14.オノマトペ
【文字数】
9000字ほど
【作者コメント】
オノマトペというのは、擬音語と擬態語を総称した言葉です。
オノマトペについては平凡社の「オノマトペがあるから日本語は楽しい」(小野正弘・著)という新書がお勧めです。単純に読み物としても面白いですし、ライトな書き方で読みやすいので、興味のある方はどうぞ。
【目次】
0.承前
1.擬音語と擬態語について
2.その用法について
0.
先日、先輩とデートもどきをしたんだけど、そのときは話に夢中で結局わたしおすすめの合唱曲を聴かせる機会があんまりなかったんだ。わたしってば、お間抜けさんだよね。
というわけで、先輩にはちょいと一曲聴かせてみよう、と今日はiPod先生にご同道願った次第である。
「つまり、これから聴くのが、君が言うところの飛び道具でない名曲と言うことか」
「あ」
あ、しまった、そういう話してたんだっけ。やばい、普通に忘れてた。
「……もしや、これも飛び道具系の曲ということか? 剣や槍じゃなくて手裏剣のような」
「もうちょっとごつい曲ですね。モーニングスターとか鎖鎌みたいな感じでしょうか」
「……もっと嫌な気がしてきたんだが」
失敬な。ちょっと特殊な手法込みで書かれた曲だけど、たいしたことない。ちょっと合いの手が入ったりするくらいだ。宗教曲なのにエッサホイサ言ってるくらいだよ。
「まあ、聴いてみてくださいよ。三曲、十五分くらいの曲ですんで。文句は後から聞きます」
「まあ、それくらいならいいか」
先輩はうなずき、わたしから借りたイヤホンを付ける。
わたしも分配コードに繋いだイヤホンを付ける。わたしも聴くのかって? そりゃ聴くでしょ。
……あ、そうだった。
「あ、イヤホンしか持ってきてないんで、ごめんなさい。先輩は他人のイヤホン、嫌だったりしません? 大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫だが、君の方こそ人に貸したりして気にならないか?」
「兄にも貸しますし、別にそのへんは」
気にならないところである。
下の兄なんてわざわざ人の物を借りたあげく、「低音が弱いな」なんて文句付けるぐらいだ。仕方ないじゃん、合唱って低音強いの買っても意味ないんだし。ドンシャリとかお断りです。
「でも、先輩には良いイヤホンの方をお貸ししてますんで、大事に扱ってくださいね」
にこやかに、半分冗談めかして言ったが、半分はマジである。大枚叩いて買ったイヤホンが断線したときは、わりと本気で泣けるものだ。万単位で修理費が飛ぶし。
「……試みに問うが、これ、いくらなんだ?」
「気にしないでください。型落ちしてから買いましたし」
「いや、だから……いや、聞かない方がいいのか……?」
そうですね、とわたしはうなずいた。
人によっては、福沢諭吉さんたちが連れだって消えると聞いたら引くかもしれないし。
「では、お聴きください。詩はラテン語典礼文から、作曲は千原英喜先生による『Dixit et Magnificat』。演奏は日本が世界に誇る男声合唱団、なにわコラリアーズです」
ラテン語で展開される宗教的世界観と日本の土俗性のハイブリッドをお楽しみください。
以下、ダイジェストで先輩のひとりごとをお伝えします。
「おや、思ったよりは普通な気が」
「悪くないじゃないか」
「あ」
「あー……」
「エッサ、ホイサ……?」
「なぜ巻き舌……?」
1.
なんとも言いづらそうな顔のまま、先輩は「というわけで」と意味不明な前置きをした。
「今日はオノマトペの話をしようか」
「先輩、オノマトペってなんなんですか?」
「ワンワン、ニャーニャーやドキドキハラハラみたいな、擬音語と擬態語を意味する言葉だな」
「ああ、擬音祭りってやつですか」(※1)
「祇園祭り?」
違います。擬音祭りです。
そういう名前のコーナーが、その昔、深夜番組であったのだとか。昔、うちのおじさんが正月にビデオで(ビデオで!)見せてくれたんだよなあ。変に記憶に残ってるんだよ。
「君は本当に変なネタを知ってるな……まあ、それはいい。オノマトペは擬音語にせよ、擬態語にせよ、状態や状況を形容するのにピタリとはまる表現が多い。使いこなせると便利だろう」
「オノマトペって、ちょっとイメージ湧かないですけど、具体的にはどんな感じのことを先輩は言ってるんですか?」
「たとえば、そうだな……太陽が燦々と輝く、雪がシンシンと降り積もる。どちらも擬態語だが、どんな様子かはっきりとイメージできるんじゃないか?」
「あ、確かに」
燦々と輝くと言われて、曇りがちの空は想像できない。真っ青な空にギラギラと輝く太陽だ。
また、シンシンと言われて、横殴りの大雪は想像しがたい。雪が長く降り続き、静かに降り積もる中、お地蔵さんがお礼にやってくるような。そういう「傘立て地蔵」的な世界が見える。
「しっとりとした手触り、まじまじと見つめる、かぷかぷ笑う……日本語の文章を豊かにしてくれる表現だよ、オノマトペは」
「ちょっと宮沢賢治混ざってますよ」
「混ざったら悪いのか?」
「いや、悪くはないですけど」
クラムボン、季節外れに笑っちゃいましたね。
「まあ、こういう異例な表現もあるが、しっとりとした手触りと言うと絹のような滑りの良い物を想像する。この『想像する』という部分が大事だな。どんな物か想像させる。それだけで物語はグッと身近になる」
「ああ、具体的なイメージが湧くシーンって、印象に残りますよね」
わたしが一つうなずくと、先輩は一本指を立てて話を押し進めた。
「小説では、五感に訴える文章というのが大事なのだそうだ。視覚的な情報でも日差しや色彩の鮮やかさが大事になってくるし、ニオイや温度、音も大事だ。そして、味覚と触感。この味覚と触感は特に、オノマトペと大きく関わるものだと思うよ」
「シャッキリポンと舌の上で踊っちゃったりするわけですね」(※2)
「それは特殊すぎるだろ」
すいません。確かに特殊すぎました。
「音は、聞こえたとおり表せばいい。色も何色かを明示すればイメージできる。ニオイは具体的な何か、たとえば柑橘系の甘い匂いだとか、そうした具体名を出すべきだろう。ただ、触感と味の方の食感は説明が難しい。ここは特にオノマトペのお世話になるんじゃないかな?」
「確かに、せっかく専門店で美味しいカレーを一緒に食べてるのに、相方が『ナニこれ、ココイチより全然美味しいじゃん!』って言ってるんじゃあ何とも言えないですよね」
「ココイチ叩きはやめようか」
「あ、すいません」
二連続すいませんである。ファストフードを例えに出すなって言いたかっただけなんだけど、立て続けにツッコまれて、ちょっと反省するわたし。
ホテルで2000円のバーガー食ったときに「マックと全然違う!」って言うのはどうなのよ、って例えの方が良かったかなあ。いや、変わんないか。
「まあ、言いたいことは伝わったと思う。五感に訴える文章を書くとき、オノマトペはとても大事な表現だ」
「使いこなせた方が良い小説になると、そういうわけですね」
「そうそう。物の本によると、三島由紀夫なんかは擬音語をかなり否定的に言っていたらしいんだが、そうしたポリシーの問題はまた個人個人で考えればいいことだろう」
三島さんがね。うーん、三島さんは読んだことないからどういうポリシーに基づいているかよくわかんないんだけど。
「では、オノマトペについて、擬音語と擬態語を分けて見ていこうか」
そう言って先輩は板書を始めた。大書きした「オノマトペ」と、その下に傍点を打って「擬音語」と「擬態語」。
「ここまでの話で気づいたかもしれないが、この話題で出している例では『擬態語』が多い」
「あれ? ……ああ、そうですね」
擬音語というと、豚がブーブー鳴いたとか、そういうのか。確かにあんまり例に出てなかったような。
「三島由紀夫も擬音語を強く否定していたが、確かに擬音語はやや幼く感じられる表現ではある」
「ああ、そうですよね。赤ちゃん言葉みたいですもんね」
ブーブー、ワンワン、と聞くと、やっぱり子供が喋っている言葉って印象は拭えないだろう。シリアスなシーンでは一気に脱力してしまいそうだ。
「こうした表現は直接的で、詩情を殺いでしまうこともある。それ自体が強い力を持っていると言っていいかな。かの高名な『ジョジョ』のキスシーンでの擬音などまさにそうだろう」
「ああ、ズキュウウウンですか」
「そう。あんなもの、青春真っ盛りの淡い恋物語で、エンディングに挿入されたら余韻も何もあったもんじゃない。読後感はもうすべて『ズキュウウウン』だ。むしろそれまでの物語が、ここでの落としのためにあったんじゃないかと思うくらいじゃないかな」
話題騒然になりそうな結末である。
「ただ、その反面、擬音語はどんな音が鳴ってるのかはっきり示すことができる。たとえばお寺で鐘を突いたとして、軽くゴンなのか、強く打ってゴンーなのか、深く響いてゴーンなのか、それでだいぶ雰囲気が変わるだろう」
「犬の鳴き声だって、ワンワンなのか、ウウーなのかでだいぶ違いますもんね」
「そうだな。それをすべて地の文で説明するとなると、長々とどうでもいいことを書き連ねることにもなりかねない。それを一言、ゴーンと響いたと書いて済むなら、それで構わないところもあるに違いない」
うーん、先輩、慎重に話を進めてるなあ。
これはつまり、いつものアレか。
「つまり、上手く使えと先輩は言いたいわけですよね」
「その通り」
力強くうなずいた先輩は、板書を書き足した。「多用は避ける」。
「特に多用は避けるべきだな。確か、田中芳樹が小説内で登場人物にそんなツッコミをさせていたが(※3)、擬音語ばかりというのは気になるところだ。多すぎると目に余る。必要なところにそっと置けば、グダグダ説明せずにシーンを描ける。良いツールだと思うよ、擬音語自体は」
ああ、わかるなあ。合唱曲でも結構あるんだよね。
たとえば、千原英喜先生の「東海道中膝栗毛」の冒頭は、鐘の鳴る音が歌われている。ピアノ(弱く、を意味する音楽記号の方ね)で歌われる「ゴン、オオン」という響きは、弥次喜多の二人の旅立ちがしめやかな夜深く、七つ立ちの鐘の音の鳴る頃(午前四時)にひっそり行われたことを示している。
ヴォカリーゼとともに歌われるこの冒頭は、彼らの旅立ちを暗示するとともに、組曲の始まりをすっと示してくれる。鐘の音だからこそシンプルに示せる。ぐだぐだ、七つ立ちがうんちゃらと歌い始められるより、よっぽどわかりやすい。
「先輩の意見はわかりました。上手く使えば効果的なんですね」
「考え込んでいる間に、君の中でどう処理されたかは見当つきかねるけど、理解してくれて嬉しいよ」
あ、じゃあまた今度聞かせないと。「東海道中膝栗毛」は徳川家康の辞世の句がいきなり飛び出したりと、なんじゃそらな楽しい曲なのだ。
「さて、次は擬態語だな。こちらはもう、小説には必要不可欠だと言って過言じゃない」
「擬音語以上に重要であると」
「そう。たとえば、そうだな」
先輩はわたしの前に来て、手に持ったマジックを差し出してきた。あ、受け取ればいいんですか?
「ああ、取らなくていいよ。たとえば、これを『そっと差し出した』と表現したとしよう」
「はい」
「それを、『そっと』という擬態語を使わないで説明できるか?」
おお? これはなかなか難題である。
つまり「そっと」という表現の意味を上手く言い換えればいいんだろうけど、なんだろ、だって「そっと」は「そっと」だもんなあ。
「ゆっくり、じゃあ意味が違っちゃいますし……うーん」
「ゆっくりも擬態語だしな」
「ええ? これも禁止なんですか? じゃあ、そうだなあ、何気ない様子で、くらいでどうでしょうか」
「おお、悪くない表現だな」
先輩はホワイトボードの前に立つと、「そっと→何気ない様子で」と板書をした。おお、採用された。これは嬉しい。
「悪くないが、ただ、君もわかるだろうけど、『そっと』と『何気ない様子で』ではニュアンスが違うよな」
「そうですよね」
せいぜい、類義語ってところである。
「仮にまったく同じ意味だったとしても、明らかに『そっと』の方が短い表現だ。シンプルに説明できているし、なんというかな、差し出す素振りにある種の雰囲気もある」
「そうですよね。絶対、がさつな感じじゃないですもんね」
「何気ない様子で」と言うと逆にわざとらしさを感じてしまう。そのわざとらしさすらない「そっと」という表現を言い換えるのは、本当に難しい。
先輩は席に戻ると、例を追加した。
「あるいは『星がキラキラ光る』でもいいな。この擬態語のニュアンスを正確に説明しようとすると、一行じゃ絶対に無理だろう」
「確かに。この単語だけで、多くの情報を含んでますよね」
「小説には無駄なことを書いている余裕なんてない。これは先日も話題に出した『売れる作家の全技術』に書いてあったことなんだが、日本の小説というのは水墨画の世界で、不要な表現をどんどん削ってシンプルにしていく表現技法なのだそうだ。シンプルこそを美とする文化だな」
「んん? そうですか? 細やかな表現に感じ入ることって結構あると思うんですけど」
わたしの反問に、先輩はぱたぱたと手を振った。
「いや、もちろんそういうことはあるよ。ただ、そうだな。その細やかな表現は闇雲に説明されたものではなくて、洗練されて必要なことだけが書いてあるからこそ美しい表現だと思うんだ。たとえば、川端康成の『雪国』の冒頭を思い出してくれないか?」
「はいはい、あの有名な」
「そう、あの有名な冒頭を『どこどこ地方の気候がうんちゃらで、そうした温暖な地域を一山越えた先は日本海から吹く風が山にぶつかって雪を降らせる、そんな豪雪地方らしい雪景色だった』と書いたら美しい文に思えるか?」
「いえ、ちっとも思いません」
なにその説明。邪魔すぎる。あの一文だけで十分だ。
わたしの返事を聞いて、先輩は頷き、結論をまとめた。
「必要なことを必要なだけ書く。それが日本の小説の作法だ。オノマトペはそうした日本的な文章作法に即した重要な表現だから、適切な表現が選べるようにアンテナを張っておくべきだな。使いこなせれば、物語の質がグッと上がると思うよ」
「さっき聴いた『Maginificat』みたいに使いこなしてみろ、ってわけですね」
「あれはもう、掛け声ありきだろ……」
2.
もう結論も出たし、これにて一件落着かと思ったらそうでもないらしい。
「使いこなせるようになった方がいいよ、だけでおしまいではマズいだろ。どう使うか、についても触れないとな」
「具体的に見ていくんですか?」
そうなると、あのオノマトペはこの場面で使おう、なんて際限なくなっちゃいそうだけど。
そんなわたしの疑問に、先輩は「いやいや」と応えた。
「個別には見ないよ。ただ、使うときに三種類くらいの使い方があると思うんだ」
「と言いますと」
「カッコに入れて使うか、地の文で独立して使うか、地の文に混ぜて使うか、だな」
ハテナマークだらけのわたしに、先輩は例示して説明してくれた。
「そうだな、木が倒れたとしよう。『ズシンと音を立ててその木は倒れた』と地の文で書くパターン。『ズシン』、改行して別の行に『その木は倒れた』と書くパターン。で、さらにその『ズシン』にカッコを付けるパターンだな」
えーつまり、こういうことか。わたしは脳内で整理する。
【ズシンと音を立ててその木は倒れた。】
【ズシン!
その木は倒れた】
【「ズシン!」
その木は倒れた。】
ふむふむ。使い方としてはわかった。
「これって使い分けの仕方があるんですか?」
「さて、その辺は作家じゃないからな。正直、わかりかねるよ。どういう風に見えるか各々が検討して使い分けるべきだな」
ええー、そんな無責任な。
「ただ、個人的には、地の文に織り交ぜて書いた方が良いと思うよ」
「あ、先輩個人の意見はあるんですね」
「そりゃあね」
前言撤回、無責任というか、先輩は責任を取りかねるからああ言ったんだな。そりゃそうか。どう書くべきかなんて、国語学のお偉いさんでもないのに断言できないもんなあ。
「こうした擬音語をあんまり別に分けて、目立つようにして書くのはどうも体裁がよろしくない。たとえば、恋愛物で主人公が恋を自覚したシーンがあったとしよう。そこでわざわざ空行まで置いて『キュン』とかときめいた感じの擬態語を入れるのは微妙じゃないか?」
「あー……果てしなく微妙ですね」
読んでるこっちが恥ずかしくなりそうだ。
「あるいは、バトル物で剣戟(けんげき)、剣と剣の戦いがあったとして、カッコ書きして『キン、キキキン』とか書かれてたらどうだろう?」
「うわ、それも微妙です」
これまた、なんとも幼い感じを受ける。
「その音がどんな状況で鳴ったのか、きちんと地の文に織り交ぜて書いた方がわかりやすいと思う。それに、あくまでオノマトペは文章を豊かにするパーツに過ぎない。主役じゃないんだ。台詞と同格に扱ってカッコを付けたりするのはどうかと思うんだよ」
「なるほど。先輩の意見はわかります」
わたしはうなずいた。キラキラ光るのであって、「キラキラ、星がきらめいた」と独立して使うものじゃないよね。オノマトペはあくまで形容表現なんだ。
先輩は「ただし」と、一本指を示して但し書きを付ける。
「どうしてもその音を強調したいなら、読点を使って分けてみてもいいとは思うよ」
「とうてん?」
「ああ、カンマのことだ。たとえば、そうだな、『ビュウビュウと、風が強く吹いていた』なんて感じかな」
先輩が例を板書してくれる。ふむふむ。
「これって句点でも、場合によっては良いんじゃないですか?」
「句点ね。どうだろう。ちょっと検討してなかったが」
先輩は一考して「悪くないな」と頷いた。
「すぐにはどんな使い方をするか思いつかないが、悪くないと思うよ。それだけ強調したいなら、さっき言ったように改行しても構わないかもしれない」
「あー、それくらい大事なオノマトペなら、ですか……ちょっと難しいですかね」
「いや、そうでもないとは思うが。ああ、そうだ。たとえばバイクや車を扱った小説があったとして、そのエンジン音を強調して書くのはアリじゃないか? ああした音は、特に重要になるだろうから」
「おお、なるほど」
もはや四次元ポケット並になんでも出てくる先輩の例えなのであった。いや、本当にすごいな。即興で出せるんだ。っていうか、即興で出してるんだ。わたし、事前にメモっとかないと無理なんだけど……。
「あと、もう一つ。オノマトペはカタカナで書くことが多いが、ひらがなで書いてもいいな。また違った雰囲気が演出できる」
「ああ、それはそうですね」
「きらきらなんて良い例だな。カタカナなら結構強い光に感じるが、ひらがななら少し柔らかく感じる」
先輩が板書した「きらきら」と「キラキラ」を見比べる。
うーん、確かに、カタカナは水面に陽の光が跳ね返っているような、乱反射するようなまばゆい輝きが感じられる。でも、ひらがなだと夜空の星みたいな、そこまで強烈じゃない光に思えるよなあ。
「こちらの方がより重要なポイントだろう。ちなみにきらきらは漢字でも書けるな」
「あれ、そうなんですか?」
先輩が板書してくれる。ええ、「煌々」って書くの? いやいや、使わないから、こんな難しいの。
「これはちょっと使わないかもしれないが、最初に出した『燦々』は使うんじゃないかな。歌のタイトルにも使われてるくらいだし」
「そんなのありましたっけ?」
「美空ひばりの曲だよ」
「あ。なるほど、『愛燦燦』ですか」
「そう、それだ」
しまった。ラッキー問題じゃないか。
美空ひばりさんは合唱編曲でも人気があるし、信長貴富さんの編曲で、わたし、この前演奏会で聴いたよ。しまったなあ、これは悔しい。
「漢字で使うのはさすがに難しいと思うが、カタカナとひらがなの使い分けはできるといいな。このへんのニュアンスの違いは専門家の方が詳しく調べているだろうし、そうした専門書を洗ってみてもいいとは思うが、自分の感性に従って自由にやってみてもいいと思うよ」
「人それぞれ、感じ方には差がありますしね」
「そう。むしろ自分の感じ方を読者に植え付けるくらいのつもりでやってもいい」
力強く言ってのけた先輩は、話をまとめた。
「オノマトペには、新しい言葉を受け入れるだけの懐の深さがある。自分なりの表現を使えたなら、それはその人のオリジナルとして持ち味になるだろう。前回の特殊な表現のときにも言ったが、そうした挑戦はどんどんやってみるべきだと思うよ」
「そんな風に言うわりには、先輩、千原先生の合唱曲に当たり厳しいですよね」
「正直な意見を言ってるだけなんだけどな。今日の曲は好みじゃなかった。それが答えだよ」
千原先生の曲に厳しい先輩なのであった。
ううむ、先輩の反応をつぶさに見ていると、そこまで相性が悪いわけじゃなさそうなんだよな。
これはもう、前言撤回させちゃうくらいに良い曲を紹介するしかないか。次こそは頑張らねば。定番のあの曲でもぶつけてみるかなあ。あの曲、思い入れあるからちょっとそんな気軽には扱いづらいんだけど……。
わたしのよるネタ・元ネタ解説
※1
関西ローカルで放映されていた「最後の晩餐」というテレビ番組の一コーナーらしい。
出題テーマを擬音語だけで説明して、回答者がそれが何かを答えるというクイズのコーナーである。
出演者がまたね、笑福亭鶴瓶、キダ・タロー、浜村淳、中島らも。狙いどころがはっきりしたメンバーである。いまどき、ここまで華のないメンバーは深夜でも絶対無理でしょ……。
※2
グルメ漫画「美味しんぼ」でヒラメを食べたときのリアクションに使われたオノマトペである。
有名なネタで、よく見かける表現だが、意味はよくわからない。
※3
先輩によると、薬師寺涼子シリーズの最初の「摩天楼」で出てくるらしい。
先輩、否定的なニュアンスでこの作家さんの名前を出すわりに、結構読んでるよね。イヤよイヤよも好きの内なのだろうか。




