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二.表と裏④

「これ、食べて下さい。手伝ってくれたお礼です」

 真は境内のベンチに待たせていた寺浦に、屋台で買って来たたこ焼きを差し出した。

「え、それは悪いよ。あれは俺が勝手にやっただけだし。いくら?」

 彼はお尻のポケットから財布を抜き出す。

「相手が勝手にやったことでも、利益を得たならそれに感謝を示すのは当然のことです。キジーツの話も聞かせてもらいましたし。ですからここは大人しく御馳走になって下さい」

 それを聞いて相手はぷっと吹き出した。

「なに、十七里家にはそういう家訓でもあんの?」

 面白そうに歯茎を覗かせながら冗談を飛ばしてくる。

「てか、実は守薙さんの財布を使ってたりして」

「使いませんよ!」

 そう否定すると、寺浦はまるで無邪気な少年のように破顔した。

 一緒に食べるように促され、真は彼の隣に腰かける。たこ焼は熱々で鰹節が湯気の中で踊っていた。こんな祭りの屋台で買ったものを食べるのは生まれて初めてだ。形はいびつでソースも大味だったが、なんだかとても美味しく感じた。

「それにしても、心緒さんて真とよく似てんね」

 寺浦が、はふはふと動かす口を左手で抑えながら言った。真は曖昧に返す。

「え、そうですか? あまり話したことがないので……」

「そっかあ。じゃ、あいつのこと訊いても、そんなに分かんないのか」

 彼は頬杖をついて遠くではしゃぐ小さな少年達を見つめる。

「どう、したんですか?」

「いや、あいつってちょっと変わってるんだよね。他人を寄せ付けないオーラ出しててさ。でも正直、本人が狙ってんのか、勝手に出ちゃってるのかがよく分からないんだよなあ」

 そう言って、抜けるように青い空を見上げる。

「俺は勝手に天然なんだって思ってたんだけど、今日ここに誘ったら、断られちゃってさ。それで、もしかしたら本当は狙ってやってたのかもって。……だとしたら俺、ウザい事しちゃってたかなって思ってさ」

 真は前を向いたまま小さく声を返す。

「いえ、そんな事ありませんよ。きっと……」

「そうかな、だったらいいんだけどさ」

 寺浦がそう呟いて、また右肩に手を当てた。心配になって彼女は尋ねる。

「肩……、どうかされたんですか?」

「ん? ああ、これね。別に痛いとかじゃないんだけどさ……」

 そのまま黙り込んだかと思うと、少しの間を空けてから彼はおもむろに口を開いた。

「俺、中学ん時ずっとバドミントンやっててさ、結構上手かったんだよ。でも去年の全国大会に行く途中、踏切事故に巻き込まれてさ。それで右肩壊して、医者にもう治らないって言われちゃったんだ」

 真の顔からさっと血の気が引いた。

「踏切、事故……?」

「そう、知らない? 去年の夏、そこの踏切で電車にトラックが突っ込んだやつ。周りの車とか巻き込んで、メチャクチャ怪我人が出たんだよ。俺、あんとき脱線した車両に乗っててさ」

「ああ……」彼女はなんとか返事をする。

「ほら、守薙さんもそれで入院してたじゃん」

――え? と声が出そうになった。寺浦としては、当然知っていると思っての言葉だったのだろう。だが、守薙と旧知の仲でも何でもない真にとっては初めて聞く話だった。

 混乱する頭を必死に鎮めようとする彼女を尻目に、寺浦は話を続ける。

「二度とバドミントンができないってなった時は、ホントすげーショックだったよ。つってももう受験も控えてたし、高校入ったらサッカーでもやるかって、気持ち切り替えて受験勉強に集中したんだ。でもいざ受かってみたら、急に無気力になっちゃってさ。そのとき結局、俺がやりたいのは他の何でもなくて、バドミントンなんだって気付いたよ」

 真はその語りを聞きながら、震えそうになる手をじっと押さえつけていた。

「――で、高校始まって最初に入部希望届が配られた時、後ろに座ってた真に話しかけたんだ。そん時もこんな感じの話をしてさ……。なんだろうな、同情して欲しかったのかな、俺」

 自嘲気味な笑いを漏らして寺浦は続ける。

「でもそしたらあいつ、『そんなに続けたいのなら、左でやればいいじゃないか』とか、すげーあっさり言いやがってさ。人の気も知らないでってマジでムカついたんだけど、……でも、それもそうかって同時に納得しちゃったんだよな。どうにかしてでもやってやろうって考えないで、やりたくて堪らないのにできないとか言ってるの、なんか変だもんな」

 彼は思いっきり背もたれにもたれて背伸びする。

「ま、おかげで今はすっげー楽しいよ。始めた頃の下手っぴに戻ったみたいでさ。……だから俺、あいつにはホント感謝してるんだ」

 そう言って穏やかな笑みを浮かべた後、照れくさそうに頭を掻いた。

――違うんだ。真は出かけたその言葉を、寸でのところで飲み込んだ。

「ごめん、何か変な話しちゃってさ」

「いえ……」

 それ以上の言葉が出て来なかった。寺浦は真っ白な歯を見せる。

「これ、恥ずかしいから内緒な」

 真はただ黙ってそれに頷いた。

「あれ? 寺浦じゃん」

 急に側面から若い男の声がした。顔を上げると、何人かの見知ったクラスメイトの顔が近くにあった。そのうちの一人が寺浦の肩をふざけながら小突く。

「お前、なに巫女さんナンパしてんだよ」

「ばっか……、違うっつーの!」

 冷やかされた彼は白い顔を上気させて、その手を振り払った。

 真はもう空になったたこ焼きのパックを持ってベンチから立ち上がる。

「それじゃあ、私はそろそろ仕事へ戻ります」

 それを追って寺浦も腰を上げ、まごつきながら言葉を返す。

「ああ、そっか。じゃあ、またがっこ……」

 そこまで言うと、彼は眉をひそめて首を捻った。

「――って何言ってんだ、俺。ごめん、また変なこと言っちゃって」

 真は静かに首を振り、頭を下げる。

「いえ……。では、またどこかで」

 別れの言葉を交わして、寺浦はクラスメイト達と一緒に雑踏の中へ消えて行った。それを見届けてから真は社務所の物陰を睨む。

「もう出て来いよ」

 建物の裏からサングラスの大男がのそりと現れ、不敵な笑みを浮かべた。

「よくタコなんて食べられるな」

「……いつからいたんだ?」

「いや、ちょっと様子を見に来たんだが、なにやらいいムードだったので邪魔し難くてな」

 タイソンは頭を掻きながらそう言い訳した。

「電話でいいものを」

「たまたま近くまで来たからな、そのついでだ」

 ついでじゃない。きっとわざわざ来たんだ。なんとなくそう思った。

「しかしお前、随分とその身体を満喫しているようじゃないか。いっそ戻らなくても良いんじゃないか?」

 巫女姿を眺めながら肩を震わせる彼を無視して真は尋ねる。

「……それで運び屋はどうなった?」

 相手にいつもの威勢がないことを察してか、タイソンが急に真面目な顔つきになった。

「悪いが捕獲はまだだ。すまない。今はある程度の居所を掴んで、絞り込みをかけている段階だ。だが既に逃げ道は塞いである。捕まえるのは時間の問題だ」 

「そうか。ところで、キジーツに関して一つ確認したいことがあるんだが」

「なんだ?」

「呪をかけるとき契約書へサインするだろ。その契約書にある呪と相手の名前は、呪う側がキジーツで書き込む必要はないのか?」

「ああ……、それが必要なのは、最後の署名だけだ。呪と名前に関しては特に制限などない。例えばパソコンで書いたものでも問題はない」

 やはりそうか、と真は頷く。昨日の呪をかける実演では、呪う側がキジーツで呪も相手の名前も書き込んでいた。その動作に引っ張られて、それが必須条件だと誤認していたのだ。

 寺浦に見せてもらった書込みは、『キジーツ使用者が該キジーツで、対象の氏名と呪の内容を書いた契約書に署名する』となっていた。この読点の位置から考えて、『キジーツ使用者が該キジーツで』の部分は、最後の『署名する』にかかっていると考えるのが妥当だ。

 呪と対象の氏名の記載には制限がない。そうなると、おおよそ守薙にエラーをかけた方法には見当がついた。まだハードルはあるものの、少し考えれば解けるだろう。それにともすれば、真本人の事件にも片が付くかもしれなかった。

「さっき守薙嬢の様子も見て来たが、問題なさそうだったな」

 タイソンの言葉で巫女装束へ着替える際のことが思い出され、左腋に一瞬寒気が走る。

「いや、予兆は出てきているんだが……、もう少しだけ待ってくれないか。危険を感じれば、すぐに連絡する」

「ああ、こちらとしても、お前が見てくれている方が有り難い。人手が足りないんでな」

「分かった。あとそれから、クリーナーの使い方を教えてくれないか。可能性は低いかもしれないが、貴方のいないところで俺達が犯人を捕まえることも考えられる」

 タイソンが頷いて説明を始める。

「クリーナーはこのくらいの紙切れだ」彼が両手で十五センチ四方の正方形を作った。

「この国の千代紙に似ているな。呪にも自然のエラーにも効き、使い方は簡単だ。まずは、クリーナーへ治療したいエラー患者の名前を書く。次にクリーナーを折り紙のように折って人形(ひたがた)を作り、その中へクランケの体の一部を混入すれば完成だ。エラー除去が開始され、だんだんとエラーがそちらへ移っていく。ま、身代わりみたいなものだな」

人形(ひたがた)というのは、どう折る?」

「そんなにかちっとは決まってない。大体人の形になっていればオッケーだ。折り紙にやっこさんというのがあるだろう。あれで問題ない」

 真にはその『やっこさん』が分からなかったが、検索すれば済みそうなので黙っておいた。

「クリーナーはキジーツと違って、使用する肉体の一部に制限がない。またエラー治療後にクリーナーが壊れても、再びエラーが戻ることはないから安心していい。ただし、エラー除去途中にクリーナーが壊れた場合、そこで治療が止まってしまうから注意が必要だ」

 そこまで説明し、タイソンは「なにか質問は?」と片手でサングラスをかけ直す。

「クリーナーは消耗品だって言ってたな。一枚では一人しか治療できない、という認識でいいのか?」

「いや、正確にはもっと厳しい。治せるのは一枚につき一エラーだ。つまり三種類のエラーに侵されたクランケがいた場合、クリーナーも三つ必要ということだ。ちなみにこのクランケにクリーナーを使った場合、新しくかかったエラーから順番に効果が適用され――」

 そこまで答えると急に彼は何かに気付き、慌てて建物の陰へ身を潜めた。真は怪訝な顔つきでそれを見つめる。

「どうしたんだ?」

「いや、ちょっと懐かしい顔が見えたもんでな……」

 背後の屋台が並んでいる方を振り返ってみる。行列が帰って来たせいか、境内にも祭り開始当初の賑わいが戻っていた。その中を見回してみるが、外国人らしき人物は見当たらない。だが一つだけ、達磨のようにまん丸い巨体が目に留まった。

「タイソン捜査官。貴方はもしかして、ケンブリッジ大の出身か?」

 そう尋ねると、タイソンは片方の眉を大きく上げた。

「どうして分かったんだ?」

「顔見知りというのは、あの太った天然パーマの男だろう」

 真の指先の延長上には、担任教師である福満の姿があった。他の教師数名と一緒にたい焼きを食べている。休日にわざわざ集まったのか、学校に来ていただけなのかは分からない。

「確かにそうだが……、お前も知り合いなのか?」

「高校の担任だ」

「担任? 教師になったのか。それは意外だな。……にしても大学時代とまるで変わらん」

 そう言って顎を撫でるタイソンへ質問を投げかける。

「親しかったのか?」

「いや、互いに顔を知っているくらいだ。向こうは有名人だったしな」

「有名? まさか、大学を主席で卒業したとか?」

 真は福満がよくする自慢話を思い出していた。

「主席かどうかまでは知らんが、そうでもおかしくない成績の持ち主ではあったな。教授陣によくうちの研究室へ来ないかと口説かれていたよ。あいつが帰国すると言い出した時は、家まで押しかけた教授もいたらしいしな」

 どうやら福満の話はあながち嘘でもなかったらしい。今まで勝手に疑わしい目で彼を見ていたことを、真は反省した。

「しかしお前、よくあいつが私の知り合いだと分かったな」

 大した根拠があったわけではない。ただ、タイソンがイギリスにいたことは分かっていた。彼が電話で話していた英語にはロンドンの下町言葉であるコックニー訛りが入っていたし、英国人がタコを苦手とするのも有名な話だ。あとは人混みの中で福満の肥満体が目立っていたこと、二人の年齢が良く似ていたことくらいしか判断材料はなかった。

「それにしても、あいつが教師とは驚きだ。てっきり阿知波に就職していると思ったが」

「どうしてだ?」

「帰国前に聞いたんだよ。阿知波家に御曹司の家庭教師として招かれたってな。ゆくゆくは阿知波の重役になれるかもって話だったと思うが……、まさか高校教師とは。さては学生を指導する喜びにでも目覚めたか」

 そう言って肩を竦めた後、タイソンは腕時計へ目をやった。

「おっと、私はそろそろ戻らなければ。じゃあ何かあれば、すぐに電話してくれ」

 軽く手を上げてから立ち去る彼を見送って、真は神札授与所へと戻る。彼女には、どうしても守薙に話さなければならない事があった。




 真は社務所にある客間で守薙が来るのを待っていた。彼女へ財布を届けた際に話したい事があると切り出すと、ここで待つように言われたのだ。

 客間は南側に窓があり、そこから差し込む太陽光が室内に美しい光と影のコントラストを作り上げていた。真はその幻想的な風景を静かに見つめている。背中は陽が当たってぽかぽかと暖かく、遠くから微かに響いてくる祭りの喧騒が心地良かった。

 彼女は既に巫女装束から普段着へと戻っていた。行列が戻って来たおかげで人員に余裕ができてお役御免となったのだ。

「お待たせしました」

 襖を開けてお盆を持った守薙が入って来た。艶のある黒髪はいつものように下ろされ、アイボリーのワンピースに淡い黄緑のニットカーディガンを羽織っている。

 彼女は日陰になった座卓の真向かいへ腰を下ろし、上品な手つきで緑茶を差し出した。

「実は、私も十七里さんにお訊きしたいことがあるんです」

「そうか……、なら君から話してくれ。俺の方は長くなる」

「分かりました。では……」

 薄暗い影の中で守薙は姿勢を正し、真っ直ぐな視線を向けてくる。

「このような立ち入ったことを訊くのは失礼かとも思います。ですが、今回の事件に関係しているかもしれないので確認させて下さい。十七里さんは、もしかして……」

 少女は短く息を吸って続ける。

「――阿知波グループの跡取りなのではありませんか?」

 その問いに、真はゆっくりと瞼を閉じた。守薙の改まった態度からある程度はこういう展開も予見したが、まさか本当にそこまで見抜かれているとは思わなかった。

「……どうしてそう思ったのか、理由を教えてもらえるか」

「はい。まず十七里さんのお話には、所々腑に落ちない点がありました。例えば、小中学でお会いしたことがないのに、ずっとこの近くに住まわれていること。にもかかわらず、例祭の存在を知らないこと。矛盾……とまでは言いませんが、ちぐはぐな印象を受けました」

 守薙が長い横髪を耳へかけ直す。薄闇にうっすらと浮かぶ青白い肌が、その動作を幽玄で蠱惑的なものへと変えていた。

「それから気になっていたのが、父のカメラに対する反応です。あの時の十七里さんは少し様子が変でした。そこで調べてみたところ、あのカメラの会社、ゼプツェンはドイツ語で『十七』という意味でした。そして創業者のお名前は、十七里平蔵(へいぞう)――」

 真は目を俯ける。

「……俺の祖父だ」

「十七里さんはこれまで多くの習い事をされているようでした。書道に柔道……、それからきっと英会話も。例祭を御存じでなかったのは、小さい頃から遊ぶ暇もなく厳格な教育受けてこられたからではないでしょうか。小中学は私立だったのだと思います。それなら学区が同じにもかかわらず、私と面識がないのも頷けます」

 守薙は一口お茶を啜ってから続ける。

「私は初め、それらは全てお爺様の跡を継ぐためかと思いました。ですが、それはあり得ません。お爺様の会社は二十年近く前に倒産していて、十七里さんが生まれた時には存在していないからです。ところが十七里さんは実際に英才教育を施され、さらには世襲に関して強い嫌悪感を抱かれています。何か他のものを継ぐことを期待されているのだと感じました。ですが、ご両親は二人とも勤め仕事です。だとすると、残るのは親族ということになります」

「それで、どうして阿知波に行き着いた? ゼプツェンを吸収したからか?」

「確かにそれも手掛かりの一つではありますが、結論付けたのは別の理由からです。授与所へ棗さんが現れる前、十七里さんは女性化させられた動機を『候補者削り』と仰いました。跡取りとして男性が望まれるという慣習は未だにあると思いますから、これは納得できます。しかし十七里さんは、この説を『すぐに戻ってしまう』からという理由で否定しました。確かに呪をかけたところで、女性になっているのは一時的でしかありません。エラーを解いてしまえばいいわけですから。ですがそれを理解しているのは、カドゥーシアスという組織を知っている人間だけです。キジーツを受け取っただけの犯人には知る由もないんです」

 キジーツの運び屋は、決してカドゥーシアスの存在を教えない。タイソンからは確かにそう聞いていた。

「にもかかわらず、十七里さんは動機を否定した。つまり十七里さんが思い浮かべられた犯人は、最初からカドゥーシアスの存在を知っているということです。ここで昨日、鎮守の森でタイソンさんに伺った話を思い出しました。そのとき挙がったカドゥーシアスのスポンサーは日本政府、三ツ岸グループ、そして阿知波グループです。その上層部にいる方々なら、カドゥーシアスを知っていると十七里さんは考えたのではありませんか?」

 真は正座したまま天井を見上げた。

「なるほど……、君は頭がいいな」

「いえ、そんなことありません」守薙が控えめに首を振る。

「俺の話もそれに関わる内容だ。少し長くなるが、いいか?」

 そう尋ねると、彼女は力強く頷いた。




 真の父方の祖父である平蔵は、およそ七十年前、当時の阿知波グループ総帥の末子として誕生した。ただし正式な子供ではなく、所謂妾の子である。そのため彼の誕生は一族内で歓迎されず、経済的な援助もなくて生活はとても厳しいものだったという。

 それでも彼はバイトや奨学金でなんとか大学まで進学し、卒業後にはカメラのフィルムメーカーを立ち上げた。その事業は成功を収め、会社は瞬く間に成長を遂げた。

 だがその繁栄も、ずっとは続かなかった。バブル崩壊の煽りを受けて資金繰りが悪化し、三十年近く続いた会社は倒産。阿知波グループの子会社に吸収される運びとなった。

 その結末は祖父にとって耐えがたい屈辱だったのだろう、と真は思う。何故なら祖父には、自分は阿知波の資産を受け継いだ他の親族と違って一から成功を成し遂げた、という自負があったからだ。幼い頃に味あわされた辛酸とそのプライドが、彼の原動力になっていた。

 それから一年ほどの歳月が過ぎた時、とある出来事が阿知波一族の間で激震を走らせた。

 当時十歳にも満たなかった阿知波家の長男――次期グループ総帥の最有力候補であった――、が死亡したのだ。そしてこれを機に、一族内は一触即発の冷戦状態に突入した。

 というのも、この死には不可解な点が多く、グループの覇権を狙った謀殺だったのではないかという疑念があったのである。そして、その主謀者と目されたのが現グループ総帥の弟である四条(しじょう)家だった。

 実は阿知波一族には、男系男子のみがグループ総帥に就けるというしきたりが存在していた。文化的に価値のある血筋でもないのに一体何の意味があるのか、と真は反感を覚えていたが、その掟は厳然たるものとして一族の間で今も守られていた。

 そして阿知波家の長男が夭折した際、この男系男子は四条家の長男しかいなかったのである。阿知波家もその後二人の子供をもうけたが、両方とも女児であった。

 そのような状況の中で、真は生まれた。

 彼は正式な一族の人間でないものの、れっきとした男系男子である、と彼の祖父は考えたのだろう。それに加えて、唯一のライバルである四条家長男は生まれつき体が弱かった。そこで祖父は真にグループを継がせて再び返り咲き、一族の連中を見返そうと目論んだのである。

 真が物心ついた時、祖父は既に家へ出入りしていて連日彼の帝王教育に注力していた。その指導は非常に厳しいもので、一日の時間を完全に管理されて、守薙が推測したように遊ぶ暇などありはしなかった。

 だが無論、幼い真の中には遊びたいという気持ちがあった。親に構ってもらいたかったし、友達だって作りたかった。だが彼がそう訴えると、祖父は激昂して怒鳴り散らした。そしてそれに抗う力は、彼にも彼の両親にもなかった。

 真の父はどうやら元来、父である平蔵に逆らえるような性格ではなかったらしく、公務員になって実家を出たのもその影響下から逃れるためだったようだ。母親の比佐子はというと、祖父の激しい恫喝にすっかり怯えてしまい、何も言い返せずにただ震えていた。そんな風に両親が責められる様を見たくないと思うと、結局の所、真は自分が大人しく祖父の指示に従うのが最良だと理解したのだった。

 学校は自宅から遠く離れた有名私立へと通わされ、帰宅すれば習い事と家庭教師が待っていた。書道、柔道、英会話にピアノ……、その他色々とやらされたが、真には才覚がなかったのか、どれも大した結果は残らなかった。偶に自由な時間ができたと思えば、そこでは仕事や問題に対処する際の考え方を祖父から叩き込まれた。真の基本的な思考様式の殆どは、ここで染み付いたものである。

 だがそんな暮らしを維持し続けるのは、一般的な収入しかない真の家には困難極まるものだった。母は家計を助けるためにパートへ出るようになり、節約のため日々の生活はどんどんと質素になっていった。

 そのしわ寄せを最も受けたのが、妹の心緒である。彼女は友達皆が持っているような物も何一つ買い与えられず、家族で何処かへ出かけるようなこともできなかった。おそらく我慢のしっ放しだったろう、と真は思う。

 それでも彼女は、ほとんど文句や我儘を言わなかったようだ。祖父に怒声を浴びせられる両親を散々目の当たりにしていたからだろう。だからこそ妹は祖父のことを心底嫌っていた。そして、彼に贔屓される真もそちら側の人間と見なしたようだった。

 そんな孤独と不自由にがんじがらめにされた生活の中でも、真には安らげるひと時があった。

 本を読んでいる時である。

 祖父はいつも彼に課題図書を与え、その概要と感想文を書かせた。科学や思想に関する内容が多く、真はそこから知識を得る喜びを見出した。

 新しい視点や思考方法によって、今まで分からなかった事を理解できた際は心が躍った。意識が肉体を飛び越え、規範や固定観念のくびきを断ち切って、高く高く、どこまででも飛べる――、そんな気さえした。おそらくあれは、縛り付けられた境遇から自由になりたいという欲求を、思考によって満たそうとする代償行為だったのだろう。

 そうして歳月は過ぎ、二〇〇九年の春、真は中学三年生となった。実はこの時まで祖父は、真の存在を阿知波一族に対してひた隠しにしていた。それは不審死を遂げた阿知波家の長男の二の舞となるのを恐れていたからかもしれない。しかしようやく機が熟したと判断したのか、祖父は真の高校入学と同時に、彼に跡取り候補として名乗りを上げさせると意気込んでいた。

 だが、その瞬間は訪れなかった。

 同年八月二十三日、真が柔道の稽古から帰宅すると、祖父はカーテンを閉め切ったリビングで灯りも点けずに独り立ち尽くしていた。視線は定まらず顔は真っ青で、誰が何を言っても返事をしない。ようやく口を開いたかと思えば、ただの一言だけ、『もう終わりだ……』と呟いて家を出て行ってしまった。そして、もう二度と現れることはなかった。

 それから数日後、真は四条家の長男が交通事故に巻き込まれたことを知った。

 そう、守薙や寺浦を襲った踏切事故である。

 



「君が車にひかれたのは、その時なんだろう?」

 真の問いに守薙は頷いた。

「はい。ちょうど妹の容態が悪化したと聞いて病院へ向かう途中でした。踏切待ちをしていたら、反対側から来たトラックが遮断機を突破して電車に衝突したんです。それで車両が脱線して、踏切の外まで飛び出してきて……」

 踏切へ突っ込んだ十トントラックはかなりの速度を出しており、電車は大きく脱輪したと聞いている。車両内の衝撃は相当のものだったろう。そのせいで寺浦は右肩を痛めたのだ。

「――それを避けようと慌ててバックした車に、はねられてしまったんです」

 そういう事だったのか、と真は理解した。

「……あの事故でトラックは、初めに踏切待ちをしていた乗用車へぶつかり、それを押し込む形で電車へ激突している。それが四条家の車だ。車体は電車とトラックに挟まれて大破。そのせいで運転手は帰らぬ人となったが、後部座席にいた長男は奇跡的に怪我だけで助かった」

 実は彼以外にも、この事故では多くの人間が幸運なことに負傷のみで済んだ。これは駅が近く、電車がそれほどスピードを出していなかったためである。そのため事故の規模にも関わらず、死者はトラックドライバーを含めて六名だけであった。

「だが、事故の原因は今でもはっきりしていない。現場にはブレーキ痕がなかったが、トラックの運転手に持病はなく、アルコールや薬物も摂取していなかった。劣悪な労働環境による疲労のせいだとか、自殺も疑われたが、決定的なものは未だにない」

 真は無意識に湯呑へ手を伸ばす。しかし中身はとうに空だった。

「――それから俺は、ずっと疑念を抱いていた。あの事故は、もしかして祖父が起こさせたんじゃないのかって。そしてそれが四条家にばれ、世継ぎレースから脱落させられた」

 膝に乗せた拳を強く握りしめる。

「だから……、あれは俺の祖父のせいかもしれないんだ。……本当にすまない」

 彼女は深々と頭を下げた。しばしの静寂の後、澄んだ声がかけられる。

「謝らないで下さい。十七里さんのお爺様が仕組んだという根拠はありません。もし仮にそうだったとしても、十七里さんに責はありません。結果に意志も過失も伴っていないなら、罪なんてあるはずがないんです」

 守薙はそう言い諭した後、胸に手を当てた。

「それに、私は大した怪我も負っていません。少し気を失っただけで、傷痕なども残っていませんし」

 彼女の優しい言葉と表情に、真はかえって耐えきれなくなった。

 寺浦の話を聞いてからだんだんと色濃くなっている疑惑が、本当なのではないのかと。それを確かめずにはいられなかった。

 彼女は恐る恐る口を開く。

「君の……、妹さんが亡くなったのはいつだ?」

 その直後、少女の表情は苦々しいものへと一変した。

 重苦しい沈黙を経て、彼女はなんとか答えを返す。

「……八月、二十四日です……」

 やはりそうか。真は奥歯を噛み締めた。

 踏切事故が起きたのは、去年の八月二十三日。守薙はそれから数日間、意識を失ったと言っていた。そして、彼女の妹がこの世を去ったのは事故の翌日――。

 つまり守薙は、事故のせいで妹の最期を看取ることができなかったのだ。

 彼女の妹が亡くなったのが去年の夏であることと、踏切事故の直前に容態が悪化してしたことを合わせると、その可能性は非常に高かった。

 室内に震える小さな声が響く。

「でも、それが重なってしまったのは、……偶然、ですから……。誰の責任でもありません」

 少女が俯くと、その長い髪で表情は見えなくなった。

「すみません……」

 細い指が目元へ当てられる。

 真はその姿を見据えながら胸が掻き乱されるような想いに駆られていた。

 妹との最後の別れを阻んだ事故。それはもしかすると仕組まれたもので、そして目の前にいるのがその関係者かもしれない。

 それなのに、守薙は俺を責めなかった。それどころか、全てを胸に仕舞いこんで俺を励ましてくれた。なのに、俺はなんだ……。

 身を焼くほどの憤怒に拳を震わせていると、不意に沈黙が破られた。

「あの……」

 頭を上げれば、再び微笑みを取り戻した守薙の顔があった。ただ、その目はまだ少し赤い。

「十七里さん。もし宜しければ、その後のことを聞かせて頂けませんか?」

 真は黙って頷く。

「今、お爺様は?」

「昨年の暮れに、肺炎で死んだ」

「そうですか……」守薙が追悼の意を述べた。

「祖父が来なくなって二ヶ月くらい後に、体調を崩して入院したって連絡が祖母から入った。若い頃からずっと酒と煙草をやってたせいで、体はもうぼろぼろだったらしい。多分気力だけでなんとかもっていたところが、ぽっきりと折れてしまったんだろうな」

 最後に祖父と会った時のことを思い出す。

「一度だけ、見舞いに行ったことがある。すっかりやつれて別人のようだった。ベッドに腰掛けた背中があまりに小さくて……、とても見ていられなかった」

 目を閉じると、あの時の光景が今でも鮮明に浮かんでくるようだった。

 夕暮れの病室。魂が抜け、骨と皮だけのようになった皺くちゃの抜け殻――。

「正直、亡くなったって聞いた時は少し安心したよ」

「……お爺様のこと、尊敬されていたんですか?」

 守薙の問いに首を振る。

「――分からない。頭は良かったし、言っていることも正しいって思えた。でも、他人のことは全く顧みない人だった。平気で人を傷付けて……。それに、酷く自尊心が強かったな。よく嘘をついて下らない見栄を張っていたよ。俺はそれが無性に嫌だった」

 だからこそ自分は正直であろう、と真は幼い頃から心に誓っていた。

「ただ、祖父が死んでも俺の生活はほとんど変わらなかった。もちろん習い事はやめたし、高校も公立へ進むことにした。あれ以上親に負担をかけるわけにはいかないし、続ける意味もなかったからな。でも、それだけだ。俺は相変わらず独りで本を読んで日々を過ごした。不思議なもので、あんなに自由になりたかったくせに、いざ放り出されてみれば、やりたい事なんて何一つ有りはしなかった」

 そう吐き捨てた彼女を、目の前の少女はまるで慈しむような瞳で見つめていた。真は一瞬、自分が懺悔でもしているかのような錯覚に陥った。

「友達も特に欲しいとは思わなかった。その必要性が分からなかったし、なにより俺には友情というものが理解できなかった。調べると、相手のために自己を犠牲にできることだとあったよ。でも俺には実践できなかった。知っててそんな事をやったって、ただの偽物でしかない」

「……だから、十七里さんは……」

 守薙が微かに声を漏らした。その続きを待っていると、彼女は「いえ、なんでもありません」と言葉を濁した。

「それで、ご家族とはどうなったのですか?」

「何も。元のままだ。妹は相変わらず俺を憎んでいるし、親も俺にどう接していいのか分からないって感じだな。まあ無理もない。あの人達には俺を生贄として祖父へ捧げたっていう、どうしようもない負い目があるからな」

 守薙がやり切れなさそうに目を伏せる。そんな風に彼女の顔が曇るのを見ると、真はどういうわけだか胸がもやもやとするのを感じた。

「――つまらない話を、聞かせてしまったな」

「いえ、そんなことありません。聴けて……、良かったです」

 優しい瞳がこちらを捕える。そこに湛えられた光は、微笑んでいるようでもあり、悲しんでいるようでもあった。

「まあ、そんなわけだから、四条家の関係者なら俺を女にする意味はある」

 阿知波家長男の不審死を受けて、グループ内に四条家を快く思わない勢力が燻っているらしかった。彼らが真を祭り上げる前に、四条家側が先手を打ったという可能性もある。

「本当にそのことは今回の件に関係ないのでしょうか? 四条家にもタイソンさん達のことを御存じでない方もいらっしゃると思いますが……」

 真はかぶりを振る。

「それは分からない。ただ、……犯人なら分かったよ」

「え!?」

 守薙が大きく開いた口の前に手を当てた。

「分かったんですか? 犯人が私達にどうやって呪をかけたのか」

「ああ。だがその前に、説明しておかなければならないことがある」

 真は寺浦から得たキジーツの取扱説明の内容を伝える。特に重要なのは、呪と対象の氏名を契約書へ記述する際に何ら制限がないことだ。その情報を聴く間、守薙は考え込むような姿勢でずっと瞼を閉じていた。

「……そうだったんですね。私、てっきり誤解していました。サインと同じく、ニエを取った本人が書き込まなければならないのかと」

 彼女が少し悔しそうに唇を噛む。

「でもそういうことでしたら、呪は第三者に代行してもらうことが可能なわけですね」

 さすが鋭い。真は前髪を払ってから言う。

「そうだ、サインさえすれば呪は完成する。サインする人間に害意がなかったり、契約内容を知らなかったりしても関係ない。つまり、無知の第三者にニエを取らせてキジーツで名前さえ書かせれば、自身は何のリスクも負わずに敵へ仇なすことができるということだ」

 守薙はそれには頷いたが、すぐに不思議そうに眉根を寄せた。

「ですがそれは結局、ニエを取った方が真犯人とは限らないというだけで、その正体へ繋がるヒントでもないと思うのですが……。それに十七里さんもご存じのように、私にはそもそもニエを取られた心当たりがありません」

 真は抑揚のない声で返す。

「ニエならちゃんと取られている。――俺が君に、な」

 しかしその言葉を聞いても、相手は怪訝な表情を浮かべたままだった。その無反応に真はさらなる言葉を重ねる。

「呪返しだよ」

 その直後に長い髪の少女は目を見開いてあっと声を漏らした。彼女も気付いたのだろう。キジーツに仕掛けられた悪意に。

「犯人は呪返しを使ったんだ。つまり君が俺に呪をかけた。オヌヒになる呪を。左手の手当に使った脱脂綿をニエにしてね。まあ、正確にはかけさせられたわけだが。そして犯人はその契約書を破壊し、呪を君へ返した」

 この手法なら守薙からニエを取らなくていい。しかも犯人は契約書を守る必要すらなくなる。かけられた呪は、死ぬまで消えることがないのだ。クリーナーがない限り。

「待って下さい。だとすると、十七里さんの呪も――」

「おそらく呪返しだろう。これなら密室トリックなんて不要だ」

 ニエには採取から七十七分以内という制限がある。そしてその制限こそが、真へエラーをかける際の密室を作り上げていた。だが呪返しならば、最初の呪さえ発動させればそれを返すのはいつでもできる。つまり物理準備室が密室だろうが全く関係がないのだ。

 真は初めてキジーツの使い方を聞いた時、ある程度の均衡性を持ったツールだと感じた。呪う側もリスクを伴っていると。だがそれは完全な思い違いだった。キジーツは呪う側が狡猾なほどに利益をもたらす、害意の塊だったのだ。

 なぜこんな簡単なカラクリに気が付かなかったのか。それはもともとキジーツを流す側がそう勘違いするように意図していたからに他ならない。

 取扱説明の『キジーツ使用者が該キジーツで、対象の氏名と呪の内容を書いた契約書に署名する』という文面は、明らかに誤読を誘っている。普通ならば『対象の氏名と呪の内容が書かれた契約書に、キジーツ使用者が該キジーツで署名する』とするだろう。

 しかも誘導はそれだけではない。キジーツという道具が、昔からよくある呪術に似ているのも意図されているはずだ。呪術では広く呪い返しの概念が散見され、呪う側もリスクを背負っているという。故に、キジーツはそれを連想するように作られた。呪をかけるには相応のリスクが必要だ、という思い込みを生むために。

 タイソンは、キジーツをばら撒くのは人材確保のためだと言っていた。つまり、これはその評価基準なのだ。先入観に惑わされず、呪返しの利用を見出せること。加えて、強大な力にも自身を見失わず、カドゥーシアスという敵対勢力の存在を想定しながら目的を達成できること。これらを併せ持つ人間こそが、キジーツ製作者の求める人物像に違いあるまい。

 今さらそんなことに気付いた自身の不甲斐なさに苛立っているところで、守薙が疑問を口にした。

「すみません、私が十七里さんのニエを取ったのはいいとして、では私はいつ契約書へサインしたんですか?」

「朝別れた後、君は教室でアンケートを提出しただろ。そのとき置いてあった紙に名前を書いたはずだ。多分それが契約書だったんだ」

 アンケート回収箱の横には、提出者を確認するための紙が置かれていた。そしてそれと一緒に記入用のペンも。守薙はそれで名前を書き込んだはずだ。

「君が教室へ来る直前に、紙とペンがすり替えられていたんだ。契約書とニエ入りのキジーツに。契約書の裏には、きっと俺の名と『オヌヒになる』といった呪が書かれていたはずだ」

 ただこのやり方では、他の人間が守薙より先に契約書へサインしてしまう恐れがある。だが問題はない。キジーツの取扱説明には、『ニエの条件に合致しない署名、及び対象名は呪に無関係な記述と判定される』、『呪に無関係な契約書内の記述は全て無視される』と書かれていた。つまり、他人のサインは全て無視され、守薙が署名さえすれば呪は成立するということだ。

「あの、十七里さん、裏返りはどうなるんですか? 呪をかけられた時には裏返りが発生します。もしあのとき呪が発動したなら、十七里さんが裏返りを感じていなければなりません」

 真には昨日の朝、裏返りを体感した記憶はない。だがそれも矛盾を生み出しはしない。

「俺はその時ちょうど物理準備室で仮眠を取っていた。睡眠中なら、裏返りが自覚できなくてもおかしくはない」

 守薙は納得したような表情を一瞬だけ浮かべたが、すぐに顔を左右に振る。

「やっぱり、その推理は成り立ちません。保健室の鍵を返してから私が教室へ移動するまで、ほんの一、二分です。そんな短い時間でニエを回収して記入用紙をすり替えるのは不可能です」

 確かにそれが問題だった。

 守薙は鍵を返却した後、教務員室を出てすぐの渡り廊下を通れば、もう教室のある南校舎二階だ。しかし犯人は、その間に教務員室で鍵を取って一階の保健室へ入り、それから南校舎の教室を目指さなければならない。それも守薙に目撃されずに、だ。とてもキジーツと契約書はすり替えられないだろう。距離が短すぎるため、走ったところで猶予時間は変わらない。

 だがその課題も既にクリアされていた。

「いや、できる。犯人は俺達が保健室から出た直後に脱脂綿を取り、そのまま教室へ向かったんだ。一方の君は階段で寺浦と話して教務員室へ寄ったわけだから、犯行にはかなりの余裕がある」

 守薙が手を前にかざす。

「ちょっと待って下さい。犯人はどうやって保健室へ入ったんですか。保健室は、私達が入る前も出た後も施錠されていました。鍵は十七里さんが持っていたはずです。つまり――」

 彼女は拳を強く握りしめて身を乗り出してくる。

「密室ということになります!」

 真っ黒な瞳がきらきらと輝いていた。どれだけ密室が好きなのだろうか。

 真は指を二本立てる。

「保健室には二つのドアがある。俺達が使った東側をドアE、もう一方の西側をドアWとしようか。犯人は俺達が鍵を取りに行く前に、ドアWの鍵をキーホルダーから抜き取っておいたんだ。鍵には通常ナンバーが刻印されていて、対応するドアによってその数値が違う。犯人はどちらがドアWの鍵か事前に知っていたんだろう」

 下駄箱からも教務員室からも、近いのはドアEの方だ。真達がわざわざ遠いドアWを使う理由はない。

「でも鍵はちゃんと二本ありましたよ」

「あれは偽物だよ」

「偽物?」

 守薙が首を傾げた。耳にかけていた横髪がさらさらと流れていく。

「物理準備室の鍵を無くした時、まんぷくがやった手だ。鍵かけがずっと空だったら不審がられるからな。あの人はあの時、見た目が似ている全く別の鍵を下げておいたんだ。今回の犯人も同じだろう。自分の持っていた鍵か、使わなさそうな別の教室の鍵を取って、代わりにキーホルダーへ付けたんだ」

 真達が教務員室へ入った時、教師は皆机に向かっていて誰も二人に気付かなかった。故に犯人が誰にも目撃されず鍵を付け替えることは充分可能だろう。

「犯人は俺達が教務員室へ行っている間にドアWから中へ入った。多分ベッドの下にでも隠れていたんだろう。その後、俺達がドアEの鍵を開けて入ってくる。あとは退室後にニエを取って教室へ向かうだけだ。君はアンケートを提出した後、お手洗いへ席を外している。その隙に契約書を回収して記入用紙を元に戻し、そこへ君の名前を書き込んでおけばいい」

 守薙が細い指を顎に当てて首肯した。

「なるほど。では、一体誰がそんなことを……」

「この方法を使うには、幾つかの条件がある」

 包帯を巻いた左手を相手に示す。

「まずこいつの手当てで、俺から君が奪ったニエが発生すると事前に分かる人物。昨日の朝その情報を直接聞いたのは、棗と寺浦だ。そして、俺達が一緒に鍵を取りに来たところを見た、まんぷくにも予想可能だろう」

 固唾を飲んで聞き入る守薙を見つめながら、真は淡々と言葉を続ける。

「だがトリックの性質上、保健室を出てから会った寺浦に犯行は不可能だ。それから鍵の返却時、教務員室にいたまんぷくにもアリバイが成立する。となると、残る人物は一人だけ」

 彼女は俯いて、溜息と一緒にその名を言い放つ。

「……棗だ」

 机の木目を凝視したまま言葉を続ける。

「彼女なら、ニエの発生を予見してから鍵をすり替える余裕がある。俺達を施錠された保健室へ誘導すればいいからな。その隙に教務員室でドアWの鍵を取る。保健委員で鍵を借りたことのある彼女なら、ドアに対応する鍵の番号を知っていてもおかしくはない。そして俺達が二階へ上がる際、校舎の反対側にある階段で一階へ下りて保健室へ入る」

 これで説明は全てだ。

 顔を上げれば、守薙が視線を宙に泳がせながら小さく頷いていた。推理に間違いがないかを確認しているのだろう。やがて澄んだ黒い瞳がこちらへ向けられる。

「確かに棗さんなら犯行は可能ですね……。凄いです、十七里さん!」

 机に身を乗り出して明るい笑顔を覗かせた。

 別に凄いことなど何もない、と真は思う。保健室からニエを回収する方法は、守薙がした密室トリックの推理と福満の策を混ぜたに過ぎないからだ。守薙なら少し考えただけで思い付いただろう。

「俺にエラーをかけたのも、おそらく棗だろう。タイソンに連絡して――」

 真が話している最中、突然室内に「あっ!」と大きな叫び声が響いた。

「……どうした?」

 守薙が語気を強める。

「違います!」

「は?」

「おかしいです! 棗さんが犯人だなんて、そんな……」

「おかしいって、何か今の説明に矛盾があったか?」

 そう問うが、彼女は血の気のない顔をさらに青くして言い淀むだけだった。推理に夢中になるあまり、今ごろ犯人がクラスメイトだということに気が付いた、ということだろうか?

 彼女は懸命な様子で訴えかけてくる。

「でも、あり得ないんです!」

 あり得ない? 何故そう言い切れるのか。真は理解に苦しんだ。

 守薙と棗は偶に会話する程度で、それほど仲がいいわけでもないはずだ。その認識は間違いだったのだろうか。

「棗さんが呪をかけるはずないんです。だって……、だって棗さんは……」

 彼女は首を振りながら、ずっと否定の言葉を唱え続けている。

 動機は真にも分からない。しかし極論すれば、そんなものは犯人にしか分かり得ないことだ。守薙だって言っていたではないか。自身に自覚がないだけで、怨まれていることもあるかもしれないと。

「だが、状況的に見て犯人は彼女だ」

 真が諭すように言うと、うっすらと涙を浮かべた視線が返ってきた。

「十七里さんは……、棗さんがこんなことをすると思いますか?」

「俺の主観は関係ない。彼女には犯行が可能、それだけだ」

「それは可能性があるというだけで、証拠にはなりません」

 守薙が毅然とした態度で言い放つ。

「それに、十七里さんの呪はどうなんですか? 呪返しには十七里さんがどなたかのニエを取り、キジーツで契約書へサインする必要があります。その心当たりがあるんですか?」

 確かに昨日、誰かからニエを奪った記憶はない。あるとすればタイソンの相棒だろうか。顔面に掌底を喰らわした際に彼が出血したかもしれない。だがキジーツの取扱説明では、既に死亡した人間に呪はかけられないとあった。ならば呪返しも使えない。それに、サインもしていないはずだ。自身の筆記用具以外で記名したのは、保健室で利用台帳に記帳した時だけで、しかも使ったのは鉛筆だった。ニエを入れる穴もないし、あれがキジーツとは考え難い。

 しかし真は動じずに返す。

「確かに俺の方はどうやったか分からない。だが、そんなことは彼女を捕まえて聞き出せば済むことだ。今は解呪を優先すべきだろう」

 だが相手も譲りはしなかった。

「いいえ、私は納得できません。犯人はきっと他にいます」

 強い意思の宿った眼差しが真の胸を射る。

 本気なのだろうか? 早くエラーを解かなければ、自身がどうなってもおかしくないというのに。容疑者がいたなら、まず確かめてみるべきではないのか。

「時間を頂けませんか、十七里さん。私が絶対に真犯人を見つけてみせます」

 守薙は凛とした顔つきで申し出た。きっとこれ以上何を言っても聞くまい。

 こちらは少々エラー除去が遅れたところで被害はない。解呪を急ぐ理由は彼女にある。しかしその容態はまだ落ち着いているように見える。ならば条件を呑んでも問題はあるまい。

 真はそう考えて壁に掛かった柱時計へ目をやる。時刻はいつの間にか十七時を回っていた。外を見れば、太陽は傾いてその光もやや黄昏色へ変わりつつある。

「……分かった、待とう。ただし九時までだ。時間になればタイソンへ連絡する」

 そう提案すると、守薙は丁寧に一礼した。

「ありがとうございます」

 頭を上げて再び見えた唇は、ぎゅっと結ばれていた。

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