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二.表と裏①

 十七里真は急いでいた。

――早く、早く行かなければ。

 疲労に蝕まれた肉体は押し潰されそうなほどにすり減り、脚がもつれて何度も転びそうになる。それでも何かに急き立てられるように前へと進む。

 すると突然、激しい閃光と爆音の嵐が彼を襲った。網膜が焼き切れるほどに眩い赤光(しゃっこう)がちらつき、甲高い鐘の音が頻りに鼓膜を突き刺す。平衡感覚が狂って歩くこともできない。

 しかしその騒乱はほんの束の間で、唐突に視界が暗転したかと思うと、今度は眼前に巨大な鋼鉄の箱が現れた。箱は不自然にひしゃげて横倒しとなっており、その周囲には大勢の死体が散らばっている。鉄の焦げるような臭いがぷうんと嗅覚を刺激した。

 真は放心状態でただその光景を眺めていた。しかしふと、事切れたはずの屍が皆こちらを向いていることに気付く。眼球を抉られた無数の昏い瞳が無言で彼を見つめている。

 その責めたてるような視線に耐えかねて、真は咄嗟に逃げだした。しかしすぐさま一つの死体が足首を掴み、彼は地面へとひっくり返る。振り返るとそれは、あのナイフ男だった。

 男の太い腕が首へと絡み付いてくる。苦しい。だが抵抗しようにも、どういうわけだか腕が動かない。

 そしてそのまま意識が消え入りそうになった瞬間、乾いた銃声がこだました。

 ナイフ男がその場にばたりと倒れ込む。真はその骸の下からなんとか這い出した。灰色の地面へ流れ出す濁った血を見て、彼はほっと胸を撫で下ろす。

 が、その直後、首筋に激痛が走った。

 赤々とした血飛沫が噴き上がり、全身の力があっという間に抜けていく。真は痙攣する体を無理やり捩じらせて、首元に噛みついた相手の正体を見た。

――守薙だった。




 眩しい朝日に瞼を開けると、見慣れない木目の天井が目覚めを出迎えた。肩の力が抜ける。途方もない悪夢を見てしまった。

 大きく息を吐いてから念のために掛布団の中を覗いてみる。しかし案の定、そこには天井と同じく馴染みのない女の肢体が横たわっていた。残念ながらそちらは夢でなかったらしい。

 真が大きく背伸びしてから起き上がると、ベッドに守薙の姿がなかった。代わりに白い掛布団の上には一枚の置手紙が残されている。

 

『おはようございます。すみませんが、用があるので先に出ます』


 真は小さく舌打ちする。状況が状況なだけに、できる限り単独行動は避けて欲しい。

 枕元の携帯電話を掴むと、昨日に続いてまたしても新着メールが届いている。守薙に違いないと思ってメッセージを開くが、予想は外れて寺浦からだった。


『今日、学校の近くでなんかイベントやってるみたいなんだけど、暇なら行かね?』


 これはもしかして、遊びの誘いというものではないだろうか。こんなメールを受け取ったのは生まれて初めてである。とはいえ、今はそんなことをしている場合ではない。それにこの体で応じるわけにもいかなかった。いや、むしろ彼なら喜ぶのかもしれないが。

 それにしてもこのメールから察するに、どうやら女性化に対するパッチはまだ適用されていないようだ。メールの履歴も確認してみるが、特に変化は見られない。

 丁重な断りの返信を送った後、真は着替えを済ませる。カットソーの黒いTシャツとドット柄の白シャツに袖を通し、下にはぶかぶかのカーゴパンツを穿いた。

 廊下へ出ると、リビングの方から物音がしたので近寄って覗いてみる。

「あら、おはよう。女優さんかと思ってびっくりしちゃった」

 落ち着いた雰囲気の女性がこちらに気付いて声をかけてきた。どうも守薙の母親らしい。よく見ると目元が似ている。

 真はあさっての方向へはねた髪の毛を押さえて挨拶を返した。流石に恥ずかしい。

「ごめんなさいね。せっかく遊びに来てくれたのに、大したお構いもできなくて」

「いえ、急にお邪魔したのはこちらですから」

 洗面台を借りて身支度を整え、用意してくれた朝食をとり終える。

「ところで、か、……綺澄さんはどちらへ?」

「ごめんなさい、あの子はもう神社へ出かけてしまって。お友達が起きるまでは居なさい、と言ったんだけど……」

 守薙の母親から詳しい場所を教えてもらう。どうやら昨日タイソンの相棒に襲われたあの神社のようだ。しかし何故そんな所へ? いまいち状況が掴めなかったが、とりあえず真はそこへ向かってみることにした。




 日和(ひより)神社の前には、大層な人だかりができていた。鳥居から真っ直ぐに伸びる参道の両端を綿菓子やたこ焼きの屋台が埋め尽くしている。法被をまとった男性もいることから、どうやら祭りをやっているようだ。寺浦のメールにあったイベントとはこの事なのだろう。

 人混みをかき分けて提灯の並んだ石階段を上る。すると、高台上の広場も既に多くの人々で賑わっていた。この中で守薙と合流するのは、なかなか骨が折れそうだ。

 携帯電話を出そうとしたところ、背後から「十七里さん」と声をかけられたので振り返る。

 そこには、青空を写して若葉から零れ落ちる朝露のように、清らかに澄み渡った少女の姿があった。身を包む白衣は煌めくように眩しくて、鮮やかな朱色の袴は頭を垂れた一輪の花を思わせる。後ろで結わえられた黒髪が、陽の光を反射して絹のように輝いていた。両手を前で合わせて背筋をぴんと伸ばした姿は凛として美しく、生気のない肌が逆に崇高さを湛えている。

 真はただ茫然自失でその様に見とれていた。どのくらいそうしていたのか分からないが、不意に我へと返ってなんとか言葉を発する。

「どうして……、そんな格好をしているんだ?」

「あ、ご存じなかったんですね。私の父がここの宮司なんです」

「君は……、巫女だったのか」

「はい」

「巫女が、ゾンビになったのか」

「……はい」守薙は少しばつが悪そうに頷いた。

「で、どうしてそんな格好をしているんだ?」

「もうっ、それはさっき訊きましたよ!」

 彼女が小さくむくれて睨んでくる。なるほど、ようやくタイソンの気持ちが理解できた。

「いや、そうじゃなくて、何のためにその服を着ているんだ?」

「勿論、例祭のお手伝いをするためです」

 真はしばしの間押し黙ってから言う。

「……この非常時に、そんなことをしている場合か?」

「といわれましても、捜査はタイソンさんにお任せするしかありませんし……。それに私が休めば、周りの方に迷惑がかかってしまいます」

「まあ、それもそうだが……。でも大丈夫なのか? 君は神事になんて参加したら、土に還っちゃうんじゃないのか?」

 守薙がにこやかな表情で手を振る。

「大丈夫ですよ。そんな力ありませんから」

 こちらとしては半ば冗談のつもりで言ったのだが、あまりにあっさりとそう答えられたので思わず吹き出してしまった。

「君がそんな事を言っていいのか?」

「誰にでも言ったら問題だと思いますが、相手が十七里さんですから」

 その台詞はどう取ればいいのだろうか。

「十七里さんは……、無神論者ですよね?」

「多分、そういうことになるんだろうな。君もそうなのか?」

「いえ、私は無宗教なだけです」

 どう違うのか、いまいち差が分からない。

 守薙が神妙な面持ちで語り出す。

「こういった境遇上、小さい頃から色々と信仰について思いを巡らせる機会があったのですが……、やはり物理的に考えて、神様はいないと思うんです」

 物理的、という単語が妙に可笑しくて真は笑いを堪えるのに必死だった。だいたい神様だって、ゾンビに存在否定はされたくあるまい。

 彼女はなんとか笑い声を飲み込んでから同調する。

「まあ、そうだな。神話とか言い伝えとか……、どう考えても作り話だ」

 いや、もしかすると中には実話、つまりパッチの当たりきらなかったエラーが混じっているのかもしれない。ただそんなものは極一部で、基本的には権力の正当性や管理しやすい規範を信じ込ませるために作り出されたフィクション――、それが神話に対する真の考えだった。

 相手も同意見だろうと思いきや、意外なことに反論が返ってきた。

「いいえ、十七里さん。神話や言い伝えは全くの出鱈目、というわけではないんですよ。実際にあった出来事を反映している場合が多いんです。例えば、オヌヒ――」

 守薙が人差し指をぴんと立てる。

「オヌヒの伝承は古く、起源がいつかは定かでありません。ですが、今から千年以上前には既に存在したとも言われています。その由来は諸説あるようですが、私が知っているのはオヌとヌヒが混じったものだという説です。オヌは漢字で『隠』と書きます。鬼の語源とも言われていますね。ヌヒというのは――」

「奴婢。奴隷のことだな」

 真が割り込むと、彼女は大きく頷いた。

「はい。そういった非常に貧しい方々がオヌヒのモチーフかもしれません。飢えや貧困のあまり、夜中に隠れて家畜や他人の死体を盗んでいたことが、伝承に繋がったのではないかと言われています」

「家畜は兎も角、人間の死体なんて盗ってどうするんだ?」

「詳しくは存じませんが、髪の毛や歯などを売るんだと思います」

 盗んでから売るまでの一連の行為を想像してしまい、少し寒気がした。

「こんな風に言い伝えからは、昔なにが起こっていたのかを読み取ることができます。しかもそれだけじゃなくて、当時の人々がその出来事をどう捉え、どのように処理したのか、その思考様式まで探ることができるんです。これって、凄いと思いませんか?」

 そう同意を求めてきた少女の笑顔には、頷かざるを得なかった。

 とはいえ、その視点は確かに興味深い。新しい考え方を得た時は、視界が一気に開けたようで気分が高揚する。体まで軽くなったようなこの感覚が真は好きだ。

「それから、宗教自体が信じられなくても、その教えからは学ぶべきことは沢山ある思うんです。八百万の神みたいな考え方ってとても素敵じゃないですか。ですから私は、宗教の価値を否定するつもりはありません」

 守薙はそう言って儚げに目を伏せる。

「それに……、どうしようもないほどの不安や苦しみに対峙した時、心の拠り所として信仰が必要となる方は必ずいらっしゃいます」

「まあ、単なる逃避でないのなら、いいのかもしれないな」

「逃避……、ですか。十七里さんはやっぱりお強いんですね」

 物悲しそうな微笑が少女の顔に浮かんだ。

「――でも皆が皆、強い心を持っているとは限りませんから……」

 真は無表情のまま心中で呟く。俺が強いだって? 見当違いも甚だしい。確かに強くありたいとは思うが、理想と現実の差にいつも幻滅してばかりだ。

 燻る苦い思いを振り払おうと、話題を切り替える。

「それにしても、こんな祭りをやっていたんだな。俺は全然知らなかったが」

 ちょっと間を開けてから守薙が不思議そうに尋ねてくる。

「十七里さんて、この近くにお住まいなんですよね? 最近、引っ越されて来たんですか?」

「いや、ずっとこの辺に住んでるよ。ただ、こういうイベント事には疎くてね」

 そう言って祭りの雑踏へ目をやったところ、周囲に広がる異様な光景に気付いた。

「凄いな。いつもこうなのか?」

 二人の周りを囲むように、いつの間にかぽつぽつと人だかりができていた。何人かは携帯端末のカメラを構えている。おそらくはこの涼やかな巫女の姿を押さえているのだろう。

 守薙が困ったように眉を寄せる。

「いえ、普段はここまでではないのですが……。きっと、十七里さんが一緒だからですね」

 そうは思わなかったが、何故か否定することが憚られた。

 彼女はこちらをまじまじと見つめ、若干上の空といった調子で何事かを囁く。

「……らだ、本当にぉぃ……」

「ん? どうした?」と訊き返すと、少し慌てた様子で「いえ、やっぱり素敵だなと思いまして」と返された。どうにも誤魔化されている気がする。

 それにしても、こんな風に好奇の目で周りを囲われるのは、まるで檻の中の動物にでもなったようで気分が悪い。とはいえ、陣取っている連中も大半は非礼なことを自覚しているのか、ある程度の距離を保って大人しく撮影をしている。

 しかし中には不愉快な輩もいる。薄ら笑いを浮かべた大学生くらいの男三人組が、互いに声をかけろとけしかけ合いながら歩み寄ってくる。

 すると突然、そんな彼らを勢いよく押しのけて一人の中年男性がずかずかと近付いてきた。ポロシャツにデニムというラフな格好のその男は立ち振る舞いも極めて粗暴で、守薙のすぐ傍まで接近し、何の断りもなくその横顔をアップで撮ろうとする。その手に握られているのは、周りとは外観からして一線を画する高級カメラだった。

 真は間に割って入り、レンズの前に手をかざす。

「貴方、それは失礼でしょう」

 男がファインダから顔を上げ、ぽかんとした表情を浮かべた。守薙が慌てた様子で真の腕を掴む。

「待って下さい、いいんです!」

「君が良くても、お、……私が不快だ」

 そう言って男を睨みつけると、彼はにこりと口元を上げた。

「なるほど、君が綺澄のお友達だね」

「は?」

 間抜けな声をあげる真の横で、守薙が恥ずかしそうに顔を伏せる。

「すみません、父です……」




「先ほどは失礼しました」

 社務所の上り口で真は頭を下げた。

「いやいや、君みたいな子が友人にいてくれて、僕としては非常に心強いよ」

 守薙の父親はにこやかな調子で話す。

「娘がいつも世話になってるね」

「いえ、人の世話はしたことがありません」

 真がそう答えるや否や、守薙がむすっとした表情で割り込んできた。

「お父さん、どうしてまだ着替えてないの?」

「だって娘の晴れ姿を残さなくっちゃあ、いけないじゃないか」

「そんなのいつでも撮れるでしょっ」

 彼女にそう冷たく言い放たれると、父親はカメラを掲げて力強く熱弁を振るう。

「何を言っているんだい。今日、この瞬間の姿を収めることに意味があるんじゃないか」

「あ……」

 構えられた黒いカメラを見て、真は声を漏らした。

「お、もしかしてこれが分かるのかい!?」

「ああ、フィルム……、ですよね? 今時珍しいなと思って」

「これはね、今はなきゼプツェンという日本のフィルムメーカーが出した、唯一のカメラなんだ。二十年も前の機体だけど、未だに第一線で活躍できる名機さ。この子はボケ味が素晴らしいのもさることながら、なんと言っても一番の魅力は深みのある発色だね。元々ここの社長は、若い頃に単身ドイツへ渡って勉強し、帰国後、身一つで会社を立ち上げた人物でね……」

 守薙父は魚の水を得たるが如しの勢いで力説する。

「――だから、ここの会社が倒産して阿知波化学に吸収されるって聞いた時は、本当にびっくりしたよ。このカメラが出てまだ一年ちょっとだったしね。あの時は大変だったなあ、近辺の写真屋を回ってフィルムを片っ端から買い占めて――」

「お父さん! もう、早く準備に戻ってよ!」

 守薙が珍しく大声をあげ、父親の背中を押した。

「ああ、分かった分かった」彼は心配げな表情を浮かべて娘の方へ向き直る。

「それより本当に体はいいのかい? まだ顔色がよくないけど。調子が悪いなら病院に行った方が……」

「だから大丈夫だってば!」

 どうやら余程父親を見られたくないようだ。

 当の本人は真の肩に両手を置いて真剣な面持ちで語りかけてくる。

「娘をどうか、くれぐれもよろしく頼むよ。境内なら神の加護があるからいいんだけど、外は心配で心配で……」

 いや、ここの森でも昨日殺人起きてましたけど。

「もし娘に近付く男がいたら、いつでも教えて欲しい。できれば写真、……或いは爪か髪があるといい」

 耳元でそう囁いた守薙父からは、得も言われぬ不気味さが感じられた。

「……何に、使うんですか」

 彼は光のない目でぼそりと呟く。

「――呪い殺す」

 怖っ!

 俺に呪をかけたのはこの人なんじゃないか。と真は勘ぐった。いや仮にそうなら今こうして生きてはいないだろうが。

清信(せいしん)さん!」

 不意にそう呼ぶ声がして、深緑の袴を穿いた初老の男女二人が駆け寄ってきた。

「どうしたんです?」

 守薙父に問われて女性の方が答える。彼女の話を聞く限り、どうやらこの祭りでは行列を行うらしく、それに参加するはずの巫女が一人来ていないとのことだった。連絡もつかないため神主の指示を仰ぎに来たようだ。

「代役を立てるしかありませんね。小松(こまつ)さんを呼びましょう」

 女性職員は首を振る。

「もう確認したんですが、駄目でした。ちょうど昨日、食あたりを起こしたらしくて……」

笠野(かさの)さんとこの娘さんはどうじゃろ?」

 男性職員が提案するが、守薙によって否定される。

藍子(あいこ)さんなら去年の暮れにご結婚なされて、今はお腹にお子さんもいらっしゃいます」

 その後も誰かが候補者を挙げては、金髪だとか今からでは間に合わないといった理由で次々と案が潰えていった。神職者達の顔に焦りが見え始める。なにやら雲行きが怪しくなってきた。

「困りましたね……。誰か他に心当たりはありませんか?」

 目を伏せて考え込む一同へ、守薙父が問いかける。

「未婚で、若くて、すぐ駆けつけられる黒髪の女性……」

 その瞬間、全員がはっとしたように顔を上げた。真は大きく息を吐く。

「……ですよね」




「はあ……、なぜ俺がこんなことを……」

 社務所の廊下を歩きながら、真はこめかみを押さえてぼやいた。

「申し訳ありません、どうしても人手が足りなくて」

 前を進む守薙が振り返って軽く頭を下げた。真はもう一度溜息をついてから言う。

「バイト代は弾んでもらうからな」

「はい。父も色を付けさせてもらうと言ってました」

 真は廊下の奥にある鍵付きの和室へ案内された。八畳間の室内には誰の姿もない。壁際には大きな和箪笥が配置され、その隣の棚に女性ものの服が幾つも畳まれて並んでいる。どうやら更衣室のようだ。

 真は引き戸を閉めて、上に羽織っていたワイシャツをハンガーにかける。

「で、俺の衣装は?」

「これならサイズが合うと思うのですが」

 守薙が桐箪笥から巫女装束が入っているらしい布の包みを取り出した。

「あ、着方ってご存知ですか?」

「知ってると思うか?」

「じゃあ、着替えながら教えますね。ではまず服を脱いで頂けますか?」

 真は一瞬固まる。

「……え、脱ぐの? 今ここで?」

 いくら体が女になっていると言えど、女性の前で裸になるのには躊躇いを感じた。

 そんな風にまごつく姿を見て、守薙が小さく吹き出す。

「ふふっ、十七里さんて、意外と乙女なんですね」

 その台詞には、かちんと来るものがあった。そっちがその気なら、と真は勢いよく黒のカットソーを脱ぎ捨てて男らしく堂々と胸を張る。

 しかしその直後、目の前の少女が「きゃっ」と短い悲鳴をあげて顔を逸らせた。

「どっ、どうして下着を付けてらっしゃらないんですか!?」

「え? いや、だって持ってないし……」

 赤面して目を背ける彼女の態度に、真は急に気恥ずかしさを覚えて両手で前を隠した。

「あの……、もしかして、その、……下も穿いていらっしゃらないのですか?」

「いや、流石にそれは穿いている。男ものだから、ぶかぶかだけど」

 守薙が少し安心したように息を吐く。

「そうですか。では、最初にこの襦袢を着て下さい」

 目を逸らしたまま渡された薄い白の着物に袖を通す。丈は短く、太腿を隠す程度だった。

 襦袢の紐を絞める前に下も脱ぐことにする。カーゴパンツごと下着がずり落ちないように手で押さえながら脱衣していると、守薙がおもむろに話しかけてきた。

「あ……、あのっ、十七里さん」

 振り向けば、彼女は赤らめた顔を俯かせ、両手を落ち着きなく擦り合わせている。

「その……、こ、こんな事は、非常にはしたないとは分かっているのですが……」

「どうした?」真は怪訝な顔でズボンを脱ぎ捨てる。

「いえ……、なんというか、その……っ」

 歯切れ悪くそう答えて、守薙はなかなか続きを言い出さない。顔はサウナにでも入ったかのように真っ赤で、忙しなく全身をもじもじさせている。何かを我慢しているようにも見えた。

「なんだ。いいから言ってみろ」

 襦袢の紐を結いながら促すと、ようやく決心がついたのか、彼女は勢いよく顔を上げた。

「あのっ! と、十七里さんの体を、……かっ、噛ませて頂けませんか!?」

「……は?」

 思考が完全に停止した。

 台詞が何度も何度も脳内で反響したが、意味は全く理解できなかった。

「私、今朝からずっと変で……、他の事を考えてなんとか気を紛らわしていたんです。でも、十七里さんの身体を見ていると、どうしても抑えきれなくなってきて……!」

 守薙は大きな瞳を潤ませながら一歩前へと出る。

「お願いですっ、十七里さんの体を噛ませて下さい!」

「――いやいやいや!」

 はっと正気に返って、真は声を張り上げた。

「君に噛まれたら、俺までオヌヒになるだろ!」

 身の危険を感じて後退すると、少女がさらに歩み寄って切実に訴えかけてくる。

「お願いします……。少しだけ……、ほんの少しだけでいいんです!」

「少しってなんだ!? ちょっとでも噛んだら、塩梅関係なく全部同じだよ!」

 すると彼女は、狂気に満ちた眼差しで拳をぐっと握った。

「大丈夫です、歯を立てないようにしますから!」

「全然信用できねえ!」

 取り乱して後ずさる背中に何かがぶつかった。箪笥だ。もはや退路は断たれてしまった。しかし尚も眼前の少女は少しずつにじり寄ってくる。

「待て。落ち着け、守薙」

「無理です!」彼女は首を振る。

「神道では死に近い人間はケガレといって、平静を保てなくなってしまうんです!」

「都合のいい時だけ神道を持ち出すな!」

 その叫びも空しく、守薙は密着するほどにその身を寄せてきた。

 涙に濡れた瞳がこちらを見上げる。顔がぶつかりそうなほどに近い。透けるように青白い肌と薄い藤色の唇には鮮やかで瑞々しい赤が入り混じり、楚々とした顔つきに抗い難いほどの妖艶さを与えている。

 例の芳しい香りが鼻腔を刺激した。心臓が破裂しそうなくらいに雄叫びを上げている。全身は火を噴くように熱い。頭の中がぐちゃぐちゃに溶解していく。

 守薙が息を荒げ、恥辱に耐えるような表情で懇願する。

「お願いです。私……っ、もう、我慢できません……」

 その瞬間、真の中で何かが崩壊した。まるで憑き物が落ちたかのように、体内に充満していた熱やら緊張がすっと何処かへ流れ出していった。。

 彼女は投げ槍に天井を仰ぎ見る。

「はあ……、しょうがないな。分かったよ……」

「本当ですか!?」

 守薙が歓声をあげる。すると、その小さな口元から一筋の透明な液体が流れた。

「……涎、出てるぞ」

 彼女は急いで身を引き、掌で口を拭う。

「す、すみません! 見苦しいところをお見せして」

「じゃあ、とりあえず先に着替えるから」

 下着と靴下を除けば、今は丈が太腿までの薄手の襦袢しか身に着けていない。もう五月といえど流石に寒い。

 しかしその申し出に、守薙は困ったように眉根を寄せた。

「あの、今すぐじゃ、ダメですか……?」

 頬を紅潮させ、上目遣いでねだってくる。

「……焦らさないで下さい」

 ああ……、もう俺は駄目だ。

 気が遠のいて、真はあっけなく折れてしまった。

「もう好きにしてくれ……」

「では、二の腕を――」

 言われた通り、袖をまくって左腕を上げる。

「頼むから、出血させないでくれよ。優しくな」

 守薙が白い上腕を食い入るように見つめ、喉を小さくこくりと鳴らす。その様に釣られて真も生唾を飲み込んだ。また鼓動が早まりだす。

「十七里さんて、いい匂いがしますね」

「匂うな!」

 守薙はクスクスと笑うと、花びらのように柔らかな唇を開いて並びのよい歯を露わにした。

 ひんやりとした吐息が真の肌を撫でる。真っ白な歯が徐々に腕へと近付き、そしてそっと柔肌へ食い込んだ。

「ひっ……!」

 冷たい感覚に思わず声が漏れた。

「あぁ……、温かい……」守薙が嬉しそうに囁きかける。

「少し甘いですね」

「いちいち感想を言わなくていいっ……!」顔がかっと熱くなった。

 青白い少女は目を細めて顔を傾け、垂れてくる横髪を指で押さえたまま二の腕に吸い付く。その姿はおおよそ直視しがたく、淫靡で背徳的な雰囲気に満ち溢れていた。真は耐えきれなくなって思い切り瞼を閉じる。

 少女は肉の感触を確かめるように、少しずつ位置を変えては軽く噛むを繰り返す。その小さな口の中で、もぞもぞと舌が動いているのが分かった。次第に口を動かすたび、湿り気を帯びた音が鳴り始める。濡れた二の腕に荒れた冷たい息がかかって肌寒い。

 痛いような、そうでもないような。気持ちが悪いような、いい……、ような?

 不意に部屋の外から話し声が近付いてきた。真は声を押し殺して言う。

「おい、守薙、誰か来――、ひゃぁ……っ!」

 腋の辺りに氷を這わせたような冷気が過ぎった。咄嗟に右手で口を押さえ、なんとか大声が出るのを塞き止める。

 見れば、守薙の口から垂れた唾液が上腕部を伝って腋窩まで流れ落ちていた。障子窓から差し込む光を反射してきらきらと輝いている。

 あまりのくすぐったさに身をよじると、中途半端に結んでいた襦袢の紐が解け、はらりと前が開いてしまった。さらに緩かった下着までずり落ち始める。

 しかし二の腕に夢中の少女はそんな事など気付きもしない。それどころか、段々と敏感な腋の方へと移動していく。

「んんっ……!!」

 こそばゆい感覚が一層強まった。悲鳴を堪えるのも限界だ。

 引き戸の向こうでは数人の男達が今も話し込んでいる。この部屋の壁にそれほど防音性は期待できないだろう。もしも叫び声をあげてしまったら、彼らは何事かと突入して来るかもしれない。そうなれば一巻の終わりだ。半裸でなぶられているこの状態を目撃されたら、真は今後の人生を全うできる自信がなかった。扉の鍵をかけなかったことを酷く後悔する。

「かみ、なぎ……、もう、……くっ、止め……」

 小声で精一杯訴えかけるが、甘噛みに耽る死美人は行為を中断する気配が全くない。

 真は意を決して力いっぱいに息を止めた。そして相手のおでこに思いっきりデコピンをお見舞いする。

 ばちんと快音が響き、守薙は小さな悲鳴を上げながら頭を仰け反らせた。

「……痛いです、十七里さん」彼女が額を押さえて抗議してくる。

「知るか。言っても君が止めないからだ」

 真はぷいっと顔を背け、はだけた衣服をそそくさと着直す。何故だか目には少し涙が浮かんでいた。人として大切な何かを失った気がする。

「でも、ありがとうございました。とってもすっきりしました」

 そう言って、守薙はうっとりとした表情を浮かべる。

「十七里さんのお肌、すべすべですね」

「君のせいでべたべたになったがね」

 真は腕にべっとりと付いた涎をティッシュで拭き取った。

 ようやく着替えが再開され、襦袢の上に白衣と緋袴を身に着けて、靴下を足袋に履き替える。これで着付け完了かと思ったが、鏡の前に立つと何処かアンバランスな感じがした。

「やっぱり十七里さんほど大きいと、胸が帯の上に乗ってしまいますね。サイズの合う和装下着があれば良かったのですが……。でも千早を羽織れば、そこまで目立たないと思います」

 千早というのがどういう物か分からないが、行列に参加する巫女はそれを着用するらしい。

「でもそのままでも、とっても素敵です! こっちを向いて下さい」

 回れ右をしたところで、携帯電話を構えた守薙に不意打ちで巫女姿を激写されてしまった。

「なに撮ってるんだよ」

「折角の機会ですから、記念に残しておかないと。もっと笑って下さい」

 仏頂面で非難の目を向ける真を尻目に、彼女は注文を付けて再び撮影しようとする。

「……父親そっくりだな」

 そう指摘すると、守薙は元から青白い顔を更に蒼ざめさせて、がっくりと肩を落とした。なかなか的確に急所を抉れたようだ。しかし、そこまで嫌われているとは……。少々あの父親が可哀想でもある。

「先ほどは父がご迷惑をおかけしました。身内として恥ずかしい限りです」

「別にいいよ」

 君よりはずっとましだ、と危うく言いかけた。

「それにしても、君の父親は昔からああなのか?」

「いえ、あそこまで酷くなったのは最近です。実は私、一度だけ車とぶつかって数日意識を失ったことがありまして……」

 それであんなに過保護になっているのか。しかしあの調子では、神社を継ぐ婿を迎えることもできまい。いや、もしかすると他に跡取りがいるのかもしれないが……。

「君に、兄弟はいないよな?」

「あ、いえ、妹が……」

「え、そうなのか?」予想に反する答えが返ってきた。

「といっても、昨年の夏に亡くなってしまいましたが……」

 そう言って守薙は苦々しく目を伏せる。

「そうか……、すまなかったな」

「いえ、ずっと病気で小さい頃から入院していましたから……」

 彼女の部屋にあった写真を思い出す。あの一緒に写っていた少女こそが妹なのだろう。

 二人いた娘の片方を失い、もう一人まで交通事故に遭えば、守薙父のあのオーバーケアぶりも致し方がないのかもしれない。

「でも、どうしてですか?」

 守薙が顔を上げて訊いてきた。

「いや、ここは誰が継ぐのかと思ってね。君の結婚相手、ということになるのか?」

「あ、宮司は女性の方でもなれますよ。といっても私は後を継ぎませんが。信仰心のない人が宮司では下の方もやりにくいでしょうし、何よりお参りに来られる方へ失礼です。それから、世襲制も既に廃止されていますね」

「そうなのか。まあ確かに世襲なんて、非合理極まりないシステムだからな」

 そう吐き捨てたところで、守薙が異論を述べる。

「そうですか? 私は世襲ってそんなに悪い制度だとは思いませんが……。勿論、子供の将来を強制するのはよくありません。ですが、同じ仕事に就くことで自分の親がどんなものを見て、どんな事を感じていたのか、その気持ちや苦労を共有できるなんて素敵じゃないですか」

 なるほど、面白い意見だと真は思う。これまでそんな角度から世襲について考えたことはなかった。自分が賛同するかは別にしても、新しい着眼点が得られるのは気分がいい。

「十七里さんのご家族は、どんな方々なんですか?」

「ん? 父親が地方公務員で、母親はパート勤めだよ。まあ、極々一般的な家庭だな。兄妹は妹が一人いるだけだ」

「妹さんがいらっしゃるんですか!?」

 急に守薙のテンションが上がった。彼女は興味津々といった様子で詰問してくる。

「お幾つですか? お名前は?」

「二つ下の中二。名前は心緒だが……、それより時間はいいのか?」

 真は柱時計を指差す。

「あっ、……もう出ないといけませんね」守薙が残念そうに肩を落とした。

 彼女は引き戸の前まで移動するが、引手へ指をかける前にくるりと振り返った。

「あの、先ほどはありがとうございました」

 少し恥じらうような表情で頭を下げる。「気にするな」と返すと、守薙は胸の前で両手を合わせて微笑んだ。

「そう言って頂けると助かります。じゃあ、次はお腹でお願いしますね」

 彼女は満面の笑みを見せて廊下へと出て行く。

「次もあるのかよ……」

 真がぼそりと漏らした呟きは、届いていないようだった。

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