輩の服装を眺める。先輩は前にも見た襟裏から小花柄が覗くシャツと、濃緑のスリムなカーゴパンツを着こなしている。靴紐がどことなくクラシカルな感じの革靴と、やや大振りなショルダーバッグ。わりとラフな休日スタイルなのに、どこかピシリとして見えるのは、先輩らしいよなあ。

 こうやって、相手の格好に目がいくのは落ち着いてきた証拠である。先輩の配慮のおかげでだいぶ落ち着いたよ。ありがたやありがたや。まあ、普通なら「トイレ行ってメイク直してこい」なんて提案、グーパンチものだろうけどね。

 わたしが観察を終える頃に、先輩は返答してくれた。


「実はないでもないんだが、先に食事でも取らないか?」

「あれ? 先輩はもう済ませたんですよね」

「君はまだだろ?」

「……あ」


 そういえば、目覚めのコーヒーすら飲んでない。そりゃそうか。そんな暇なかったしさ。

 いまさら気づいた私に、先輩は眉根を寄せた。


「その様子だと、まともに水分補給もしてないんじゃないか? 季節が季節だ。寝汗も掻く。下手したら熱中症で倒れるぞ」

「おっしゃるとおりです……」

「いや、責めてるわけじゃないんだが」


 ちょっと困った口振りの先輩。す、すいません。心配してくれてるのに、謝ってばっかでも困らせちゃうよね。


「とりあえず、どこか入ろうか。何が食べたい?」

「先輩に合わせます、って言いたいんですけど……でも、先輩もう食べちゃいましたもんね。先輩のお勧めの店ってありますか?」


 ホストが情けない話ではあるが、まだまだ昼営業にはほど遠い時間である。休日は惰眠をむさぼることを旨とするわたしには、店選びってちょっと荷が重い。


「なら、商店街にある喫茶店に行こうか。なかなか良いBLTサンドを出してくれる店なんだ」

「すいません、先輩に行ったり来たりさせちゃって」


 先輩の行きつけの店に行けるのは楽しみなんだけど、いったん出てまた同じ店に入るのって微妙だよなあ。なんか申し訳ない話である。


「……勘違いがあるかもしれないが、一応言っておくと行きつけの店とは違うからな?」

「マジですか」


 驚愕の事実である。頭の中でハイドンさんがティンパニーをバァーンとばかりにどや顔で響かせた。

 先輩、店知りすぎやで……。




 というわけで、喫茶店である。

 専門店のコーヒーって、もうね、風味が違うよね。ふくよかでさ、苦みも酸味も甘味も、どれも芳醇だよね。一口ごとに味わい深い。これ絶対、冷めても美味しいよね。

 うええ、こりゃあインスタントで満足できなくなりそうだ。


「美味いですね、コーヒー」

「コーヒーのマズい喫茶店に人を連れていけるか」


 ごもっともです。

 先輩ご紹介のお店は、まさに純喫茶。有閑ご隠居さん方が集いそうな、歴史ありそーな喫茶店である。やや手狭な店内に、わりとキツキツに置かれた角テーブル。どれも二人席ばかりだ。わたしも先輩と真向かって座ってる。


「それに、デートだしな」


 ふと思いついたように付け加える先輩に、わたしは呆気にとられて、次の瞬間顔がカッと熱くなった。


「それなりの店に連れて行くのが男の甲斐性ってものだろう」


 本当に、あっさりと言うなあ。わたし、耳まで真っ赤なんだけど……。

 デート、デートかあ。そうなんだよ、いま、わたしデートしてたんだ。いつも本で読んで「ふーん。楽しそうだね」と超他人事だったデートだよ。マジか、デートしてるのかわたし。

 いまさらになって実感がふつふつと湧いてきた。


「うん? お気に召さなかったか?」

「あ、いえ、違います……美味しいですよ」


 声がかすれて、それがことさら恥ずかしく思えて、わたしはコーヒーを飲んでごまかした。うん、先輩、やめてよね、こんな良い店連れてくんの。インスタントの姿がかすんできたよ……。

 一緒に頼んだBLTサンドもとっても美味しい。パリッとトーストしてあるんだけど、間のトマトの冷たさとのアンバランスが口の中で一つの調和を取っている。じんわり広がるベーコンの上品な旨み。それを柔らかく受け止める卵のふくよかさ。うめぇ。BLTサンドん中じゃあ、人生でダントツ一位にうめぇです。

 でも、大口開けて食べるのが恥ずかしくって恥ずかしくって。先輩があんなこと言うもんだから……ちょびちょび食べてます。リスかわたしは。

 そんなわたしの様子をゆっくり眺めながら(まるで公園で走り回る子供をほほえましく眺めているご老人のような目だった)、先輩は口を開いた。


「この後だが、実は買い物の予定があってな。君もああ言ってくれたことだし、悪いが付き合ってくれるか?」

「あ、はい。もちろんです。なんの買い物ですか?」

「靴と帽子と、靴下とコップと懐中電灯と、あとガスボンベだな」


 え? ええ?


「店が開くまで喫茶店で過ごすつもりだったが、もうすぐ開店時間だ。君が来てくれたタイミングはちょうど良かったよ」

「あ、あのー、すいません。なんの買い物なんですか、それ」

「山登りのための物だが」


 相変わらずあっさりと答えてくれる。は、はあ、山登りですか。


「おじさんに誘われてね。今回はそこそこの山に挑戦するってことで、改めていくつか買い揃えることになったんだ」

「今回ってことは、いままでにも登ってたんですか?」

「そうだな。今年はおじさんと二人だが、都合がつけば父親も参加するし、都合がつけば妹も引っ張って連れて行かれる」

「妹さんだけ強制感ハンパないですね……」

「あいつ、ど真ん中でインドア派だから」


 うわあ、なにその罰ゲームみたいな強制イベント。男の足に合わせなきゃなんないインドアな女の子って、すごくかわいそう。


「あれ? でも先輩の妹さんって、あっちこっち先輩と行ってるんですよね?」

「インドア趣味の範囲でな」


 明快な返答なのに、もやっとした答えである。突っ込んでみたいところだけど、いや、まあ、見ず知らずの先輩の妹さんのことに詳しくなってもなあ。

 先輩ってば真面目だから、たぶんプライベート的なことに気をつかって言葉を濁してるんだろうしね。わたしの合唱もそうだけど、いまいち人には言いづらい趣味ってあるし。

 それにしても。


「いや。にしても、先輩が山登り趣味だったとは。意外です」

「楽しいぞ。電車移動では読書。山登りでは黙々と歩いて、頂上でも読書。頂上でコーヒー片手の読書は格別だ」

「あ、読書はやるんですね」


 さすがの読書狂である。先輩ってば、(わたしが)読むの早いってこの前引いてたけど、先輩の四六時中読書もたいがいじゃないかなってわたし思うんだ。


「でも、黙々歩くだけですかー。その楽しさ、わかんないなあ」

「君は読書をしているとき、とにかく次のページへ急ぐ気持ちになったことはないか? 展開に引き込まれて、他の何も気にならない。出先なら、周りの会話も物音もBGMも途絶えて、ただ本の世界にあって、せき立てられるようにページをめくるような」

「ああ、よくありますね、それ」


 没頭しているときは、自分でも引くくらい早い。しかも途切れない。先輩の貸してくれた「GS」なんかがまさにそうで、ほとんど一日二日で読破している。


「山登りも同じなんだ。山を登っているときには次の一歩しかない。この段差はどこを踏んで行けば安全か。あそこはぬかるんでるから気をつけよう。次へ次へ。ふと見返すと、自分が歩いた距離に気づく。百や二百のページを読んでいたときのような驚きがある」

「うーん。なるほど。それならちょっとわかるような」

「その無心さがなんと言うかな、愛おしいんだ」

「い、愛おしいっすか」

「おいおい。表現をあげつらわないでくれ」


 あ、先輩が顔を赤くしてるとこ、久々に見たぞ。

 そんなわたしをたしなめた先輩は、気を取り直して話を続ける。


「でもね、あの無心さが本当に好きなんだ。風景も楽しむし、あの冴えた空気も好きだ。汗を冷やす風なんて格別だよ。でも、何より、あの何もない時間が美しい。登頂するために歩いてるんじゃない。歩いているときは、ただ、歩くためだけに歩いてる」

「はあ、なんか仏教めいたお話ですね」


 鉄鼠さんを思い出すわたし。


「似たようなもんだろうな。座禅をしたがる精神に近いとは思うよ。座禅で精神修養なんて言ったら京極堂のお叱りを受けるだろうが」(※4)


 あ、なんかシンクロだ。シンクロ。わたしもそれちょうど思い出したよ。やっぱりわたしと先輩のシンクロ率は高いんだ。おー、テンション上がってきたぞー。


「まあ、もちろんこれは個人的な見解だよ。まったくの初心者の見解だ。山岳会に所属するようなきちんとした方とは違っているだろう。そもそも山登りに求めるものはそれぞれ違うだろうしな。野鳥の姿や声を求めてるかもしれないし、樹氷を見に行く人もいるだろう」

「じゅひょー?」

「ああ、木を雪が覆って、一つの固まりになるんだ。それで、樹の氷と書いて樹氷。蔵王あたりが特に有名なんだが、あれは凄いな。木々が彫刻の立ち並んだ美術館みたいになる。英語では“snow monster”なんて言うそうだぞ」

「うへえ、モンスターですか。やっぱりおどろおどろしいフォルムなんですかね」

「なんかモコモコしてるけどな。NHKで見たかぎりでは、なかなか壮観だぞ。上空からの引きの絵なんて実際には見られんわけだが」


 なるほど、伝聞系だなーと思ったら、先輩もテレビで見ただけってわけなんだね。

 うーむ。先輩のこと知らないなーと地味にショックを受けたスタートだったわけだけど、のっけから先輩の知らないところを知れているな。これは良い滑り出しだ。

 なんだろうか、わくわくしてきた。


「じゃあ、とりあえず午前中は防寒対策の買い物ですね!」

「……今度の登山は樹氷を見に行くわけじゃないからな?」


 あ。そうでした。



 わたしによる、ネタ・元ネタ解説


※1

 「野生爆弾」という関西の芸人コンビのロッシという天然さんの話である。


※2

 くわしくは番外1を参照しないでください。

 お願いします、ただでさえ失敗の多い今日なんだから、過去の失敗まで掘り起こさないで……。


※3

 母親いわく、「王様のレストラン」なる昔のドラマが元ネタらしい。

 経営危機を乗り切るためにいろいろ経営の方が帳尻合わせを考えて、その一つが休憩用のコーヒーの有料化だったとか。


※4

 京極夏彦さんの「京極堂」シリーズのことをネタにしている。

 このネタに詳しいのは「鉄鼠の檻」かな。どうでもいい話だが、うちの母の顔面をスマッシュヒットした巻である。


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