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三.偽りと真③

 誰かに名前を呼ばれたような気がした。

 顔から胸にかけて、何か冷たく硬い物が押し当てられている。どうやら床の上に寝そべっているようだ。

 後頭部がガンガンと破裂するように痛み、甲高い耳鳴りが余計にその苦痛を助長させる。

「と……り……! ……きて、……い!」

 頭を刺すような不協和音に混じって、微かに女の声が聞こえる。

 何処かで聞いたような……。真は朦朧とする意識の中で、その主を思い出そうとしたが一向に浮かんでくる気配はなかった。

「……となりん!」

 そう聞こえて、ああ……、棗か。とようやく合点する。

 しかしどうして彼女がこんなに必死で名前を呼んでいるのか、理由が全く分からない。そもそも何故自分は床に横たわっているのだろう。それを考えようとしたものの、早朝の微睡にも似た感覚が脳を鈍らせ、真の思考を阻害した。

 棗は先ほどからずっと何事かを叫び続けているが、耳鳴りのせいでよく聞き取れない。

 もういいではないか、そんな甘い誘惑が真をまた深い穴へと連れ去ろうとする。

 しかし――。

「起きて! 守薙さんが!」

 その言葉で瞬時に全てを思い出した。

 真は急いで起き上がろうと手をつく。が、背中に身体が割けるような激痛が走って、再びコンクリートの床へと崩れ落ちた。

「大丈夫!?」

 椅子に縛られたままの棗がこちらを見つめている。

 もう一度腕に力を入れてみるが、やはり痛みで起き上がることはできない。しばらくは身動きが取れなさそうだ。

「か、みなぎ、は……?」

 舌足らずな真の問いに棗が答える。

「逃げたけど、あいつに追われてる!」

 床を見回してみるが、拳銃が見当たらない。

「銃声……、は?」

「分からない。あいつが出てく時に一発撃ったけど、外に行ってからはよく聞こえなくて。ガラスが割れるみたいな音がしてから、何発かは撃ったんだと思うけど……」

 ここの壁は防音性が高そうなうえに、タイソンの銃にはサイレンサが取り付けられている。発砲音が聞こえないのは当然かもしれない。

 追いかけなくては……。

 真は全身の骨が砕けるような苦痛に耐え、よろよろと立ち上がる。まるで重力が何十倍にでもなったかのように体が重かった。視界が霞む。頭が煮えるように熱いくせに、首から下は震えるほどに寒い。壁に手をつきながら数歩前へ進んでみるが、すぐに強烈な眩暈に襲われてその場に倒れ込んでしまった。

「となりん!」

 棗の叫び声が頭の芯に響いた。しかしこのまま眠っているわけにもいかない。再度起き上がろうとした時、ドアの開く音が鳴った。

 急いでそちらへ目をやる。ちょうど拳銃を持った手が入ってくるところだった。

 息を止めて身を固くすると、次に長い黒髪の少女がひょっこり顔を出した。

「十七里さん、大丈夫ですか!?」

 守薙は床に這いつくばった真を見るなり駆け寄って来る。

「あ……っ、あいつは!?」

 虚を突かれながらも棗が尋ねた。

「タイソンさんなら下の会議室で倒れています。念のために拳銃は持って来ましたけど。あ、あと手錠の鍵もありますよ」

 守薙はそう言って手錠を外す。

「倒れてるって、どうして?」

 困惑する棗に、彼女は縄を解きながら答える。

「二酸化炭素中毒です」

「ニサンカタンソ、……チュウドク?」

 棗が眉をひそめながらオウム返しをした。

「はい。二酸化炭素は空気中にも存在していますから、それ自体が毒性を持っているわけではありません。ただ私も知らなかったんですが、高濃度の二酸化炭素下では人間は呼吸不全に陥ってしまうそうです。ですよね? 十七里さん」

 真は突っ伏したまま頷いてみせる。しかしまだくらくらするので解説は任せることにした。

「この施設には二酸化炭素を利用した消火器が置かれています。赤と緑の二色に塗られた物ですね。水や通常の消火剤を使いたくない、こういった研究所などに設置されることがあるそうです。二酸化炭素による窒息効果なら、機械の破損や薬品の汚染もありませんから」

 きつく結わえられていた縄が解かれ、棗の上半身が自由になる。デニムジャケットの袖をまくってさすった腕には、赤紫色の痣がくっきりとついていた。

「ここに来る前に、その消火器で幾つかの部屋に二酸化炭素を充満させておいたんです。もしもの時に逃げ込んで、タイソンさんを失神させられるように」

 脚を固定するロープを外しながら棗が首を傾げる。

「失神て……。じゃあ守薙さんは、どーして無事なの?」

「私、息しなくても平気ですから」

 そう言ってはにかむように横髪を撫でた。照れるポイントがよく分からない。

「でも、上手くいって良かったです」

「上手くなんか……、いってない」

 守薙がほっと胸の撫で下ろしたところで、真は割って入った。

「――すまない、俺がしくじった」

 守薙が強い口調で擁護する。

「そんな。謝ることなんてありません。私がこうして無事なのは、十七里さんのおかげです」

「いや、結果論で評価するわけにはいかない」

 真は力を振り絞って上半身を持ち上げ、その場にしゃがみ込む。

「初撃で喉をかき切るべきだった」

 なのに、つまらない欲で絞技を選んでしまった。あわよくば殺さずに、などと調子のいいことを考えた自分が情けない。そんな甘さを残していいような相手ではなかったのに。

 先の二酸化炭素中毒など、一の手が潰えた場合の窮策に過ぎなかった。まかり間違えていれば、守薙は撃たれて命を落としていたかもしれないのだ。

 リスクを恐れて、より大きなリスクを招いてしまうところだった。そんな根底的な部分を見誤るだなんて。まったくもって愚考極まる。祖父の怒号が聞こえてくるようだ。

「俺の判断ミスだ。そのせいで君を余計な危険に晒して――」

 と、そこまで喋って違和感に気付く。

 眼前の二人の様子がおかしい。棗は唇をあわあわと動かしながら顔を紅潮させ、守薙は我を忘れたようにこちらを凝視している。彼女達の視線は、真の顔よりやや下へ向けられていた。

 釣られて下方へ目をやる。するとTシャツの首回りが裂け、二つの乳房が際どい位置まで露わになっていた。

「って、何を見てんだ!」

 真は前を隠しながら声を荒げる。

「やっぱ、……しより、ずっとおっきー……」

 棗が慌てて顔を逸らした後、譫言のように呟いた。

 守薙を睨みつけてやると、彼女は狼狽えながら釈明を始める。

「い、いえ! 私はちゃんとお話を聞いて――」

「涎出てるぞ」

「す……、すみません……」

 観念したようにそう謝って口元を拭う。

 その後ろでは棗がひっそりと溜息をついているのが見えた。




 真達は気絶したタイソンを部屋から引きずり出して踊り場に縛り付けた後、一階のロビーまで下りてきた。

「……はい、これであいつにかけられた呪は解けるはずだよ」

 棗がクリーナーで折った人形(ひとがた)に守薙の毛髪を入れてから言った。これで彼女の人を食べたいという欲求は消滅する。

「ありがとうございます、棗さん」

「いやいや、これが仕事だから」

 深々と下げられた頭に棗が答えた。

「なんだか心もち、もう楽になってきた気がします」

「そお? それなら良かった」

 真は彼女の名を呼んで話を切り出す。

「棗、さっきの電話の続きだ」

 二人の少女が真剣な面持ちでこちらを向いた。

「俺達は二つの仕事をした。君の救出と犯罪者の捕獲。だからその対価として、次の二つを要求したい」

 指を二本立てて言葉を続ける。

「一つ目は、守薙を生かしているエラーの解除を中断し、二度と再開しないこと。そして二つ目は、そのエラーについて誰にも口外しないことだ。勿論カドゥーシアスにも報告してはならない」

 棗の表情に濁りが混じった。無理もないだろう。真はその心中を察して付け足す。

「この要求は、君とってすれば組織や仲間への裏切りに該当する。それに露見すれば処罰は免れないだろう。だがどうしても、こっちの要求は呑んでもらいたいんだ」

 そう言っても相手の反応はなかった。目を大きく見開いたまま立ち尽くしているだけだ。

 その姿に真は焦りを感じ始めていた。棗ならこの条件できっと承諾してくれるだろうと踏んでいたのだ。どうやら当てが外れてしまったらしい。更なる譲歩が必要だろう。

 だがもしそれも受け入れられないというのなら、最悪は……。

 頭の隅で気が咎めるような算段をしながら彼女は説得を続ける。

「勘定が合わないというのなら、新たに要求を出してくれて構わない。こちらもできる限りの事はする。だから、頼む!」

 真は頭を下げた。しかしそれでも、返答はなかった。棗は相変わらず呆然と定まらない視線を泳がせている。

 守薙が唇を噛んで深々と頭を垂れる。

「その……っ、棗さん、お願いします!」

 躊躇いがちで何処か後ろめたさを感じているような、そんな口ぶりだった。

 棗はその言葉ではたと自分を取り戻すと、早口で捲し立てた。

「そ、そんな、ヤだな……っ! もう、頭上げてよ」

 彼女の顔に笑みが浮かぶ。だがそれは(いびつ)な、動揺を必死に取り繕おうとするものにも見えた。

「――私だって、友達が死ぬのなんて嫌だし。そこまでして、エラーを消すことなんてできないよっ」

 真の胸がすく。

「じゃあ――」

「うん、となりんの言う通りにするよ」

 そう言ってこちらへ向けられた瞳には、少し涙が混じっているような気がした。

「……すまない」

 その姿に真は理由も分からぬまま謝罪の言葉を発していた。

 棗がバッグから先ほどとは別の青い人形(ひとがた)を取り出し、真っ二つに破り去る。差し出されたその紙くずを開くと、確かに守薙綺澄の名前があった。

 これでもう、彼女の命を繋ぎ止めているエラーの解除は中断された。半分屍になってしまった身体は戻らないが、これ以上死に侵食されることもない。ひとまずは安心といえる。

 真がクリーナーの切れ端を返すと、棗はすぐにそっぽを向いて携帯電話を耳に当てた。

「私、応援呼ぶね。あいつを連行しなきゃいけないし」

 鼻が詰まったような声色だった。その様子を不審に思いつつも真は返す。

「じゃあ、守薙がここにいるのはまずいな」

 せっかくエラー除去を止めてもらったのに、カドゥーシアスに存在がばれては元も子もない。

 言葉の先を予期してか、棗がこちらへ掌をかざした。

「あ、私は一人で平気だから」

「そうか、悪いな」

 真は口元を綻ばせて礼を述べ、回れ右をする。

 守薙は背中を向けた棗へ何か言い出そうとしていていたが、結局「ありがとうございました」とだけ言って後を追って来た。

 廃墟のドアを引く直前、真は振り返ってもう一度感謝の言葉をかける。

「ありがとう、棗」

 相手は振り返らず、無言で大きく頷いただけだった。




 空には高く楕円の月が昇っていた。

 真は自転車を押しながら、守薙と一緒に人通りのない夜道を歩いていた。チェーンの回転音に混じって、どこからか虫の鳴く声が聞こえる。

「十七里さん、お怪我は大丈夫ですか?」

 隣の守薙が心配そうに尋ねてきた。

「ああ、痛みはだいぶん引いた」

「本当に十七里さんにはご迷惑を沢山おかけしました」

「別にいいよ」

 前を向いたままそう答えると、突然守薙が脚を止めた。釣られて真も立ち止まる。

「あの……っ、十七里さん」

 俯いた少女は忙しなく目線を左右へ動かしている。

「迷惑ついでに、その、もう一つだけ……、お願いしてもいいですか?」

「……まさか、また噛みたくなったのか?」

 真が渋い表情で返すと、彼女は恥ずかしそうに眉を寄せたまま頷いた。白い頬を真紅に染めてこちらへ身を乗り出してくる。

「でももう、絶対にお怪我をさせたりしませんから!」

 真は静かに溜息を吐いた。その反応に気をもんでか、少女は不安そうに上目遣いの視線を向けてくる。

「その……、いけませんか?」

 ああ……、駄目だ、その表情は。いくらなんでも卑怯過ぎる。

 そんな風に腹立たしさを覚えながらも、真にはもはや頷くことしかできなかった。

「はあ……、分かったよ。好きにしろ」

 どうせ彼女のエラーが消えるまでの辛抱なのだ。これで最後かもしれない。そう考えれば、不思議と許せてしまう気がした。

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 守薙が満面の笑みを浮かべて声を弾ませる。

「じゃあ、早速お腹を……」

 そう言って、いきなりシャツの裾へ片手を伸ばしてきた。咄嗟にその腕を払いのける。

「って、なに考えてんだ、こんな道端で! 人が来たらどうする!」

「そんなあ……」彼女はしょんぼりと肩を落とした。

「ダメ、ですか……?」

 例の目線がまた飛んでくる。

「……せ、せめて神社へ帰ってから……」なんとかぎりぎりで抵抗できた。

「帰ったらですね!」

 夜空にはしゃぐような声が響く。

「そうと決まれば、早く帰りましょう! ……あ、報酬も用意しておかないと――」

 報酬……?

 真は眉をひそめた。

 そういえば、そうだ。守薙から報酬を受け取っていない。すっかり忘れていた。昼間に二の腕を噛まれた時だけじゃない、ついさっきもだ。

 今しがた棗へ提示した要求は全て、守薙にとって利益のあるもので、真には全く関係がない。なのに帳尻合わせに自分まで付き合っているのは、どう考えてもおかしいではないか。

 労働対価の原則が満たされていない。真の信条と明らかに反している。

 それは吃驚だった。彼女はいつの間にか自己犠牲というものを行っていたのだ。

 そしてこの時、真は初めて自身に芽生えた情動を自覚した。だがそれが友情でないことは、彼女にもすぐ理解できた。

「守薙」

 無意識のうちに、その名を呼んでいた。

 少女が長い髪をなびかせてこちらを振り返る。

 真は生まれ出た感情を、想いを、伝えたくて堪らなかった。

 大きく息を吸って口を開ける。

 が、その瞬間、黒く大きな瞳に写る自分自身の姿が見えた。

 その途端に彼女は何も言えなくなる。言葉が喉の辺りでつっかえてしまった。

「どうしたんですか?」

 守薙が不思議そうに小首を傾げる。

 真は目を瞑ってゆっくりと唾を飲み込んだ。そして再び少女を見て言う。

「……必ず、元に戻ろう」

 すると彼女は「はい」と頷いた。

 美しい黒髪が夜風を浴びてさらさらと揺れる。そのそよぎに混じって微かな囁きが漏れ聞こえた。

「戻ってあげて下さい……」

 そう聞こえた気がしたが、それはもしかすると聞き間違いだったのかもしれない。

 不思議そうに見つめるこちらの視線に少女が気付く。

 しかし彼女は、「いえ、なんでもありません」と小さく微笑んでから駆け出した。

 暗闇を滑るその青白い影を追って、真は歩き出した。

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