コミュ力とは何か
「コミュニケーション能力」という言葉は誰もが聞いたことがあると思う。
「コミュニケーション能力が大切だ」というような話もよく聞くだろう。
しかし、じゃあそのコミュニケーション能力ってどうしたら身に付くのよ、という話になると、たいていの人がそう易々とは答えられない。
そもそもコミュニケーション能力なんて概念は、ひどく漠然としたものだ。
「あの人コミュニケーション能力高いよね」なんていうのは「あの人いい人だよね」っていうのと同じぐらいに漠然とした評価である。
だがここでは、その漠然としたものの正体を、ズバッと一言で表現することに挑戦してみたいと思う。
これは、コミュニケーション能力が高いと評価される人が、具体的には何をやっているのか、という話でもある。
これを知って、確実に実践できるようになれば、コミュ障の僕もあなたも、コミュ力溢れる人の仲間入りだ。
ただし、事前に注意をしておきたい。
これは、これを知ったことによって即座にコミュ力が身に付く、という性質のものではない。
何故ならこれは、理屈としては理解していても、実践することはとても難しい類の事柄だからだ。
では散々もったいぶったが、本題に入りたいと思う。
コミュニケーション能力とは何か。
それは、「相手の身になって考えることのできる能力」のことである。
もったいぶったわりにまったく普通のことが書かれていて、拍子抜けしただろうか。
確かに「相手の身になって物事を考えろ」なんてことは、多くの人が、一度は耳にしたことのある言葉だと思う。
だけれども、それが「コミュ力の正体」だと言われて、ピンとくるだろうか?
一例をあげてみよう。
あなたが誰かに、今とても話したいことがあるとしよう。
それは面白いと思ったアニメの話でもいいし、テンプレの異世界転生モノの小説がどうしていけないのかという話でもいい。
とにかく、自分に何かとても話したいと思うことがあったときの気持ちを思い起こしてみてほしい。
あなたがそれを、とある小説投稿サイトにエッセイとして書き殴り、投稿したとしよう。
ここではとりあえず、あなたが好きなアニメの話を、その想いを、しかし感情に任せずその作品の良いところが論理立てて伝わるように文面にしたためたとする。
半日後に見ると、そのエッセイに感想が付いていた。
そしてその感想には、あなたの考えがいかにくだらないか、いかに間違っているかが、一見すれば論理立っているかのように見えなくもない文章で書かれていた。
きっとこのとき、あなたは不愉快に思うだろう。
そして不愉快に思ったあなたは、感情の赴くままに、しかし論理立てて冷静に(と自分は思っている)反論しようと試みるかもしれない。
視点を変えてみよう。
あなたがとある小説投稿サイトを眺めていて、目を引くタイトルのエッセイ作品にアクセスしたとする。
するとそこには、あなたが好きなアニメの悪いところを散々に書きたてた上で、それに比べて別のこのアニメはどうして素晴らしいかということが、一見論理立てて見えるように書かれていた。
だけどその内容は、あなたが好きなアニメの本質をまったく理解しておらず、そのアニメを実際に見たこともないんじゃないかと思うような稚拙な論理立てで構成されていた。
自分が好きなアニメに対する名誉棄損行為に腹が立ったあなたは、そのエッセイの内容がいかにくだらなく、間違っているかを、論理立てて、感想として書き殴った。
半日後に投稿サイトを見ると、あなたが書いた感想に、作者からのレスが付いていた。
その内容は、自分の過ちを認めるどころか、まったく角度の違う論点からの反論が書かれていた。
あなたが論じた内容の核心部分には触れようともせず、ちょっと言葉が滑った程度の枝葉末節の部分に対する批判が我が物顔で展開されていた。
しかもその文面からは、あなたを嘲笑するような態度が滲み出ている。
腹を立てたあなたは、そのエッセイの作者に対し、自分に対していかに失礼な発言をしているか、そして論点のすり替えを行なっているかを新たな感想として書いてゆく……。
こうして、憎しみが憎しみを生んでいくのである(笑)
「復讐は新たな憎しみを生むだけだって、何でわからないんだ!」とか、ロボットアニメの主人公とかが言いそうなセリフが良く似合う状況だ。
なお、これはよくあるコミュニケーション不全の一例として、僕がいま創作した架空の話である。
でも、たいていの人が、どこかでこういう光景を見かけているか、体験しているんじゃないだろうか。
つまり、こういう現象はいわゆる「あるあるネタ」なわけだ。
ではこれに対して、コミュニケーション能力のある人──すなわち、相手の身になって考える能力を持っている人は、どうするのだろうか。
まず、エッセイを書いた側としては、自分の書いた内容が、読者からどう受け取られるかを検討してから投稿する。
次に、半日後に書かれた感想に対して、この人は何を思ってこの感想を書いたんだろうと想像する。
そして、その感想に対するレスでは、自分が書いた文章は相手からどう読まれるだろう、相手はこれを読んでどう思うだろうということを想像する。
一方の感想を書いた側としては、このエッセイの書き手が何を思ってこのエッセイを書いたのかを想像してみる。
そして、感想を書く際には、自分が書いた感想を読んで相手(エッセイの作者)がどう思うかを想像してみる。
想像、想像、想像だ。
相手の身になったところで、自分は相手そのものではないんだから、相手の考えと100%ピタリと一致することはない。
でもそれでいい。
それだけでも、自分の立場からしか物事を考えないのと比べれば、現実問題としては、雲泥の差になる。
ちなみに先の例はネット上の話だが、リアルでも同じことだ。
相手は何を考えてそれを言ったのか、自分が今から発する言葉は相手からどう受け取られるのか、相手の身になって想像してみるのである。
イメージ的に言えば、自分が今、物理的に相手の正面に立っているなら、試しに幽体離脱して、相手の背後を取ったイメージを持ってみることだ。
その状態で、魂の抜けた「自分」が吐き出した言葉が、どう聞こえるかを検討してみるのである。
人それぞれかもしれないが、おそらくは、世界の見え方が大きく変わってくるんじゃないかと思う。
さて、ここまで話せば、僕が最初に注意したことの意味が分かると思う。
この「相手の身になって考える」というのは、理屈としては理解していても、実践するのはとても難しい類の事柄なのだ。
特に、自分が感情的になっているときには。
先の好きなアニメのエッセイに関する議論を思い出してみてほしい。
たいていの人は、こう思うんじゃないだろうか。
「なんで相手がこっちに対して先に失礼を働いてきている(あるいは攻撃してきている)のに、こっちが譲歩しなきゃならないんだ」と。
うん、僕もそう思う。
だから僕は、この「相手の身になって考える」という方法論が、コミュニケーション能力そのものであると言っていいほど重要な技術であることを認識してから、数年たった今でも、それを100%確実には実践できていないでいる。
だから昨日も今日も明日も、コミュニケーション不全を繰り返す。
だけれども、それを意識し続け、少しずつでも実践してきたことによって、確実に「改善」はしていると思う。
ちっとはマシになった、というやつだ。
ちなみに、勘違いをしないでほしいのが、僕は何もあなたに対して「相手の身になって考えろ」と言っているわけではない、ということだ。
例えば、コミュニケーション能力なんてどうでもいいと思うなら、こんな話は気にする必要はない。
やるもやらぬも本人の自由。当たり前の話だ。
コミュニケーション能力というものを身につけたいと思うなら、試してみる価値はあると思うよ、という話であって、それ以上でもそれ以下でもないという虚数解的な物言いをしつつ、このエッセイを終えたいと思う。
このエッセイを読んでの感想は、感想欄にどうぞ。
ただし、特に作者として付け加える内容がないようと思ったならば、既読スルーするかもしれませんのでその辺は悪しからずご了承ください。
このエッセイの内容を胡散臭く感じた人にも、このエッセイの内容を叩き台にして、コミュニケーション能力とは何かということを本気で考える機会にでもなればいいなと思っています。
感想欄に様々な意見が書かれていれば、そちらの内容を、思考を熟成させるための参考にしても面白いでしょう。