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三.偽りと真①

 静かな夜だった。そよ風に揺られる木々のざわめきと、何処からか響いてくる蛙の低い鳴き声だけが耳に入る。

 十七里真はひとり日和神社のベンチに腰かけ、携帯電話の画面を眺めていた。実は数分前から驚愕の事態が発生していた。

 妹の心緒からメールが届いたのである。

 無論、これまでそんな事は一度もなかった。彼女は真を心から嫌悪し、関わりを持つこと自体避けていたからだ。そこに突然のメールである。否が応でも何事かと身構えてしまう。

 緊張した指先で恐る恐るメッセージを開いてみる。


『今日も友達んちにお泊り?

 おかーさんがせっかくご飯作ったのにーって怒ってたよ。

 ていうか、ホントに友達? 実は彼氏だったりしてー?

 そーだったら今度紹介してよね、おねーちゃん!』


 冒頭の親しげな語り口から誤送信かとも思ったが、読み進めるうち、確かに自分へ宛てられたものだと分かった。

 どうやらパッチが当たってしまったらしい。そのせいで妹の真に対する感情が書き換わったのだろう。

 パッチは真が男だった過去を女へと書き換えたはずだ。そうなると、祖父による跡取り教育は行われなかったことになる。つまり、妹に怨まれる原因は消えてしまうのだ。故に二人は気のおけない姉妹という風に関係が改竄されたのだと考えられる。

 真は複雑な心境で受信メールの一覧を確認した。構成はがらりと変わり、女子からのメールが大幅に増えて、家族ともわだかまりなくやり取りをしているようだった。ただし、自分が送ったメールの文面は男の頃と同じで、相変わらず淡白なものだった。

 日中、寺浦が別れ際に「また学校で」と言いかけていたのを思い出す。やはりあれはパッチの適用が始まった兆しだったのだろう。踏切事故のことは、男に戻った後であいつにも打ち明けなければ、と真は思う。

 背もたれにもたれて大きく息を吐いた。境内には誰の姿もない。祭りが終わると、その関係者達は連れ立って宴会へ出かけてしまった。

 守薙はあれからずっと客間で考え込んでいる。どうにも彼女は棗が犯人ではない、――もっと言えば、少なくとも真に呪をかけてはいないという結論に導きたいようだった。

 初めのうちは色々質問を受けたり、仮説を披露されたりしたが、二時間が経過した辺りで口数が減って顔にも焦りの色が見え始めた。真はそのピリピリとした空気に耐えかねて、少し外気へ当たろうと出てきたのだった。

 夜空に煌々と浮かぶ月のおかげで、外は灯りがなくとも充分に夜目がきいた。携帯電話を手に取って時刻を確認する。二十時十分。約束の時間まで、もう一時間を切っていた。

 果たして守薙は答えを見出せただろうか。涙を溜めて棗を庇う彼女の姿を思い出す。もう一度あれを見ることになるかもしれないと思うと、心に淀んだ影が差した。

 しかし実はというと、真自身ももう一度事件のことを考え直していた。問題を自力で解けないのが気持ち悪かったのか、或いはひたむきな守薙の姿勢に感化されたのかもしれない。

 だがいくら頭を捻ってみても、やはり自分を女にした方法がどうしても分からなかった。もし犯人が呪返しを使ったのなら、ニエとサインをどうしたのかという問題が生じるし、呪返しでないなら密室の謎が立ちはだかる。一体どうすれば自分にエラーをかけることができるのか、皆目見当がつかず、真の思考は完全な暗礁へと乗り上げていた。

 ただ、それとは別にもう一つ、彼女には少し気にかかっている事があった。呪返しの利用を思い付いた時から、頭の奥底にずっと気味の悪い感覚が纏わりついている。それがただの思い過ごしなのか、それとも有意なものなのか、今の段階では全く判断がつかなかった。

 ぼんやりと控えめな星空を眺めながら、気分転換にその気がかりへ思いを巡らせることにする。取り留めのないアイデアを出しては綻びを探して否定する。そのサイクルを何度も何度も繰り返した。だが結局、何もそれらしい解は見つからない。

 あの違和感は考え過ぎだったのだろうか――、そう思った瞬間だった。

 ある閃きが脳裏を過ぎった。

 思わず息を呑んで立ち上がる。思いもしない着想だった。目の前の暗雲が晴れ、飛び上がるような浮遊感を感じる。

 だが直後に真は鼻を鳴らして座り込んだ。思い付いた内容が、あまりに奇想天外なものだったからだ。彼女は自身の突拍子のなさに苦笑し、その案をすぐさま退けようとした。

――が、できなかった。

 否定する材料が一つも見当たらなかったのだ。何回精査しても間違いが見つからない。いやそれどころか、全ての事象を矛盾なく説明することができた。

 まさか……。顔が引きつり、掌に汗が滲んだ。

 気を落ち着けようと手水舎で顔を洗う。凛と冷えた水が肌を刺した。遠くで走り出すバイクのエンジン音が鳴る。

 呼吸を整えて、もう一度理論に見直しをかける。だが誤りは見つからなかった。

 そんな馬鹿な……、嘘だろう。

 真はしばらくその場から動くことができなかった。微かに揺れる水面で、まだ見慣れぬ美しい少女がずっとこちらを睨んでいた。

 彼女は頭を抱える。思い付いたアイデアに間違いはない。ただ、その中身があまりにも受け入れ難かった。

 早く守薙に話さなければ……。いや待て、話せるのか? こんなにも残酷な内容を。

 何も証拠など有りはしないのだ。事実とは限らない。あくまで可能性の一つだ。そう自分に言い聞かせるが、頭の中で反芻する度に確信は増していった。これこそが真実だと。

 そんな真の迷いを断ち切るように、突然ポケットの携帯電話が振動した。タイムリミットに設定していたアラームだ。

 とにかく守薙の所へ戻らなければと思い、彼女はふらふらと闇の中を漂って社務所へと入って行った。




 客間の襖を開けると、中は真っ暗だった。薄く開いた障子窓から青白い月光が差し込んでいるだけで、人らしき影は見当たらない。

 真は訝しながらも守薙の名を呼んで中へ入る。しかし応答はない。

 お手洗いだろうか?

 そう思った瞬間、真横に何者かの気配を感じた。

 すぐさま振り返る。が、それと同時に思いきり突き飛ばされ、畳へ叩き付けられた。

 その何かが上に被さってくる。思ったよりずっと軽い。

 目を凝らすと、すぐ間近に真っ白な人間の顔があった。

 それは守薙だった。

 しかしその表情には人形のように生気がなく、瞳は彼方を見つめて光を宿していない。ただ無言で、はあはあと肩を揺らしながら息を乱している。凍てつくような風が首筋へ伝った。正気ではない、と直ちに理解する。

 真が声を出そうとした時、眼前の薄い唇が大きく開いた。綺麗に並ぶ白い歯が剥き出しになって、粘り気のある液体が数滴、真の身体へと滴り落ちる。

 そして制止する暇もなく、彼女は首元にかぶり付いてきた。

 皮膚に歯が食い込み、冷気と痛みが感覚神経を刺激する。

「守薙、落ち着け! 痛いって!」

 真は声を荒げながら、必死に相手の体を押しのけようとする。だが少女は逆に振り払われまいとますます顎に力をこめた。小さな口から湿った音が激しく響く。

「止めろ、守薙っ! 止め――」

 そう叫んだ刹那、首に激痛が走った。

「――(つう)っ!!」

 体内に何かが入り込んでくるような感覚と共に、生温かいものが肌を流れた。それはだんだんと溢れ出して広がっていく。

 その直後、忽然として首元の痛覚が弱まった。突き刺さっていた歯が抜かれ、少女が身体を上げる。彼女は呆けた表情のまま、手で自身の口元を拭った。そしてその液体の正体を確認すると、へなへなと後ろへ倒れ込む。

 真も遅れてゆるゆると起き上がる。畳が赤黒く滲んでいた。首にはくっきりと歯形がつき、幾筋か真っ赤な血が流れ出している。

「わ、私……、とんでもないことを……」

 へたり込んだ守薙が狼狽えきった声をあげた。

「すみません……! 本当にすみません!」

 彼女はそう詫びながら、何度も何度も頭を床へ押し付ける。真は堪らず言い放つ。

「止めてくれ、守薙。俺は大丈夫だ」

「大丈夫なんかじゃありません! 私のせいで、十七里さんまでオヌヒに……」

 つぶらな瞳がみるみる涙で滲んだ。

「十七里さんは私のために犯人を捜してくれたのに……。なのに私、勝手なことを言って、怪我をさせて、そのうえオヌヒまでうつして……! 最低です」

 流れ落ちようとする雫を堪えながら彼女は続ける。

「こうなることは分かっていたはずなのに……。私が逃げてばかりだから…! 本当にすみません!」

 そう言ってもう一度深々と頭を下げた。

 真は何も言えずに顔を俯ける。

 彼女は身を焦がすほどに憤慨していた。己の余りの愚鈍さに。

――守薙は、たとえ苦しくてもそれを人に見せるような人間じゃない。むしろ心配させまいと一人で全てを背負い込んでしまう。それは森で襲われた後や、事故の話をした時の事を思い浮かべれば、すぐにでも分かることじゃないか。

 オヌヒのようになってしまうかもしれないのに、祭りを呑気に手伝っているなんて……、本気でそう思っていたのか、俺は。どれだけ馬鹿で愚図なんだ。

 彼女は逃げていたんだ。どうしようもない不安から。苦しむ民衆が宗教へ、肩を痛めた寺浦が受験へ、孤独に苛まれた俺が本へ向かったように、彼女もまた心の安寧のために逃げ道を求めた。それが変わらない日常を過ごすことであり、大好きな推理に熱中することだった。

 神社で会った時、彼女はなんて言っていた?

『――でも皆が皆、強い心を持っているとは限りませんから……』

 あれは自分自身のことを言っていたんだ。

 どうしてそんな簡単なことにも気付けない!?

 いや、分かっている。理由なんて決まっている。

 俺は……、俺は他人の事なんて、これっぽっちも考えちゃいないんだ。

 自分の利益しか考えてない。考えられない。

 踏切事故の告白だってそうだ。どうして俺はあんな話をした?

 実直さが信条だから? 祖父がやったかもしれないから?

 違う。

 俺はただ罪悪感から、あれを打ち明けたんじゃない。

 期待していたんだ、俺は。

 彼女に許されることを。

 祖父が事故を仕組んだなんて確証は何処にもない。俺の妄想かもしれないし、本当なのかもしれない。そんな事は誰にも分かりはしないんだ。分からないから、向き合わなければ……、考え続けなければならない。

 なのに俺は、それを投げた。分からない事が苦しくて、耐えられなくて……!

 だから楽になりたかった。許されたかった。被害者である守薙に。

 証拠もない疑念なら、彼女は俺を咎めたりしない。「十七里さんのせいじゃありません」と言ってくれるって、分かっていたんだ。

 俺は……、どうしようもなく卑怯だ。

 実直さだって? そんなものは美徳でも何でもない。

 重要なのは、何のためにそうあろうとしたか、だ。

 俺は何のために正直であろうとした?

 相手のためなんかじゃない。自分だ。俺は、自分が祖父とは違うと思いたかっただけだ。醜い見栄を張る祖父と。

 そんな下らない自己陶酔のために、俺はこれまで散々心無い言葉を浴びせてきたんだ。相手を顧みずに。

 それが時には、寺浦のようにプラスへ働くこともあるかもしれない。

 だが、守薙に対してはどうだ? 不安に喘いで苦しむ彼女へ、俺はどんな言葉をかけた? 

 いずれ体が腐って自我を失うだとか、相当怨まれているだとか……、追い打ちをかけるような真似をしたんじゃないのか。

 結局のところ、……俺は祖父と同じなんだ。

 なにも違ってなんかいない。

 真は改めて泣き濡れる少女へ目をやった。肩を震わせて、ひたすら謝り続ける姿があまりに痛ましかった。

 本当に彼女へ告げていいのか? あんなに悲惨な内容を。

 そんなことを言って一体何になる? また傷付けるだけじゃないか。確証もない仮説で。

 ならばいっそ、このまま沈黙を貫いた方が……。

 そう思い至ってから、真は激しい憤りに駆られた。拳を痛いくらいに握りしめる。

――違うだろ!!

 そんなのは、全て言い訳だ。問題のすり替えだ。

 俺は逃げている。体の良い綺麗事を並べて、事実を告げることから逃げようとしているだけだ。

 このまま黙っていることが、本当に彼女のためか? 

 いや、違う。俺は彼女が悲しむ所を見たくないだけだ。嫌われたくないだけだ。

 そんな一時の感情に流されるな。ちゃんと向き合え、他人と。

 傷付いても、傷付けてもいい。

 彼女のために何ができるかを考えろ!

「本当に……、本当にすみません……」

 守薙は両手で顔を覆ったまま、譫言のように謝罪の言葉を繰り返していた。

 真は彼女をしっかりと見据えて話しかける。

「謝らなくていい。こんなので、何もうつったりはしない」

「でも――!」

 顔を上げた守薙の反論を制止する。

「分かったんだ……、何もかも」

 そう言ってポケットのハンカチを差し出す。彼女は礼を言ってそれを受け取った。

「俺の仮説は間違えていた。多分、今から話すことが真実だと思う」

「では、棗さんが犯人ではないんですね?」

 真はその問いかけに答えを返す。

「結論から言おう。昨日、俺達の身体をこんな風にしたのは、やはり棗だ」

「そんな……。では、十七里さんにどうやって呪をかけたんですか!?」

 彼女は首を振る。

「棗は呪なんてかけてない」

 守薙の表情が濁った。

「どういう、ことですか? まさか私達がこんなになったのは、エラーが原因じゃないって仰るんですか?」

「そうじゃない。俺は、棗は呪をかけてないと言ったんだ」

 一呼吸置いて続ける。

「彼女は呪をかけていたんじゃない。解いていたんだ。つまり俺は、――もともと女なんだよ」

 相手に反応はなかった。しかし真は淀みなく語り続ける。

「俺は女として生まれ、物心つく前に呪で男に変えられたんだ」

 そう、おそらくは阿知波グループの覇権を狙った祖父の手によって。

「そして今まで何も知らず男として過ごし、解呪されて女へ戻った。おそらくは君も……」

「ちょっと待って下さい!」

 守薙が声を荒げて話を遮る。その顔には引きつった笑みが浮かび、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

「それじゃあ私は、もともとオヌヒだったって言うんですか? そんなことあり得ません!」

「勿論、それはあり得ない。君がオヌヒのようになっているのは、二つの要因が重なっているからだ。棗にエラーを解除された後、人を食べたくなるという別の呪をかけられたんだよ」

「一体誰に……?」

 真は静かな口調で答える。

「タイソンだ」

「タイソンさんが? どうして……?」

「それは、彼こそがキジーツの運び屋だからだ。そして、棗の方がカドゥーシアスの捜査官なんだよ」

 彼女は相手を正視して説明を続ける。

「おそらくタイソンの話は、ほとんどが本当なんだと思う。彼がカドゥーシアスの人間だということを除いてね」

 でなければ、あそこまでスムーズに矛盾なく話を構築することはできない。

「俺の想像では、一連の出来事はこういう流れだったんだと思う。まず棗が、数日前に捜査官としてカドゥーシアスに加わった。彼女の言っていた、分厚いマニュアルの新しいバイトというのは、多分それの事だろう」

 カドゥーシアスは深刻な人材不足だ。特異点(シンギュラー)ならば、たとえ学生だろうと背に腹は替えられず雇い入れるだろう。

「そして昨日の夜明け前、タイソンは彼を追ってきたカドゥーシアスの捜査官――つまり、ナイフの男にオヌヒの呪をかけ、キジーツの受取希望メールを送信した。だがその後、何らかの形でもう一人の捜査官の存在に気付いた。しかし、その素性までは分からなかったんだろう。そこで彼は取引を中断し、ナイフの男を囮にその人物を誘き寄せることにした。その途中で俺達が、ナイフ男に出くわしてしまったんだと思う」

 守薙はハンカチを握りしめたまま、放心状態でこちらの話を聞いていた。

「――そこで、タイソンは俺達二人がエラーを患っていることを知った。そして制御の効かないナイフ男より、俺達の方が囮に相応しいと考えたんだろう。二人いるうえ、学生なら尾行も楽だ。登下校中、俺達に近付いてクリーナーを使う奴がいれば取り押さえる、っていう算段だ。ところがここで彼に誤算が生じた。俺達が学校にいる間にエラーを解かれてしまった事だ」

 真は目にかかる前髪を払いのける。

「さて、ここで視点を棗へ移そう。彼女は昨朝、俺達がエラーにかかっているのを見つけた。多分あの眼鏡を通してだろう。あれは視力矯正用じゃなく、エラーを可視化するためのツールなんだと思う。あのとき棗は眼鏡を外したにもかかわらず、遠くの保健室にカーテンがしまっているかがちゃんと見えていた」

 おそらくタイソンのサングラスも同様のものだろう。ナイフの男から剥ぎ取ったのではないだろうか。それ以外には、機密保持の誓約書も奪ったものに違いない。

「だがエラーの反応はあるものの、俺達の様子はいつもと変わらない。キジーツが持ち込まれたのが夜明け前だから、きっと棗は呪の効果がまだ表出していないのだと考えたはずだ。機密保持の誓約書があることから考えて、エラーの情報漏洩は最小限に抑えたい、というのがカドゥーシアスの基本姿勢だろう。だから棗は俺達に黙ってエラーを解くことにした。クリーナーに必要な体の一部には、特に制限がない。教室に落ちている君の髪の毛を拾って使ったんだと思われる」

 守薙の髪なら簡単に見つかるはずだ。なんせこれほど長くて真っ直ぐな黒髪の持ち主は、クラスに彼女一人しかいない。

「――そうです!」

 突如として彼女が大声をあげた。

「あの朝、私はちゃんと裏返りを感じました。それは呪を解かれたのではなく、かけられたという証拠ではありませんか!?」

「いや、それは違う。裏返りは呪をかけられた時にだけ発生するものではない。タイソンは裏返りを、人為的にエラーへ干渉することに起因した現象だと言っていた。つまり、クリーナーを使った時にも生じるということだ」

 その指摘に黒髪の少女は青ざめた顔で視線を落とした。

 ちょうど彼女と保健室から戻って来た時の棗が、同じように青い顔だったのを思い出す。おそらくあの時点で彼女はマニュアルを覚え切れておらず、裏返りの存在を知らなかったのではないだろうか。だから解呪の際に自分がへまをして、守薙へ害を及ぼしたのではないかと気が気でなかった。だがその後マニュアルを読んでその心配が晴れたのだろう、昼休みにはいつもの調子を取り戻していた。

「そして棗は放課後までに俺の身体の一部も入手して、同じようにクリーナーを使った。それで俺は女になった。いや、戻ってしまったわけだ」

 タイソンはエラーによる変化の速度を比熱に喩えて説明していた。例えば真の場合は、鉄。熱しやすく冷めやすい。つまり、呪をかけた時も解く時も変化が早いということだ。それは守薙に関しても同じことが言える。

「ここから視点をまたタイソンへ戻そう。彼は俺達の連絡を受けて、捜査官が学校関係者だと理解した。そしてもう一度クリーナーを使わせるため、君に呪をかけたんだ」

「一体いつですか?」

 守薙が虚ろな目で尋ねた。

「蕎麦屋でタイソンから呪のかけ方を教わっただろう。その時、君は彼の髪の毛を抜いた。あれがニエだ」

「でも、あれはちゃんと燃やして――」

「燃やす前に、手の中で他の髪の毛とすり替えたんだ」

「そんな……」彼女はハンカチを口に当てた。

「そしてその後、車で君は誓約書にサインをした。タイソンから借りたペンで。あれがニエ入りのキジーツだ。多分ページの繋ぎ目部分に小さく呪が書かれていたんだ」

 守薙が気付かなかったのも無理はない。全てが英語の条文など、普通の高校生は目を通そうとすら思わないはずだ。

「呪の内容は、『タイソン・ベン・キャロルは人が食べたくなる』といったところだろう。この呪なら、発動しても俺達にはオヌヒ化が進行したとしか思えない。あとは君が夜中に寝入ったところで、契約書を破って呪を返すだけだ。そうすれば裏返りも感じない」

 そう言い終わったところで、守薙がおもむろに口を開いた。

「では、……私の、この体は……」

 真は体を強張らせる。遂にここまで来た。

 心臓が止まり、体温を失い、呼吸すら必要のない体。そこから考えられる結論は……。

「守薙、君は……」

 喉で詰まりそうになる声をなんとか絞り出す。

「――もう、死んでいるんだ」

 室内を昏く冷たい静寂が支配した。真はそれでも言葉を続ける。

「去年の事故で意識不明になったろう? 多分その時に、君は死んだ。だがエラーが発生したためにそのまま生き延びることができた。おそらくは天然のエラーだろう。呪では、相手に有益な効果は生み出せない」

 守薙は涙で瞳を潤ませ、わなわなと薄紫の唇を震わせる。

「そんな……、そんなこと……!」

 途方に暮れた様子の彼女に、真は力強く語りかける。

「だが、まだ終わりじゃない。クリーナーを破壊すれば、治療はそこで止まる。そうすれば君は死なない。生きることができる。棗に頼んで止めてもらうんだ」

 しかし返事は返ってこなかった。

「守薙……?」

 目の前の少女は先ほどまでとは打って変わって、絶望も悲壮も消えた面持ちをしている。

「もう……、いいんです」

 彼女が小さく首を振った。

「いい……?」

「私はこのまま……、運命を受け入れます」

 何もかも悟ったようにそう言い放つ。

 真は頭が真っ白になった。

「何を言っているんだ。まだ活路はあるんだぞ?」

 理解できなかった。生きる望みがあるというのに、それをむざむざ見捨てるというのか。

 守薙が視線を落として答える。

「だって生き残ったとしても……、私の身体はこのままなんですよ? ずっとこの死んでしまった身体で生き続けなくちゃならないんです。もう誰と触れ合うこともできません。もしかしたら、皆と一緒に年を取ることだって……」

 真は身を乗り出して叫ぶ。

「だからって今すぐ死を選ぶ必要はないだろ!? だいたい君の両親はそんなことを望んじゃいない!」

「どうして、十七里さんにそんな事が分かるんですか?」

 守薙が引きつった笑みを浮かべた。彼女は胸に手を当てて声を荒げる。

「こんな体で生きていて、本当に嬉しいですか!? どんどん腐って、醜く崩れていってしまうかもしれないんですよ!?」

 大きな目にみるみる涙が溜まっていく。それを堪えるように彼女は天井を見上げた。

「私……、そんなの耐えられません」

 震えを押し殺して、ぎこちなくそう答える。

 その姿を見て真は直観的に理解した。

「違うよ、守薙。君が言ったんじゃないか。結果に意志も過失もなければ、罪なんかないって……!」

 間違いない。彼女は嘘をついている。

 守薙の肩に手をかけて諭す。

「妹さんが死んだのは、君のせいじゃない!」

 すると彼女は、かっと目を開いて大粒の涙をこぼした。

「ご存じ……、だったんですか……」

「君の財布の中を見てしまったんだ。すまない」

 真は小さく頭を下げた。

「君と父親の署名の入ったカードがあった。あれは、ドナーカードだろう?」

 持ち主以外の署名が入っているカードなど早々ない。そのため、臓器提供意思表示カードではないかと真は推察した。

「カードには、二〇〇九年八月二十三日という日付が書かれていた。今年法改正がなされるようだが、現在ドナーカードを持てるのは十五歳以上だ。律儀な君は当然それを守ったろう。だが昨日、君は自分をおとめ座だと言っていた。おとめ座の高校一年生が、去年の八月二十三日に十五歳であるためには、その日が誕生日である以外にあり得ない」

 おとめ座は一般的に、八月二十三日から九月二十二日の間に産まれた人間を指す。真は自身の星座が嫌で調べたことがあったので、それを知っていた。

「八月二十三日は、あの踏切事故が起きた日でもある。つまり君は十五歳の誕生日を迎えるなり、すぐにドナーカードへサインしたことになる。このことから、君が日頃から臓器移植に対して強い関心を抱いていたことが伺える。では、その理由は何か? 真っ先に浮かんだのが、ずっと入院していたという妹だ。おそらく君の妹さんは、何らかの臓器移植が必要だったんじゃないか?」

「……はい」

 守薙がうな垂れたまま頷いた。

「エラーがなければ、君はあの事故で死んでいた。もしそうなっていれば、君の臓器は妹さんに移植され、彼女は助かっていたはず――。君はそう考えているんだな?」

 肩を震わせながら彼女は言う。

「私がこのまま死ねば、パッチが適用されます」

「それで妹が蘇る、と?」

 真は眉間に皺を寄せる。

「タイソンが言っていたろう。パッチはソフト的改竄が優先され、ハード的な書き換えは抑えられる、と。君が死んでも、妹さんが蘇生する確率は極端に低い」

「でも、ゼロじゃありません!」

 目にいっぱいの涙を浮かべて守薙が訴えた。

「本来あの子は、生きているはずだったんです!」

「本来、だって……?」

 真の頭の中でタイソンの台詞が蘇る。

――エラーとは、間違いだ。起こってはならない過ちだ。放置すれば、本来の歴史とは異なる、誤った道を進んでしまうことになる――。

 間違いって、なんだよ……。

 真は歯を食いしばって首を振る。

「本来なんて……、そんなものは存在しない。エラーだろうが何だろうが……、どんなに悲惨で不条理でも、今が本当なんだ。それ以外ありなんかしないんだ。でなきゃ何のために……」

 何のために、俺はこの十五年間を苦しんできたのか。

 あの孤独と痛みに満ち溢れた日々も、その中で見出した至福も自由も、ただの間違いだったというのか。全てが全て、単なるまやかしだったと――。

 ふざけるな。

 俺の苦悶も喜びも……、

「――君が妹の死に胸を痛めた一年だって……、間違いなんかにされてたまるか……!」

 そう言うと、守薙の目からぼろぼろと涙が流れ落ちて、その赤らんだ頬を濡らした。

 息を詰まらせながらすすり泣く彼女を見て、真は話しかける。

「守薙、俺達は弱いよ。辛いことからすぐ逃げて……。あれさえなければ、あの時こうしていればって悔いてばかりだ。でも……、自分の意志で過去を変える事なんてできやしない。過去に対して俺達ができるのは、そこから何かを学び取ることだけだ。何かを学んで、次に繋げるしかない」

 その言葉は、祖父の受け売りだった。

「だから君は、妹の死を背負うしかない。背負って繋げることが、彼女に対してできる全てなんだ。それは、重くて苦しいことなのかもしれない。でも一人で抱え込む必要はない。君には支えてくれる人がいるはずだ。家族や友達……、それに、俺だって……!」

 目を見て言うつもりだったのに、最後の最後で何故だか真は俯いてどもってしまった。頭がのぼせそうなほどに熱い。

「十七里さん……」

 名前を呼ばれて振り向いた瞬間、いきなり守薙が抱きついてきた。

 あまりの驚きに全身の筋肉が収縮し、心臓が張り裂けそうなくらいに脈打つ。

 しかし彼女はその胸の辺りに顔を埋めると、思い切り泣きじゃくった。まるで幼子のように大声で喚きながら。

 彼女の目から次々と溢れ出てくるものが服へと染み込み、火照った肌を冷やす。

 そのしがみついている細い背中を抱きしめてやることができたなら、どんなに良かったか分からない。だが真は畳にしゃがみ込んだまま、どうしてもそれをすることができなかった。

 幾ばくかの時が過ぎて、守薙の嗚咽は止んだ。

 小さく鼻をすすりながら上げた顔には、泣き腫らした目がきらきらと輝いている。彼女はゆっくりと身を引いて畳に正座した。

「その……、ありがとうございました」

 横髪をかき上げて、気恥ずかしそうに耳を撫でる。

 真は頭をぼりぼりと掻いた。

「いや、これくらい別に……」

「え、本当ですか?」

 守薙が声を弾ませる。

「では、もう一回……」

「え!?」

 真顔で迫って来る彼女に、真は思わず後退った。

 白い肌の少女が手を合わせてうっとりとした表情をする。

「だって十七里さんの胸、柔らかくて張りがあって……、とっても美味しそうです」

「おい!」

 そう怒鳴ると、彼女は片目を瞑って小さく舌を出した。

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