番外2.今日 (前編)
【文字数】
前後編合わせて、30000字ほど
前編は14000字ほど
【作者コメント】
番外シリーズは、本作の主題からは外れているので読む必要はあまりありません。
ストーリーを追う方以外はスルー推奨です。オタク談義がハンパないです。ごめんなさい。ストーリー的にも、0~1と4だけ読めばつながりますんで……。
【目次】
0.待ち合わせるわたし
1.ことの起こりについて
2.先輩がカラオケでしごかれた話
0.
花の休日、日曜日。
うきうきわくわく、浮き立つ気持ちでわたしは駅前で待ち合わせていた。(※1)
お気に入りの合唱団の演奏会でもないってのに、こんなに心浮かれてるだなんて、久しくない出来事である。それくらい、うきうきなのだ。わくわくなのだ。
もうね、待ち合わせの三十分前に来ちゃったんだよ。えへへ、なんかドラマみたいなノリだなあ。実際、三十分も待つのってなかなかな話である。でも、わたし待っちゃうよ。いつまでも待っちゃうよ。(※2)
いやいや、先輩がいつまでも待たせるだなんて、そんなの思っちゃいないけどさ。
わたしもたいがい時間に厳しい方なんだけど、先輩はもはやそうプログラミングされてるロボットレベル。定刻人間というあだ名(命名はわたし)にふさわしい人である。
でもね、うふふ、わたしは今日早くから来てこうやって待ってて、でも待ってるのでさえ楽しいんだよ。ここに来るまでも楽しかったし、昨日は寝る直前まで楽しみだった。一昨日もだ。まあ、寝付きいいもんだから、即行で眠っちゃったけどね。一昨日なんて寝不足もいいとこだったし。
一昨日、つまりは金曜なんだけども、あの日の晩飯なんて、母親に不気味がられるほどに上機嫌だったくらいだ。いやあ、今日が楽しみだったのもあるけど、一昨日はなんとか古典部で話もこなせたわけだしね。
一仕事終えた後の麦茶は美味い。わたしは勝利の美酒を……んん? 美酒じゃあない? まあとにかく、そんな感じのブツを堪能したもんだったよ。
その気分は、いまのいままで続いてる。鼻歌だって出ちゃいそうな勢いだ。何がいいかな。先日を引きずって、ヘンデルさんでもいいな。今日の気分なら荻久保和明さんの「やさしさの日」(※3)でもいいな。
フフフーンと歌い出せば、もうね、最高にハイってやつですよ……あ、しまった、先輩に叱られちゃうよ、読んでない漫画のネタを使うとすっごく怒るんだよな、先輩。
まあいいや。上機嫌なわたしに敵はいない。当たる所敵無し、敵無しなんですよ。まあ、それなら最期は自刎しなきゃいけないわけですが。(※4)
そんな具合にアホなことを考えていたわたしは、季節外れの「紫陽花」を歌いきったあたりで(組曲「やさしさの日」の二曲目である)、肩を叩かれた。
「早いな、君は」
「いや、先輩も十分早いですよ」
腕時計に目をやれば、まだまだ二十分前。上機嫌なうちに十分が過ぎてる。いやあ、楽しいことは早いなあ。
「待たせて悪かったな」
「いえいえ。そうだ、ここは一つ、デート的なお約束に従って、『いま来たところだから』って応えておきましょうか?」
「君はそうやってすぐ茶化す。まあいい、ではテイクツーいってみるか」
あ、やるんだ。いいね、今日は先輩ったらノリいいよ。
「待たせて悪かったな」
「ううん、いま来たところだから」
かわい子ぶりっ子で少しはにかみながら上目遣いまで入れてみる。うわー、うざいうざい。寒イボ出るわー。初夏なのに寒イボ出ちゃうわー。
先輩の顔が軽くひきつってる。ポーカーフェイス崩れてるよー。それでも話を続ける先輩はさすがだけど。
「……ここは、やっぱり、服装を誉める流れにつなげるべきかな」
「そっちもいっちゃいましょうか。あ、でも、これホントの話、今日は初物ばっかなんですよ、初物」
「カツオじゃあるまいし」
と返しながら、まじまじと見てくる先輩。いやあ、さすがにそこまで見られちゃいますと、「いやん」とか茶化すまでもなく普通に恥ずかしいです。
「まあ、うん、普通に似合ってるぞ。白、似合うんだな」
「おー、ありがとうございます」
普通に誉められて、普通に嬉しいわたし。普通にってなんだよ、なんてツッコミは無粋なのでやめておきましょうか。
マキシ丈の白ワンピにデニム地のトップスを羽織り、カンカン帽子、装飾の少ないシンプルなサンダル。うん、外しようのない夏鉄板のコーデである。これで外してたら嫌だよなあ。着られないよ。
しかし、普通じゃない似合い方ってどんな感じなんだろ。オーバーオール着たらどう見てもマリオだったりしちゃう感じなんだろうか。
「しかし、わざわざ新調したのか?」
「いやあ、さすがにそこまでは。って言うか、昨日の今日、じゃない。一昨日の昨日の今日ですから」
「それもそうか」
納得する先輩。夏物は別途買いました。でも、演奏会用に置いてたピンサラのこいつらを、気合い入ってる今日着てきたのはホントのとこだけど。
先輩は、それこそフツーの格好。やや暗めの水色のカジュアルシャツと、ブラックジーンズ。革靴。気軽な休日といった感じのシンプルなスタイルだ。
「先輩は……そこまで気合い入ってない感じ?」
「君ほどじゃないだろうな」
肩をすくめる先輩に、わたしはふくれて見せた。始まりが始まりだし、今日はぶりっ子路線でいってみようと思う。
「わたし、昨日は楽しみで眠れない気がして、目をつむってから二十秒くらいどきどきしてたんですからね!」
「二十秒で寝たなら、十分だろ」
「テンション低いですよ! そこは『すぐ寝とるやないか!』と突っ込むところです!」
「君はテンション高すぎだろ……あと、たまに出る関西弁はなんなんだ……」
いやあ、おじさんが関西在住でして。
そんなこんなでてんやわんやしながら、今日は始まった。
いやあ、楽しみだ。なんせ今日は、先輩と二人っきり。
二人っきりで、思いっきり合唱ざんまいな日なのだから。
1.
話はさかのぼること、二日。まあ、要は一昨日、先輩に古典部での件で、ファミレスでおごってもらっていたときの話だ――。
「もうダメです。ダメダメです。どうせわたしはネット小説歴一ヶ月のペーペーですよ……」
「紅茶で酔うなよ」
先輩の冷たくも的確なツッコミに、わたしはうなだれた。まだお腹が鳴ったのを気にしててね、照れ隠しにアイスティーがぶ飲みしたら、なぜか気落ちした。これ、酔ってるのかなあ。
話は結論まで考えてなかったし、先輩は冷たいし、なんか携帯見ちゃってるし、わたしってばなんて悲劇の女……なんて気分だけ小芝居を打っていたら、先輩が携帯を見せてくる。
「すまん。紅茶って酔うらしい」
「およ。調べてたんですか」
「ああ」
相変わらず真面目な人である。
ふむふむ、紅茶の飲み過ぎは気分が悪くなったりすることもあると。胃が弱い人がなるのか? わたしは胃が強い方だと思うけど……ああ、今日は特別弱ってたか。空きっ腹にコーヒー、ガボガボ入れたもんなあ。
「ドリンクだけと言わずに、食事も取ろう。このままじゃ、胃を悪くするって。付き合うから。な、遠慮せずに食うといい」
「でも、毎回おごらせてるのって、どうかなあって」
わたしはそういうの、気になるんだよね。
母親からは「同じ学生同士なら財布の中身くらい想像がつくでしょ。男だからおごってくれて当然なんて思ってたら、そんなの、人間としての尊厳に関わるわよ」とか恐ろしいことを言われているので、ちょっとしたトラウマである。尊厳て。
まあ、実際、わたし自身も趣味のために辛抱しながら生活してるし、兄らを見ていても、おごってもらって当然ってのはちょっと思えない。大学生の下の兄なんか、実家暮らしなのにピーピーしてるし。
そりゃ、先輩はバイトしてるけどさ、だからタカっていいなんて虫のいい話はないだろう。
「だからって、君におごってくれとは言えんだろ」
「……まあ、先輩にはいろいろ世話になってますし、イベントの打ち上げみたいな特別なときに、店が事前予約か何かでどうしても参加しなきゃダメで、でも先輩がうっかり財布落としちゃったりして、先輩ったらそんな状況で借りるのをためらって家まで走って帰ってお金を持ってこようとしていたら、さすがに引き留めますし、その上でちゃんと頭を下げてくれたらお金を貸すくらいはやぶさかでもないですよ」
「それはおごりとは言わない」
いや、でも、よく考えてみてくださいよ。お金は大事なんですよ?(※5)
「仕切り直すが、君におごってくれとは言えんだろ。先輩が後輩におごるくらい普通だよ。気にするな」
「でもなあ。先輩が汗水垂らして稼いだお金でしょ? 気にしますよ」
「こっちから誘ったんだ。気持ちよく食べてくれた方が嬉しいよ。まあ、今日はどのみちそんなに食えんだろ、このざるうどんでも食べたらどうだ?」
「うーん、案外うどんって消化に悪いらしいですし」
「なら、こっちのパンケーキで腹を膨らますか」
「いつぞやの流行におもねってるみたいでちょっと」
「じゃあ、このほうれん草とベーコンのキッシュは?」
「クソ食らえです」
胃が弱った「超つらいわー、今日一時間しか寝てないから超つらいわー」(※6)なわたしに、何を食わせようというのだ。ほうれん草とか失せろ。それなら冷製白玉ぜんざいでも食うわ。
「ぜんざいか、なるほど」
「あ、ちょっと……ああ、もう、ボタン押しちゃった」
「君は強引にでもいかないとすぐぐずるから。わりと押しに弱いタイプだもんな」
悪かったですね。論理的に物事を進めたがる本読みは、押しの強いタイプに弱いんですよ、たいてい。論理が通じないってのはどうもね。
先輩は注文を済ませて(ちなみに先輩は黒糖あんみつを頼んでいた。ファミレスで渋いチョイスである。似合ってるけど)、ちょっと優しく声をかけてくれる。まだ腹が鳴ったことを引きずってるわたしは、ついつい目線をそらしてしまう。
「食えなかったら残してもいいから。しかし、食が細るほど根詰めてたとはな」
「……わたしも意外でしたよ」
「詳しくはないんだが、君は百人からなる団体を指揮指導していたのだろう。人前で話すことはもう慣れたものだと思っていたのだが」
先輩の感想ももっともである。
わたし自身意外だったんだけど、やっぱり一対多と一対一って違うんだなと。雑談ならいくらでもイケるけど、一応部活って手前、適当なことはできないし、任せてくれた先輩の前で無様な姿は見せられないしねえ。
それに。
「……それに、やっぱり、わたしってネット小説歴一ヶ月ですし」
「それはさっきも聞いたけどな。しかし、本読みの君が、いままでまったく読んだことがなかったのか?」
「そんなの見たこともない、ってほど世間知らずじゃないですけど……」
中学の頃は、それこそクラスメイトに小説書いてる友達なんかもいて、まあ読んだわけですよ。その子もネットに上げてたし、その意味ではネット小説を読んでいたわけだ。
でもね、まあ、うん、なんだろうな……主人公相手に王子様や執事やなんやらのヒーローたちが揃って口説いてきて、もうわたし困っちゃうってな話でしてね……夢小説って言ったっけ、ああいうの。
わたし、正直だから、せいぜいコメントを「ごめんね、わたしの趣味ではなかったかな」くらいにソフトにするのが限界だった。その子とはいまでも付き合いがあるけど(実は、このたびお昼を断った相手である)、小説についてはノータッチできている。それがお互いのためだろう。
「……だから、まあ、その、そうだなあ。玉石混淆っていうか、石の方が多いんだろうなっていうか……」
「そういうイメージがあったと」
「そうです。イメージが先行して、読んでませんでしたね」
あ、ぜんざい来た。どうもー。
おおー、実物見ると、だいぶ食欲湧いてきたぞ。
「いま思うと、アマチュアに偏見があったんでしょうね。合唱愛好家としては恥じるべきことですが」
合唱における中心は、間違いなくアマチュアだ。これは断言していい。
まあ、世界を見渡すと、有名どころはどうしてもプロ合唱団である。CD何枚も出して国外で公演ができる、コンクールでもばんばん賞を取る、なんてレベルの団体はどうしても限られてくるしね。
でも、地域に根ざした文化を担っているのは、アマチュア団体のはずだ。少なくとも日本においてはそうである。
日本にはプロ顔負けの演奏を行うアマチュア団体なんてごまんといるし、国内で多くの委嘱初演を行いCDを販売しているアマチュア団体も多い。海外公演を行う団体もざらだ。
まあ、ぶっちゃけ、プロ団体が大手を振ってやっていけるほどの国内需要がないって現実もあるんだけどね……。
でも、本当に、合唱に血道を上げ、素晴らしい音楽を作り上げてくれているアマチュアは多いのだ。
「アマチュアリズムの権化としては、こんな偏見、絶対に持っちゃいけないはずなんですが」
うむ、ぜんざい美味い。話しながら完食である。正直ファミレスのやつだからってナメてた。ごめんなさい。
よく考えたら、今日初めての糖分だ。血糖値が沸騰してくるぜ。
「……君は、そうか、ふむ」
「およ、どうかしましたか? あんみつ、食いきれないならもらいましょうか?」
「……食べたいならどうぞ」
皿を渡されたわたしは、容赦なくいただいた。ぜんざいに餅は入ってたわけだけど、腹でふくれてくるのはまたあとの話だ。後々食い過ぎたと後悔するとしても、いまのわたしは食欲のとりこ。食べ過ぎちゃっても仕方ないよね。
三度四度、五度とスプーンを動かして、迷いつつスプーンを置いた。もう少し食おうかなんて、迷うなよわたし。すいません、調子乗って食べ過ぎました……。残りわずかですが、お、お返しします……。
「君、一つ訊くが」
「はい?」
「もう一度、古典部で話を受け持ってみる気はないか?」
ちょっと、いま、膨れた胃がぐるりんって、宙返りした気がしたんですが。
「……もうちょっと先なら、考えます。あ、あと、テーマも前もっていただけたなら」
「ああ、いや、今度はネット小説についてじゃなくて」
「と言いますと」
「君、合唱についてならいくらでも話せるんじゃないか?」
そりゃもちろん、とわたしは頷く。
ただ、それなら一つ言っておきたいことがある。
「でも、そうなってくると足りませんよ」
「足りない?」
「放課後一コマだけじゃ足りません。一週間ブチ抜きでやるなら、足りるとは思いますけど」
「そんなにか」
先輩は目を丸くした。
そんなにですよ。当たり前じゃないですか。オタクをナメないでください。
合唱部の副指揮――いまは彼が正指揮だが――と飯食いながらダベったときなんて、遅めに取った昼飯のカレー皿が乾燥してルーがこびりつき、出るときにはもうぼちぼち学生がバイトに入れない感じになってたもんだ。四半日は余裕で越えてた。お店の人、ごめんなさい。
「休日一日かけて、ようやく満足のいくぐらいまでってとこですね」
「へえ」
「テーマを絞ったとしても、どうしても基礎知識が必要になっちゃいますし。そのへんをまずは話さないと。そうすると、やっぱり一日仕事になりますよね」
しかも、それで基礎知識が付く程度だ。全部覚えてもらってようやく、である。
どの業界でもそうなんだろうけど、業界の常識や基礎知識ってのは長いことかけて覚えていくしかない難物である。
「古典部は土日祝が定休ですから、出番はないんでしょうけど」
先輩は真面目だから、わたしの話でもちゃんと聞いてくれる。これは本当に嬉しいことなんだ。
なかなかね、マイナージャンルなだけに同好の士っていないもんだから。ネットでもあんまり見かけないしさ。話を聞いてくれるってだけでも御の字ですよ。しかも、ちゃんと理解した上で、だ。
だから、正直、誘ってもらえるのは本当にありがたいことだ。でも、だからこそ正直に言いたい。放課後一コマじゃあ全然足りねえ、って。
「ですから、せっかくの申し出なんですけど……」
「ところで」
わたしの断りを遮って、先輩は訊ねてきた。
「日曜って空いてるか?」
「空いてますよ」
わたしは休日、亀のように引きこもる人間である。演奏会のない日はね。
「よし、じゃあ、その日でいいか」
「なんですか? デートのお誘いですか?」
わたしが冗談めかして言うと、先輩はうなずく。え、マジで?
「まあ、お誘いはお誘いだ。鉄は熱いうちに打て。日曜は合唱ざんまいといこうじゃないか」
「……ええ?」
「君が行きたいところ、やってみたいこと、話したいこと、なんでも相手してやろう。思いきりやってみるってのは、どうだ?」
察しの悪い頭が、ようやく理解して飛び起きた。おまえ、いま寝てたな。イルカみたいに半分寝てたな。
いや、そんなことどうでもいい。大事なのは先輩のお誘いだ。先輩から、合唱のお誘いだよ!
「……わたし、ビッックリするほど話、長いですよ?」
「思いきり、と言っただろう。自由にどうぞ」
「変な曲とか聴かせたりしますよ?」
「君には変な曲しか聴かせてもらってない気もするが」
失敬な。変な曲しか聴かせてない? よしわかった、名曲ひっさげて行ってやるから、日曜は首を洗って待ってな。
「わかりました。そうまで言われたなら、わたし、本気出しちゃいますよ」
「そこまで言ったかな……まあ、誘いを受けてくれて、ありがとう」
「いえいえ」
さあ、どんなプランにする? めぼしい演奏会はない。ジョイコン(※7)の季節だが、あいにくの不作である。来週ならあるんだけど。
「いやあ、気合い入ってきました。入ってきましたよ! 良い誘いをありがとうございます! みっちり予定詰めてきますよ、がっつり合唱の魅力を叩き込んでやりますからね!」
「お、おう」
先輩の「ちょっと失敗したかな」と言わんばかりの表情を見ても、わたしは揺らがなかった。だって、先輩、思いっきりやっていいって言ったんだし。いまさら言葉をひるがえしたりしないだろう。まあ、先輩だしね。
――そんなわけで、わたしはうきうきわくわくしながら金曜土曜を過ごして、日曜に待ち合わせたわけなのだった。
いやあ、腕が鳴るってもんですよ。
2.
というわけで、待ち合わせたわたしと先輩である。
先輩はわたしの計画を聞いて、ちょっと意外そうにまばたきをした。
「最初はカラオケなのか?」
「歌ですからね。実践してなんぼでしょう。わたしの指導の腕前を見せてあげますよ」
後回しにしたら、夜料金になって高くなるってのもあるけど、最初に実践から入りたいのもホントである。
「普通は理論が先で、実践が後だと思うんだがな」
「それって、全然面白くないですよね。知らないジャンルの小難しい理論やら業界話ばっかり聞かされても、意味不明ですよ。まずは歌ってみたり、演奏を聴いたりして面白いと思ってもらって、関心を持ってもらってから細かい話。趣味ってそういう順序だと思いますよ」
「それもそうか」
先輩は「なるほどね」と納得してくれた。何よりである。
カラオケで合唱曲を歌うってわけにもいかないけど(まあ、地味に入っちゃいるけど、オタクの立場から言わせてもらえば、たかが知れてる)、歌うってことを改めて体感してもらおうってわけだ。
「そういや先輩って、持ち歌あったりするんですか?」
「まあ、それなりにな。接待用に」
「接待?」
「おじさんの」
ああ、例のおじさんの。
「まあ、おじさんってのは冗談だが、クラスの連中と行くときに盛り下げない程度には流行りも押さえてるよ」
「うわ、真面目ですね」
「真面目っていうか、そりゃ接待だからな」
「そういう考え方はどうかと思いますが、言いたいことはわかります」
雑談を続けながら、駅前歩いてすぐのカラオケへ入る先輩とわたし。予約を入れてるからスムーズ。先輩相手だと遅刻とか考えなくて済むから、タイムスケジュールが組みやすいな。うん、いいことだ。
「時間は二時間?」
「先輩、お昼のお店決めてるんでしたよね? 早めに出た方がいいかなって思ったんですけど」
日曜だし、店によっては混むだろうしね。
先輩はうなずいた。
「実は、職場訪問しようかと思ってるんだ」
「職場? おじさんのですか?」
「おじさんの話を引きずるんじゃない。うちのだよ、うちの」
ああ、先輩のお店ですか。バーなのに昼もやってるんですね。本当に、先輩の言うようにバーなのか疑わしいところである。居酒屋っぽいよね、ランチまでやってるのって。
「自分の店の味を知らないってのもな。まかないはもらってるけど、それとは別に一度ちゃんと行きたかったんだ」
「えっと? まかないって、なんでしたっけ」
「店員用の飯だな」
ああ、ああ、なるほど。そう言うのありますよね。美味しいもの食べられそうだし、わたしもバイトするなら飲食かなあ。
「しかし、真面目ですね。味が知りたいなら、そのまかないで出してもらえばいいのに」
「言えば作ってもらえるけど、客として食べるのとはまた別だろ。雰囲気も含めての食事だ。どんな風になってるか、一度体験しておけば仕事の仕方も変わる」
真面目だなあ。本当に。
部屋に入りながら、わたしは感心した。さすがにそこまではする気にならないよ、わたし。そりゃ、扱う商品の味ぐらいはチェックしておきたいなー、ってのはわかるけどね。
「さて」
荷物を置いて帽子をかけると、わたしは気合い一発、声を上げた。ついでに拳を平手に打ち合わせる。ぶりっ子路線はどこに消えたって? はは、なんの話だ?
「覚悟してください、先輩」
「覚悟……?」
「ここはもう日本じゃありません」
ここはスパルタです。
さて、というわけで、合唱指導の時間である。
まず見るべきは呼吸だ。胸式呼吸ではなく腹式呼吸を行うってのは、よく知られた声楽豆知識だろう。
自然な呼吸こそ発声の基本だ。ただ、わたしが思うに、胸式呼吸の問題は明らかに上体に力が入る点にある。つまるところ、実際にはどこで吸うかよりも、姿勢の方が大事だとわたしは思っている。
「ほら、先輩、アゴ引いて」
「引いてるつもりなんだけど」
「先輩はいつも前のめりに座って、片肘突いてるでしょ。あれでだいぶ前傾姿勢になってるんですよ。アゴの位置が前に落ちてる」
アゴを押さえて、ぐっと押し込む。そう、押し込むに近い感覚である。胸を張るように肩を押して、腹が前に出ないように姿勢を整える。この、正しい姿勢ってのは感覚的なことだから、それこそ手作業でやらなきゃいけない。
というわけで、男声の先輩が、後輩の女の子を指導する機会があったりするととても気まずい。やったね身体触りたい放題だ、と大喜びできるような能なしの単細胞にはお勧めだが、その後の社会生活に支障を来すことは覚悟すべきだろう。わたしなら、そんなバカは上手い具合に学校社会から抹殺する。
「どうですか?」
「すこぶる、苦しいよ」
本当に喋りづらそうにする先輩に、わたしはうなずいた。
「オッケーです。じゃあその姿勢をキープしてください」
「これでオッケーなのか……?」
「ほら、またアゴが前に出た」
ふたたび押し込む。
「日本語は喋るときに深い響きを要求されません。だからかなりノドを絞めて声を出してます。これが発声にも大きく影響を与えています。喋りやすい姿勢が良い姿勢じゃあないんですよ。姿勢をきちんと作って、声帯の位置を押し下げないといけない。要は、喉仏の位置を下げて喉を開くんですけど」
このへん、しょせん西洋式の発声だよなと思わなくもないけど、西洋音楽をやるんだからしょうがない。西洋的な発声法を基本に据えるしかないのだ。
先輩の姿勢を確認しながら、次のステップへ。
「それでゆっくり呼吸しましょうか。自然に吸って。深く吸おうとしなくていいです。歯擦音で……えっと、イの口形、じゃなかった、『イ』って言うときの口で、音にしないで『スー』って息を吐いてください」
姿勢が崩れないようにチェックしながら、しばらく呼吸を行わせる。
先輩、ブレス持ってるなあ。うらやましい。わたしは肺活量がいまいちだから、長いフレーズを歌うのに四苦八苦するんだよね。
「オッケーです。何か質問あります?」
「カラオケで何やってるんだろう……いや、そうじゃなくて、直立して歌うのか?」
「特別な場合をのぞいて、基本はそうです。オペラやミュージカルみたく動き回りながらいろんな姿勢で歌うってのは高等技術ですよ」
「いや、座っては歌えないのかと」
「できなくもないですけど、それって足腰の弱ってるご年輩の方がすることなんですけど」
舞台上で座るなんて、そんなあつかましい。立てよ。若造が。
前に行った演奏会では、足骨折してる人が松葉杖突きながら歌ってたんだぞ。楽しようとすんなよ、もっと熱くなれよ!
「ここはカラオケなんだが」
「今日は合唱ざんまいです。カラオケ? なんの話ですか? ポリス・スパルタで弱音なんて通用すると思わないでください」
また崩れた姿勢を直す。姿勢をキープするのって、案外大変なのだ。どうでもいいが、先輩は腰の細さがやばい。男性って、どうしてこうも痩せていられるんだろうね。神様は何を考えているのだ。肋骨から生まれたって言うなら、もっと女性は骨っぽくていいだろ。
「では、腹式呼吸でいってみましょうか。できますか?」
「まあ、なんとなくはな」
リラックスするときに、みたいな感じで利用されることもある呼吸法だし、できないことはないんだよね。わりとみんな。
「ボールがふくらむイメージを持ってほしいんですけど、前面の腹だけふくらませてもしょうがないんです。わき腹、背中。背面まで全体をふくらませてみて」
「イメージだけでいけるのか……?」
「無理だから、こうするんですよ」
腰に触れて、呼気とともに押す。特に背面を強く押して、吸う際にはゆるめる。
「っていうか先輩、普通に背面まで入ってますね。うらやましいなあ。無駄にあれこれしなくても良さそう」
「うらやまれるようなことなのか、これ?」
「呼吸ができてれば、アマチュアレベルの発声法はほとんどクリアですよ。逆にここができてないと、小手先のことなんてやっても対症療法に過ぎません」
姿勢と呼吸。
この二つを押さえていれば、声作りの難儀なポイントはクリアできる。たとえば声が硬くなるのは肩やノド、アゴに力が入ってる場合が多い。正しい姿勢で自然と呼吸ができていれば、そんな弊害はそもそも起きないのだ。
思いっきり吸おうとして肩が上がっちゃってる人っているよね。ああいうのがダメなのだ。
「うーん。うらやましいな。筋良いですよ、先輩」
「そ、そうか?」
ちょっと嬉しそうにはにかむ先輩。なんかかわいい。
……じゃなかった、次だ次。
「じゃあ、次は声を出してみましょう」
「コウケイって言ったか? どんな母音でやればいいんだ?」
「おお」
おお、そこに気がつきますか。すごいな、本気で感心した。
ちなみに口形は口の形って書きますよ、先輩。
「いいですね。実にグッドですよ。なんとなく『アー』としてしまうのはありがちなんですが、実はア口形って難しいんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「響きを作るときには、素人にはお勧めできません」
まあ、かく言うわたしも素人なんだけどね。
それはともかく、アは中途半端な母音だ。音が暗くなりやすく、そのくせ深くはない。深い自然な響きを作るならオ口形の方がいいし、明るい響きを作るならイ口形の方が望ましい。
「まあ、さすがに本格的な響き作りまではしないので、そうだなあ、まずはハミングからいきましょうか。ハミングってわかりますよね?」
「鼻歌みたいなもんだよな」
「だいたいあってます。一般的には、口の中にゆで卵が入ってるように空間を作って鼻腔(びくう)共鳴させるって聞きますが、ゆで卵は放り込みすぎです。普通に『アーオーンー』って言ってみてください」
「アー、オー、ンー」
「切らずに、全部つなげて」
「アーオーンー」
うわあ、良いなあ。男声良いなあ。うらやましいなあ。響きの厚みが違うもん。女性なんて薄っぺらい響きをひいひい言いながらふくよかにしようって頑張ってるのに、男性はもう最初っから深い響き。本当に、うらやましくってしょうがない。
先輩はやや高めの音階(正確に言うならH、ティ……じゃなかったシの音である)で声を出してるけど、うん、やっぱ良い声してるよな。合唱やってくんないかな。
おっと、そうじゃなかった。
「えっと、最後の『ンー』で、メガネの、なんて言いましたっけ、その鼻の頭に載ってるとこ」
「ブリッジだな」
「そういう名前なんですね、知らなかったなあ……じゃなかった、そのブリッジのあたりに響きが集中してることってわかります? 鼻腔って言うんですけど、そこへの共鳴が響きの基本なんです」
「む、わからんな、ちょっと待ってくれ」
律儀に「アーオーンー」と繰り返す先輩。偉いなあ。あ、でも、とりあえずは「ンー」だけでいいですよ。
ついさっきも思ったが、やっぱり良い声だ。さすがに合唱的な、十分に響かせた声ではないんだけど、掠れたり詰まったりしてない癖のない声だ。伸びもある。綺麗なテノールになるだろうなあ。ううむ、磨いてみたくなるな。
「……なんとなく、わかるような、わからないような」
「最初はそんなもんですよ。じゃあ、『アーオーンー』ってもう一回してもらいますけど、今度は『ンーアーオー』の順で、なるべく『ンー』と同じ感じで声を出してみてください。響きをあわせるって言うかな」
「響きと言われるとさっぱりだが、うん、同じ感じで、だな」
聞き分けの良い先輩である。ありがたい話だ。
レッスンって、疑問点は訊いてくれればいいけど、実践はとにかくやらないと話にならない。言われたことを積極的にやる姿勢が要求される。まあ、これは別に合唱にかぎらないだろうけどね。
最悪なのは、言った内容をやらないやつ。言うことを聞かない、理解できてなくても生返事、反復しなきゃならない練習をしない。それじゃあ上手くなるはずがない。当たり前の話である。
「うーん」
「……ダメか?」
「いや、そんなトーシロ捕まえて『お前ダメだよ』とかダメだししませんけど、そうだなあ」
わたしはロングトーン、つまりは長ーーいおつきあい的なアレ(※8)で先輩と同じ音を出す。
「これと同じ感じで声をあわせてください。大事なのは、耳です。耳で聞いて、聞こえたものそっくりに声を出そうとするんです。声は耳に従います。姿勢を忘れないで。では、いきますよ、アー」
「アー」
最初は合わない。
男女によって発声構造の差はあるが、単純に音程が違うし(周波数が違うと言えば、物理的に一致しないことがわかるだろう)、響きが、つまりは倍音構造が違う。
わたしはじっと先輩を見つめながら、ロングトーンを続ける。目線をあわせるというのは、相手を意識するということ。声をあわせるときにわたしが好んで使う常套手段である。
徐々に合っていく過程がわかる。これが、指導する楽しみだよなあ。改善されていく。響きが整い、音程が正確になり、音が一つになる。一つの声部となり、そしてそれが合唱になっていくのだ。
「そう、それです、それ」
「……君はだいぶ息が長いんだな」
「鍛えてますから」
何度か先輩が声を出し直す間も、わたしは根性でロングトーンを続けた。
教師が生徒より息保たないなんて格好が付かないからね。わたしは先輩みたく、肩をすくめた。
「じゃあ、アーって声出してみてください。さっきの感覚を忘れずに」
「アー」
「そうそう。先輩飲み込み早いなあ。こんな効率的な指導、記憶にないですよ」
先輩は照れてるけど、これ、別におだててるわけじゃない。普通、こんな早さで飲み込めるもんじゃない。
個人差あるもんなあ。誰も彼もがこんなに早くわかってくれたら、発声指導なんて不要だよ。
「さて、じゃあ、実践といきますか」
「……いままでは実践じゃないのか?」
「何言ってるんですか、いままでのは下準備ですよ」
少しは譲歩しますよ。選曲ぐらいは。
「先輩の好きな歌を歌ってください。テンポ早いと難しくなるので、スローバラードをチョイスすることをお勧めしますよ」
というわけで、二時間プラス延長一時間でわたしはみっちり先輩をしごいたのだった。
「ほら、アゴが上がってますよ! 高い音がキツくてもノドを使って歌わない。アレクサンダー・テクニックって言いましてね……」
「硬い硬い。その声じゃハモれません。肩から力抜いて。ほら、いったん屈伸して、上体の力抜いて」
「やみくもにメロディを歌わない! 次の音をきちんとイメージして、どれくらい音程に距離感があるのか把握して。準備がすべてですよ!」
「最初から指導し直した方がいいんですか? いままで教えたことはもう全部すっぽ抜けちゃったんですか?」
ちょっと言い過ぎた気がしないでもない。
いや、だって、ほら、先輩、本当に筋が良かったからさ……ついさ……。
わたしによるネタ・元ネタ解説。
※1
別に読売テレビは関係ない。
※2
なんか、懐メロにそんなフレーズあるよね。よく知らないんだけどさ。
※3
「やさしさの日」は男と女の仲についてを中心に、やさしく甘く歌った女声合唱曲である。
全集にしか収録されてなくて入手には苦労したけど(五万はしたっけか)、お金をかけた価値のあるなかなかの演奏である。
荻久保さんは「In Terra Pax」で知ってる人もいるかも。ポップでメロディックで情感豊かな曲を多く書いている作曲家さんで、彼の処女作「季節へのまなざし」なんかはいまなお歌い継がれる名曲である。
※4
秦末の英雄、項羽の話である。追いつめられた項羽が「河なんて渡んねー」とか言ってるあたり。
なんだったか、教科書で見たんだったか、先輩が言ってたんだったか。覚えてないな。虞美人は教科書に載ってた気がするんだけど。
※5
よく思い出せないけど、なんかのCMだった気がする。
※6
おわかりでない方は、「地獄のミサワ」で検索してみよう。
これのせいで睡眠不足自慢ができなくなったとうちの下の兄が嘆いていた。いや、そんな不毛な自慢はしないでいいんだけど。
※7
ジョイントコンサートの略。
夏には、多くの大学合唱団が二つ三つ集まって、合同演奏会をするのだ。
各団が各ステージを担当し、最後の合同演奏には有名な指揮者が来るという寸法で、この時期は指揮者の皆さん、お忙しいかぎりである。
わたしもお忙しいかぎりである。だいたいの演奏会に居るし。
※8
おわかりでない方は、「京都銀行 CM」で検索してみよう。




