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二.表と裏③

 守薙綺澄は神札授与所で正座し、隣の少女が淡々と話す言葉に耳を傾けていた。

「――で、二十分ほど仮眠を取って教室へ行ったら、君が倒れたと騒ぎになっていたわけだ」

 そう言うと、彼女は目にかかる長い前髪を指で払った。その巫女装束からすらりと伸びた細い首は美しい曲線を描き、白いうなじは一度見ると目が離せなくなる。先ほど社務所で味わった、舌触りの良い素肌と柔らかな肉の感触が口の中に蘇った。

 綺澄は湧き上がる衝動と黒い影を唾液と一緒にこくりと飲み込み、ゆっくりと深呼吸する。

「私は十七里さんと別れた後、教室でアンケートを提出して……、それからお手洗いに行きました。そして教室へ戻って来た時、あの裏返るような感覚に襲われたんです」

「それまでにニエを取られた心当たりは?」

 鋭い瞳がこちらを捕えた。

 綺澄は昨日タイソンから教わった内容を思い出す。ニエとはキジーツで呪をかけるために必要なもので、呪いたい相手の体の一部を指す。そしてニエには時間制限と、呪う側が呪いたい相手の肉体から直接切り離したもの、という限定があった。

「あれから七十七分前といえば……、ちょうど家を出た頃ですね。それから裏返りを感じるまでに接近したのは、十七里さんを除くと、タイソンさん、棗さん、福満先生、それから寺浦さんだけです。ですが、その誰からもニエを取られた覚えはありません」

 それどころか体に触れられた記憶すらない。唯一接触を持ったのは十七里の左手に包帯を巻く時だが、それも手が接していただけでニエを取れるとは思えなかった。

「なら、本人に気取られないよう取ったと考えるのが妥当だ。そんな事ができるとしたら、触覚のない部位……」

 十七里が自身の身体に視線を這わせる。

「爪か、……体毛くらいか。爪は難しそうだが、髪の毛ならいけるんじゃないか? 背後から鋏でこっそり切るとか」

「そうでしょうか? 頭皮は敏感ですから、髪の毛を触られると結構分かりますよ。気付かれないためには、かなり慎重に鋏を入れる必要があると思います」

 その提言に、彼女は自身のふんわりとした黒髪を何度か摘んで「確かに」と同意した。

「――だとすると、先の四人には無理か。そんな緩慢な動作では、一緒にいた俺が気付いているはずだ」

 他に手がないのかを考えて、二人はしばらく無言になる。しかし感付かれないようにニエを取る方法は全く思い付かなかった。

 綺澄は新たな切り口を模索する。

「私の方は犯人に繋がる手掛かりが少な過ぎますね。十七里さんの方はどうですか?」

「昨日俺からニエとなり得る血液を採取した人物は、二人いる。一人は左手を斬ったタイソンの相棒。そしてもう一人は、その傷口に脱脂綿を当てた君だ。だがどちらも血を取ったのは朝方で、俺の呪が発動した十八時には程遠い」

「では、きっと私と同じ手口ですね」

 そう相槌を打つと、十七里はそれを否定した。

「いや実は、十八時の前後に俺は物理準備室でうたた寝をしていた。偶然だったのか、犯人に一服盛られたからかは分からないけどな。とにかくそういう訳だから、気付かれないようにニエを取ること自体は可能だ」

 睡眠中の相手を起こさずに髪の毛を切り取るだけなら、確かに容易だろう。

「――ただし」彼女が語気を強めて付け加える。

「それとは別の大きな障壁がある。俺が裏返りを感じたのは準備室に籠ってからおよそ九十分後だ。だがその間ドアと窓はロックされ、鍵は俺が持っていた。つまり――」

「密室ですね!」

 綺澄は昂る感情を抑えきれずに叫んだ。直後に冷ややか目線がこちらへ向けられる。

「……なんで嬉しそうなんだ?」

「だって密室ですよ!? 凄いです! 本当に推理小説みたいじゃないですか!」

 そう言ってからふと気が付けば、美しい少女の顔が目と鼻の先まで迫っていた。長い睫毛がたじろぐように瞬いている。

 どうやら歓喜の余り、無意識のうちに身を乗り出してしまったようだ。

「す、すみません」と謝りながら後ろへ下がると、十七里は小さく咳払いをした。

「とにかく俺も色々考えてはみたが、どうにもアクセス可能な経路が思い付かない。だからできれば、君にエラーをかけた方法から考えたいんだが」

 その無慈悲な審判に綺澄は慌てて異議を唱える。

「待って下さい! 密室ということは、何か凄いトリックがあるはずなんです!」

「……だから?」

 相手に平坦な調子で促されて、彼女はしどろもどろになる。

「だから、えっと、その……、色々と痕跡が、――そう! 犯人へ繋がる痕跡が残っているはずなんです!」

「つまり、ヒントの少ない君の案件より、その密室トリックとやらを考えた方が近道だと?」

「はい!」

 綺澄は勢いよく頷いた。

 早く事件の詳細が聞きたい――、そんな想いで手足がウズウズとするのを抑え込んで、相手の返答を待つ。すると十七里は大きく息を漏らして、こちらへ右手を差し出した。

「何か書くものはあるか?」

 大急ぎで手近な引き出しから半紙と筆ペンを取り出す。彼女はそれを受け取ってから、建物の見取り図と「西校舎4F」という流麗な文字を書きつけた。

「わあ、筆遣いお上手なんですね!」

 そう声をあげると、十七里が伏し目がちに返す。

「ああ……、昔ちょっとだけかじったんだよ」

――まただ。

 このとき綺澄は、幾度か感じている小さな引っかかりをまた覚えた。この撞着とまでは言えないが、しっくりと来ない感じ。十七里と会話を重ねるほどにその感覚は少しずつ積み重なって、今や大きな疑問へと変化しつつあった。

 どうも彼女には何か秘密がある――、そんな気がしてならなかった。

「この一番端の部屋が物理準備室だ」

 白魚のような指が図面の一室を指し示した。

 西校舎四階には部屋が東西に四つ並び、北側に廊下、そしてその両端に階段が設置されている。綺澄の通う高校の校舎はどれもこれと同じ構造である。

 最も西側に位置する小さな部屋が、問題の物理準備室らしい。出入り口は廊下と物理実験室に面した二ヵ所。前者が引き戸なのに対し、後者は準備室側に開く開き戸となっていた。しかしその上にはバツ印が付けられている。

「こちらは使えないんですか?」

「ああ、棚に塞がれて開けられない」

 準備室内にドアを遮るように棚が書き加えられる。

「扉が古くて壊れそうだから使えないようにしているって聞いたな」

「つまり残る出入り口は、廊下に面した引き戸と南側の窓ということですね」

「そうだ。だが両方ともロックされていたし、ドアの鍵は俺が持っていた」

 十七里が右太腿をぽんぽんと叩いた。ズボンのポケットに入れていた、という意味だろう。

「確認なのですが、マスターキーは使えないんですか?」

「以前まんぷくに聞いた話では、マスターキーは厳重に管理されていて、生徒に貸し出すことはない。教師でも教頭以上の許可が必要だ。しかも誰が借りたか全て記録されている。故にマスターキーの使用はない、と思っていいだろう」

「では、合鍵は?」

「学校にスペアは用意されていない。次に犯人が作成した可能性だが、これも薄いと思う。キジーツが犯人の手に渡ったのは昨日の早朝で、しかも偶々だ。つまり事前に犯行の準備をする余裕はない。朝練の開始時間を考えれば、職員室が開くのは七時くらい。俺が準備室の鍵を借りたのが一時間後ってとこだから、合鍵を作るのは無理だろう。店も開いてないだろうしな」

「なるほど」綺澄は頷き、脳内で思考を巡らせる。たちまち頭の中で幾つかのアイデアを閃いた。だがそれを提示する前に確認すべきことがある。

「十七里さん、準備室に換気扇はありますか?」

「ああ、一番西側の天窓が換気扇になっている。とはいえ当たり前だが、人が抜けられるような隙間じゃない」

「勿論、分かっています。十七里さんが窓の施錠を確認したのはいつですか?」

「確か……、部屋から出る時だ」

「つまり、入った時は開いていたかもしれないんですね?」そう念を押すと、相手は頷いた。

「だとすれば、犯人は窓から侵入したのではないでしょうか」

「準備室は四階だぞ」十七里が無表情のまま指摘する。

「屋上からロープを使えばいけると思います」

「逃亡後の施錠は?」

「前もって窓鍵にテグスのような細い紐を付けて換気扇から外へ通しておき、それを引っ張れば施錠できると思います。さらに強く引っ張れば紐が取れて、回収もできます」

 筋は通っていると思ったが、彼女がすぐさま「それはおかしい」と否定する。

「え、どうしてですか」

「西校舎の南側はグラウンドだ。ロープでぶら下がっている人間がいたら、運動部の連中に丸見えになってしまう。昨日も校庭では野球部が練習していたしな」

 確かに尤もな意見だ。この案は却下して次の説へ取り掛かることにする。

「では十七里さん、物理準備室にいた際、何で時間を確認していましたか?」

「準備室の壁に掛かっている時計だ」

「その時計が細工されていた、というのはどうでしょう?」

 一瞬の沈黙の後、十七里が顎に指を当てて視線を落とした。

「……なるほど、面白い」

 彼女は皆まで言わずとも理解したようだが、一応綺澄は説明を続ける。

「十七里さんが準備室に入った時、時計は正しい時刻を指していました。でも居眠りをされている間に、早まったのではないでしょうか。つまり、十七里さんが裏返りを感じたのは十八時でなく、実際にはもっと早い時間だったんです」

「それなら俺が準備室へ籠る前に、何らかの方法でニエを取っておけばいいことになるな。なかなか面白い着想だ」

 そう言って十七里はこのアイデアを褒めてくれたが、その台詞にはまだ続きがあった。

「……しかし残念だが、その可能性はない」

 棄却された理由をこちらが問う前に、彼女は説明を始める。

「俺は目を覚まして時計を確認した後、携帯を操作したからな。時間がずれていれば、そこで気付いてしまう。それにあの時の日の傾き具合からして、呪が発動したのは十八時前後でまず間違いない」

「そうですか……」

 どうやら時計が早められていた可能性はなさそうだ。他の推理へ移ることにする。

「十七里さん、物理実験室は放課後、誰かが使っていますか?」

 相手が首を振るのを見て、綺澄は準備室と実験室を繋ぐ扉を指差す。

「でしたら、侵入経路はここではないでしょうか」

「邪魔している棚は?」

「ドアごと押すんです」

 十七里が表情を濁らせた。綺麗な顔をしているのに勿体ない、と綺澄は思う。

「この棚はそんなに軽くないぞ。実験器具が大量に収納されているからな」

「物を押す時に重要なのは、質量より摩擦です。摩擦が小さければ、どんなに弱い力でも物は動きます。少しずつにはなりますが」

「静止摩擦係数か。つまり、摩擦が小さくなるような敷物をしていた、と?」

「はい。低摩擦シートを敷くだけなら、十七里さんが朝、準備室の鍵を借りる前に終えられるのではないでしょうか」

 今度こそはと期待したが、この推理も了承はされなかった。

「それは無理だな。俺が言ってなかったのが悪いんだが、この部屋の棚は地震対策のため壁に固定されている」

「え、そうなんですか」

 綺澄は動揺する。棚が動かないとなると、残っている仮説は一気に減ってしまう。

「うーん……、だとすると、ドアも窓も完全に侵入不可能ということでしょうか」

「そもそも君の言う密室って、そういう意味じゃないのか?」

 十七里の真一文字に結ばれた口元が綻ぶ。カメラを構えていなかったことを少し後悔した。

「それはそうですが……。でももし本当に密室なのだとしたら、犯人は最初からずっと中にいたことになります」

「怖いわ!」

 今度は声を張り上げて、少女は身を縮こまらせた。一昨日まではあまり感情を表に出さないイメージがあったが、こうして話をしてみれば意外と表情豊かな人物である。

「鍵は日中、十七里さんが持っていたわけですから、その前には室内へ入る必要があります。おそらく朝、十七里さんが鍵を借りる前に開錠だけ済ませ、鍵を返却しておいたのではないでしょうか? そうすれば部屋に入って中から施錠し、隠れておけばいいことになります」

「それで仮眠を取り終った俺が出て行った後に退室する。昼間は鍵を開けっ放しにしておいて、放課後いち早く準備室へ行って身を潜め、呪にかかった俺が出た後に逃亡するわけか。極めて簡潔でいいと思うんだが、問題点が二つあるな」

 彼女が包帯を巻いた左手の人差し指を立てた。

「まず、どうしてわざわざ放課後に呪をかけたか。その手法なら朝でも密室にできるはずだ」

「えっと、そうですね……、アリバイ作りとか、容疑者を増やすためでしょうか……?」

 さらに中指を立てて続ける。

「それから、あの部屋には隠れられるようなスペースがない」

「え? 棚に入れないんですか?」綺澄は首を傾げる。

「それは無理だ。ほとんどがガラス戸になっていて、中が透けているからな。一番下の引き出しだけは別だが、深さが十五センチくらいしかなくて人間の隠れられる大きさじゃない」

「うーん、棚は固定されているわけですから裏に隠れるのも不可能、ということですか……」

 またまた外れてしまったようだ。もはや残ったアイデアは次で最後になる。

「でしたら残るのは、呪をかけたのが十七里さん自身、という場合だけですね」

 相手が鼻で笑った。

「ちょっと待て。呪で記憶は操作できないぞ。それとも俺は夢遊病か?」

「いえ、十七里さんが白を切っているのではないでしょうか?」

 そう疑問を呈すると、困惑と呆れの入り混じった声が返ってきた。

「いや……、ないでしょうか? って俺に言われても」

 それでようやく自分の非礼に気が付く。

「あ、そ、そうですよね。すみません。私、とっても失礼なことを……」

 羞恥で顔が上げられなくなった。

「夢中になると、あまり周りが見えなくなるもので……」

「それは重々承知している」

 推理を全て外した上に、無礼なことまで言ってしまった。自身の不甲斐なさに打ちひしがれてしょんぼりと小さくなっていると、透き通った声が優しく耳を撫でてきた。

「行き詰ってしまったようだし、次は見方を変えて動機から絞り込んでみるか?」

「そうですね」と綺澄も同調する。

「君をオヌヒにして利益を得そうな人物がいるか?」

 しばらく黙考してみるが、特に思い当たる節はなかった。

「駄目ですね、思い浮かびません。私に自覚がないだけで、怨んでいる方がいらっしゃるのかもしれませんが……」

「そうか」十七里が息を吐く。

「しかし、相手をゾンビにしたいなんて発想は、生半可な怨恨じゃ思い付かなさそうだが。体は腐乱していくし、常に飢えと倫理観の葛藤に苛まれる。下手に殺すより、ずっと(たち)の悪い苦しめ方だ。相当怨まれているんじゃないか、君は」

 そう言って冗談ぽく笑ってみせる。その言葉は胸の奥底にずしりと響いた。

 しかし意地悪な言い方をしているものの、これは彼女なりの慰めなのかもしれなかった。

「もう、酷いです」

 綺澄は片側の頬を膨らませてから、ぎこちなく微笑みを返した。

「十七里さんの方はどうですか? 誰かお心当たりは?」

「俺か? 怨んでいるとしたら……」十七里は目を細める。

「……妹、だろうな」

「そんな、どうしてですか」

 胸が痛むのを感じながら尋ねたが、相手は諦めたような笑みを浮かべてかぶりを振った。

「――といっても、犯人とは思えない。普段からろくに顔も合わせていないから、ニエも採取できないだろうしな。それに女にするというのがどうにも……。確かに俺は嫌だが、かけるならもっと別の呪にするはずだ」

「では、女性にしたという観点から何か思い付きますか?」

「俺を女にする意味……、か」

 彼女は黙って考え込むと、しばらくして「……候補者削り……」と小さく漏らした。しかし、すぐさま否定の言葉を口にする。

「いや……、ないか。すぐに戻ってしまうしな……」

 ところがその台詞は、綺澄の胸にかかっていた(もや)を晴らすには充分なものだった。

 ちょうどその時、視界の端にこちらへ駆け寄って来る人影が写った。授与所に用がある参拝者の方だろう。慌てて向き直ったところで明るい声が飛んでくる。

「守薙さん、可愛いー。巫女服、ちょー似合うね」

 棗が手を振りながら近寄ってきた。彼女はボートネックのTシャツとデニムジャケットに、フレアレースの付いたショートパンツという装いだった。亜麻色の髪は左右でお下げに結ばれている。ボーイッシュでありながらも可愛らしいスタイルだ。

「お参りご苦労様です」お決まりの文句で一礼してから返事を返す。

「棗さんこそ、私服とっても素敵ですね。眼鏡もやっぱり似合ってます」

 彼女の顔には昨朝と同じくオレンジ色の眼鏡がかけられていた。

「へへ、ありがとー。たまにはいっかなって思って」と片目を瞑って得意げに笑う。

「とってもいいと思います! 十七里さんも、そうおも――」

 そう言いながら横を向いて、はっとする。驚愕と焦燥の眼差しがこちらへ向けられていた。棗がフレームを両手で押さえながら、きょろきょろと辺りを見回す。

「え。となりん来てるの?」

「ああ、いえ! そのっ、と、隣の方も、そう思いますよね、と……」

 なんとか取り繕おうとするものの、横から睨んでくる顔が「それは苦しいだろ」と言っているようだった。さらにその顔を今度は棗が不思議そうに見つめる。

「あれ? そう言われるとこっちの人、なんだか、となりんに似てるような……」

 あわわわ……、ど、どうしましょう?

 完全なパニックに陥っていると、十七里が落ち着いた様子で頭を下げた。

「初めまして。十七里真の親戚の者です」

 その台詞に綺澄は面喰う。

 というのも、この同級生が嘘をつくのを今まで見たことがなかったのだ。決して長い付き合いではない。しかしそれでも実直さをポリシーとしているのは簡単に読み取ることができた。

 その彼女が嘘をついた。いや、つかせてしまったのだ。綺澄は自身の至らなさに恥じ入るばかりだった。

「へー、そうなんだ! 道理で似てるわけだー。あ、でも失礼か。となりんは、こんなに美形じゃないしー」

 棗さん、本当に失礼になっています! と危うく声が出かけた。

「私、となりんと同じクラスで、棗柚葉っていうの。名前訊いてもいーい?」

 そう尋ねられて、十七里が一瞬固まった。何も考えていなかったのだろう。嘘に慣れていないのだから仕方がないともいえる。

「十七里……、み、心緒です」

「心緒ちゃんかー、スタイルちょーいいね。グラビアアイドルみたい。いいなー、私ももうちょっと大きくなるといいんだけど……」

 棗が切実そうに胸の小さな膨らみに手を当てた。

「少しでいいから分けてー」

「分ける方が難しいです」

 即座に飛んできた切り返しに、彼女は笑みをこぼす。

「ははっ、中までとなりんみたい」

「な、棗さんは、お一人で来られたんですか?」

 綺澄はなんとか援護しようと話題を切り替えた。

「うん、バイトの休憩時間に寄っただけだから。あ、でもさっき下で爽ちゃんにも会ったよ。守薙さんの巫女姿を楽しみにしてたから、そろそろ上がって来るんじゃないかなー。ほら、噂をすればだ」

 石階段の方へ目をやると、まさに背の高い茶髪の少年が上ってきたところだった。清潔感のあるシャツの上に黒のベストを身に着けている。彼はすぐこちらを見つけて、軽やかな足取りで近寄って来た。

「やあ、守薙さん。すげー綺麗だね。驚いちゃったよ。さすが本物は違うなあ」

 そう言って爽やかな白い歯を覗かせる。同年代の男性に面と向かって褒められることなど早々ないので、変に気恥ずかしくて照れてしまう。

「いえ、そんな……。そもそも私もバイトですし」

 棗が寺浦の袖を掴んで嬉しそうに引っ張る。

「爽ちゃん、爽ちゃん。こっちの心緒ちゃんて、なんと! あのとなりんの親戚なんだって」

 紹介された十七里が澄ました顔で会釈するが、寺浦はその姿を見つめたままただ茫然と立ち尽くしていた。まるで一人だけ時間が止まってしまったかのようだ。

 棗に「どしたの?」と不思議そうに問われ、彼ははたと我に返る。

「え、……あ、ああ。初めまして、寺浦といいまうっ」

 一瞬の静寂の後、皆が一斉に吹き出した。

「爽ちゃん、噛んでるし……!」

「うっせーな」

 寺浦は赤くなった顔を手の甲で隠し、きまりが悪そうに目を背けた。いつも余裕を醸し出している彼が、こんな風に取り乱しているところは初めて見たかもしれない。

 そのまま四人でしばしの間歓談していると、松葉色の袴を穿いた中年女性が小走りで近寄ってきた。事務員の蔵田(くらた)さんだ。

「ちょっと悪いんだけど、どっちか荷物運ぶの手伝って。いっぱいあって大変なのよ」

 すぐさま十七里が名乗りを上げて立ち上がる。きっと襤褸(ぼろ)が出るのを恐れてこの場から離れたいのだろうと思い、素直に任せることにした。しかし、少し遅れて「俺も手伝います」と寺浦がそれを追いかけて行ってしまった。

 遠くなった三人の背中を見据えながら、棗が顎に手を当てて顔をにやけさせる。

「ははーん、さては爽ちゃん、アレだなー」

「あれって何ですか?」

 首を傾げると、彼女が嬉しそうに耳打ちしてきた。

「一目惚れだよっ、一目惚れ!」

「え!?」綺澄は思わず両手を口に当てる。

 なんということでしょうか。寺浦さんが十七里さんに? 確かにあんなにお綺麗なのですから仕方がないのかもしれませんが、男の子どうしでそんな……。だ、駄目です! いけません……っ!! 

 顔から火が出るような気がした。俯いて両手で頬を覆い、火照りが冷めるのを待つ。

「ついに爽ちゃんにも春が来たかー。これは応援してやらないとなー」

 棗はニヤニヤと笑みを浮かべて頻りに頷いている。

「私、あの二人、結構いい感じだと思うんだよねー。美男美女どうしだし、それに……」

 彼女はまた近付いて内緒話をしてくる。

「心緒ちゃんて、ちょっととなりんぽいじゃん。だから爽ちゃんとは上手くいくんじゃないかなー? ほら、となりんて爽ちゃんと仲いいし。っていうか、爽ちゃん以外に友達いないし!」

 それは言い過ぎでは……。綺澄は必死にフォローを入れようとする。

「で、でも、棗さんだって十七里さんと仲いいじゃないですか」

「そ、そお? 私は爽ちゃんが喋ってたから、話すようになっただけなんだけど……」

 棗は視線を逸らし、頬の辺りを指で掻いた。

「初めはすっごい変な人って思ったしなー。となりんて、いつも不機嫌そうな仏頂面してるじゃん。リアクションも薄いし。だから、あんま話しかけなかったんだよね。でも爽ちゃんが宿題とか教えてもらってたから、ふつーに話せる人なんだって思って『私も教えてー』って頼んだんだよー。そしたら、いきなり『報酬は?』だもん。びっくりしちゃった。なに、この人。殺し屋? みたいな」

 綺澄はつい笑みをこぼしてしまう。

「ふふっ、十七里さんらしいですね」

「結局チロルチョコあげたら教えてくれたんだけど、今度は私、となりんの説明が全然理解できなくって。そしたら次は『君は根本から教えないと駄目だな』とか言い出して、中学の範囲から延々教え始めちゃってさー。しかも二時間以上かけてだよ? 私、チロルチョコ一個あげただけなのに」

 そう言って苦笑いを浮かべた後、その小さな少女はふと表情を和らげる。

「……でもその時にね、ああ、この人はすごい人なんだなって思っちゃった」

 彼女の頬が花びらを付けたように桃色へ変わり、澄んだ瞳はどこか遠くを見つめていた。

 綺澄はその意味に気付いて、なんだか無性に嬉しくなる。思わず口元が緩んでしまった。その様にはっとした棗が、顔をさらに紅潮させながら早口で捲し立てる。

「で、でもっ、酷いんだよ、となりん! 私がちゃんとお礼するって言ったのに、あのいつもの澄まし顔で『大した能力もない人間に低レベルな仕事を頼むのだから、報酬は安くて当然だ』とか言ってさ。これって私、すっごい馬鹿にされてない!?」

 綺澄はニコニコとした笑顔を浮かべたまま「そうですね」と相槌を打つ。

「うう……、守薙さん、ホントそれ誤解だから~」

 湯気が出るほどに顔を真っ赤にさせた棗へ、彼女はぎゅっと拳を握る。

「私、応援してます!」

「だから違うってばー!!」

 その叫び声と同時に遠くから太鼓を打つ音が響いた。行列が巡幸から戻って来たらしい。

「あっ、私もう戻らなきゃ!」

 棗が唐突に携帯電話へ目をやって、わざとらしく言い放つ。

「じゃあね!」と逃げるように立ち去る彼女を、綺澄は幸せな気持ちでずっと見つめていた。




 十七里真は弁当が入った段ボール箱を抱えて境内を移動していた。

 一歩一歩歩くたびに冷や汗が出そうになる。荷物自体はそれほど重くないのだが、ぶかぶかのボクサーパンツが太腿まで垂れて今にも脱げ落ちてしまいそうなのだ。

「大丈夫? 重いなら後で俺が運ぶよ」

 隣で大量のお茶を運ぶ寺浦が心配そうに声をかけてきた。

 うるさい、話しかけるな。今集中が途切れると、重力に負けてしまいそうなんだ。そう言い返してやりたかったが、何故かお淑やかに「大丈夫です」なんて返事をしてしまった。

 囚人と看守を例にして、人間が与えられた役に無意識でなり切ってしまうことを証明した実験があった気がしたが、なるほど確かにそうらしい。といっても、いささか侵食されるのが早過ぎる気もするが。

 寺浦が突然、荷物運搬の手伝いを買って出た際、真はそれを謝絶するつもりでいた。彼にタダ働きさせるわけにもいかないし、左手の包帯に気付かれるのも厄介だ。だが何より問題なのは、彼の肩だった。

 寺浦は中学時代、バドミントンでトップクラスの選手だったと聞いている。ところが去年右肩を痛めてしまい、中学最後の全国大会に出場できなかった。いやそれどころか、医者には二度と肩は治らないと言われたらしい。現状、痛みはないようだが、そんな状態で重い荷物を持っていいとは思えなかった。

 そんなわけで申し出を断ろうとしたのだが、事務員の女性陣が突如馳せ参じた美少年に俄かに色めき立ち、管理職とみられる女性の鶴の一声であっさりと承認されてしまった。

 肩のことは気になったが、今の自分がそれを知っていたらおかしいし、本人が何も言わないのだから大丈夫なのだろうと納得することにした。

 そういうわけで、左手の包帯を袖で隠しながら行列参加者の食事を運搬していたのだが、先程からどうにも寺浦の様子がおかしい。いつもののべつ幕なしな軽口は鳴りを潜め、時おり喋ったと思えば舌っ足らずで、全体的に落ち着きがないようにも見える。呪にでもかかったか、と勘繰ってしまうほどだ。

 初めはその挙動不審ぶりから、もしや……、とも思ったが、わざわざ手伝いに付いて来たことから、彼が犯人である可能性は薄まった。というのも、キジーツを使った犯人は特異点(シンギュラー)になっているため、パッチによる記憶改竄が適用されない。つまり「巫女姿の少女=十七里真」という風に皆の認識が変化しても、犯人だけはそれに気付かず別人扱いをしてしまう可能性があるのだ。これをやってしまうと、「自分が犯人です」と自白したに等しい。そんなリスクを冒してまで、今の真と接する合理的な理由は何も思い付かなかった。

 運搬先で荷物を下ろし、さりげなくずれた下着の位置を戻す。次の段ボールを取りに戻る途中で、呪のペン――つまりキジーツの情報を訊きだそうと、真は話を振ってみる。

「そういえば綺澄さんから聞いたんですが、寺浦さんは都市伝説などに詳しいらしいですね」

「いやあ、そんなに精通しているわけでもないんだけど」

 寺浦がはにかむような笑みを浮かべた。なんだこいつ、気持ち悪い。

 携帯電話を出してキジーツのメールを相手に示す。

「これについて、何かご存知ですか?」

「うわ、すっげ。これ、本物!?」

 彼が興奮した様子で訊き返してきた。昨日の朝に届いていたことを説明する。

「やっぱ実際に送られてるんだなあ。アドレスが化けてるから模倣犯でもないだろうし」

 話題が得意分野に入ったせいか、いつもの滑らかな舌が戻ってきている。寺浦は「撮ってもいい?」と確認してから携帯電話の画面を撮影した。スクリーンショットを送った方がいいのでは、と思ったが、アドレスを知られるとまずいので黙っておいた。

「――あ、そうだ。俺、この呪をかける条件の詳しいやつ、持ってるよ」

「本当ですか」

「うん、三日くらい前にネットの掲示板に貼られていたのを、偶々見つけて保存してさ。書込み自体は一瞬で削除されたから、もう残ってないけどね。ほら、これ」

 かざされた携帯電話の画面には、次のような文章の画像が映っていた。




キジーツ取扱説明

◆呪のかけ方は以下である

 ・対象のニエ(体の一部)をキジーツに入れる

 ・キジーツ使用者が該キジーツで、対象の氏名と呪の内容を書いた契約書に署名する

◆ニエは以下の条件を満たす必要がある

 ・対象の体から分離して七十七分以内である

 ・対象の体からキジーツ使用者が分離させた物である

◆対象に有益な呪は無効である

◆対象の記憶を操作する呪は無効である

◆一度に複数の対象、又は複数の呪をかけることはできない

◆故人、或いはキジーツ使用者自身を呪の対象とすることはできない

◆呪に無関係な契約書内の記述は全て無視される

 ・呪が複雑な場合、最後に書かれた内容以外は呪に無関係な記述と判定される

 ・ニエの条件に合致しない署名、及び対象名は呪に無関係な記述と判定される

◆契約書が破棄されると、呪は対象からキジーツ使用者へ返る

◆返された呪がキジーツ使用者に有益な場合、呪は同水準の不利益な効果へ変化する




 その文言を見たとき真は、「あれ?」と思った。書込み内容は昨日のタイソンの説明と矛盾しない。むしろ彼が省いたと思われる部分まできちんと補足されている。だがこの文面には、真の認識とは明らかに異なる箇所があった。それは微妙な差異であったが、けして無視してはならない。問題を解くための重要な糸口だ。直感的にそう理解することができた。

 二人が再び社務所まで戻って来ると、荷物は既に全て運び出されていた。作業が残っていないか確認しようとしたところで、先ほど売店へ呼びに来た中年女性に呼び止められる。

「あ、ちょうどいい所に戻って来た。これって、綺澄ちゃんのじゃない?」

 彼女は薄い茶色の二つ折り財布をこちらへ差し出した。着替え部屋に落ちていたのだという。誰の物かははっきりとしないが、守薙の持ち物だった気がするので友達に確認してほしい、ということのようだった。しかし当然ながら、昨日まで大して交わりのなかった彼女の財布など真が知る由もない。

「すいません、ちょっと分かりません」

 そう答えたところ、その中年女性は唐突に財布の中を物色し始めた。制止する間もなくカード類をごそっと抜いて、順番にめくっていく。図書カードやら服屋のスタンプカードなどが続いて、ようやく持ち主を特定できる物が出てきた。ちらりと下側が覗けた白いカードには二〇〇九年八月二十三日という日付の下に、守薙とその父の名前が書かれていた。中年女性は「やっぱりそうだ」とカードの束を元に戻して、財布を真へよこした。

「では渡しておきます」と返事すると、少し休憩するように指示を受けた。

 寺浦に労働への対価を用意するため、外に出ましょうかと声をかける。しかし反応はなく、顔を見れば彼は珍しく虚ろな目で何処かを見つめていた。

「どうしたんですか?」

「……ん? ああ、ちょっとぼーっとしてただけ」

 そうお茶を濁して、彼はそっと右肩を撫でた。

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