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一.異常と正常②

 真の上に跨っていた男は体をびくんと震わせ、力なく横へと倒れ込んだ。その反対方向へ目をやると、屈強な白人男性が黒い銃口をこちらへ向けて近付いて来るところだった。

 彼は真達のすぐ傍まで寄ってナイフ男の様子を窺う。そしてその死を確認すると、サイレンサの付いた拳銃を下ろした。

「怪我はないかな? お嬢さん」

 白人の男が流暢な日本語で守薙に尋ねた。

「は、はいっ。それよりも十七里さんが――」

「ごほっ、ごほっ……、俺は大丈夫。少し手を斬っただけだ」

 真は咳き込みながら大男の下から這い出す。守薙が駆け寄って背中をさすってくれた。

 左の掌は横一文字に斬られていたが、幸いにも傷は浅いようだ。ハンカチを押し当てて止血する。

 ナイフの男を見ると、彼は地面に突っ伏して頭からどす黒い血と白んだ液体を垂れ流していた。

 白人男性が血だまりに寝そべった若い女性に近付き、首を左右に振る。

「残念だが、こちらは死んでいるな」

 真は彼を観察する。金髪を短く刈り揃えた頭は額が広く、やや生え際が後退している。四十歳くらいだろうか。白人は年齢が推定しにくい。筋骨隆々の肉体は黒のスーツに包まれ、首にはボルドーのネクタイ、顔には角張ったサングラス。マフィアかスパイにしか見えない。いや、こんなに分かり易い諜報員はいないだろうが。

 真が相手の素性を尋ねようとした時、突然彼は死亡した女性の額に銃口を押し当てた。

「何をしているんですか!?」

 守薙が真っ青な顔で叫び声をあげた。男が振り返る。だが、その瞳がどんな感情を湛えているのかは、サングラスに遮られて読み取ることができない。

「ああ……、気にしないでくれ」

 穏やかな口調だった。

 しかしその言葉に絶句する守薙を見て、彼は頭を掻く。

「……というのは、流石に無理があるか」

「貴方は何者ですか? どうしてそんな事をしようとしているんです?」

 真が問うと、金髪の男は少し考え込んだ。

「人知れずゾンビと戦うエクソシスト……、とでも言ったら信じてもらえるかな?」

 そう答えてニヤリと口元を上げる。

「守薙さん、警察を」

「待て待て、冗談の通じない少年だな」

 真の冷ややかな対応に男は白い歯を見せた。

 彼は無言でしばらくこちらを見つめた後、大きく息を吐いて観念したように首を振る。

「やれやれ……、説明しないわけにはいかないか」

 男はおもむろに立ち上がって自己紹介をする。

「私は、タイソン・ベン・キャロル。カドゥーシアスという機関の捜査官だ」

 聞き覚えのない組織名だ。

 カドゥーシアスとは、ギリシアか何処かの神話に登場する、二匹の蛇が巻き付いた杖のことである。詳しい由来までは知らないが、医療機関のシンボルとして使用されることが多い。

 このとき真の頭には、今の状況を説明する幾つかの仮説が浮かんでいた。その中には、重篤な精神病患者に違法な実験を施す医療機関が、実験体に逃げられてその処理を実行した、というクラスメイトの寺浦が好みそうな極めて現実感の乏しい筋書きも混じっていた。しかし、タイソンと名乗る男がこれから話す内容は、それを軽く凌駕するほど飛んだものだった。

「――いわゆる機密機関というもので、存在は公にされていない。だから申し訳ないが、手帳も名刺もないんだ。健康保険証なら持っているがね」

 彼は拳銃を女性の死体に向けたまま説明を続ける。

「私がこんなことをしようとしているのは、彼女が蘇って襲ってくる危険性があるからだよ」

「そんな事……、あり得ません」

 守薙が青ざめた顔で首を小さく左右へ振った。

「それがあるんだよ、お嬢さん」タイソンが彼女に向かって優しく微笑む。

「エラーと言ってね、物事の道理を根底から覆す現象があるんだ。君達は普段生活をする中でミスや勘違いをするだろう? それがこの世界にも同様に起こるんだ」

「世界が、間違いを犯すと?」

 守薙の問いに彼は頷いた。

 到底信用できない話だ。しかし……。

「エラーが起きると、あらゆる道理や法則は意味をなさなくなる。生物も物体も因果律を無視して狂った挙動を示しだす。コンピュータプログラムがバグったような状態と思えばいい。ある時忽然、何の前兆もなく皮膚が切れたり、車の色が変わったり、更地が公園になったりする」

「そんなの、信じられません」

 守薙が眉をひそめてタイソンの説明を否定した。

「そうだな」と真も頷く。

「――だが、あながち嘘とも言い切れない」

 彼はそう続けてナイフ男の亡骸に近付く。

 死体の左胸の辺りを探ると、やはり小さな穴が開いていた。衣服をめくってみれば、穴が男の肉体を貫通し、さらにそこから大量の血液が吐き出された痕跡が確認できた。

「心臓を貫かれている、それも随分前に。だがさっき頭を撃たれるまで、この男はぴんぴんしていた。それから右腕もだ。靭帯が切れたにもかかわらず自在に動かしていた。普通じゃあり得ない」

 その言葉に守薙が反論する。

「でもタイソンさんの仰るようなことが起きていたら、世界中で騒ぎになっているはずです」

「いや、そうはならないんだよ、お嬢さん」

 タイソンがかぶりを振った。

「ほとんどの場合、エラーが起きても普通の人間にはそれが認知できない。何故なら、エラーの変化に対して辻褄合わせが行われるからだ」

 彼は守薙の持つ白い携帯電話に目を留める。

「例えばエラーが発生して、お嬢さんの携帯――」

「守薙綺澄といいます」

「綺澄、……か。素敵な名前だね。実にいい」

 タイソンが嬉しそうに何度も頷く。そう言われれば、確かに色っぽい響きである。

「守薙嬢の携帯が白から黒へ変わったとする。この変化は一瞬で行われる場合もあるし、徐々に進行する場合もある。どちらにせよ、君は黒くなった携帯を見ておかしいと認識する。だがその感覚は最初だけで、時間と共に曖昧化し、次第に何がどうおかしいのか思い出せなくなる。そして最終的には違和感を抱いていた記憶すら消失し、最初から携帯は黒かったと思い至るようになる。周りの人間も同様だ。この帳尻合わせをパッチといい、エラーによる変化が終わった後、数日のうちに適用される」

 真は疑問に思ったことを口にする。

「守薙さんが白い携帯を購入したという、物理的な記録はどうなるんですか。レシートや梱包箱に残っているはずです。そうなると記憶と実態が矛盾してしまう」

「いい質問だ」タイソンが真剣な表情で答える。

「だが記憶と記録が合わないなんて、そう珍しいことでもない。顕著な例が収支報告書だ。この国でもよく政治家が、『記憶にございません』と言っているだろう?」

 あっけに取られる真達を見て彼がニッと笑う。

「……ジョークだ」

 真は冷たい視線を返す。

「真顔で冗談を言うのは止めてくれませんか」

「いや、君達がとても緊張しているようだから、リラックスさせようと思ってね。だからそんなに怖い目で睨むな」

「緊張しているのは、貴方がまだ信用できないからです。こちらが話の真偽を見極めようとしている時に、そういう発言は控えてもらえますか。それから、俺の目つきは生まれつき悪いので直しようがありません」

 淡々と反論して、真は相手の弁明を待つ。

「十七里さんの目つき、別に悪くないですよ。だからそんなにお気になさらなくても……」

 と思ったら、守薙が気遣い顔でフォローを入れてきた。彼は堪らず返す。

「いや、そこは食い付かなくていいから」

 今はタイソンの軽率な態度を窘める場なのだ。話の腰を折ってもらっては困る。しかも勝手に目つきの悪さを悩んでいることにされている。

「十七里さんの目、私は素敵だと思います。何というか、こう、……鋭い眼光? みたいな、感じで……」

「歯切れ悪いな!」

 そんなに凶悪な目つきか? 真は少し傷付いた。

 タイソンが咳払いをして腕を組む。

「説明を続けていいかな?」

 ちょっと待て。なぜ俺達の方が進行を妨害した扱いになっている。そもそもの戦犯は彼ではないか。真は心の中で毒づいた。

「パッチによって人間の記憶と物理的な記録が食い違わないか、という話だったが、実際にそういった事例は起きない。これは辻褄合わせが記憶といったソフトだけでなく、物理的、つまりハードにも及ぶためだ。先の携帯電話の例なら、レシートやパッケージも書き換わるわけだ」

 そう言って、タイソンは左手で両目を覆うようにしてサングラスのずれを直した。

「とはいえ、パッチにも問題がある。一つは、稀に失敗するということだ。特にエラーを目の当たりにした人間でなく、間接的にその影響を受けた人間には上手く働かないことがある。例えばさっきの例で言うと、守薙嬢の携帯が黒だという情報をある人物が又聞きで得たとする。この人物には不完全なパッチが当たりやすく、他の人間と記憶の食い違いができてしまう。これが勘違いやデジャヴの原因になっていたりもする。といっても極々稀にだから、この現象はそれほど重要じゃない。危険なのは二つ目の問題だ」

 彼が口元を引き締めて真剣な顔つきになる。

「二つ目は、パッチはエラーによる状態変化を誤魔化してくれるが、結果そのものへは寄与しないということだ。ある対象がエラーで状態Oから状態Eへと変化した、というモデルを考えようか。この際パッチは『対象が元々状態Oだった』という情報は書き換えてくれるが、状態Eに対する認識にはノータッチとなる。つまり、状態Eが物理的にあり得るものか否かで、非常に大きな問題が発生してしまう。携帯の例で言うと、状態Eは『黒い携帯電話』だ。これは物理的に存在するから、誰も違和感を覚えず大した問題にはならない。しかし状態Eが、『電源がなくても動き続ける携帯電話』だったらどうだ? そんな物、今の技術では実現不可能だ。こんな風にたとえパッチが当てられようと、状態Eはそのまま認知される。つまりさっきの携帯を見た人々は、物理法則の崩壊を認識してしまう。そして、その現象の発見は世界中に広まり、とんでもないパニックを引き起こすだろう」

「だから、それを正すのが貴方の仕事――、ということですか?」

 真が尋ねると、タイソンは「そうだ」と肯定した。

「エラーを見つけて直ちにそれを排除する。それが私の任務であり、カドゥーシアスという組織の存在意義だ。エラーが消えれば再びパッチが当てられ、状態Eはなかったことになる。世界が正しい姿へ戻るわけだ」

 そう言って彼は右手に銃を持ったまま煙草を取り出し、火を点けた。

 タイソンが一服する間に、真は携帯電話を出して調べものを始める。すると、守薙がすぐ傍まで接近してきた。口の横に手を当てていることから、耳打ちがしたいようだ。前屈みになって顔を近付けると、美しい黒髪からほんのりとシャンプーの香りがした。

「本当でしょうか……?」

 怪訝な表情から、やはり信じ難いといった心情が読み取れた。真は答える代わりに携帯電話の画面を示し、普段通りの声量で返す。

「とりあえず『カドゥーシアス』で検索したが、詐欺やカルトは引っかからないな」

「おいおい、本人の前で遠慮のない奴だな」

 タイソンが歯茎を見せて笑った。

 その場を取り繕うように守薙が地面のナイフ男へ目をやり、再び本題へ入る。

「じゃあ、そちらの男性が不死身になっていたのも、そのエラーのせいだと?」

「不死身にはなっていない。現に死んでいるじゃないか」

 真が反射的につっこみを入れると、彼女は頬を膨らませた。

「もう。細かいですよ、十七里さん。もしかしたら死んだふりかもしれないじゃないですか」

「不吉なこと言うね、君は」

 思わず身を引いたところで、タイソンがまた咳払いをした。

「……続けても?」

 真が掌を差し出して促す。今回は俺の責任だ。非を認めよう。

「さて守薙嬢の質問だが、答えはイエスだ。彼はエラーにかかったことで肉体と精神に異常をきたした。そしてその結果、昨夜二人の人間を殺害し、その肉を喰らった」

「人の肉を――?」

 確かに目の前にある若い女性の死体も内臓が飛び出ている。それにナイフ男の歯茎には、何かの肉片らしきものが付いていた……。

 強烈な吐き気が襲ってきて、真は右手で口元を押さえた。

「だから私は危険と判断して心臓を撃った。ところが、男は死ななかった。そのまま逃走を始めたので追いかけようとしたが、忽然と殺されたはずの二人が蘇って襲いかかって来た」

 タイソンがそう言って煙を吐いた瞬間、真達は目を見張った。

 彼の背後に倒れていた女性がその言葉の通り起き上がったのだ。食い破られた腹からだらりと臓物が垂れている。

 危ない! と声をあげる暇もなかった。

 彼女は薄汚れた歯を剥き出しにしてタイソンの背中に飛び掛かる。

 が、彼はくるりと回転してその牙を躱し、拳銃のグリップで相手の側頭部を思い切り殴打した。

 トラックにでも撥ねられたように女の体が勢いよくひっくり返る。すかさずその額へ銃が当てられ、直後に鈍い重低音が炸裂する。一縷の無駄もない洗練された動きだった。

 びくんっと体を仰け反らせた後、女は再び動かくなる。

 タイソンはそれを見届けると、拳銃をしまって咥えていた煙草を手に取った。

「――とまあ、こんな風にだ」

 言葉と一緒に紫煙を燻らす。息は全く乱れていなかった。

「大丈夫かな? 守薙嬢」

「は、……はい」

 横を向くと、守薙は血の気の引いた顔で女性の亡骸を見下ろしていた。今にも倒れてしまいそうだ。

「オヌヒ……、みたいですね」

「オヌヒ?」

 彼女の呟きを真は繰り返した。

「知らないか。この辺に昔から伝わっている土着性の化物だよ」

 ショックを受けている様子の守薙に代わって、タイソンが説明してくれる。

「まあ、私も昨日知ったんだがね。簡単に言えば、ゾンビみたいなもんさ。死体が蘇って生者に噛みつき、そいつもまたオヌヒになる。肉が腐ろうが削げようが、頭を潰さない限りは動き続ける」

 流れてくる煙草の煙が顔にかかって真は眉をひそめた。それを見たタイソンが風下側へ移動する。

「そういう伝承やら噂話には見間違いや勘違いが付き物だが、中にはおそらく本物もいただろう。環境に応じて生じやすいエラーというものもある。この辺りではオヌヒになるエラーが出易いのかもしれん」

 その台詞は聞き捨てならなかった。それはつまり、自分もいつこうなるか分かったものではない、ということではないか。

 真は堪らず質問する。

「エラーの解除はどうやるんですか」

「エラーが発生した対象を破壊すれば消滅する。携帯電話なら粉々に粉砕することで、エラーが消えてパッチが当てられる」

「人間なら殺すってことですか!?」

 声を荒げると、タイソンが手を前にかざした。

「早まるな。確かにエラーにかかった人間――クランケと呼んでいるが、その肉体が滅んでもエラーは消える。火葬やバクテリアに分解された場合だな。だが無論、殺したりはしない。人間からエラーを取り除く方法がある」

「なら、どうして彼に使わなかったんです?」

 真はナイフの男を指差した。

「エラーを解く暇がなかった。解除にはクリアすべき条件があるし、たとえ治療が始まっても瞬時にエラーが消えるわけじゃない。殺さなければ……、新たな犠牲者が出ていた」

 タイソンが淋しげに言い放った。どこか自分に言い聞かせているようにも見えた。

「じゃあ、予防する術はないんですか?」

「今のところは存在しない。だが、そんなに神経質になる必要もないぞ。エラーが自然発生するのは極稀で、大半の人間は一生に一度も遭遇しない。それに大抵はかかっても非常に些末な効果で、パッチ適用前でも気付かないことがほとんどだ。お前が今回のようなクリティカルなエラーにかかる可能性は、隕石が直撃するより確率が低い」

 それを聞いて一安心する。

 すると、ずっと黙り込んでいた守薙がおもむろに口を開いた。

「……エラーが消えれば、パッチによってそれはなかったことになるんですよね?」

 その問いにタイソンが頷くのを確認して、彼女は事切れたナイフ男を見る。

「そちらの男性を供養すれば、エラーは消えてパッチが適用されます。そうなれば、彼に殺された方々は蘇るということですか?」

 なるほど。確かにナイフの男がオヌヒとなっていなければ、被害者三名が死ぬことはなかったはずである。ならばパッチによってその死が書き換えられる可能性もあるかもしれない。

 しかしタイソンは首を縦に振らなかった。

「残念だが、そうはならないんだよ。パッチは確かにエラーの影響を打ち消してくれる。だがそれは記憶などのソフト方面が主で、ハード的な改竄は最小限に抑えられてしまう。特に生き物に関してはそれが顕著だ。つまり、その男が火葬されてパッチが当たっても――」

 彼が真の斬られた左手を煙草で指す。

「その傷が消えることはないし、こちらの女性が息を吹き返すこともない。オヌヒにやられたという原因が、別の適当な記憶へと書き換えられるだけだ」

「そんな……」守薙はしおらしく目を伏せた。

 タイソンが眉間に皺を寄せて語気を強める。

「だからこそエラーは駆逐しなければならない。そもそもエラーというものは、間違いだ。起こってはならない過ちだ。どんなに些細なエラーでも、放っておけばその小さな波紋は広がって誤差は次々と伝搬していく。そして干渉や相転移を繰り返し、いずれは大きな津波となりかねない。そうなれば人類は本来の歴史とは異なる、誤った道を進んでしまうことになる。そしてその結果、起きるはずのなかった悲劇が生まれる」

 そう言って彼は煙草を握り潰した。その後、はたと我へ返ったように広いおでこを掻く。

「……熱くなって済まない。私の説明はこんなところだ」

 彼が携帯灰皿へ吸殻を捨てるところへ、守薙が質問する。

「あの、そちらの女性はどうなるんですか?」

「身元を調べて家族へ知らせる。ただし、パッチが当たって死亡理由が書き換わった後でだがね。他に質問はあるかな?」

 真達は首を振る。

「じゃあ、すまないんだが……」

「――俺達は何も見なかったし、何も聞かなかった。それでいいですか?」

 そう提案すると、タイソンは口元を綻ばせた。

「悪いな。助かる」

「いえ、助けられたのは俺の方です。名乗るのが遅れましたが、俺は十七里と言います。助けて頂いてありがとうございました」

 真は頭を下げてから言葉を続ける。

「礼をさせて下さい」

「ははは、未成年にせびるほど困窮してないぞ」

「一方的な施しは受けない(たち)なんです」

 タイソンが少し呆れたように笑う。

「カドゥーシアスは、この国の政府から資金援助を受けている。三ツ岸や阿知波といった大企業からもだ。私の給与も勿論その中から支払われている。つまり、ここの国民をケアすることも職務に含まれているということだ。それに……」

 彼は口元を引き締めて女性の亡骸を見た。

「この事件を拡大させてしまったのは、私の責任だ。昨夜、私が奴を仕留めていれば、お前は襲われなかったし、新たな犠牲者が出ることもなかった」

「それは仕方がないでしょう。貴方はちゃんと心臓を撃った。それでも死なないなんて、想像できなくて当然だ」

「私もそう思います」

 真の意見に守薙も賛同した。しかし、タイソンは首を横に振る。

「エラーの存在を知っている以上、その可能性は想定できた。いや、それをしなければならないのが私の仕事だ」

 彼はこちらを見て悲しそうに微笑む。

「さっきは間に合って良かった。お前を救えた――、私はそれで充分だよ」

 真には返すべき言葉が見つからなかった。

「……そうですか、分かりました。では、俺達はそろそろ失礼します」

「そうだな、その左手は早く消毒しておいた方がいい」

 確かに地面に転がった短刀は、黒ずんだ血液で汚れている。消毒するなら、学校の保健室が一番近いだろう。

「なんなら車で送ろうか? 鳥居の方に停めてある」

 路肩に駐車されていた高級車を思い出す。あれはタイソンの物らしい。

「いえ、結構です。学校まですぐですから」

「そうか、じゃあ気を付けてな。このことはくれぐれも他言無用で頼む」

 真は小さく吹き出す。

「話したって誰も信じませんよ。それにパッチが当たれば、全て忘れるんでしょう?」

「ああ。二、三日中には記憶が改竄されるはずだ」

 正直それは有り難かった。真は嘘が好きではないのだ。

「私はしばらくこの近辺に滞在する。他にオヌヒになっている人間がいないとも限らないからな。エラーを見つけ出す方法もあるにはあるんだが、対象の近くでないと分からないんでね」

 タイソンはそう言うと、紙切れにペンで何かを書きつけてこちらへよこした。

「一応これを渡しておこう。数日中は私に繋がる。何かあればそこへ連絡してくれ」

 そこには携帯電話の番号が記されていた。

「分かりました。何もないとは思いますが」

 もう一度礼を述べて、真達はその場を後にする。タイソンは別れの挨拶代わりに軽く手を上げ、また煙草の箱を取り出した。

 少し歩いてから何気なく背後を振り返ると、彼はいずこかを見つめながら煙をふかしていた。その唇が微かに動く。

――だと、いいが。

 そう言ったようにも見えた。




 神社の林を抜けたところで、守薙が唐突に立ち止まって頭を下げた。

「十七里さんも、ありがとうございました」

「俺は何もしてない」

「いえ、あのナイフを持った方から守って頂きました」

 守れてはいなかったけどな。と真は心の中で自嘲気味に言い足す。

 すると、守薙が思い付いたように手を合わせた。

「あ、何か報酬を用意した方がいいですか?」

「別にいいよ。あれは自衛のためにやっただけだ」

 真は抑揚なく返した。

 彼にはいつも守っている信条がある。その一つが、一方的な施しは受けないし、やらない。労働には相応の対価が必要だ。というものであった。守薙はそれを心得ているから、さっきのような質問をしたのだ。

「それにしても、十七里さんてお強いんですね。何か武道をされていたんですか?」

「中学まで柔道をね」

「そうなんですか。もしかして黒帯ですか?」

 真が頷くと、守薙は「凄いですね!」と嬉しそうに声をあげた。なにやら過ぎた幻想を抱かれているようだ。

「いや、黒帯の人なんて沢山いるぞ。俺は大して強くない」

 実際、一度でも大会で輝かしい成績など収めたことはない。

「それでも凄いです。高校では続けられないんですか?」

「ああ、もう道場は辞めてしまったからな」

「なんだか……、ちょっと勿体ない気もしますね」

 真の顔が一瞬曇った。しかしそれに気付かず守薙は続ける。

「得意技とかあるんですよね。さっきの技ですか?」

「得意なのは内股かな。腕挫十字固はあまり好きじゃない。というか、寝技全般が駄目だ」

「どうしてですか?」

 真はやや恥ずかしそうに答える。

「……くすぐったがりなんだ」

 守薙が小さく吹き出した。

 その後も彼女はよく喋ったし、よく笑った。普段の控えめな態度からは考えられない程に。

 おそらくは超常的な体験をしたために一種の興奮状態にあったのだろう。その高揚のおかげというべきか、彼女と携帯アドレスを交換する流れになり、且つ「これからは呼び捨てで呼んで下さいね」との提案まで受けた。

 しかし一方の真はというと、緊張が解けたことと睡眠不足が重なり、むしろ軽い眠気を催していた。朝のホームルームまではまだ時間がある。傷の手当てを終えたら、少し仮眠を取ろうと考えつつ、学校へと向かった。

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