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 付録 小説・一人の水の妖


【文字数】

 22000字ほど



【作者コメント】

 おじさんが昔書いた小説です。本編に直接関わりは持たないので、読む必要はあまりありません。

 前話で紹介されているように二人の手記が交互に置かれた形式のファンタジー小説で、全体的に表現が難しめです。こってこてです。


 そなたは一人の水の妖。


 そなたは元より一人の子。

 自由を愛し、自由に生きる。

 海に生まれ、河に親しむ。

 水を愛した孤独の子。


 そなたは一人の水の妖。






[手記Aの1]


 この世に出でたるその時に、此方(こなた)は鳴いた。

 堪りに堪らず鳴いておった。

 知らされぬとて、この身は水と、別たれておると判ずるがゆえ。


 此方らは水より落ちた、水の妖(あやかし)。

 水妖は、水より生まれ、水で暮らし、水に還って死ぬのが定め。

 そうして生きて、そうして死に行く。此方も然様に生きとう思う。

 彼(か)のナハルビ様より、此方が母が、陸に住まう力など、賜り申したゆえの事。我らが族は歪んでしもうた。

 記したる、此方が身にも歪みが出でた。水で生きる術その物を、此方は持っておらなんだ。此方の同胞(はらから)も皆、同じよ。

 母の子たる、四十四の子らは皆、世を恨み。皆、等しく生まれて鳴いた。

 青き海が恋しいと。優しき水が恋しいと。

 然(しか)るに最早、此方ら四十四の子らは、生まれ落ちたヤムゥーの子らは、水で生きる術を持たぬ。

 ナハルビ様より賜った、この心身を以ってして、生きていくより他に無かった。

 ある時に、二十一の子がまた鳴いて、皆に問うて回っておった。

「死なば、水に帰れようか」

 四十の子の此方が返した。

「死に往けば、そなたが骸は此方が水に、葬り帰してくれようか」

 此方はゆえに、祭儀の道を選んで進んだ。

 祭儀の官を務め上げ。祭司の官すら拝した物よ。

 此方は此方が同胞を、社で看取って暮らしておった。

 同胞が、水に帰るその様だけが、此方の心を癒しておった。

 いつか此方も、海へと帰って行けると思うて。その一心で看取っておった。


 此方は母を憎んでおった。

 彼のお方、ナハルビ様より賜った、力を強く持ってして、ついぞ水に捨てられなんだ。

 此方ら四十四の子らは、一人たりとて水では暮らせぬ、斯様(かよう)な身でありながら。

 母、あの方だけが、時に陸より下りたって、水で暮らし、水と戯れ、水と共に生きよった。

 此方は母が憎かった。

 四十四の子らの中、恨む者は少なかろう。

 だが、此方は母を憎む。

 四十四の子らの中、誰よりも、憎む心が強かろう。

 時に此方の家に来られ、ただ笑っておられた母が、つくづく憎く思われた。


 四十四の子らは皆、街の者を恐れておった。

 彼の母一人が、ナハルビ様の、近侍(きんじ)を務めておるがゆえに。

 街の者ども、ナハルビ様より力を授かる有象無象の者どもが、等しく皆、母を憎んでおったがゆえに。

 何故あの者が。新参の水妖風情が、何様なのかと。

 ナハルビ様が治めたる、ノルノの国に、ヤムゥーの母を憎まぬ者など居らなんだ。

 此方は腹で笑っておった。憎め憎め。彼の母を、憎み恨めば良いのだと。

 しかし彼奴(きゃつ)らは、此方ら四十四の子らと、その子をすらも恨んでおった。

 八の子は、娘を守って身を裂かれた。

 十五の子は、息子と共に殴打され、二人で息を引き取りおった。

 此方は一人、八の子らを、十五の子らを葬って、ただただ水に帰しておった。


 此方の心の深き所で、拭い難き虚ろがある。

 ナハルビ様は力を与えて下さった。有り難き事、嬉しき事よ。

 なれど。それゆえに、此方らは歪。此方らは捨て子。

 水に捨てられ、群れて生きよる水妖ども。何と片腹痛き事よ。


 斯様な無様を晒しながら、何故生きねばならぬのか。


 此方は骸(むくろ)を羨んだ。

 その身を害され、打ち捨てられた、骸の様を羨んだ。

 そなたらは、ようやく水へと帰られるのだと。




[手記Bの1]


 私たち、ヤムゥーの皆は、生まれてから鳴く物だと聞きます。

 心で水の妖の身を誇りながら、水の中で生きられないその身体が、堪らなく口惜しいのだそうです。

 私も生まれて、やっぱり鳴きました。

 だけれど、私の涙はそんなために流された物じゃない。

 私の涙は、水に生きたいのに陸で生きなきゃいけない、そんな事のために流されたのです。


 生まれ落ちてから暫し経った頃の事。

 私は街の片隅の、水妖の子を育てる施設で暮らしていたのですが。

 ある時、ナハルビ様より力を賜ったヤムゥーの母の、その四十番目の子である祭司様が来られました。

 祭司様は、水妖の儀を行う社の数々の中で、最も古い儀礼を行う社のお方。ノルノの国でも五指に入るほどの格式を誇る社の長なのです。

 実は私は、初めて会った時にそんな当たり前の事も知らず、随分と失礼な態度を取ってしまいました。恥ずかしい限りです。

 そんな頃の私に、祭司様は優しく声を掛けて下さいました。

「そなたが、三十九の同胞(はらから)の子かや?」

「はい。サルフィーティと言います」

 私が名乗ると、祭司様は目を細め、苦笑されました。

「子よ、名は名乗る物ではない」

「そうなのですか?」

「ナハルビ様より、力を賜る者どもには、淫楽を旨に生きたる者も居るゆえよ。

 その者どもは、殊に名を重んじておる。ゆえに容易く、名を口にはせん物よ。

 何よりそなたは、その者どもの眷属ぞ」

 いきなりそう仰られた物ですから。

 私は驚いて、また訊ねてしまいました。

「そうなのですか?」

 祭司様は片目を大きく見開かれて。

 カカッと高く笑われたのでした。


 祭司様は仰られました。

 私は水妖の一族ヤムゥーと、名も知れぬ淫魔との混血なのだそうです。

 そういえば、以前お目に掛かった、三十六番目の子であるお方が、私の事を合いの子と呼んでいました。

 その時は分からず仕舞いでしたが。恐らく混血の事だったのでしょう。

 物を知らず恥ずかしい限りで、こうして書き記しておく事にしました。


 私の生みの親である、三十九番目の子であるお方は、この地を離れたと聞きます。

 詳しい事情は私には知らされませんでした。

 ただ、祭司様が仰られるには、その淫魔の方と共に暮らすために、国を出られたのだそうです。

 この地では住む事は出来なかったのでしょうか。居住まいを変えるとは、大変な事の筈です。

 もしかしたらなのですが。三十九番目の子のお方も、私と同じで海の近くで暮らしたかったのかも知れません。

 この地で、海に触れずに暮らす事が、ひどく苦しかったのではないかと想像しております。


 その後、私は祭司様の下で祭儀を学ぶ事になりました。

 社の隣にある祭司様の家に招かれまして、二人で暮らし始めたのです。

 祭司様はとても良くして下さって、日々に不満を覚える事は少なかったです。

 物を知らぬ私にも、祭司様は多くの事を教えて下さいました。

「海とはどのような所なのでしょうか」

 私がそう問えば。

「此方もそなたも帰るべき、ただそれだけの地であるかな」

 そう答えて下さいました。

「祭司様、海に行かれた事はありますか」

 私がそう問えば。

「ヤムゥーのこの身が海を見るは、ただの一度で良かろうて」

 そう答えて下さいました。


 実の所、私は海に行きたかったのです。

 祭司様は、ああ仰せになられたのだけど。

 私は、水しかないと言う海で、一人で生きてみたかったのです。

 祭儀を学ぶ日々に不満はありませんでした。でも、己が海で暮らす日々を、夢想する日もあったのです。


 そんな私は、夜に近くの河で水遊びをするのが、密かな楽しみになっていました。

 夜の河は暗く、それなのにひどく透明で、私を包んでくれるような底知れない深さがあります。

 話に聞く海とは、このような所ではないかと思って、胸が躍るのです。


 ある日の事。

 私はいつものように、小一時間ほど河で泳いで遊んでおりました。

 岸に上がってみました所、三十六番目の子であるお方が、私をじっと見ておられたのです。

 私が微笑んで、挨拶をしました所。

 三十六番目の子であるお方は、ひどく不快そうなご様子で、仰られたのです。

「合いの子風情が」

 そう、ポツリと。


(後略)




[手記Aの2]


 引き取った、三十九の子の子が言葉は、此方(こなた)の心によう響く。

 合いの子風情と蔑(さげす)まれ、この地で生きるは辛かろうに。


 栄えあるヤムゥーの一族が、ナハルビ様の眷属が、街の隅で暮らしていたと、誰が聞いて信じようか。


 三十九の子たる彼奴(きゃつ)は、異族と交わる異端の者よ。責められ追われ、堪らずそのまま国を出おった。

 更なる異端の、子の子のそなたよ。

 哀れみ掛けられ、侮言を掛けられ。されど彼(か)の子は、首を傾げておったのみよ。

 何と心の強き事よ。何と心の正しき事か。

 街を怖れる四十四の子ら、皆が皆、倣(なろ)うて然るべき物よ。

 ヤムゥーの皆が、ノルノの皆が、忌み子と嫌うたそなたが心が、此方ら皆より強いとは。

 愉快愉快。まこと愉快。此方は笑いが止まりよらぬわ。

 戯(たわむ)れに、此方が拾うたそなたの在り様、此方の心によう響く。


 歪(いびつ)なヤムゥーの、捨てられたる合いの子よ。

 斯(か)くこそ在らめ。然(さ)こそ育ため。

 此方がそなたを見守るがゆえ。そなたはそなたで生きるが良い。


 そんな折。

 憎き母の近侍(きんじ)たる、三十六の子が来やった。

 この者は、此方が家によく来たるも。土産一つ持たぬ無粋の者。沐浴(もくよく)一つせん、根っからの不信心者よ。

 息急(せ)きり、何ぞ下らぬ用事もあるかと、此方がわざわざ取り次いだ物を。

 何やらとんと見当も付かぬ、訳のわからぬ斯(か)く斯くを、無粋者は話しおった。

 河がどうの。合いの子がどうの。喚き散らして堪らなんだ。

 その背後に立っておった三十九の子の子を見遣り、此方が声を掛けたる物を。

「何ぞそなたが、事でも起こしおったのか」

 彼の子はゆるりと、首を傾げて答えおったわ。

「河で長く泳ぎ過ぎていると、注意を受けてしまいました」

 此方は堪らず、吹きだしてしもうた。

 三十六の子の狂騒を、物ともせん返しであった。


 しかし事は、此方が思うておったよりも、甚く厄介な代物であった。

 合いの子たる、三十九の子の子が彼の子が、先祖帰りを果たしておると。

 半刻もの内、水に入りて顔を出さぬ。

 まさに水妖。ヤムゥーの古き、正しき姿よ。


 何と皮肉な事であるか。

 ナハルビ様が下さった、ヤムゥーの忌むべき歪な様を、不義の子の子が正しよった。

 何と痛快。何と愉快。

 此方は一人、部屋で笑い転げてしもうた。

 事は事。由々しき事よ。しかし、何と可笑しき事よ。


 然様(さよう)に此方が、一人笑っておった物を。

 彼の無粋者め、こうまで此方を煩(わずら)わしおるか。


 彼奴め。正にあろう事か、憎き憎きあの母に、三十九の子の子が様を、忌憚(きたん)などせず話しおった。


 ナハルビ様の血族の、四十四の子らの子が、水の力を、再び手にしたその事を。

 彼の母は、ナハルビ様に告げられよう。

 ナハルビ様が下さった、我らが力の代償を、合いの子が埋めてしもうた。合いの子なれば埋めてしまう。

 ナハルビ様はどう考えられ、どう命を下されようか。

 街の者は、どう考えて、どう動こうか。

 ヤムゥーの者は、どう考えて、どう動こうか。


 彼の合いの子は、今のままで居られようか。今ほど明るく暮らせようか。

 此方には、彼の子の良き先行きなど、一つたりとて浮かびはせなんだ。


 此方は初めて憎く思うた。

 四十四の子が一人、初めて憎く思いおったわ。

 彼奴を最早、此方は同胞と言うまじき。憎き彼奴を許すまじき。


 彼の憎き母より、此方が家に訪(とぶら)う旨を、文で受けた頃より後に。

 此方の心の深き所が、三十六の子の事を、害してたもれと叫んでおった。




[手記Bの2]


 今日はたくさんの事がありました。

 手記に書き残しておこうと思います。


 その日はお日様が昇ってから、祭司様は甚(いた)く陰鬱なご様子。

 訳を聞いたのですが、ただただ祭司様は首を振られるのみで。

 ヤムゥーの母であるお方のご来駕が、それほどまでに面倒な事なのでしょうか。

 己の親の相手とは、斯様(かよう)に面倒な物であるのかと、私は甚く感心しました次第です。


 そういえば、手記には記しておりませんでしたが。

 社では、朝に歌い、日の訪れを祝います。

 日があって、水は透いている。日があって、水は姿を現す。

 海も同じなのでしょう。海は日の訪れを祝います。海の者も共に祝い、歌います。

 この社の祭儀ではそれに倣い、その頃の水妖の姿を思って、日の訪れを祝うのです。


 祭儀の官に任じられていない私は、社の庭先で一人で歌います。

 元は言葉を持たぬ歌に言葉を乗せて。辺り一杯に響かせて。

 そうして、海に生きた、私たちの昔の姿に思いを馳せるのです。

 それで、私、ついつい夢中になってしまって。

 来駕されるそのお方の気配にすら、気付いておりませんでした。

 私が気付いたのは、ひどく迂闊なのですが、お声を掛けられてからなのです。

「懐かしい歌ね」

 私はハッとなって、振り返りました。

 私と同じ年頃かと思えるほど大層お若いお方が、三十六の子のお方を連れて、立っておられました。

 そのお姿は、私の目に鮮やかに映りました。

 胸に垂らしたままの縹色(はなだいろ)の髪。夜の水に溶けてしまいそうなぐらい深い艶やかさで、これが海の色なのでしょうか。

 箒(ほうき)一つ分の距離からすらも目を惹いて止まない黄金の瞳。この二目が常に、海の中で輝いておられたのでしょうか。

 白の一枚布のドレスから見える肌は皆、白く、夜の海の中、月の光を浴びられ、一つも漏らさず吸われたかのような様でした。

 優しげに微笑まれるこのお方こそが、ヤムゥーの母、その人であると一目で分かりました。

 朝の光の中で、水の中にいるように緩やかに振る舞われ。心はいつも水の中。ヤムゥーの誰よりも、水の妖の姿をしておられました。

「母様、このような不義の子に、お声など掛けられずとも」

「あら。私が声を掛けるのに、貴方の許可が必要なのかしら」

 ころころと笑われて、三十六の子のお方の言葉を止められて。

 ヤムゥーの母たるお方は、私に再び声を掛けられました。

「その歌は、どなたに習ったのかしら」

「祭司様より学びました」

「あの子ね。やっぱり古き物事をよく知っているわ。私の愛しいあの子」

 目を細められたそのお方の顔は、とても優しげで。

 幼き顔立ちながらその実、母であり、慈母であるのだと。その仕草一つで私に知らせて下さるのです。

 しかし、その次に首を傾げられたお姿はまた大層お若く。正に自由自在の有様でした。

「でも、貴方はあの子よりももっと、水に馴染んでいるのだそうね」

「いいえ。とんでもない事です。

 私にはとても、祭司様のされるような水の愛し方など出来ません」

 そのお方の仰せに、私はそう言って否定しました。

 看取り、水に帰される祭司様のお姿は凛然たる様、誇り高き様で。正に水の妖その物なのです。

 水を敬い、水と共に生きられ、水へと眷属を帰される様の見事さ。素晴らしい水の愛し方です。

 私は常日頃、あのようになりたい物と。祭儀の官として、あのような葬り方をしたい物だと憧れております。

 そして出来れば、死ぬ時は祭司様に。あのようなお方に葬って頂きたいと願っているのです。


「そうなのかしら」

「はい。私はそう思っております」

 不思議そうに、首を傾げておられるそのお方に。私はそうはっきりと述べたのでした。

 本心からの事、忌憚(きたん)する物など何もないと思っていたのです。

 母であるそのお方は、そんな私の答えに優しい笑顔を向けて下さいました。

 祭司様の、時に笑まれる様に、よく似ていた事を覚えています。


 社の内の祭司様の家に、私がお二方を案内していた折。

 時に、そのお方は私に声を掛けられました。

「あの石は、ケネテ河の底の石ね」

「はい。私が取って参りました」

 細められた目は、ケネテの河を思っての物だったのでしょうか。

「私も昔は泳いだ物よ。今のケネテの水はどうなのかしら」

「私は、今と昔を比べられないのですが。夜の水は、底知れず深く、吸い込まれるような美しさです」

「それはまた、泳いでみたい物ね」

 穏やかに話し、笑われるそのお方とは違って。

 三十六の子のお方は、後ろで一人、ひどく固い顔をなさっておられました。

 そしてそれは、家でお待ちになられていた、祭司様の顔に似ていました。


 祭司様が、迎えられて。

 お三方が暫し歓談されて後の事でした。

 私が水をお持ちした折、ふと、ヤムゥーの母たるお方が仰られたのです。

「ねぇ、貴方」

「はい、何でしょうか」

「私の許(もと)に来てはどうかしら」

 カッと、祭司様が目を見開かれたのが、見えました。


 祭司様が口を開かれるよりも先に。

 私は首を傾げて、ヤムゥーの母たるお方にお答えしました。

「お断りいたします」


(後略)




[手記Aの3]


 此方の荒き魂(たま)の中で、小さく咲いた若き花よ。

 そなた、合いの子よ、此方(こなた)が愛しき一人の御子よ。


 彼の憎き、母と彼奴(きゃつ)とが現れおって。

 下らぬ物事、言い散らし。その挙句に吐いた言葉。

 それは此方の心を乱し、押さえの効かぬ激しい怒りを起こしおった。

「私の許に来てはどうかしら」

 この者どもを、社の外へ追い払おう。二度と顔など見とうない。

 そう決めた折であった。

 三十九の子の子が御子よ、そなたはひどく不思議気に。

 首を傾げて言いおったよな。

「お断りいたします」

 此方が心はすっくと納まり。母へと言葉を返せた物よ。

「この者は、此方が社の預かりし物。如何に母が言葉と言えど、元より渡せぬ仕来り也」

 しかし、母は。

 晴れがましい、明るい顔で返しおった。

「私の可愛い子と、子の子。二人は本当に、水の妖らしい物ね」


 その言葉を此方は何故だか、常の如くは恨めなんだ。

 空々しいと、否めなんだ。


 しかし、彼奴めは密かに怒り。

 怒気も露わに、帰りの際に言いおった。

「不義の子を預かる事すら、忌々しき事にも関わらず。その末に、母様の言葉をすら否むとは。

 母様の言葉はナハルビ様の言葉。貴様、覚悟は出来ていような」

 此方は腹で、くつくつ笑い。

「分かり申した。そなたの言葉、此方が耳でしかと聞いた。忘れはせぬよ」

 此方は彼奴に、確たる言葉を返した物よ。

「社はの、社が定めた法で生きる。そなたが言葉に、此方ら社はその身を定めた」

「何だと」

「社の法が犯されん時、社は社の身を守る」

 凝然と、見返し睨んで此方は言った。

「此方の社は、ナハルビ様より袂(たもと)を別つ」


 此方が示した意志のほどは、瞬く内に広がりおった。

 街に広がり、人が語らい、社の内にも広がりおった。


 元より社は、ナハルビ様の保護の下、今の力を保っておった。

 その護りを打ち捨てたもう、今の社は力を持たず。祭の聖(ひじり)は保たれず、死の穢れが残るのみよ。

 そう言う者は数知れず。祭儀の官とて変わりはせなんだ。

 逃げ去る者。此方に問うて怒る者。

 而(しこう)して、祭儀の官の者どもは、社の内より出て行きおった。残るは二、三の者ばかり。

 彼の母の、言葉がゆえに。彼奴の吐いた言葉がゆえに。此方の社が定めたる、大事な法を犯されかけた。

 それゆえ、袂を別ったのみが。何とおかしき者どもよ。

 法に則り法に生きる。難(かた)き事とは思えぬ物を。


 ただその中でも、彼の合いの子は変わっておった。

「社は、ナハルビ様より袂を別ったのですか?」

「如何にも然(しか)り」

 此方がしっかと頷き返すと。

 彼の合いの子も頷きおった。

「では、朝の歌で、ナハルビ様の名を無理に言わずとも宜しいのですね。

 実は、節回しがおかしく感じられて、前々から歌い辛い物と思っておりました」

 此方はその場で、笑ってしもうた。


 合いの子よ。不義の子よ。

 そなたは此方が守るゆえ。斯様(かよう)に呼んでも構わぬか?

 大層歯痒く、恥らわずには居られぬが。


 愛の子よ、愛しき我が子と。

 心の内で、斯様に呼んでも構わぬか?




[手記Bの3]


 数日経ってから、ようやく気が付いたのですが。

 私がヤムゥーの母たるお方の言葉を拒んだために、社はナハルビ様より袂を別ったのだそうです。


 ナハルビ様の保護を受けなくなって。

 政(まつりごと)をされる皆様は、この社を社と認めず、幾つもの仕事を取り下げました。

 戦死者の埋葬から。大祭で護国を願う役割など。

 また、この社は、古くからある社なのですが、既に国の全ての文書から名が削られてしまったのだそうです。


 祭儀の官ですらない私には、今一つ実感が湧かなかったのですが。 

 あの、ヤムゥーの母であるお方が来られないだろう事には、少しだけ、寂しさを覚えました。

 お誘いは断りましたが、あの時に初めてお目に掛かったあの方は、とても素晴らしい水妖であられました。

 再びお目に掛かる時を、心待ちにしていたのですが。


 私がそんな事を思っている頃にはもう、社は随分と閑散としておりました。

 五十五を数えた祭儀の官も瞬く内に去って、いまや三人のみとなり。

 私と祭司様を合わせて、社には五人が残っておりました。

 祭儀の官の見習いたる私には、朝の歌などに変わりがある程度でしたが。

 多くの官が去った社の仕事は、大変な物なのだろうと思います。

 そのためか、社に仕える者が今の数で落ち着いてから、祭司様は仰られたのです。

「高き社は最早要らぬ。祭儀の官よ、此方が家に参られよ」

 これより、社の内の祭司様の家に皆で住まい、祭の儀もこの家で執り行われるようになったのです。

 また、祭司様は葬儀のみを旨として、多くの儀を棄てられました。

「此方らは、水に帰す生業よ。瑣末(さまつ)な事々、今の社に要りはすまい」

「誠、その通りと思います」

 祭儀の官で最も古くから居られる方が頷かれ。

 他の二人も、頷かれました。

 その皆がヤムゥーとは異なるも、ヤムゥーと同じく陸に住むための力を得た水妖の一族の方々。

 水を思う気持ちに違いはなかったのでしょう。

 海を信奉するこの社に、陸に生きる私たち水妖に、葬るより他の儀は必要ないと思われたのでしょう。

 斯(か)く言う私も、他の祭祀は無くても構わないと思っていました。


 皆で静々と、儀を行うだけの日々でした。

 葬る骸の数は、以前と比べて随分と減りました。

 来る物も、ほとんどが祭司様の古き繋がり、ヤムゥーのごく一部の者の骸ばかり。

 そのために、以前よりも丁寧に葬る事が出来、私は満足しておりました。


 ある時、残られた祭儀の官のお一人、最も長く仕えておられるお方が仰りました。

「貴女は今の社をどう思っているのですか」

 私は考え、答えました。

「儀を行いうる、正しき姿に思われます」

 そのお方は、笑って頷かれました。

「良き心延(こころば)えです。祭司様が気に入られるのもよく分かります」

「私は祭司様に、気に入られていたのですか?」

 それはとても嬉しい事でした。

 良くして下さった祭司様に、お慕いしている祭司様に。そのように思われるなど過分の事と思いますが。

 本当に嬉しい事でした。

「拙僧の見る限りは、間違いありますまい。ゆえに、今の貴女のその心延え、大事にするのですよ」

 そのお方の諄々(じゅんじゅん)と説かれたお言葉に。

 私は素直に頷いたのでした。

「はい。お言葉、有り難く頂戴いたします」


(中略)


 更に月日が過ぎてからの事です。

 森の野草を摘む帰りに、久方ぶりにケネテの河に寄りました。

 激しい流れは、幾日か前の、源の山に掛かった雲が落とした水でありましょう。

 私は胸が躍り、野草を置いて飛び込んでしまいました。

 濁流に呑まれ、流され。その力に逆らって、その流れと触れ合って。

 身体の芯まで疲れ果てるほどに、泳ぎ回ってしまいました。

 水は荒れていて、流れの隙間を通して貰うのが大変難しく。

 またそれが楽しくて仕方なくて、ひどく長い間泳いでしまったのです。

 しかし、なにゆえ荒れていたのか。私は不思議に思いました。

 河岸で手記を書き連ねる今も、不思議でなりません。


 上がってみますと、野草の籠が転げ、中身がグチャグチャに放り出されていました。

 見れば、周りの草地も荒れ、真っ直ぐと大きな道を作っているほどなのです。

 獣の群の仕業でしょうか。本当に困った物です。

 ようやく集め終えて、再び手記を記しておりますが、少し私は腹を立てていました。

 そんな私の気持ちに応えたかのように、社の方向の空も、赤々と染まって


(以後、この頁は空白である)




[手記Aの4]


 静々と、暮らしておった此方らを。

 荒くれ者が騒ぎ立て、ひどく不快にさせおった。


 母より憎き、三十六の子たる女。彼奴(きゃつ)であった。

 彼奴が兵を引き連れて、此方が家に乗り込みおった。

「貴様のせいで、貴様らのせいで!」

 騒々しい。耳に障ってならぬ声よ。

「貴様の如き、母様の気紛れで生まれおった、出来損ないの子風情が!」

「下らぬ者よ、そなたは何が言いたいか」

「母様に逆らいおって。母様に楯突きおって!」

 誠に下らぬ者であるか。

「此方は法を守ったのみよ。母が法を犯したがゆえ、此方は母より、ナハルビ様より袂を別った。

 そなた風情が口を挟むな。そなた風情が喚き立てるな」

 此方は一言付け加えた。

「それとも母が、彼のお方が、斯様(かよう)な言葉を送りおったか」

 彼奴は暫時(ざんじ)、言葉に詰まり。

 話に聞いた、人間族の幼子が如く、喚き散らして言いおった。

「母様はっ! 母様は、亡くなられたのだ! それを、それを!」

「ほう」

 此方は目を見開いた。

 四十四の子らより先に、彼のお方が身罷(みまか)られたと。


 此方の心に浮かんだ物は、何故だか嬉々とは言えぬ物。

 哀惜(あいせき)とすら、言っても構わぬ心の綾。


 それが可笑(おか)しく。己が分からず。

 此方は一つ、笑いを立てた。

「貴様、笑うか、笑うのか!」

「済まぬ。母が薨去(こうきょ)を聞いたがゆえ、笑っておるのでは無いぞ」

 此方の笑いは不意であった。まこと、己を笑っておって、母の事など一つも笑っておらなんだ。

 しかし、笑いは尽きる事無く。

 身首を折り曲げ、此方は構わず笑い狂った。

「火を、この不浄の者の家宅に火を放て!」

 彼奴が言葉に歯止めも利かず。

 此方は一人、笑っておった。

「貴様らが、貴様らが皆、悪いのだ!

 母様を妬んだ、下らぬ者どもを扇動して回りおって!」

 彼奴は目を血走らせ。

「貴様らのせいで、我らヤムゥーは最早、最早っ!

 四十四の子らの恨みを背負い、海にも帰られず死に絶えよ!」

 濁った声で吠えおった。

「者ども、殺せ!」


 近寄る兵の者どもに。

 此方は笑って応えてやった。

「のう、そなたら兵よ。祭司の仕事が何であるか、分かった上での狼藉(ろうぜき)か?」

「黙れ! 者ども、殺せ殺せ!」

 彼奴の言葉は耳に障る。

 眉を顰めて此方は言った。

「祭司の仕事は死者の埋葬。砕けた魂(たま)に声を掛け、海に帰すが儀式である」

 戈(か)を突き立てる、兵の一人に。

 此方は笑って応えてやった。

「何ぞ生者、何ぞ死者、違いの一つも有るまいて」

 此方の言葉を聞いた兵は。

 一塊の水となり、そのまま下にばら撒かれ、此方の家の床に沈んだ。

 狼狽しきった、彼奴の声。耳に煩(うるさ)き事であるか。

「貴様、何をしおった!」

「水に帰してやったのみよ」

 腹を刺したる戈を引き抜いて、此方はそれを放り捨てた。

「そなたらは、稀なる幸の持ち主よ。此方が祝を受けられるぞよ」

 左の兵が水に帰り。

 右の兵も水に帰った。

 此方が歩を進めるごとに、者ども皆を水に帰す。

 一人、一人、また一人。

 それを見遣った、彼奴の近侍(きんじ)の者どもは、我先にと逃げて行き。

 誰とも知れぬ、戈の一振りに、その身を裂かれて死に絶えおった。

 彼奴はそれに気付きもせなんだ。

「貴様が、貴様が悪いのに、貴様のせいなのに!

 何故だ、何故逆らう! 何故楯突く! 何故そんな、そんなっ!」

 甲高い声の、何と耳に障る事よ。

 彼奴の前まで歩み寄り、此方が足を止めし頃には、彼奴は手の戈を振り被り。

 背よりの一撃。貫かれた。

「なん、だ、誰だ──!」

「本官です」

「き、さま。やはり、きさま、ら、組んでい──」

 水を吐き出す彼奴の姿に。

 此方は小さく哀れんで。手ずから水へと帰してやった。


「四十の子。息災でしたか」

「二十一の子であるか。久方ぶりの訪(とぶら)いよな」

 濡れたる地面を踏みしめて。

 この者、二十一の子たる此奴と、此方は言葉を交わしておった。

「戈を刺された、腹の傷は大丈夫ですか」

「刺さっておらぬ。通して弾く術を用いた」

「そうでした。貴女は、魔法とやら言う外法(げほう)に長じているのでしたね」

 二十一の子たるこやつは、笑いを納めて言いおった。

「母様が卒去された事、三十六の子から聞きましたか?」

「戯言(ざれごと)やもと思うておったが」

「事実です。それに合わせて、ナハルビ様も隠棲される事となりました」

 此方の心に、感慨一つ浮かびもせぬが。

 それほどまでに、ナハルビ様は彼の母を、好いておったかと驚きはした。

「この事実が巷間(こうかん)に良からぬ噂を流しております。

 母様が、ナハルビ様よりご不興を買い、誅殺(ちゅうさつ)された物と。

 それゆえに、ナハルビ様が隠棲される流れとなった物と、密かに話されています」

「そなたはまこと、耳の良き事よな」

 此方は一つ、深い感心を覚えておった。

「元より、我らヤムゥーの眷属(けんぞく)は恨まれています。

 既に幾つもの暴動が起こっているのですが、このままでは更に酷い事態となりましょう。

 本官は全力を以ってそれを止めるつもりです」

「殊勝な事よ。社はそなたを妨げぬ」

「いえ。四十の子。そうではないのです」

 二十一の子たるこやつは、強く否んで言いおった。

「四十の子には、国の社の祭司に就いて貰いたいと思っています」

「此方は此方の仕事をするのみ。そなたはそなたの仕事をせよ」

 此方は答えて言った物よ。

「そなたが骸(むくろ)に変わる時、此方がそなたを水に帰そう」

「古き約束、本官も忘れていません」

 二十一の子は、続けて此方に言いおった。

「しかし、現状ではこの社ですら安全とは言えません。

 如何(いか)なる破局がこの先、待っていようか。恐ろしい限りです。

 ですから、本官としましては、信頼できる貴女に国の儀を任せたいのです」

 此方は再び、否んで言った。

「此方は帰す。そなたは宮で、政(まつりごと)を執る。なんぞ、困る事など有りはすまい」

「貴女は確かに襲われようとも、易々と殺される事はありますまい。しかし」

 二十一の子は、一呼吸開け、言いおった。

「三十九の、不義の子の子はどうでしょうか」


(後略)




[手記Bの4]


 走り帰ると、社の屋根から火が上がっていました。

 見れば、火は社その物を覆うように、燃え盛っています。

 高々と燃え上がる火に、私は怖れを抱きました。

 火は、水の妖をグズグズに壊してしまいます。本当に恐ろしい物なのです。


 火に怯え、私が目線を下へと移すと。

 社の前には見慣れた服装の男が二人。

 戦死者が着ている物と似ております。兵の方なのでしょうか。

 見れば、社に残られた祭儀の官のお方を足蹴にして、弄んでいました。

 祭儀の官のお方は、遠目にも、事切れていると分かりました。

 不意に、首が回って、こちらに顔が向きました。

 以前、社の事を、私に問うて来られたあの方でした。


 それを呆然と見ていた私の中で、火への怖れが落ちて、消えました。


 私は涙を堪えながら。

 懐の、祭儀の鈴を取り出しました。

 鳴らし、鳴らし、分かたれた魂を纏めてやって。

 私は初めて儀式を行い、骸を水に帰してやりました。


 鈴の音で、私に気付いた兵の二人は。

 私の方へと歩み寄って来ようとして。

 脇から振られた戈に、その身を引き裂かれました。

「大丈夫ですか、三十九の子の子よ」

 いつの間に、兵の二人に近寄ったのか、私には分かりませんでしたが。

 長大な戈を片手に、そのお方は私の方へ寄って来られました。

 知らぬ方で、藍の短い髪と、優しげな目元が印象的なお方でした。

 倒れた二人と同じ服装。同じ兵の方なのでしょう。

 私はその方の問いに答えました。

「はい。私は何もされておりませんので」

「本官は、社を害する者を排除しに参りました。祭司様はどちらに居られるか知っていますか」

「いつもでしたら、祭司様の家に居られる筈です」

「そうですか。三十九の子の子よ、気を付けて」

 そう言い、去られたそのお方を眺めやってから。

 私は倒れた二人を見下ろしました。

 祭儀の官たるあのお方を殺したであろう、二人。

 いま、去られたお方に、身と合わせて魂まで引き裂かれた、二人。


 骸となれば、誰であろうと帰す物と、祭司様は仰っていた事を思い出しながら。

 私は鈴を手に、歪んだ顔を直せぬままに、暫し立ち尽くしておりました。


 二つの骸を水に帰して。

 祭司様の家に戻ってきてみたのですが。

 先程のお方と、祭司様が、見合って話しておりました。

「──であれば、合いの子である彼女には危険が付き纏う可能性が高いです」

「そうであるか」

「仮に、この家に閉じ込めていても、それですら安全とは言えません。

 暴動の矛先はどちらに向くか、全く見当が付かないのですから。

 その点、本官の保護下である国の社であれば、何ら問題はありません」

 祭司様は、天井を仰がれて。

 その後、私が来ているのに気が付かれました。

「そなた。そなたも関わる事である。話を聞いてたもれや」

「はい」

 私は頷き、近寄りました。

 床一帯が濡れているのは、数多くの方を水に帰された跡なのでしょう。

 多くの戦死者を弔った折の事を思い出しました。

「この者、二十一の子よ。そなたは初めて会ったであろう」

「はい。先程、社の前でも顔を合わせましたが」

「成程。本官とは初対面であったのですね」

 笑んで、二十一の子のお方は仰りました。

「三十九の子の子よ。聞きなさい。

 我らが母様が亡くなられ、ナハルビ様が隠棲なされました。

 この話が曲がって伝わり、巷(ちまた)にはヤムゥーへの反感が盛っています。

 既に暴動が頻発し、幾名ものヤムゥーの眷属が殺されています。ゆえに、この社も危ういのです。

 本官としては、貴女と四十の子の二人に、国の社へ移って貰いたいと思っています」

 私は顔を歪めました。

 二人と、このお方は二人と仰せになられたのです。

「二十一の子のお方」

「何でしょう」

「他の祭儀の官の方々は、どうされたのですか?」

 二十一の子のお方は、力無く顔を振られました。

「先程の彼もそうでしたが、他に二人ほど、私は死を確認しました」

「そう、ですか」

 私は項垂(うなだ)れて、手で顔を覆いました。

 流れ落ちた、涙を見られぬよう。嗚咽も殺して。

「辛いのは分かりますが、早くに決断する必要があります。

 四十の子よ、ナハルビ様が隠棲された直後の今、混乱が極まる前に動かねばならぬのです」

 声が、虚ろに私の耳を通り抜けていきました。

「既に巷は、乱れ始めておるのかえ」

「三十六の子の他にも、兵を率いて動く者が出ています。

 特にヤムゥーへの反感の強い幾つかの地域で、暴動が起きていますから。

 自衛のため、鎮圧のため、また暴動を吸収して我らを襲うため。混沌としています。

 近在の街は未だ落ち着いていますが、それとて扇動者が現れるのも時間の問題でしょう」


 私の中に、唐突に一つの疑念が湧き上がり。

 それをそのまま、私は口にしてしまっていました。

「ナハルビ様は──」

「どうかしたのかえ?」

「ナハルビ様はなにゆえ、隠棲されたのですか」

 二十一の子のお方が答えて下さりました。

「それほど、我らが母様を愛して下さっていたのでしょう。

 静かに亡くなられた母様を見て、その後に漏らされたのです。隠棲する、と」

「ナハルビ様は──」

 私は、歯噛みして、言ったのです。

「ナハルビ様は無責任です!」

「なっ」

 二十一の子のお方は絶句されて。

 祭司様は目を大きく開かれていて。

 それでも私は言葉を止められなかったのです。

「皆が血を流し、死んでいく中、ご自分だけは去られて。何もせず。

 このような事態を放置したまま、隠棲されると言う。

 ノルノの国の争乱を、見もせず、語りもせず、隠棲されると言う。

 それではあまりに無責任ではありませんか!」

 私はただただ、口惜しかったのです。

 ナハルビ様が、ナハルビ様が何とかして下されば。

 祭儀の官のあの三方は、誰一人とて殺されずに済んだのだ!

 その思いが、私の心から次々に溢れ出て。

 堪らず、お二方の前で、私はその全てを吐き出していたのです。


 言い募る私に、二十一の子のお方は戈を持ち直され。

 私を鋭く見遣って、歩を進めようとなさったのだけれど。

 その戈の先を祭司様が手で止められました。

「四十の子、邪魔しないで下さい。

 いかに貴女が頼もうと、反逆者は斬り捨てねばなりません」

「此方に任せてくれぬかの」

「逃がすのであれば、貴女も合わせて斬ります」

「何、似た物であるが、異なる事よ」

 淋しく笑われて。

 祭司様は、目を細め、仰られました。


「三十九の子の子がそなたよ、この地より去るが良い」


(後略)




[手記Aの5]


 そなたは此方(こなた)の愛の子よ。

 そなたはそれを、知ってはいまい。


 そなたの言葉に此方は驚き。

 同じ心で、思うた物よ。

 そなたの心の在り様こそが、何より正しき水の妖。

 水に生きよる。それを以(も)って水妖足らず。

 一人で生きて。それを以って水妖足る。

 誰にも依(よ)らぬその姿をこそ、水の妖と名付いたかな。

 それはたとい、母であろうと、誰であろうと。一片たりとも依りはせぬ。水の如く、流れるのみよ。


 そなたは元より、一人で生きようその術を、知っておっただけの事。

 その心延(こころば)えこそ水の妖。その在り方こそ水の妖。

 何ぞ、水に生きられる。何の意味があろうかや。

 此方が愛したそなたの心。それが眩しく、映ったがゆえ。

 ゆえに此方は憧れた。ただそれだけの、事であったか。


 そなたの言葉はこの耳に入り。

 此方に一つ、気付かせおった。

 そも、此方の心に尽きなんだ、深き深き恨み辛みは、水に帰られた母に向かわず

 その心の向かった先は、正しくはナハ


(頁が破られている。次頁、裏の頁へ)


 そなたは此方をどう思うたか。

 恐ろしゅうて、結局訊きは出来なんだ。

 にも拘(かかわ)らず、こうして手記に、書き連ねたる此方の弱さよ。


 まこと此方は水妖に在らず。

 母の如きも、そなたの如きもなれなんだ。

 歪(いびつ)なヤムゥーの此方は思う。

 歪なるは身体に在らず。歪なるは心に在りき。

 歪、歪と言い連ねたる、此方の心に歪はあった。


 そなたは去った。自(おの)ずと去った。

 そなたを去らせた此方が思う。思って止まぬ思議がある。

 此方はまたも、捨てられたやもと。

 水に捨てられ、此度(こたび)はそなたに捨てられた。そう思うてならぬのだ。


 此方は甚(いた)く、涙脆くなった物よ。

 そなたを去らせたあの日と同じく、此方は再び鳴いておる。

 鳴きはすまいと思うても、この身を埋める気が納まらぬ。

 生まれてより後、三度も鳴くとは思わなんだわ。


 あまりに愉快。笑いが起こり。

 此方は鳴きに鳴きながら、一人笑い転げておるわ。


(白紙の後、頁が破られている)




[手記Bの5]


 あの日の事を思い起こして。

 私はもう一度、記しておこうと思います。


 ナハルビ様より力を授かった皆は、ナハルビ様を非難する言葉を持たないそうです。

 ゆえに、私が吐いた言葉は、他のどんな禁忌よりも重い罪が課せられる筈で。

 本来、その場で斬り捨てられる筈の物でした。

 しかし、祭司様が取り成して下さった。

 流刑に処するのであれば、国の社に移ると。そう仰られたのです。

 そのお陰で、私はナハルビ様の土地から出るだけで許される事になりました。


 今も、あの日の祭司様との話が、その情景が、頭に浮かんでやみません。


 祭司様は仰られました。

「ナハルビ様を、罵詈雑言で語るなかれ。三十九の子の子がそなたよ。親と同じくこの地を去れ」

「親たる三十九の子のお方も、同じ罪を犯されたのですか?」

 私の問いに、祭司様は首を振られました。

「四十四の子らの中、ナハルビ様を諷(ふう)した者すら、一人たりとて居りはせぬ」

「そうなのですか」

「そなたが為したる罪過の事は、空前絶後の事となろう」

 祭司様は、私の前までお出でになり。肩に触れられ。

 ふと目元を和らげられて、仰られました。

「それゆえ、そなたは国を出でよ。

 ナハルビ様の土地より出でて。そなた一人で生きるが良い」

「はい」

 私は頷いて答えました。

「祭司様の命、承りました。これより命を受ける事も、無いかも知れませんが」

 言い淀んでから、言いました。

「今まで良くして下さって、本当に有り難うございました」

「──疾(と)く、行け」

「はい」


 一抹の寂しさに襲われた私は、最後のその時、ふと顔を下げてしまいました。

 ですから、その時の祭司様のお顔を、覚えておりません。

 その事が、ひどく心残りです。


 私が一人、家を出て。

 火に取り巻かれた社を、目にした時に。

 祭司様の物と思しき、大音声が辺りに響き渡ったのです。

 祭司様が学ばれたと言う、邪道の技術、魔法の言葉でした。

 でも、私には分かりました。

 祭司様から魔法を教わった、私には分かりました。

 立派な水妖たる祭司様が、こんな簡単な魔法に言葉を唱える必要など無いのだと。


 声に応えて、雨が降りました。

 天から、身体に染みる、清い雨が降りました。

 社の火を飲み込む雨が。水に帰った皆を流し、海へと運ぶ雨が降りました。


 あの魔法のための言葉は何であったのか。

 もう私には、祭司様に訊ねる術はないのですけど。

 少しだけ、思いました。違っていたら恥ずかしい、そんな考えなのですが。

 私との別れを惜しんで下さって。

 ああやって、生まれた時に鳴くように、大きな声で別れを告げてくれたのでは無いかと。


 畏(おそ)れ多く、またとても考え辛い事なのですが。

 そうであったなら、とても嬉しい事だと思うのです。


 私はもう、河を下って、ナハルビ様の土地を離れようとしています。

 祭司様ともう会えないだろう事。亡くなられた、二人の祭儀官のお方を弔(とむら)えなかった事。

 心残りはありますが、全ては私が悪かったのです。

 自分が止められず、全てを吐露してしまった私が悪かったのです。

 自棄(やけ)だったのでしょうか。分かりません。

 ただ、我慢する事が、どうしても出来なかったのです。

 その時は、それが悪い事だとは思えず、そうするべきだと思ったのです。

 だから私は、例えあの場で二十一の子であるあのお方に殺されていても、後悔はしなかったと思います。


 私は一人で生きる事になりました。

 何故でしょうか、不思議と不安には思いません。

 こうして手記を書きながら、少し考えてみて、思い出しました。


 あのヤムゥーの母たるお方が、訪(とぶら)いの折、帰り際に教えて下さった歌の事。

 その昔、祭司様が歌って下さった歌と同じ、古きヤムゥーを歌った歌の事。



 そなたは一人の水の妖。


 そなたは元より一人の子。

 自由を愛し、自由に生きる。

 海を愛し、河を愛する。

 水を愛した孤独の子。


 そなたは一人の水の妖。



 私たち水妖は元より、一人であるのだと。

 ヤムゥーの母たるあのお方も、祭司様も、教えて下さりました。

 だから私は、少しも怖くはないのでしょう。


 一人で生きて、一人で死ぬ。そんな水の妖の生き方。

 その生き方を、お二人に示して頂いているのですから。

 何一つ、怖い事など有りはしません。

 怖いだなどと、言えません。


 ただ。


 水妖その物であったヤムゥーの母たるあのお方のように。

 私が憧れて止まない、あの祭司様のように。

 私も立派に、水の妖として生きられるのか、どうか。


 ただその事にだけは、少しだけ、不安を覚えているのです。







【蛇足 記されぬ話】


 その日も四十の子は、眷属(けんぞく)を看取って暮らしていた。

 ノルノの国を支える国の社も、水妖を統べる水の社も、彼女には何ら変わる事もなく。

 ただただ、その日その日を生きていただけの事であった。

 その日も、儀を行い終えて、社を掃き清めていた彼女であったが。珍しく来客があった。

 二十一の子であった。

「四十の子。久方ぶりです」

「懐かしきかな。そなたと会うは幾年(いくとせ)振りか」

「百や二百では効かぬでしょう。貴女は社から離れぬ物ですから」

「此方(こなた)は社に仕える者よ。何ぞ、離れる事などあろうか」

「変わりませんね」

 訪れた二十一の子はくすりと笑った。

 相好を崩したその顔は、疲れを宿しながら、ひどく楽しげであった。

 しかしそれも刹那の事。彼女は表情を引き締めて、四十の子に告げた。

「四十の子。貴女に伝えなければならない事があります」

「何ぞ、事でもあったかや」

「本官は国を追われ、亡命します。貴女も国の社から追われる事になると思います」

「そうであったか」

 箒を動かす手も止めずに、四十の子は頷いた。

 それを見た二十一の子はふっと身体の力を抜き、笑んだ。

「やはり、貴女は地位に拘らないのですね」

「此方の仕事は元より一つ。水に帰す。それのみよ」

「本官の、いえ、もう官ではありませんね」

 苦笑した彼女は、ふと遠い場所を見遣った。

「私の言葉を聞いて下さったのは貴女だけでした。あの時の事、忘れた時は一度もありません」

「此方も忘れはせぬ物よ。死に行けば、そなたが骸(むくろ)は此方が水に、葬り帰してくれようか」

 そう言い、カカッと笑う四十の子に、二十一の子はふと目を落とした。

「貴女には申し訳ない事をしてしまいましたね」

「何の事か、此方は一つも見当が付かぬ」

「そんな貴女を、国の社に引きずり出してしまいました」

「思い悩んでおったのか」

 手を止めて、四十の子はもう一度カカッと笑った。

「何ぞ、謝る事などあろうかや。此方が事は此方が決めた。元より他の、誰の責でもあるまいに」

「それでも、その選択肢を示したのは私です。私にはその責がある」

 目を伏せ、二十一の子は言った。

「ですから最後に、せめて母様が亡くなられた折の一件について、話しておこうと思い、来ました」

「好きに話せや。社の仕事は終えたゆえ」

「有り難うございます」

 礼を言った二十一の子は、話し始めたのでした。


「私は元々、三十六の子と対立していました。

 そもそも、三十六の子は、多くの者と対立しておりましたが。

 貴女の所に彼女が度々訪れたのも、貴女が私に与(くみ)している物と思っていたのでしょう」

「下らぬ事よ。此方は此方、そなたはそなた。与する事などあろう物か」

「政(まつりごと)は、敵か味方かでしか相手を見られない物ですから」

 二十一の子は溜め息を吐いた。

「思えば、ヤムゥーの母たるあの方は、三十六の子の事を憂い庇っておられたのでしょう」

「むべなるかな。彼のお方なれば、あるいはあるいは」

 二十一の子は目を細めた。ひどく優しげに。

「貴女も、その点だけは変わりましたね。あれほど恨んでいたのに」

「此方の心の歪みがゆえに、此方は母を憎んでおった。至らぬ事よ、恥ずべき事よ」

「それが貴女の手記にあったあの一節なのですね」

「如何にも然り」

 二十一の子は首を振った。後悔の念を隠さずに。

「手記を勝手に見て、破ってしまい申し訳ありませんでした。あれを、反対派に見られる訳にはいかなかったのです」

「無礼な事よ、此方は気にしておらぬがの」

「赦してくれるのですね……すいません、話が逸れてしまいました」

「気にせずとも構うまい。好きに話すが良かろうよ」

「有り難うございます。

 三十六の子は、本当に四十四の子の皆を表したような子でしたね。

 水を恋しながら、捨てられたがために恨み、水を疎んだ。水浴も厭(いと)うほどに。

 そして、地に執着した。ノルノの国に執着した。

 それゆえ、国に、国の持つ力に執着したのでしょう」

「そなたも力を手にしておるが」

「私の場合は、少し違っているのですが……。

 私にせよ、貴女にせよ、良くも悪くも違っていたのです」

「元より皆、水の妖。孤独に生きたる孤独の子よ。なんぞ、違って困るまいて」

「そう。貴女も私も、己を貫いた。

 ただ、四十四の子らはそれが出来ず。母に依(よ)って生きていた。それがために国を追われた」

「追うた者がおったがゆえ、去らされたるが正しき言よ」

「三十六の子も、他の皆も、私が去らせた物と思っていたのでしょうね」

 二十一の子に悔恨は既になく、どこか懐かしげに目を細めていた。

「世間の風評も、今はそう囁いております。

 邪魔な眷属を放り出して、軍権を握るために世の人々を扇動した扇動者と」

「そなたはその評、肯(がえん)ずるかえ」

「まさか。

 私が、扇動者となりうる者を監視していたのは事実です。

 それゆえに、ナハルビ様が隠棲された後にノルノの中枢権力を握り得た。これも事実です。

 しかし、己から扇動者たろうとした事はおろか、思った事もありません」

 二十一の子は四十の子を見据え、問うた。

「私の言、虚言であると思いますか?」

「そなたが虚言を吐くとは思えぬ」

「良かった。貴女にだけは、勘違いして貰いたくなかった。本当を言うと、これだけ言いたくて来ました」

「しかし、そなたは力を握った。なにを思うてそれを為したか」

「それは──」

 初めて二十一の子は言い淀んだ。

 所在なさげに周りを見渡してから、恥ずかしそうに、また四十の子へと目線を戻した。

「その、実は、私は海が見たかったんです」

「いつかはそなたも見る物よ」

「いえ、その。貴女には悪いのですが、私はこの目で海を見たかったんです。

 私が宰領する国が、海にまで達する事。それがただ一つの、私の望みだったのです」

「そなたが心は海にあったか」

「そのために、私も国を追われる事になってしまいましたが。また新たな国で、望みを追います。

 約束を果たせず、貴女には本当に悪い事をしたと思っています」

「なんぞ、困る事などあろう物か」

 四十の子は笑んで、改めて告げた。

「死に行けば、そなたが骸は此方が水に、葬り帰してくれようか」

 四十の子の答えに、二十一の子は目を見開いた。心の底から驚いていた。

 驚きは心を根底から揺り動かし。二十一の子は開いた口から、そのまま高らかと笑声を上げた。

「は、ははははは!

 そうですね、そう、私が死ねば、貴女の元に送られるよう取り計らいます」

「善哉善哉」

 互いの笑声は高き社の屋根まで届いた。

 涙を溢れさせて笑い尽きた二十一の子は、言った。

「貴女の厚情は忘れません。必ずや、報いてみせます」

「好きにすれば宜(よろ)しかろう」

「本当に、貴女は変わりませんね。自分勝手で。水の妖らしくて」


 去るべき時が近付き、ふと二十一の子は問うた。

「四十の子よ。今日は随分と機嫌が宜しいのですね」

「良き便りが届いたゆえよ」

「良き便り、ですか?」

 四十の子は微笑んだ。母が微笑むが如く。

「淫する者には、深き繋がりがあると聞く」

「繋がり。ああ、外法を用いた伝心網の事ですね」

「その繋がりに、小さき繋がりが生まれ出でたと聞いたのよ」

「確かに、最近は、固有の者だけで繋がる伝心網が作られているのだそうですね。

 しかし、それがどう良き便りなのでしょう」

「なに、作りたる者の名を聞けば」

 梁を見上げ、四十の子は言葉を吐いた。


「その名を、サルフィーティと言うのだそうな」


 聞き慣れぬ名に、二十一の子は目を細めたが。

 ふと思い当たり、これ以上はないぐらい、目を見開いた。

「まさか。あの」

「まさかよな。とうの昔に水に帰っておる物と、此方ですらも思っておったわ」

「そう、ですか。そうでしたか。それは確かに良き便りです」

 四十の子の笑顔が沁みたか、二十一の子は歯を剥き出しにして笑った。

「強い子でしたね」

「此方ら皆より強き者よ」

「そうですね」

 二十一の子は姿を消して、言葉だけをその場に残した。

「貴女の娘は、本当に強いのですね」



 二十一の子はそうしてノルノの国を去った。


 四十の子は荒れ果て捨て置かれた水の社へと居を戻し。

 看取って暮らす日々を、変わらず続けているのであった。


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