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一.異常と正常③

 学校で過ごす時間は普段と全く変わりがなかった。朝方、神社の森でオヌヒに襲われたことなど、まるで全くなかったかのようだ。

 昼休みに入り、真は購買で買ったサンドイッチを持って自分の席に着いた。すると案の定、前の席の寺浦爽太(そうた)が振り返って、待ってましたとばかりに弁当を広げる。

 彼は真と交わりを持つ数少ないクラスメイトの一人で、決まって昼食を共にしていた。こちらから誘ったことは一度もないのだが、特に拒む理由もないのでいつもそうしている。

 寺浦は百八十センチ近い長身に、鼻筋の通った中性的な顔立ちをしている。髪と瞳は何も手を加えていないにも関わらず完全なダークブラウンで、肌も女子が羨ましがるほどに白い。傍目にはハーフにしか見えないが、当人は純日本人である。

 しかし性格は古典的な日本男児とは真逆で、とにかく女の子に目がない。女子に会うたび、さも当たり前のように面と向かって相手のことを褒める。そんな態度と端整な顔立ちが相まって、彼に想いを寄せる女性は非常に多いようだった。小耳に挟んだ情報では、入学一ヶ月で既に三人から告白されているとか。しかし誰とも付き合っている様子はない。本人のスペックが高いだけに、理想も高いのかもしれなかった。

 真はタマゴサンドを頬張りながらポカリスエットを飲む。包帯を巻いた左手は、ペットボトルを強く握りしめるとまだ少し痛んだ。

 早々と食事を終え、ニュースでも見ようかと携帯電話へ手を伸ばしたところで、弁当を食べる寺浦が待ちわびたように話をきり出した。

「――じゃ、そろそろ始めますか。今日は二つもネタがあるしな」

 またか、と真は苦い顔をする。

「ここのところ供給過多だぞ」

「まあ、そういうなよ。どっちが先がいいかな。俺的には、オヌヒがお勧めなんだけど」

「オヌヒ? ああ、あれか」

 その呟きに寺浦が眉を上げた。

「お、知ってんの。珍しいじゃん」

「まあな。ゾンビみたいな奴だろ?」

 平坦な口調でそう返すと、彼は呆れるような声をあげた。

「はあ……、真は分かってないなあ。言っとくけど、オヌヒとゾンビは全く別物だから」

「同じようなものだろう」

「いいや、ぜんっぜん違うね」

 特に興味はなかったのだが、そこまで否定されると少々気になってしまう。

「何がどう違うんだ?」

 相手がニヤリと笑う。

「それを知るためには、俺の話を聞くしかないな」

 しまった、そういう展開か。真は心の中で舌打ちをした。

 彼は幽霊やら都市伝説といったものが極めて苦手だ。常識的にあり得ないと頭では分かっている。分かってはいるのだが、やはり怖いものは怖いのである。

 そんな彼に対して寺浦は頻繁にそういった話題を披露する。本人の趣味もあるだろうが、こちらの嫌がる反応を面白がっているようだった。

 寺浦がおもむろに語り始める。

「こっから北に廃墟があるじゃん、十年くらい前に潰れたやつ」

 それなら知っている。山へ入る道の途中に小さな分岐点があって、そこを少し進むと雑木林の中に荒れ果てた建物が残っているのだ。近くを通りかかったとき遠目に見た印象では、かなり大規模な施設の跡だったと記憶している。

「実はあそこ、元々は外資系製薬会社の研究所だったんだよ。本社から外人の研究者をいっぱい呼び寄せて、新薬の研究開発をやってたんだって。でもその当時から、怪しい噂が結構流れてたらしいぜ。不死身の兵士を作るためにオヌヒを研究してて、ホームレスとか犯罪者を秘密の地下室へ連れ込んで薬の人体実験をやってるとかね」

 なんて不合理な噂だろう。研究内容自体もそうだが、そもそもそれほど機密性の高い研究をどうしてわざわざ異国の地でやる必要があるのか。全く理解に苦しむ。

「――でそんな中、研究所がある日突然閉鎖されちゃったんだよ。潰れた理由がよく分からなくて、そん時は色々な憶測が飛び交ったらしいよ。結局今でも不明のままみたいだし。まあ、そういう経緯といい感じに寂れたまま残った建物のおかげで、この辺りじゃ有名な心霊スポットになったわけ」

 そこまで話すと、寺浦はトマトのスライスをぱくりと食べ、嚥下し終ってから何気ない調子で言う。

「……でもさ、ときどき本当に消えちゃうんだよね。――人が」

 不気味な笑みが目の前に浮かぶ。

 真は首筋にぞっとするものを感じた。握った拳に汗が滲む。

「肝試しに行った奴らがさ……、そのまま、ふっていなくなっちゃうんだ。そんで、次の日の夜にあの研究所の前を通ると、林の中から何かを引きずるような音が聞こえてくるんだよ。ある人の目撃談じゃ、薄汚れた白衣の男が地面に穴を掘って赤黒い塊を捨ててたんだって。ちなみにその塊、……ちょうど人間くらいの大きさだったらしいぜ」

 寺浦が右手に持った箸をぶすりとハンバーグに突き刺した。こんな話をしながらよく食事ができるものだ。呆れる反面、少し羨ましい気もする。

「つーわけで、あの研究所の地下じゃ、未だに人をオヌヒにする研究が続けられてるんじゃないかって言われてるんだ」

 やっと終わったか、と胸を撫で下ろしかけたところに、不意打ちが飛んできた。

「んで、こっからが本題なんだけど」

 まだあるのか……。

「実は昨日の夜、コンビニへ行った帰りに部活の先輩が見たらしいんだよ。あの研究所の前の林ん中で、うずくまってなにかを貪ってる人影を」

 真はごくりと唾を飲み込む。

「なに、か……?」

「人間の手――、に見えたってさ」

「へ、へえ……」引きつった声で相槌を打った。

「先輩はそれを見て、速攻で逃げたんだって。でもそしたら林の中から草を掻き分ける音がして、すげー速さで追いかけてきたらしいんだよ。先輩も全力で走ったんだけど、坂道だからばてちゃってさ。もう追いつかれるってなったらしいんだけど、その瞬間、銃声みたいな音がしてさ。それで追いかけてきてた音が止んだんだって。走りながら一瞬だけ振り返ったら、林ん中に拳銃を持った男がいたらしいぜ」

 真は眉根を寄せる。昨夜出没した、人を食う怪人とそれを銃撃する男? その話は聞いたことがあるような……。

「もしかしてその男、外国人か?」

 寺浦が嬉しそうに首肯する。

「そうそう。だから多分、研究所の奴が逃亡した実験体を処理したんじゃないかって話」

 そう言うと、彼は最後の白米を口へ運んで弁当箱を閉じた。質問の意味を勘違いされたようだが、その方が好都合だったので黙っておくことにする。

 おそらくだが、その拳銃を持った男というのはタイソンのことだろう。だとすれば寺浦の先輩を追って来た人影は、ナイフ男か彼に噛まれた被害者ということになる。

 なるほど、こんな風に噂話でエラーの影響が広がっていき、パッチが当たりきらなくなってしまうのか。そしてその結果、新たな都市伝説が生まれることになるわけだ。

 得心がいったところで、唐突に学ランの袖がぐいぐいと引っ張られる。そちらへ顔を向けると、キャメルのカーディガンに身を包んだ小柄な少女が立っていた。

「あ、となりん、ごめん。もしかして話し中だった?」

 棗柚葉(ゆずは)が上半身ごと首を傾けた。栗色をしたセミロングの髪がふんわりと揺れる。

 長い前髪は色鮮やかなピンで留められ、顔にはいつも通りナチュラルだが華やかなメイクが施されている。百五十センチに満たない身長と幼さを残した顔つきには、どうにも不釣り合いな装いである。いや、むしろそれを気にしているからこその抵抗なのかもしれないが。

 棗は明るく人懐っこい性格で、交友関係も広い。クラスでは中心的なグループに属しているといっていいだろう。そんな彼女となぜ真が接点を持っているかというと、またしても席が隣だからである。入学初日、席に着いて名前を訊かれた際は、「ダジャレかよ!」と彼女から理不尽なつっこみを受けた。『となりん』という渾名はそのとき勝手につけられたものである。

 ちなみに真の右隣が棗で、左隣が守薙の席となっている。彼の席は、寺浦曰く『奇跡の席』らしい。随分と大袈裟な話だ。

「ああ。でも大した話じゃない」

 真が無表情でそう答えると、寺浦が抗議の声をあげた。

「おい! 俺は今、猛烈に傷付いたぞ」

 棗が笑いながら質問してくる。

「何の話してたの? 爽ちゃん」

「オヌヒについてだよ」

「……へ? 私?」

 不思議そうに小首を傾げる彼女へ、真は冷めた口調で指摘する。

「オヌシじゃなくて、オヌヒだ。どうして忽然、侍口調になるんだよ」

「お前、今のよく分かったなー」

「オヌヒ……? あー、知ってる! あの、ゾンビみたいなやつだ」

 閃いたように宙を指差す棗へ、寺浦が『まるで分ってない』という風に溜息をつく。

「ユズもかよー。だから、オヌヒとゾンビは違うんだって」

 そういえばすっかり忘れていたが、話の出発点はそこだった。

「結局何が違うんだ?」

「え。今の話で分かんなかったのかよ」

「全く」

「マジか。信じらんねえ」寺浦が愕然と肩を落とす。

「じゃあ、分かりやすーく言ってやるよ。いいか? ゾンビっていうのはだな、……決して元気に走り回ったりしないんだよ。つまりバイオは、3までってこと!」

「何の話だよ」

 真には意味が分からない。しかし棗には通じているらしく、彼女は不服そうに口を尖らせた。

「私は4も好きだけどなー。だって走って来るの、ちょー恐いじゃん」

「それはゾンビじゃなくて、素早い敵が恐いだけでしょ」

 誰の同意も得られなかったからか、寺浦は淋しそうに首を振った。

「で、なんでそんな話してんの?」

 棗の問いに彼はこちらを指差して答える。

「こいつ、その手の話が一切ダメなんだよ」

「へぇ、いがーい。となりんて、『幽霊? そんなものは科学的に存在しない。キリッ』とか言いそうなのに」

 棗が真の声真似をした。したり顔なのが妙にむかつく。だいたい『キリッ』て何だ。

 真はしかめっ面で相手を睨む。

「それで? 俺に何か用があるんじゃないのか?」

「あっ、そーだった! となり~ん、宿題教えてー」

 棗が泣きついてきた。

「は? 朝やったんじゃなかったのか?」

「できなかったんだよー」

 真は「またか」と溜息をつく。ここのところ、彼女に勉強を教えるのがほぼ日課のようになりつつある。

「しょうがないな。……で、報酬は?」

「いつも通り、ガリガリ君ソーダで!」

「いや、今回は緊急性が高いことからアイスの実を要求する」

 棗が恨めしそうな目を向けてくる。

「おっ、おのれ、足下を……!」

「嫌なら他を当たることだ」

 真は腕を組んで背もたれにもたれかかった。

 その応対に相手は歯を食いしばって拳を震わせる。

「ぐぬぬ……、南無三! それでお願いします!」

「南無三の使い方を間違えているぞ」

 冷ややかに言い放ったところで、寺浦が半ば呆れたように割り込んできた。

「真。お前、こんな可愛い女の子にまでたかってんのか?」

「失礼な奴だな。これは労働に対する正当な対価だ」

「爽ちゃんも、となりんに何かあげてるの?」

「いーや、俺は漫画やらゲームを貸してる。こいつ、そっち方面の知識ゼロだから」

「へー、そうなんだ。私も今度からそうしよっかなー」

 棗はそう言うと、隣の席に着いて机から数学のプリントを取り出した。そして跨ったままの椅子をおんぶするように持ち上げて、そのままペンギンみたいによちよち歩きで近寄ってくる。効率の悪そうな移動方法だ。

「で、何が分からないんだ?」

 彼女が元気よく答える。

「何が分からないのかが、分かりません!」

「絶望的だな……」真はこめかみを押さえた。

 こんな調子だが、彼は棗を非常に真面目な人物だと評している。というのも彼女は、宿題を教えてくれとは頻繁に頼むが、写させてくれと言ってきたことは一度もない。

 解法が分からなければ、書き写しなど所詮はただの一時しのぎである。いざ試験前になって痛い目を見るだけだ。だが彼女には、問題の緊急性が低いうちにそれを根本から解決しようとする気概が伺えた。その姿勢には大いに好感を覚える。だから真は彼女の勉強にいつも付き合うようにしている。といっても無論、相応の報酬は頂いているが。

 棗に解き方の指針だけを教えて自分で考えさせる。彼女が問題文と睨めっこをしていると、寺浦が携帯電話を眺めながら呟いた。

「お、やぎ座は今週末、恋愛運が最高かあ」

 棗が顔を上げる。

「……占い? 私のも見て。てんびん座ね」

「えーっと……、とにかくミスが目立ちます。何事にも慎重に、だってさ。なんかバイトでやらかすんじゃね?」

「あー! 当たってるかも。私、新しいバイト始めたんだけど、仕事覚えるの、ちょー大変でさー。マニュアルがヤバいくらい分厚いの。辞書かよ! みたいな」

「棗」

 真は人差し指でプリントをとんとんと叩いた。しかし彼女はそれを無視して尋ねてくる。

「となりんて、誕生日いつ?」

 思わず表情が渋くなった。

「なに、その顔ー。俺は占いなんて信じない、的な」

「俺は占いなんて信じない」

 台詞をそのまま復唱すると、寺浦が頬杖をついてぼやいた。

「夢のない奴だなあ」

「そんなのを信じる人間の方が夢がないだろう。自分の行動に無意味な制限をかけて、せっかくの自由度を削っている」

 棗がうんざりした様子で訊き返す。

「もー、いいから答えてよ」

「よくない」

 二人の埒のあかない言い合いに、寺浦がにやけ顔で終止符を打つ。

「こいつ、おとめ座だよ」

「ぷっ。に、似合わない……!」

 棗が吹き出して肩を震わせた。

「放っておいてくれ」

 ぷいっと顔を背けるこちらに構わず、寺浦が占いの内容を読み上げだす。

「おとめ座は……、週末の運勢は全て最悪。怪我と体調不良に注意」

「当たってんじゃん!」

 棗の小さな手が包帯を巻いた左手を指差した。

「――えーっと、それから……、トラブルに巻き込まれ、信じていたものに裏切られるかも。無理に抗うと事態は悪化するので、自然に身を委ねましょう。だってさ」

 悔しいことにそれも当たっている。ナイフ男に襲われてエラーの存在を知り、今まで信じていた世界の常識が一変してしまった。

 ……いやいや、待て待て。占いの文章は随分と抽象的ではないか。こういうものは、どんな体験でもそれらしく当てはまるように書かれているのだ。騙されてはいけない。

 真は語気を強めて言い返す。

「たまたまだ。サンプル一つで正否を判断するな」

「守薙さんは何座?」

 寺浦がちょうど友人との昼食を終えて席へ戻ってきた守薙に話を振った。彼女はちょっと困ったように笑って答える。

「私も、十七里さんと同じですね」

「……やっぱり当たってるし」

 棗がじと目で睨んできた。

 困ったことに、またまた当たってしまったようだ。というのも実は、守薙は朝のホームルーム前に倒れて保健室へ連れて行かれていたのだ。真はそのとき教室にいなかったため詳しい状況までは分からない。しかしその原因に関しては、おおよその見当が付いた。

 彼女は今朝、人の惨殺体を発見して殺人鬼に襲われた。そして、人が殺される瞬間を目の当たりにした。ショックを受けて当然である。そんな緊迫した状態から日常へと戻ったことで、気が抜けてどっと疲労が押し寄せてきたのだろう。

 とはいえ症状は大したものでなかったらしく、一時間目の頭にはいつも通りの涼やかな顔で教室へ戻って来た。むしろ保健委員として付き添っていた棗の方が、心配のあまりか顔が青ざめていて、傍目にはどっちが病人なのか分からないくらいだった。

「いいから、さっさと宿題をやれ」

 真は棗の小さな頭を鷲掴みにし、無理矢理プリントへ向かわせた。その様を見て守薙がクスクスと笑う。顔色はやや優れないようにも見えるが、もう体は何ともないようだ。少し胸につかえていたものが取れるような気がした。

 しかしその安心は、ただの楽観にしか過ぎないのであった。




 放課後、クラスメイト達は部活や帰宅のため一斉に教室から出始める。

 その流れに向かって、教卓に立ったマトリョーシカみたいな体型の巨漢が声をかける。

「アンケートまだの人は今すぐ出してねー。五分後には持ってくよお」

 百キロを軽く超える体躯と天然パーマが特徴の彼は、真達の担任教師で福満(ふくま)という。年齢はもう四十を超えているはずだが、脂肪でぱんぱんに引き伸ばされた肌は皺もなく張りがあるため、外見は若々しい。

 彼が言及したアンケートとは、いじめに関する実態調査で、全校生徒に対して定期的に行われているもののようだ。しかし集計された結果がどのように活かされているのか知らないので、活動に有用性があるのかは判断できない。

 真の目の前に突然、白いプリントが差し出される。

「となりん、ごめん。これ忘れてた!」

 棗が片目を瞑って詫びを入れてきた。彼女が渡してきたのは、先のアンケート用紙である。訳あって今朝がた貸していたのだ。

「それから、これ。例のブツですぜ」

 机の上にアイスの実が置かれた。どうやら帰りのホームルーム前に購買で買っておいたらしい。別にそこまで急がなくていいのだが。

 労いの言葉でもかけようかと思ったら、出入り口付近に立った女子数名が「ユズー、今日どっか寄ってこー」と大声をあげた。

「ごめーん、私、今日バイト。でも校門まで一緒に帰ろー」

 棗はそう答えると、こちらに「ばいばーい」と小さく手を振って走り去っていった。

 真はそそくさとアンケート用紙の記入を終え、黒板横に設置された回収箱へ提出する。箱の置かれた机の上にはボールペンと藁半紙も乗っており、紙の中にはクラスメイトの名前が並んでいた。どうやら提出者はここへ記名するらしい。アンケートのくせに匿名性があるんだかないんだか、よく分からないシステムである。

 机へ手を伸ばしたところで、横から割り込んできた寺浦にボールペンを掻っ攫われてしまった。彼は「おっと失礼」などと得意げに口元を上げると、わざと時間をかけながら名前を書き込みだす。その態度にイラッときたので、真は胸ポケットの万年筆を抜いて脇から素早く記入を終えてやった。

「割り込みなんて、モラルのない奴だなー」

「それはそっちだろ」

 寺浦がデイバッグを左肩に背負って軽口を叩く。

「今日はオヌヒの話しかできなかったから、続きはまた明日だな」

「明日は土曜だ」

 その訂正を無視して、彼は背中を向けながら言う。

「呪のペンって話だから、楽しみにしとけよ」

 頭の片隅で魚の小骨が引っかかるような感覚を覚えた。聞き覚えのあるフレーズである。少し考えてから今朝のスパムメールだと思い出す。そのことを話そうかとも思ったが、既に寺浦は教室から出て見えなくなるところだった。

 特に急くようなことでもないし、喋るのは来週で構わないだろう。それにしてもメールを削除していなくて良かった。これを見せれば、寺浦は羨ましがるに違いない。真はその様を想像してほくそ笑みながら廊下へと出た。




 下駄箱には向かわず、教室のある南校舎から西校舎へと移動する。西校舎は調理室や実験室などの特別教室が集中している棟である。各特別教室は文化系部の部室としても利用されており、放課後になると西校舎は一気に人口密度が上がる。

 廊下でふざけ合う生徒の話し声や、遠くから響いてくるトランペットの音色をすり抜け、目的の部屋の前まで辿り着く。

 物理準備室。ここはとある事情から、現在真の専有スペースとなっている。

 前もって借りていた鍵で中に入り、蛍光灯のスイッチを点ける。部屋の面積は普通教室の半分ほどで、両側の壁には重量感のある古い木製の棚が並べられている。そのガラス戸越しには収納された天秤や台車などの実験器具が覗けていた。

 真は引き戸を施錠してパイプ椅子に腰を下ろす。壁に掛かった時計は、午後四時二十分を指している。窓の下を見れば、グラウンドで野球部がウォーミングアップをしていた。

 アイスの実を食しながら、図書館で借りた読みかけの本を開く。環境倫理学という学問について書かれたもので、初めて見る切り口から環境問題を考察していてなかなか面白かった。

 彼はいつもここで、こんな風に放課後の時間を潰す。無論それは帰宅の時刻を遅らせるために他ならない。あの家には、なるたけ居たくないのだ。

 しかしこの部屋が使えるのも、実は今日で最後かもしれなかった。というのも今朝、守薙に左手の手当てしてもらう際、事の成り行きからここを独占している事実を明かしてしまった。学校側にそれが伝われば、おそらく使用禁止となるだろう。

 とはいえ、未練はそこまでなかった。時間を潰すだけなら図書室でも代用できる。それになにより、守薙だ。彼女はここが私物化されている経緯を言い当てようとしたのだが、その洞察力には惚れ惚れさせられた。鋭い思考に出会えた時は、胸が晴れやかな気分になる。あれを見た後なら、この部屋の専有権など些末なことだ。

 しばしの間、時間を忘れて読書に耽る。しかしいつの間にかウトウトとしていたらしく、遠くで響く金属バットの快音ではっと意識が戻った。野球部がバッティング練習を始めたようだ。太陽は西の空へ大きく傾き、窓の外の街並みを朱色に染めている。時計を見ると、時刻は午後六時過ぎ。メールチェックのために携帯電話を手に取るが、新着メールは来ていなかった。

 もう少ししたら帰ろう、と再び本を開く。だがこのところの寝不足が祟ってか、たちまち睡魔に襲われてまたうたた寝を始めてしまう。本を読まねば、という気概はあるのだが、重い瞼は全く言うことを聞かない。微睡に呑まれる意識をすくい上げては、すぐまた闇の中へと吸い込まれるという攻防を繰り返す。

 するとその最中、いきなり目に見える世界がネガフィルムのように反転した。そしてそれと同時に、吐き気とも異なった内臓全てが体外へと出るような――、まるで肉体が何もかも裏返ったかの如き感覚に陥る。が、その異様な感じは一瞬のことで、次に気が付いた際には何事もなかったかのように眠気と戦う己がいた。果たしてそれが実際の感覚だったのか、或いはそういう夢を見ただけだったのかも判然としない。

 真は気を取り直して書に向かおうとしたが、読み上げる文字は朦朧とした頭を通り過ぎ、その意味は全く入って来ない。最早これでは無意味だ。今めくっているページはどうせもう一度読み直さなければなるまい。ならば、いっそのこと睡眠に集中し、すっきりとした状態で本に取り掛かった方が効率的ではないか。そう考えて真は書を置き、机に突っ伏したのだった。


 …………。


 ふと目を覚ます。なんだか息が詰まる。慣れない体勢で眠ったからだろうか。深く息を吐き出すと、何処からか甘い香りが漂った。

 真は薄目を開いて緩慢な動作で体を起こす。時計を見る限り、三十分ほど寝ていたようだ。しかし気分は優れない。頭がぼうっとしているのに、変に血の巡りだけはいいのか、後頭部の辺りがズキズキと痛む。指先が痺れ、全身には得も言われぬ居心地の悪さが纏わりついた。

 とにかく胸が苦しい。その圧迫感に耐えかねて詰襟の前を開けようとした時、真はようやく息苦しさの正体に気が付いた。

 胸部が大きく盛り上がっているのだ。どうも学ランの下に何かを詰められているらしい。

 一体何だ? 薄弱たる意識のまま、ゆっくりと指で触ってみる。

 ……柔らかい。

 だがその触覚と共に、ぞっとするほどの違和感が背筋に走った。眠気が瞬時に消し飛ぶ。

 何が何だか分からない。

 混乱する頭でもう一度、恐る恐る胸部の膨らみをつついてみる。

 ……やはりそうだ。確かに真は今、何かに触れる感覚を知覚した。だが同時に、何かに触れられる感覚も感じ取ったのだ。

 どういうことだろうか。この事象をありのまま理解するとしたら……、そんな、あり得ない。

 しばらく硬直した後、震える手で学ランのボタンを外してシャツの襟を引っ張った。

 思い切って中を覗きこむ。二つの巨大な丘陵があった。それは肌から地続きに隆起しており、表面に薄っすらと透けた静脈が真の肉の延長であることを告げている。

 思考がぷっつりと停止した。無意識に「……は?」と声を漏らす。しかしその囁きは裏返ったわけでもないのに、鈴を転がしたかのように高く美しい声音だった。

 反射的に喉へ手を当てる。一瞬遅れて、そこにあるはずの突起がないことに気付いた。

「嘘だろ……」

 耳慣れない透き通った声が室内に響く。

 真は改めて衣服の中にある自身の肉体を観察し、その受け入れ難い現実を認識した。

 間違いない。女に――、体が女になっているのだ。

 意味が分からない。これは夢か? いや、それはない。夢はそれと疑えば、直ちに明晰夢へと転じる。真は経験上それを心得ていた。それに、夢にしては感覚がリアル過ぎるのだ。

 では何だというのだろう? 頭がおかしくなってしまったのだろうか?

 携帯電話を取り出して自身を撮影してみる。見たことのない顔が写った。ただ、どう見ても女だった。カメラの顔認識機能も、十代半ばの女性という判定結果を表示している。ということは、精神に異常をきたしたわけではないらしい。

 つまり認識の問題でなく、物理的に女になっているということだ。確かに外科手術や分泌ホルモンの操作によって、性転換を行う方法はあると聞く。だが、たかだか三十分のうちにここまで完璧に変貌を遂げることなど、常識的にはあり得ない。

 では残る可能性は何か。思い当たるのは一つしかない。

――エラーだ。エラーによって、真の体は女に変化してしまったのだ。

 隕石より低確率じゃなかったのか!

 彼、いや、彼女は心の中で恨み言を吐いた。冷や汗が流れて息が乱れ、胸を早鐘が打つ。何故だか分からないが、目に涙が浮かんだ。

 待て。落ち着け。喚いて何になる。忘れたのか。起きた事はどうやっても変えられない。これからの事を考えるんだ。この問題にどう対処するか。まずは冷静に事態を分析すべきだ。

 真は息を整えて気を落ち着けると、先ほど撮った画像の観察に入った。目鼻立ちの整った美しい少女が写っている。やはり見覚えのない顔だ。

 ……いや、待て。この目元は真の元の顔とよく似ている。それに、伸びてやや鬱陶しくなった髪もそっくりではないか。前髪に触れて髪質を確かめてみる。寝癖の付きやすい柔らかい性質も全く同じだった。そのうえ左手には包帯が巻かれている。掌を指で押してみると、傷を刺激する痛みが走った。ナイフ男につけられた切り傷も健在である。

 ということは、この肉体は誰か他人のものというわけでなく、真自身の体が変容したものと考えるのが妥当なようだ。

 さて、どうしたものか。これがエラーに因るものだとすれば、解決はタイソンを頼る他あるまい。しかし彼は本当に信用できるのだろうか。過半数の人が一生に一度も遭遇しないというエラーに、これほどタイミングよく見舞われることなどあるのか。

 とはいえ、あの時のタイソンの話に目立った矛盾点はなかったし、こちらの指摘に対する反応にも不審な焦りや動揺は見られなかった。それにエラーの説明は嘘にしては現実味がなさ過ぎる。

 現状では先の疑問に対する解答を導くのは難しそうだ。だがタイソンの狙いがどうであれ、彼に接触する以外、事態が進展する選択肢はありそうにもない。

 真は再び携帯電話を手に取る。すると、さっきは動揺していて気が付かなかったのか、メールが一通きていた。とりあえず開いてみる。

 守薙からだった。件名はなく、本文に『教室で待っています』とだけが書かれている。

 真はふと思いついた。彼女もエラーの存在は知っている。タイソンへ連絡する前にどうすべきか、相談してみるのもいいだろう。今朝のやり取りからして、彼女は非常に聡明だ。変な所で抜けていたりするが、話してみる価値はある。

 メールの受信時刻は、今から十五分ほど前だった。きっとまだ教室にいるだろう。

 真は待ち合わせへ向かうために立ち上がった。視界がいつもより低くて少し驚く。制服も明らかにサイズが合っていない。上履きに至ってはぶかぶかだ。小さく舌打ちし、ベルトを締め直してズボンの裾を折る。

 窓へ目をやり、自身の姿を確認する。学ランに身を包んでいるが、遠目に見ても女子と分かる、そんな体つきであった。しかし、今日は体操服も持っていないのでどうすることもできない。途中で教師に出くわしたら、間違いなく不審に思われる。できればそれは避けたいが、最悪は嘘をついて誤魔化す他あるまい。

 しかし自分の体を見たら、守薙はさぞ驚くだろう。いや、そもそも別人だと思われるか。本人だと信用してもらうまでには、かなり骨の折れる問答が必要かもしれない。

 ドアから出る前に戸締りを確認する。窓は全て施錠されていた。

 本を鞄へしまい、足早に歩き出したが……。

「わっ」

 慣れない感覚が不意打ちで襲ってきて思わず声が出た。鼓動が早まり、顔が焼けるように熱くなる。真は堪らずしゃがみ込んだ。

 ……こ、こんなに揺れるものなのか?

 何も付けていないからだろうか。落ち着け、としばらく心の中で念仏のように唱えた後、ゆっくりとした歩調で物理準備室から出た。

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