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一.異常と正常④

 一年生の教室がある廊下までは、幸い誰とも遭遇しなかった。だがどの教室にも灯りが点いていない。守薙はもう帰ってしまったのだろうか。

 真は自分のクラスの前まで来て静かに引き戸を開けた。中は真っ暗で、机や椅子のシルエットくらいしか見えない。照明を点けて再び並べられた机の方を振り返ると、彼女はびくりと体を硬直させた。

 少女が一人、机に覆い被さっていたのだ。

 うつ伏せで顔は確認できないが、座っている席と長い黒髪から守薙だと分かる。

 なんだ……、驚かせるなよ。と真は胸を撫で下ろす。

 待ちくたびれて眠ってしまったのだろうか? 自分が勝手にびっくりしただけなのだが、ちょっとしたお返しに驚かせてやろうと思い、彼女は忍び足で少女へと近付いた。

 だがすぐ傍まで来て、様子がおかしいことに気付く。守薙の体が微動だにしていないのだ。肩も背中も全く上下運動しておらず、寝息さえ聞こえない。机の上に投げ出された手は、異様なまでに青白かった。

 まさか……。真は喉をごくりと鳴らし、白い腕に触れてみる。指先が接触した瞬間、思わず手を引いてしまった。守薙の身体が氷のように冷たかったのだ。

 微かに覗いている彼女の鼻の前へ指を差し出す。だが、どれだけ経っても風は感じなかった。目の前が真っ暗になる。

 祈るような気持ちで手首の動脈に手を伸ばす。指先に刺激がくるのを待ったが、その瞬間は訪れなかった。呼吸も脈も完全に停止していたのである。

 そんな……、死んでいる……! 真は息を呑んだ。

 いや、待て。まだ蘇生が間に合うかもしれない。とにかく救急車だ。携帯より固定電話の方が早く呼べるはず――!

 彼女は慌てて黒板横の電話器へと向かう。

 だがその瞬間、背後から何者かが掴みかかってきた。

 誰だ!? ――もしかしてこいつが守薙を……!?

 瞬時にそう思い当たると、真は反射的に腰を落としていた。相手の重心を背中に乗せ、腕を掴み取ってすぐさま上体を起こす。

――筋力は落ちても、技は衰えていないぞ!

 その勢いのまま前へと投げ飛ばす。鈍器を叩きつけたような衝撃音が鳴り、相手は背中から床にぶつかった。

 即座に絞技へ移行しようとすると、「いたた……」と聞き覚えのある声がした。投げた相手を見て戦慄する。

「……もう、酷いです。十七里さん」

 守薙が涙目で床に寝そべっていた。

 死んでいたはず――、悪寒が首筋を這いずった。

 頭が真っ白になって真は悲鳴を上げる。――が、その口を守薙が慌てて手で塞いだ。雪のように冷たくて柔らかい感触だった。

 その状態で数秒経過してから、ようやく彼女もエラーにかかったのだと思い至り、真は幾ばくかの冷静さを取り戻した。黙ったままのこちらを不審に思ってか、守薙が小首を傾げる。

「十七里さん……、ですよね?」

 笑いたければ笑うがいい、そんな調子で真が頷くと、彼女は興奮した様子ではしゃいだ。

「凄い、女の子になっちゃったんですね! 包帯がなければ、きっと分かりませんでした。でもすっごく綺麗ですよ!」

 真は額を押さえる。どうしてそんなに呑気なのか。

「で、君の方は何が起きた?」

 蒼ざめた顔の守薙が胸へ手を当てる。

「ええっと、まず心臓が止まっています。それから、息を止めても苦しくありません」

「待て。それって、まさか……」

「はい、オヌヒかもしれません」

 彼女は思いの外あっさりと答えた。

「……君は噛まれていないはずだ」

「そうですね。ですから、うつったのではなく、新たにエラーが発生したんだと思います。ただ――」

 守薙は細い指を顎に添えて考え込む。その薄い唇は血の気が引いて菫色に染まっていた。

「エラーは隕石にぶつかるよりも起こりにくい天災、ということでした。それが場所も時間も殆ど隔てず、立て続けに二人の人間へ降りかかるでしょうか」

 大きな漆黒の瞳がこちらを捕える。

「思うに、エラーは人為的に引き起こせるのではないでしょうか」

 真は頷く。

「ああ、それは間違いないだろう。タイソンは、自身をカドゥーシアスの捜査官と名乗った。だが自然災害に当たる人間を普通、捜査官とは言わない。捜査というのは、犯罪を調べる行為のことだ」

 こちらが言わんとする事を察したらしく、守薙が言葉の後を続ける。

「つまり、エラーを利用した犯罪者がいるということですね。そしてそれは、意図的にエラーが引き起こせる可能性を示唆している……。なるほど、さすが十七里さん。細かい事までよく覚えていらっしゃいますね」

「それより問題は、誰が俺達にエラーを起こしたのか、だ。こんな体になった以上、俺達があの人を頼るのは必然的と言える」

「それが誘導されている、と?」

「ちょうどエラーの存在を知った二人が狙われたというのが、どうにもな。偶然にしては出来過ぎている」

「タイソンさんを疑われているんですね。確かにエラーを起こされたのが私達だけなら、仕組まれている可能性もあるかもしれません」

「ああ……、そうか。こんな風になっているのは、俺達だけとは限らないのか」

 真は頭を掻いた。タイソンが疑わしいのは、被害者が彼に接触した二人だからである。しかしそれ以外にも該当者がいるのなら、疑念は薄れることとなる。やはり守薙は頭がいい。

「他にエラーをかけられた方がいないか、確認してみますか? 知っている方一人一人に連絡するしか方法がなさそうですが……」

「いや、止めておこう。どのみち誰が犯人だろうと、俺達はまずタイソンと接触する他ない。それより今は、戻れる可能性があるなら一刻も早く試すべきだ」

 エラーの進行速度は事例によってまちまちだ、とタイソンは言っていた。つまり守薙に生じたエラーはオヌヒ化で、今はその進行途中にあるという可能性が極めて高い。もしそうなら、早急に解除しないと取り返しのつかない事態になる。

「すみません……」

 守薙が顔を曇らせて頭を下げた。華奢な肩にかかった髪が絹糸のように流れ落ちる。

「どうして謝る? 君に非はない」

 そう声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「……ありがとうございます。気を遣って頂いて」

「気など遣っていない。俺は思った事しか言わない」

 嘘はつかない。これが真の持つもう一つの信条であった。

「そうですね。よく存じています」守薙が微笑み、長い横髪を耳にかけ直した。

「早く戻りたいのは俺も同じだ。数日でパッチが当たってしまう」

 パッチは、エラーが生じる前の状態を忘れるように作用する。ということは真の場合、自身が元は男だったという記憶を消されてしまうわけだ。それはつまり、今の真の自我が消滅することを意味する。己のみならず誰からも存在を忘れられ、初めからいなかったものとされてしまうのだ。そして最悪、そのまま元に戻ることもできず肉体は死を迎える。そんな最後があるだろうか。想像するだけで身の毛がよだつ。

 だが無論、これはパッチの説明が事実ならばの話だ。冷静な判断能力を奪うために相手を焦らせるのは、人を騙す時の常套手段である。もしタイソンがこちらを嵌めたのなら、解除の前に何らかの要求をしてくるはずだ。

 真は声が変わっているため、守薙が代わりにタイソンと連絡を取る。しかし電話をしたものの相手は出なかったため、留守番電話にメッセージを残しておいた。

 折り返しの連絡を待つ間に、真は気になっていたことを尋ねる。

「ところで、さっきはどうして死んだふりをしていたんだ?」

「あ、それは、その……、十七里さんが驚くかなって思いまして」

 守薙が小さく舌を出した。

「そりゃ驚くわ!」真は激昂する。

「なんだ、それは。まったく、悪ふざけにも程がある」

 そう言ってそっぽを向くと、相手は忽然しおらしくなった。

「……そうですよね。すいません。私、酷い事をしました」

 彼女が深々と頭を下げる。

「本当にすみませんでした。あんな事、最低ですよね。無神経で……。私、死んで当然なのかもしれません」

「いや、別にそこまでは言ってねえよ」

 てっきりふざけているのかと思ったら、頭を上げた守薙の顔が本当に今にも泣き出しそうだったので面食らってしまった。

 どうしていいのか分からず、真は視線を逸らして黙り込む。気まずい沈黙の中、涙を堪えて鼻をすする音だけが時おり響いた。

 そんな重苦しいムードを突然の着信音が引き裂く。守薙が応答に出ると、相手は案の定タイソンだった。真は少し彼に感謝する。

 十分後に学校の裏門で会う約束を取り付け、二人は教室をあとにした。




 外は少し肌寒かった。十九時の完全下校時間を過ぎたため生徒の姿はほとんどない。

 裏門の外でヘッドライトが光り、見覚えのある高級車が停車する。真達がゆっくりとそちらへ歩み寄ると、黒塗りのドアから大柄の白人男性が出てきてサングラスをかけた。彼はこちらの姿を捕えるが、特に驚いた様子もなく手を上げる。

「少し見ないうちに、随分と別嬪になったじゃないか」

「親戚のおじさんですか」

 真の冷淡な反応を無視して、タイソンは独り()ちる。

「なるほど。その姿だと、つり目もなかなかチャーミングだな。睨まれるのも悪くない」

「投げ飛ばしますよ」

「ははは、やってみるか?」

 男は豪快に笑って両手を広げた。

 彼に挑むのは、無謀というものだろう。神社の林で見せた動きからして、この男は間違いなく手練れだ。実戦経験のない真にどうにかできるレベルの相手ではない。筋肉の落ちた今の体なら尚のことだ。

「タイソンさん、わざわざお呼び立てして申し訳ありません」

「構わないよ、これが仕事だ」

 頭を下げる守薙に向かってタイソンがそう返し、自身の車を指差す。

「場所を変えて話そう。私の車でどうかな?」

 車に乗るのはリスキーだ。何処に連れて行かれるか、分かったものでない。

 個室がある近くの店にしようと提案すると、守薙が「それなら心当たりがあります」と申し出た。彼女に連れられて歩く最中に、タイソンへ二人の体の状態を簡単に説明する。

 五分程して、住宅街の中にある蕎麦屋へ到着した。店先は高級料亭のような趣と格式のある佇まいをしており、とても高校生が来るような店には見えなかった。

 中に入ると、守薙が和服を着た中年の女性店員と挨拶を交わした。顔見知りのようだ。

 それにしても知り合いが突然、学ラン姿の少女とマフィアみたいな白人という相当怪しい感じのメンツを連れて来たら、一体どう思うのだろうか。状況が特殊過ぎて全く想像できない。

 しかしそんな心配をよそに、女性店員は特に不審がる様子も見せずに三人を奥の座敷まで案内してくれた。個室は黒檀の座敷机が置かれた六畳間だった。

 真と守薙は下座へ腰を下ろす。タイソンは真向かいにどかっと座ると、サングラスと黒い背広を脱ぎ捨てた。深いブルーの瞳は鷹のように威圧感があり、分厚い胸板が白いシャツをぱんぱんに張らせている。彼はお手拭きで広い額を拭きながら口を開く。

「ここは私が持とう」

 真が反論しようとするのを遮って彼は続ける。

「今回のことは私に責任がある。だからその詫びだと思ってくれ」

「……じゃあ、事情を聴いてから判断します」

 注文を終え、蕎麦が運ばれてくるまでの間に真は話を切り出す。

「そろそろ本題に入っていいですか」

「うん……、艶のあるいい声だ」

 腕組みをして頷くタイソンに守薙も同調する。

「ですよね! 綺麗で聞き入ってしまいます」

「声じゃなくて話を聞け」

「その話し方で構わんぞ。敬語は不要だ」

 タイソンの申し出に、真は「じゃあ、そうさせて貰う」と溜息交じりに答えた。

「で、タイソン捜査官。俺達は確かにこうなった経緯も知りたい。だが何よりもまず元の体に戻りたいんだ。だから初めにエラーを解除してくれないか」

「ああ、そうだな」タイソンが蕎麦茶を喉に流し込んで続ける。

「――だが、それは出来ない」

「何故?」

 真は抑揚のない声で訊き返した。相手は一呼吸置いてから言葉を返す。

「その前に、私の言うことを聞いてもらおうか」

 彼の顔を真の射るような眼光が睨みつける。

「……俺達に、何をしろと?」

「なに、簡単なことだ。まず……、これから私が話す内容を記録しないこと。メモを取ったり、録音したりしてはいけない。それから、第三者へ口外しないこと。……いいかな?」

 肩の力が抜ける。なんだ、そっちか。

 真が「分かった」と返すと、守薙も頷いた。

「では悪いが、後で機密保持の誓約書も書いてもらう」

 二人の同意を得て、タイソンが説明を始める。

「さて、まずは君らの懸念を一つ払拭しておこうか。エラーにはパッチによる記憶改竄が伴うと説明したが、一度でもエラーにかかったことがある者にはこれが適用されない。そのような人間を特異点(シンギュラー)と呼ぶ。つまり君達は既に特異点(シンギュラー)となっているから、記憶が変わることはない」

 それを聞いて少し安心する。これで今の真の意識が消えてしまう心配はなくなった。

「次にエラーの除去に関してだが、これにはクリーナーという道具が必要だ。ところが、私の手元にはそれが一切ない。実は強奪されてしまった。だから今エラーを解除することはできないんだ。すまない」

 彼はやや毛髪の薄くなった頭を小さく下げた。

「じゃあ、その強盗が俺達をこんな風にしたのか?」

「飲み込みが早いな、助かるよ。確かにお前の言うように、エラーを人工的に生み出す方法が存在する。それは世界各地で古くから伝わる呪詛と多くの共通点を持つことから、(ノロイ)と呼ばれている」

 タイソンが湯呑を掴み、中の茶を転がす。

「呪がいつ作り出されたのかは定かでないが、三十年ほど前からその存在は確認されている。といっても、呪が行使された例は非常に少なく、これまで大した脅威ではなかった」

 彼は残りの蕎麦茶を一気にあおる。

「――ところがここ数年の間に、その発生件数が激増した」

 守薙が急須を持って「入れましょうか?」と尋ねると、彼は礼を言って湯呑を差し出した。

「どうして急に呪の数が増えたんだ?」

「呪には、キジーツという名の特殊なペンを使う」

「キジーツ……?」

 真は小さく繰り返した。何処かで聞いたような……。そうか、今朝の悪戯メールだ。

「ケニアの呪術師が使う呪具と同じ名前ですね」

 守薙がお茶のおかわりを渡す。

「ありがとう。守薙嬢は博識だな」

 タイソンに褒められると、彼女は少し照れたように目を伏せた。

「い、いえ、前に読んだ本で出てきただけですから」

 一体どんな本を読んでいたのか。

「そのキジーツを世界中に流している連中がいる。奴らはキジーツを量産し、誰かを恨んでいる人間の下へそれを届ける」

「こんな感じでか?」と真は携帯電話を見せ、例のメールの内容を示した。

「お前の所にも来ていたのか。連中はそんな風にメールで募った受取希望者の一人に、キジーツとその説明書を送り届ける。ポストなどへ投函し、直接は接触しないのが流儀だ。そういった事例が、日本国内だけでも二、三ヶ月に一度のペースで起きている」

 タイソンが蕎麦茶を啜ってから続ける。

「その事態を重く見て、我々カドゥーシアスが組織されたわけだ。そして一昨日――」

 彼はそこで言葉を切った。部屋の外から微かに板張りの廊下を踏みしめる音が聞こえる。

「お待たせ致しました」

 襖が開いて、女性店員が料理を運んできた。鴨せいろが三つと親子丼が一つ。「ごゆっくり」と上品に頭を垂れて彼女は下がる。

「旨そうだな」タイソンが箸を手に取った。

「ここの鴨は絶品なんですよ。私、大好物なんです」

 しばしの間、無言で食事に没頭する。蕎麦は舌触りが良く、鴨出汁が効いていてとても美味しかった。これは大好物にもなるな、と真は思う。タイソンはひとり大盛りで親子丼まで頼んだくせに、あっという間に食べ終わってしまった。

 真達が蕎麦を口に運ぶ中、彼は話を再開する。

「さっきの続きだが、一昨日キジーツの運び屋を追って、私はもう一人の仲間と一緒にこの地域へ潜入した。しかしその日の深夜、別行動中に仲間はしくじり、逆に相手に捕まってしまった。私が駆け付けた時には既に運び屋はクリーナーを持ち去った後で、現場には呪をかけられた仲間だけが残されていた」

 守薙が最後の蕎麦を嚥下し、心配そうな面持ちで尋ねる。

「その仲間の方は、大丈夫なんですか?」

「……死んだよ」

 タイソンの返答に彼女は口を覆う。

 そのとき真の頭の中を不穏な閃きが駆けた。呪にかかった、もう一人の捜査官。つまり、タイソンと同じような体格に服装――。

「その仲間というのは、まさか……」

「そうだ。今朝、お前を襲った男。あいつが、私の相棒だよ」

 言葉を失う。息の詰まるような静寂が肩に圧しかかった。真は歯を食いしばる。つまりタイソンは仲間をその手にかけて、自分のことを助けてくれたのだ。

「気にするな」

 黙り込む二人に向かってタイソンが声をかけた。

「君達は何も悪くない。事の発端は我々の判断ミスだ。それがなければ、君達がそんな風になることもなかったし、あいつだって死なずに済んだ」

「最も責を負うべきは、その運び屋だろう」

「まあ、そうだがね」と、彼はこめかみの辺りを掻いた。

「ところで、君達はいつ呪をかけられた? 呪が発動する瞬間には『裏返り』と呼ばれる異常感覚に襲われる。これは人為的に無理矢理エラーへ干渉するため発生してしまう現象で、例えば目の前の色が反転したりするんだが」

 真は物理準備室でその感覚を味わったことを思い出す。あれは夢でなかったらしい。

「俺はついさっき、十八時くらいかな。ちょうど仮眠をとる前で、それから三十分後に目を覚ましたら既に体が女性化していた」

「私は学校の始業前です。十七里さんと別れて教室へ行った後、……八時十分くらいでしょうか」

「もしかして今朝倒れたのは、そのせいか?」

 真が訊くと、守薙は頷いた。

「一瞬、先程タイソンさんが仰ったような感覚に襲われて……。ただその直後は他に異常を感じませんでした。でも、時間が経ってから少しずつ体温と脈が下がっていることに気付いて、放課後、図書委員の当番をしている時に心臓が止まってしまったんです」

「うむ、なるほど。エラーに起因する変化の進行速度は、人によってまちまちだからね。まあ、比熱みたいなものと考えればいい。さしずめ十七里はすぐに変動が起きる鉄で、守薙嬢は影響を受けにくい水だな。だが、これは不幸中の幸いだった」

 守薙にかけられたエラーがオヌヒ化なら、彼女が今もこうして自我を保てているのはその体質のおかげということになる。

「どうして運び屋は俺達に呪を?」

「いや、呪をかけたのは運び屋からキジーツを受け取った別人だろう。これを見てくれ」

 タイソンが携帯端末のディスプレイを示す。メモ用紙の写った画像が表示されていた。紙には鉛筆で擦った黒い跡があり、その中に小さな白い文字が浮かんでいる。最初の『クリーナーの使い方』という文言だけがなんとか読み取れた。

「これは運び屋が滞在していた宿に残されていた物だ。奴はこの上にあった紙にクリーナーの取扱説明を書いている。つまり私の仲間からクリーナーを奪ってここへ戻り、その後取引を行ったということになる」

「じゃあ、クリーナーもその取引相手のところに――」

 タイソンがそれに頷いた時、また廊下から足音が近付いてきた。店員がつけ汁に入れる蕎麦湯を持って来たのだ。彼女が立ち去ってから守薙が質問を投げかける。

「では解呪のためには、私達に呪をかけた犯人を捕まえるしかないということですか?」

「申し訳ないが、そうなる」

「新しいのを取り寄せられないのか?」

 真の問いに、タイソンが蕎麦湯を注ぎながら首を振る。

「それには時間がかかるな。クリーナーは見た目こそ(ただ)色紙(いろがみ)なんだが、製造が非常に難しい上に消耗品ときている。数が全く足りていないのが現状だ。我々に支給されるのも、ある期間毎にいくつと決まっている。今から申請しても届くのは数週間後だろう」

「他の捜査官が持っている物は?」

「それは当たってみるつもりだが、上手くいっても三日はかかると思ってくれ。さっき言ったようにクリーナーは絶対数が不足している。エラーにかかったまま解除を待っている人間が沢山いるんだ。各捜査官は担当エリアを持っているが、皆やはり自分の担当エリアのクランケを助けたい。それにクリーナーをやり取りすることは、地域間で不平等を生むことにもなる。だから他のエリアから分けてもらうには、かなりの交渉と面倒な手続きが必要になるんだ」

 真は瞼を閉じる。あと三日……、守薙の意識がそれまで持つとは思えない。

「すまんな。言い訳になるが、我々は組織されて日がまだ浅く、リソースも環境も充分なものと言える状況にない。人員補強を急いではいるものの、はっきり言って難航している」

「それは分かるよ。捜査官は特異点(シンギュラー)じゃなきゃいけないんだろ」

 特異点(シンギュラー)でなければ、パッチが当たってしまう。つまり呪をかけた相手を追う場合、先に解呪を済ませると記憶改竄で事件自体を忘れてしまうのだ。それでは全く仕事にならない。

「――だがかといって、自分達で特異点(シンギュラー)を増やすわけにもいかない」

 真が付け足すと、タイソンは力なく笑った。

「そうだ。特異点(シンギュラー)を意図的に増やすためには呪を利用するしかない。呪を行使すれば、かけられた人間に加え、かけた人間の方も特異点(シンギュラー)になる。だがそれは、意図的にエラーを引き起こす行為に他ならない。矛盾だよ、これは……」

 彼が今朝説いたカドゥーシアスの考えでは、エラーを正すべき間違いとしていた。あってはならないものだと。つまり、彼らが自発的に呪を使うことはあり得ないのだ。

「エラーの場合、その中身までは分からないものの、存在だけを見つけ出す術なら我々は既に持っている。だが現状、特異点(シンギュラー)を見出す方法は存在しない。パッチによる記憶改竄の有無を確認するしかないんだ。これがさらに人材確保を困難にさせている」

 タイソンがこめかみを押さえ、疲労の色を見せた。

「今、他の仲間がこの地域一帯の監視カメラの記録から運び屋の足取りを割り出している。運が良ければ、キジーツを渡した相手が絞れるかもしれん。まあ、そんなへまをしているとは思えないが」

 真は少し考えてから提案する。

「……タイソン捜査官、呪のかけ方について教えてくれないか? 俺の所にきたメールには、呪をかけるには条件があると書かれている。そこから犯人を辿れるかもしれない」

「そうだな。じゃあ、呪をかける者を加呪者、かけられる者を被呪者と呼ぶことにしよう」

 タイソンは右手の指を三本立てた。

「呪には三つの物が必要だ。一つ目が、キジーツ。二つ目が、紙などの文字を書き込める物。そして三つ目が、ニエと呼ばれる被呪者の肉体の一部だ。例えば髪の毛や体液なんかだな」

「感染呪術ですね」

 守薙の相槌に彼は嬉々として頷く。

「相手の体の一部を使って呪うという行為は、世界各地で見られるものだ。これは、一度接触していた物は離れても相互作用する、という考えに基づいている。つまり抜き取った髪の毛を焼けば、その持ち主にも焼かれる苦痛が伝わるという発想だね」

「日本の丑の刻参りもそうですね。ただ藁人形を相手に見立てて釘を打つわけですから、類感呪術的な側面も持っていることになります」

「攻撃と代償か。どちらも呪術によく見られる適応機制だ。他にもインドネシアでは……」

 真が大きく咳払いをする。

「……呪術談議は、後にしてくれないか?」

「ああ、悪い悪い」タイソンが生え際の後退した頭頂部を掻いた。

「じゃあ、ここからは呪をかける手順について説明しよう。まず被呪者の体の一部であるニエを用意する。ただし、ニエには二つの条件がある。一つ目が、被呪者の肉体から加呪者によって直接切り離された物であること。……実演した方が分かり易いかな」

 彼はそう言って、こちらへ頭部を近付けてくる。

「守薙嬢、私の髪の毛を抜いてくれ」

「え! よ、よろしいんですか?」

 守薙が珍しく大声を上げて目を丸くした。

 そんなに驚いてやるな。失礼だろ。と真は苦笑いする。

 守薙が右手でタイソンの金髪を一本摘んで抜き取った。すると次に彼は自分の頭をごしごしと擦って、机の上にもう一本の毛髪を抜け落ちさせた。それを守薙の左手に持たせる。

「さて、守薙嬢の右手にあるのが本人の抜いた私の頭髪で、左手にあるのが自然に抜けたのを拾った物だ」

 いや、明らかに自然には抜けていなかったが。

「ニエは、加呪者が被呪者から直接採取した物に限る。故に守薙嬢が私を呪う場合、右の毛髪はOKだが、左はNGとなる。今は素手でやってもらったが、鋏などの道具を使って切り離した物でも構わない」

 そう説明すると、彼は守薙の手から二本の髪の毛をするりと抜き取る。

「次にもう一つの条件だが、ニエは肉体と分離してから七十七分以内の物に限られる」

「随分中途半端な数字だな」

「七というのは、世界各地の呪術で見られる数値だ」

「そういえば、丑の刻参りも七日で(のろ)いが完成しますね」

 また呪術話が展開されようとしている。というか、よくそんな事を知っているな。

「七は宗教的に特別な数字なんだ」

「確かに。七は孤独な数字ですもんね」守薙が嬉しそうにうんうんと唸る。

 詩的なことを言うな、と真は思った。どういう意味なのかは全く分からないが。

「ここまでくれば、あとは簡単だ。まず採取したニエをキジーツの中に入れる」

 タイソンが無造作に置いた上着の胸ポケットから高級そうなボールペンを抜き取った。ペン尻の蓋を開け、先程の髪毛を内部へ混入するふりをする。

「こいつはただペンだから、これで入れたことにしよう。ちなみに本物のキジーツも、外見上はその辺のペンと全く区別がつかない」

 彼は蓋を締め直したペンを守薙へ手渡す。

「では守薙嬢、それにでも私の名前と適当な呪の内容を書いてくれるかな」

 彼女は指差された机上の紙ナプキンを抜き取って、指示通りに何かを書きだした。どんな呪をかけたのか気になったので、ちらりと覗き込んでみる。

『タイソン・ベン・キャロルさんが、ふさふさになりますように』とあった。

 七夕か!

 しかも何気に失礼な内容である。

「これでいいのでしょうか?」

 差し出されたナプキンを見て、タイソンは悲しそうに首を振る。

「残念だが、これは駄目だな」

「どうしてですか?」

「呪は、被呪者に益のある効果は与えられないんだ」

 彼は唇の片側を上げる。やはり髪のことは気にしていたようだ。

「――文化人類学的に言えば、邪術に相当する」

 真は割り込んで質問する。

「じゃあ、逆に利益にさえならなければ、どんな効果でも与えられるのか?」

「いや、無論できない事もある。まず相手の記憶を操作することはできない。それから、複雑な内容もかけることはできない。例えば、『赤い服を着るとくしゃみが止まらなくなり、青い服を着ると咳が止まらなくなり、黄色い服を着るとしゃっくりが止まらなくなる』という呪を書いたとしても、実際には最後の『しゃっくりが止まらなくなる』以外は無視されてしまう。まあ、そういった制限があるんだが、今回はこれで良しとしようか」

 再び守薙の下へナプキンが渡され、「最後にサインをしてくれるかな」と指示が飛ぶ。彼女は言われた通り『守薙綺澄』と署名を書き加えた。

「こんな感じで、加呪者が呪と被呪者の氏名が書かれた紙にキジーツでサインすれば呪の完成だ。そしてその紙が、守薙嬢のかけた呪の契約書となる」

 タイソンが決して叶わない望みの書かれた紙を受け取る。

「この契約書がある限り、呪は効果を発揮し続ける。ほら、心なしか増えてきた気がするだろ?」

 彼は頭頂部をこちらへ向けてちょんちょんと指差した。真は渋い顔をする。

「そういうの止めろよ……、なんだか胸が締め付けられる」

「それは、お前の馬鹿でかい胸のせいだろう」

「なっ……!!」

 タイソンの指摘に、彼女の顔が真っ赤に変わる。

「そっ、それはセクハラだぞ!」

「なんだ、もうすっかり心の中まで可憐な乙女か」

「ふざけるな!」

「二人とも落ち着いて下さい」

 守薙が仲裁に入った。いや、君も大概な事をしているけどね。

 真はもうすっかり冷えてしまった蕎麦茶を口に含み、気分を落ち着ける。駄目だ、このくらいで平静を失っては。

 タイソンが何事もなかったかのように説明を再開する。

「では最後に、契約書が破棄された場合だ」

 彼は先ほどの紙ナプキンをおもむろに破り捨て、その上から蕎麦湯の残りをかけた。

「こんな風に破れたり、濡れて文字が読めなくなったりすると、契約書は破壊されたと見なされ、呪が被呪者から加呪者へと移る。これは(のろ)い返しと言って、呪術によく出る概念だ」

 人を呪わば穴二つ、という言葉が頭に浮かんだ。

 彼は二本の毛髪にライターで火を点け、それを灰皿の中へ捨てる。万が一にでもニエとして使用されないためだろう。

 真は燃えながらあっという間に炭化していく金髪を見つめて尋ねる。

「ということは、もし呪をかけた犯人がクリーナーを破壊しても、契約書さえ破ってしまえば解呪可能ということだな」

「ああ。だが我々としては、エラーを完全消滅させなければ職務完了とは言えないがね」

 なるほど。呪などという如何わしい名前から身構えたものの、意外とフェアなシステムだ。

 まず呪う側は、常に呪が自身へと返ってくる恐れに晒されている。つまり凶悪な呪をかけるほど、自身が背負うリスクも増大するのだ。さらに呪の行使にはニエが必要となる。つまり呪う側は、呪をかけたい対象と絶対に接触しなければならない。ということは、そこから誰が呪をかけたのか辿れるわけである。

――そう、辿れるはずだった。だが、しかし……。

「で、どうだ? 呪をかけた人物に心当たりはあるか?」

 タイソンの問いに、守薙が少し考えてから首を振る。

「いえ、誰かからニエを取られた記憶はありません」

 それは真も全くの同様であった。例の裏返る感覚に襲われる前の七十七分間、誰も体には触れていないはず。いや、それどころかこれは……。

 彼女の思考が袋小路へと迷い込んだ時、忽然と室内にリズミカルな振動音が鳴り始めた。タイソンが上着から携帯電話を取り出して応対に出る。

 彼の英語は早口なうえに小声で、またhを発音しない独特の喋り方だったので内容がかなり聞き取りにくかった。それに加えて、会話には隠語らしき単語まで混じっている。だがそれでも誰かの所在に関して問答していることくらいは把握できた。

「運び屋の足取りが分かったのか?」

 電話が終わるなりそう尋ねると、タイソンは一瞬驚いたように口に開いた。

「……ああ、そうだ。私は今から奴を追う。捕まえれば、キジーツを渡した相手も割れるだろう。まあそっちはもしかすると、自分で勝手に尻尾を出すかもしれないがな」

「どうしてですか?」守薙が首を傾げる。

「運び屋は、決して我々カドゥーシアスの存在を取引相手に教えないからさ。だからキジーツを手にした人間は、好き勝手に乱用するので意外と簡単に見つかるケースが多い」

 真は顔をしかめる。

「よく分からないな。すぐに捕まってしまうんじゃ、わざわざ渡した意味がないだろうに」

「それは奴らの目的が、あくまで人材確保だからだ。凶悪なツールを入手しても冷静さを失わず、自身でリスクを回避しながら目的を達成できる人間を探しているのさ。そしてそういう奴の所へ再び運び屋が現れ、仲間に引き入れるという仕掛けらしい」

 三人は個室を出て会計を済ませる。店の外で奢ってもらった礼を述べる真達へ、タイソンが「送って行こう」と提案した。二人が遠慮すると、彼は申し訳なさそうに言い加える。

「いや、機密保持の誓約書を書いてもらわないとならないんだ。車の中に入っている。私もあういう面倒な形式は嫌いなんだが、やっておかないと減俸になるんでね」

「分かりました。では、お願いします」

 守薙がお辞儀をして、真の方を振り返る。

「ところで、十七里さんはそのままお家に帰られるんですか?」

 尤もなことを訊く。だがこの姿で帰宅してもおそらく問題はない。なにせ家の者と一度も顔を合わせない日だってあるのだ。部屋に籠っていても特に不審には思われまい。まあ、出くわさないように隠れまわるのが少々億劫ではあるが。

 しかし守薙が言いたいのは、そういう事ではなかった。

「――あの、こんな事は差し出がましいと分かっているのですが、……もし宜しければ、私の家に泊まって頂けませんか?」

「ああ……」真は声を漏らす。

 彼女は恐れているのだ。もし自分が自我を失って、家族を襲うようなことがあったら……。

「そうだな。じゃあ、お邪魔させてもらおう。ただし貸し借りはゼロでいいか?」

 今回のケースでは互いにメリットがある。故に報酬は発生しない。頭の中でウィンウィンという単語が浮かび、真はちらりと顔を濁らせた。言葉の意味は好きだが、なんとなく響きがムカつくのだ。

 守薙がほっとしたような表情を浮かべ、「お願いします」と一礼した。

 真達は学校の裏門まで戻り、タイソンの車に乗り込む。後部座席のドアを閉めると、隣の守薙が瞼を擦って目をしばたかせていた。

「眠いのか?」

「すみません、少し。いつもはこんな時間に眠くならないのですが」

 確かに時刻はまだ二十時過ぎである。

 タイソンが助手席に置いた鞄の中をまさぐりながら言う。

「仕方ないさ、壮絶な一日だったろうからな。疲れているところ悪いが、これだけ頼む」

 彼は真達それぞれに薄い冊子を手渡す。パラパラとめくってみると、中にはびっしりと英文が印刷されていた。

「平たく言えば、エラーに関する秘密を守ります。もし破ったら一定期間の軟禁か、監視がついても文句を言いませんという内容だ。それでよければ、最後のページに署名を頼む」

 そう言って筆記用具をこちらへよこす。守薙が先ほど呪の説明で使った高級ペンなのに対し、真は見るからにちゃっちい透明プラスチックのボールペンだった。なんなのだろう、この扱いの差は。腹が立ったので自分の万年筆を使うことにする。

 彼女が活字に目を落としてすぐ、守薙は早々とサインを終えて冊子を返却してしまった。

 早っ。ちゃんと読めよ。不当な条件が書かれていたらどうする。

 真は彼女の代わりも兼ねて誓約書にさっと目を通す。内容はおおよそタイソンの解説通りで、一般的な機密保持の条文に近いものだった。これならば同意しても問題あるまい。

 タイソンがサインを済ませた書類を受け取ると、車は発進した。守薙の指示に従って進み、五分程度で彼女の自宅に到着する。しかしそこに広がっている光景を見て、真は少々怯んだ。家に灯りが点いていなかったのだ。

 いやいや、落ち着け。親はもうすぐ帰って来るのかもしれないし、たまたま玄関側に面していない部屋にいるのかもしれない。

 守薙をそこで降ろし、真は着替えを取りに一旦自宅へ送ってもらう。タイソンと二人だけになった車内で、彼女は窓の外を見つめたまま口を開く。

「もし……、彼女に万が一のことがあったら、そちらで隔離できるか?」

 パッチの書き換えは、ハード――特に人間に関しては最低限に抑えられる。つまり、もし守薙が自我を失って誰かを傷付けた場合、その怪我は解呪後も決して消えることはない。下手をすれば、彼女が自らの意志で凶行に及んだと改竄されてしまうかもしれないのだ。それにたとえそうでなくても、守薙は他人を傷付けたことで強く自責するに違いなかった。

「あまり気をもみ過ぎるなよ。まだオヌヒ化と決まったわけじゃない」

 タイソンがこちらを元気付けるように明るい調子で言う。

「――だが手配だけはしておこう。もし予兆が見られたら、すぐに連絡しろ」

「頼む」

 真はそう言ってからバックミラーに見切れた運転席を見る。

「さっきの蕎麦代、無事にエラーが解けたら払うよ」

 タイソンが大きく肩を揺らす。

「ふっ、頑固な奴だな」

「ああ……、鉄だからな」

 車が真の家のすぐ近くに停車する。タイソンをその場に待たせて、彼女は自宅の庭に回り込む。窓を覗き込むと、タイミングよく家族は全員リビングでテレビを見ていた。

 静かに玄関のドアを開け、脱いだ靴を持って忍び足で自室まで移動する。靴をクローゼットに隠し、小さめの衣服をバッグに詰め込んで玄関へ戻る。靴箱の奥から以前母親が買ったものの、ろくに使っていない新品同然のランニングシューズを回収した。少しきついが、ぶかぶかの男物よりは遥かにましだ。デザインは悪くなかった。おそらく妹が選んだのだろう。

 タイソンと合流して再び守薙家を目指す。その途中、今夜は友達の家に泊まるとの旨を母親へメールしておいた。

 目的地に辿り着くと、タイソンがこちらを振り返った。

「もし犯人について心当たりや思い出したことがあれば、いつでも連絡してくれ」

 真は頷き、礼を言ってから車を降りる。すると、運転席の窓が開いた。

「安心しろ。犯人は必ず捕まえる。……私の手で」

 タイソンは前を向いたまま言った。

 真からは死角となって、その表情は窺い知れない。ただハンドルを握る手に強く力が込められているのだけは、はっきりと見て取れた。

 彼女が声をかけようとしたところで、車は静かに走り去ってしまった。




 守薙の両親は不在だった。

 今日は仕事が立て込んでいて帰りが遅くなるらしい。他に同居人がいる様子もない。

 つまり今この家には、彼女と二人きりということである。

「すみません、先にお風呂を頂いてもよろしいでしょうか?」

 守薙が心苦しそうに尋ねてきた。彼女の部屋で体を強張らせていた真は、不意を突かれてしどろもどろになる。

「え? あ、ああ、いいよ。ここは君の家だしな」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

 とろんとした目つきで守薙が頭を下げた。垂れ下がった瞼は睡魔に因るものだと分かっているのだが、恍惚とした表情にも見えて鼓動がますます早まった。

 真は丸いローテーブルに置かれた麦茶を落ち着きなく啜っている。先ほどから啜ってばかりで、出されてすぐなのにもう八割方を飲んでしまっていた。

 守薙が呆けた表情のまま立ち上がってクローゼットを開ける。きちんと折り畳まれた檸檬色のパジャマを手にし、次に引き出しから白い小さな布きれを取り出した。何の気なしにそれを眺めていた真は、遅れてその正体に気付き麦茶を吹きそうになる。彼女が盛大にむせる音で状況を理解したのか、守薙は「す、すみません!」と恥ずかしそうに頬を紅潮させて、あっという間にドアの外へ消えていった。

 あまりの眠気でぼうっとしていたのだろうか。まったくもって心臓に悪い。しかしゾンビといえど、感情が昂れば血色は良くなるらしかった。

 口を拭って周囲を見渡す。室内は掃除が行き届いて綺麗に片付けられていた。全体的な色合いは白と淡色で纏められ、柔らかな印象を受ける。一体何から発せられているのか判然としないが、とてもいい匂いがした。

 本棚に並んだ背表紙には、やたら「死」とか「殺」とかの文字が目立つ。たぶん推理小説なのだろう。ふと勉強机に置かれた写真立てが目に留まった。守薙ともう一人、年下と思われるあどけない印象の少女が写っている。並んだ二つの顔は何処となく似ているようだった。親戚なのかもしれない。

 真はかぶりを振る。こんな人のプライバシーを詮索するような真似は止そう。他人にしたことは自身にされても文句が言えないからだ。

 彼女はカーペットに背中から倒れ込む。動くたびに胸部の軟体が慣性で上下運動したが、その感覚にもだいぶん慣れてしまった。つくづく人間の適応力は偉大だなと思う。

 だが、この体にこのまま順応する気はさらさらない。真が認識する自身の性別――性同一性は、間違いなく男であった。このまま女の体で生きていくことなど到底考えられない。自身の肉体に対する違和感は勿論、そこから生まれる周囲との軋轢もかなりの精神的苦痛だと想像された。もし元に戻れなければ、それがずっと続くのだ。このさき死ぬまでずっと。とても耐えられない。

 いや、むしろ怖ろしいのは、その耐え忍ぶ必要性すら感じなくなることだろう。

 真は特異点(シンギュラー)だ。パッチが当たることはない。だから記憶は書き換えられないし、それによって精神も何ら影響を受けない。だが無論、肉体からの寄与は全く別の話だ。

 男女は見た目だけでなく、脳の器官にも有意な差があると何かの本で読んだ。真は性同一性というものがどうやって決定されるのか、その原理を知らない。だが、外観や脳に性差がある以上、それらが性同一性の決定に少なからず効いてくると考えるのは自然な発想ではないか。実際、肉体が男の性同一性障害者の脳を解析すると、女性の構造に近かったという研究データもあったはずだ。

 真はこれまで男の体を自身と認識し、男の脳で思考して、自らを男性であると認めていた。しかし今は違う。記憶だけが性同一性を男性たらしめ、視認できる肉体も思考する脳も女性のものなのである。これは通常の性同一性障害者とは明らかに異とするところだ。

 故に、肉体が女性化したことは精神に断続的なフィードバックを与え、いずれは性同一性をも歪めてしまうかもしれない。つまり、自分は女だと。もう男へ戻らなくていいと。

 その未来はあまりにおぞましかった。たとえ記憶が残っていたとしても、結局のところそれは自分が消滅してしまったのと同じではないか?

 悶々とした想いでそんな思索に耽っていると、がちゃりと部屋の扉が開いた。淡い黄色の寝間着に身を包んだ守薙の姿が目に入る。しんなりとした髪が妙に色っぽい。

「お風呂あがりました。十七里さんもどうぞ」

 彼女はそう言って隣にぺたんと座りこんだ。室内に漂う甘い香りが一層濃くなる。彼女の血の気を失っていた肌はお湯で温もりを取り戻したせいか、桜色へと変わっていた。

 真は目を瞑って後頭部の辺りを思いっきり掻くと、着替えを引っ掴んで部屋を出た。




 脱衣所に入って服を脱ぎ捨てる。何気なく横へ目をやると、飛び込んできた情景にどきっとした。洗面台の鏡に白くしなやかな曲線がぼうっと浮かんでいる。慌てて目を逸らす。

 見るのはとても卑怯な気がした。どういう理屈で卑怯なのかはさっぱり分からないが、それを考えること自体酷く情けないと感じたので、兎に角できる限り視界に収めないよう努力した。

 頭から熱いシャワーを浴びて、汗や疲労と一緒に雑念も洗い流す。……つもりだったが、最後のだけはお腹の辺りにじとりと淀んで、どうしても流れ去ってくれなかった。左掌の切り傷にお湯が沁みてジンジンと痛む。

 熱気で発生した上昇気流が何処からか芳しい香りを運んでくる。もしやと思って身体をくんくんと嗅いでみれば、間違いなく自身の体臭であった。

 複雑な気分で湯船に入る。肩まで浸かると、豊満な二つの半球がぷかりとお湯に浮いた。その光景にたじろぐ。いや、大半が脂肪だから当然なのだが。

 頭上に浮かぶ丸い照明をぼんやりと眺めながら、真は今後のことを考える。

 ……捜索の全てをタイソンに任せていいのだろうか? 通常の事件に置き換えるなら、彼は警察に該当する。その場合、俺は大人しく解決を待つだろう。だがそれは警察が充分なリソースを持ち、且つ捜査方法がしっかりと確立されている――、即ち俺自身ができることは彼らの捜査の範疇を越えない、という確信があるからだ。

 では、今回はどうだ? カドゥーシアスは人手不足が深刻、しかも組織ができたのもここ数年ときている。呪捜査の方法論が成熟しているとは考え難い。

 ならば、俺も動くべきではないだろうか。タイソンの捜査はキジーツの売人を追うのが中心で、交友関係や呪の発動条件から犯人を割り出すのは後回しとなっている。

 それになにより、これは俺自身の問題だ。その解決を全くの他人任せにするというのは、どうも性分に合わない。他人の力で収めた結果など、本当の成果ではないのだ。

 自分なりに問題に取り組むなら、やはり動機や手法から犯人を絞り込むのが妥当だろう。だがそれにはまだ材料が足りない。もう一度今日起きた事を整理して、守薙からも詳しい事情を聴かなければ……。




 風呂から出て部屋に戻ると、ベッドの隣に布団が敷かれていた。真は身を仰け反らせる。

 ここで寝るのか……。

 その横では、守薙が座ったままベッドにもたれてすやすやと寝息をたてていた。そんなに眠いのなら、わざわざ待ってくれなくていいのだが。

 何度か声をかけるが反応はない。肩を揺すってみると、眉を寄せて「うぅ…ん…」と小さく唸り声をあげた。伸びた細い首とパジャマの襟から覗く滑らかな鎖骨。そしてその下で規則的に波打つ二つのふくよかな膨らみは、決して開けてはならない秘密の扉の如く、禁忌を冒したくなる誘惑に満ち溢れていた。普段の彼女からは感じられない艶めかしい色香に、真は堪らず手を引っ込める。

 駄目だ。これ以上、見てはいけない。そう思えども、視線はその少女の肢体にすっかり捕らわれてしまっていた。檸檬色の柔らかそうな寝間着が彼女の肌にしっとりと張りつき、瑞々しい身体のラインを眩しいくらいに浮かび上がらせている。その薄い衣の下に先ほどの白い下着が着用されているのを妄想してしまい、喉がごくりと低い音を鳴らした。

 真は首を大きく左右へ振り、身体を支配しようとするじめじめとした衝動をなんとか振り払った。何度か深呼吸して気持ちを静め、守薙をベッドの上へ運ぶことにする。

 持ち上げるのは細くなった腕でもそれほど苦でなかった。むしろ抱きかかえた彼女の身体が思ったよりずっと華奢で、力を入れれば薄氷のように割れてしまうのではないかと恐怖した。

 ベッドに寝かしつけた後、部屋の灯りを消して真は床の布団へ入る。彼女は暗闇の中、蕎麦屋でタイソンの話を聴いた時から頭の片隅にこびり付いている疑問について考え始めた。

 ……呪に使うニエには、採取から七十七分以内であるという制限がある。だが俺が裏返りを感じた時、物理準備室に籠ってから九十分以上が経過していた。あそこは扉も窓も中から施錠されていたはず。つまり、室内には誰も入れなかったのだ。

 だとすると犯人は、どうやって俺の体からニエを回収したのだろうか?

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