三.偽りと真②
五回の呼び出し音の後、緊張した声が応対に出た。
「もしもし……?」
「十七里だ」
「……うん」
少しの間を空けて相手――、棗は返事をした。
真の高い声を不審がっている様子はない。おそらく昼間に会った際、薄々勘付いていたのだろう。
「これからする話は誰にも聞かれたくない。もし周りに人がいるなら離れてくれ」
「うん、大丈夫。誰もいないから」
こちらの緊迫した雰囲気に身構えているのか、相手も気を張っているのが分かる。
「棗。君は、カドゥーシアスの人間だな?」
そう尋ねると、詰まりながらも肯定する返事が返ってきた。
真は現在の状況を簡単に説明する。エラー除去によって自身が女になったこと、守薙が死に向かいつつあること、キジーツの運び屋と接触して新たな呪をかけられたこと。その話を聴く間、棗は質問することもなくずっと素直に相槌を打っていた。
「――というわけで、俺は運び屋の連絡先を知っている。その人物を呼び出すことも可能だ」
そこまで喋って、真は守薙をちらりと見る。彼女は心配げな面持ちで事の成り行きを見守っていた。
「そこでだ。取引をしないか? 俺達は運び屋の確保に協力しよう。だから――」
こちら側の要求は、守薙のエラー治療を中断し、食人欲求の呪だけを解くこと。
タイソンの説明では、クリーナーの効果範囲は一つのエラーに絞られ、新しくかかった順に解除されるとのことだった。つまり今、守薙を治療しているクリーナーを破壊して新たに治療を行えば、こちらの望む結果は実現可能ということだ。
真は提案の続きを喋ろうとしたが、これまで続いていた棗の相槌が急になくなったことで焦燥に駆られた。もしかすると、カドゥーシアスは既にタイソンの情報を掴んでいるのかもしれない。だとすれば、この取引は成り立たないことになる。
「……棗、聞いているか?」
不安の中で声をかけたところ、聞き慣れた低い声が返ってきた。
「ああ、ちゃんと聞いているぞ」
真は息を呑む。
「タイソン……っ!!」
その言葉に反応し、守薙が小さく声をあげた。
電話からは、いつもの軽口を叩くようなリラックスした声が聞こえてくる。
「驚いたぞ。あれだけの情報で、よくそこまで気付けたな」
それを無視して真は問い詰める。
「棗はどうした!?」
「ん? 隣で座っているよ。お茶を飲みながら少々話をしていただけだ」
彼女は歯を食いしばった。まさか既に捕まっていたとは。
「お前はやっぱり面白い奴だ。どうだ? 我々と一緒に――」
「断る」
即答すると、タイソンが鼻息を漏らした。
「随分簡単に答えるな。可愛いらしいお友達のことを忘れてるんじゃないか?」
頭の中で何かが千切れるような感覚を覚える。
「貴様……ッ」
「そう邪険にするなよ。お前の友人に手を出したりはしないさ。私は女性に乱暴するのは好きじゃなくてね」
タイソンが明るい調子で続ける。
「じゃあ、今から彼女を迎えに来てもらえるか。……そうだな、待ち合わせは二十三時。場所は――」
彼の告げた行先は、寺浦のオヌヒ話に出たあの廃棄された研究所だった。
「ああ、そうだ。守薙嬢も連れて二人で来てくれ」
真は眉をしかめる。
「彼女は関係ないだろ」
守薙は頭が切れる。だがその利発さはタイソンの前で発揮されたことがない。つまり、彼女を仲間に誘う心積もりはないはずだ。ならば何故わざわざ呼び出すのか。
「まさか……」
「安心しろ、口封じなんぞするつもりはないさ。我々はそんなことに興味がない。ただちょっと、確かめたい事があるだけだ」
真は舌打ちをしてから渋々了承する。
「分かった。だが、その前に棗と代わってくれ」
「いいだろう」という返答の後、消え入りそうな声が響いてくる。
「ダメだよ、となりん……、来ちゃダメ……」
それは聞き慣れているはずなのに初めて聞く声音だった。怯え、或いは泣いているからか、息は引くついて震えている。
「棗」
真はできるだけ普段のトーンで喋る。
「報酬は弾んでもらうぞ。……だから、もう少しだけ待ってろ」
そう言い終わると、棗は大人しく「うん……」と頷いた。
すぐに電話口から穏やかだが威圧感に満ちた声がする。
「私を紳士のままでいさせてくれよ。期待している」
その言葉を残して電話はぷつりと切れた。
元製薬会社の研究所だという廃墟は、日和神社の裏手にある山の麓に位置していた。
綺澄達は立ち入り禁止の看板がかかった門の前に自転車を停める。神社の備品として用意されていた一台を二人乗りで使わせてもらったが、おかげでだいぶん移動時間を短縮できた。
時刻を確認すると、午後十時半。約束の時間までには、まだ三十分も猶予がある。
研究所跡の敷地は有刺鉄線の張り巡らされた高い鉄柵に囲まれ、さらにその周りも奥深い林に包まれていた。民家や人のいそうな施設は近くになく、道の外灯を除けば人工的な灯りも見当たらない。
ここに近付いてはならない、中には何かがいる――、そういった妄想をかき立てるには充分ならしさを醸し出している。
綺澄はふとある事を思い出して隣へ目をやる。ショートカットの少女はその美しい顔を小さく引きつらせていた。忘れていたが、彼女は怖がりなのだ。
「十七里さん、やっぱりこれ使いますか?」
社務所から持って来た懐中電灯を差し出す。
「いや、駄目だ。こちらの位置が相手に割れる」
彼女は自分を奮い立たせるようにそう答えると、綺澄の前に出て錆びついた門の鉄柵を押した。金切り声のような不協和音をあげて門扉はあっさりと開いた。
十七里が覚悟を決めたように深く息を吐いてから一歩を踏み出す。彼女の首元には痛々しくガーゼが張られている。綺澄がつけてしまった傷痕だ。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だがそれなのに、未だに彼女の身体に卑しい衝動を覚える自分が嫌で嫌で堪らなかった。
広い駐車場を横切って、廃墟のエントランス前までやってくる。建物自体は立派な四階建てだったが、ところどころ窓ガラスが割れて代わりにトタン板が打ちつけてあった。
入り口付近の一面がガラス張りとなった部分から内部の様子を窺ってみる。今宵が満月に近かったことが幸いし、懐中電灯なしでもある程度の視界が確保できた。
どうやら建物に入ってすぐは、四階まで吹き抜けになったロビーのようだ。特に人影らしきものは見つからない。タイソンは三階の会議室でこちらの到着を待っているという。おそらく棗もそこにいる。タイムリミットまでは余裕があるが、彼女のことを考えれば可能な限り早めに行った方がいいだろう。
綺澄はひそひそ声で「中へ入りましょう」と提案する。すると十七里が険しい顔で鍵の壊れたドアを開いた。
廃墟の中は不気味なくらいに静まり返っていた。耳を澄ましても、物音ひとつ聞こえてこない。本当に棗さんがこんな所に? 綺澄は少し不安になる。
周囲を見渡すと、大勢の人間が出入りしたような痕跡が残されていた。床に散らばった書類や窓ガラスの破片は踏み荒らされ、一部の壁はスプレーで落書きされている。その近くには、まだらに色とりどりとなった什器が固まっていた。黄色いデスクやピンクの棚。きっと試し書きついでに染められたのだろう。
赤の上に緑を重ねられた消火器は椅子として利用されたらしく、床に横倒しとなっており、その前に煙草の吸殻が入った空き缶やお菓子の包装紙が沢山並んでいる。アイスクリームの包みが多い。最近では見かけないパッケージも混じっていることから察するに、きっとここは肝試しによく使われ、その利用者がゴミをそのまま放置して行ったのだと思われる。
突然、「守薙」と小さく声をかけられる。十七里が壁に掛かった見取り図の前でこちらを振り返っていた。
忍び足で追いつき、建物の構造を把握する。目的の3A会議室は階段を上がって三階の廊下を真っ直ぐ行った突き当りにあるようだ。階段はすぐ右手にあり、ジグザグと蛇行しながら吹き抜けの上まで伸びていた。
しかしこうして間近で観察してみると、建物の壁はかなり分厚い。相当の防音効果があるだろう。静けさの理由はそこにあるのかもしれない。
急にすぐ後ろで物音が鳴る。振り返れば、十七里が床に転がっている物を拾い上げていた。
「何をされているんですか?」
「丸腰で挑むわけにもいかないからな」
彼女は鋭い眼光を一層尖らせると、それを持ったまま再び見取り図を確認し始めた。
柔道だけでは太刀打ちできないと踏んでいるのだろう。確かにタイソンの屈強な体躯を思い返してみると、それは素人の綺澄にも容易に想像できた。
十七里が手にしている物から考えて、きっと彼女は遠距離攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。しかし果たして通用するのだろうか。相手は拳銃を持っている。圧倒的に不利なことは明白だ。
「……いくつか必要か」
十七里がそう呟いてこちらへ向き直った。
午後二十二時五十五分。
綺澄達は3A会議室の前までやって来た。ドアの擦りガラスから、うすぼんやりとした橙色の灯りが漏れている。
十七里がドアノブに手をかけてゆっくりと押す。中は小ぢんまりとした無窓居室だった。床は敷物がなく剥き出しで、部屋の真ん中に大きなテーブルが配置されている。その上には携帯式の照明器具とミルクティーのボトル缶二本が無造作に並べられていた。
「来たか」
机を挟んだ向こう側に陣取っていたタイソンが立ち上がった。顔にいつものサングラスはない。だがその代わりに、右手にはサイレンサ付きの黒い拳銃が握られている。そしてその銃口の先で、一人の小さな少女が恐怖に身を縮こまらせていた。
「棗さん!」
「守薙さん……、となりん……」
綺澄の呼びかけに、棗はか細い声で答えた。
顔からは血の気が引き、怯えきった瞳は涙ですっかり濡れている。彼女の体は縄で椅子に縛りつけられていた。微かに金属の擦れる音が聞こえることから、後ろ手に手錠をはめられているのだと思われる。
「汚い所ですまんな」
タイソンが不気味なくらい朗らかな声を出した。
「貴方にはお似合いだ」
冷徹に突き放す十七里に、彼は笑って返す。
「だろう? 我々はこういう陽の当たらない所が好きでね。体に馴染むんだ。悪巧みには便利だし、ときどき迷い込んできたモルモットも調達できる」
その台詞には反応せず、十七里が震える少女を見て落ち着き払った声をかける。
「棗、少し待ってろ。すぐに終わる」
「そうだな、あまり女性を待たせるのはよくない。まあ、お前も女だがな」
タイソンがそう言ってニヤリと笑った後、片側の眉を上げた。
「ん? その首はどうしたんだ?」
綺澄は思わず唇を噛む。
「なるほど。どうやら随分と情熱的なキスをされたらしいな」
「余計な話は必要ない」
十七里が敵意に満ちた視線を向けた。するとタイソンが肩を竦めてから人差し指を立てる。
「なら、本題に入る前に一つ質問だ。何がヒントだった?」
なぜ十七里は彼の正体に気付けたのか。そして、自分達が初めからエラーに侵されていたことにも。そのきっかけには綺澄も興味があった。
十七里は抑揚なく返す。
「呪返しだ」
「ふむ。あれに気付くのは、お前ならまあ当然だな。それで?」
「キジーツ製作者は、明らかに呪返しをキジーツの推奨使用方法としている。少々分かりにくくはなっているが、その意図を汲み取った人間はこれまでごまんといたはずだ。無論、カドゥーシアスだってそうだろう。ところが貴方は、それについて何も説明しなかった」
「だからおかしいと思ったわけか」タイソンが嬉しそうに唇を上げた。
綺澄も頷く。確かに彼が呪返しの利用を説明していれば、蕎麦屋で彼女に新たな呪をかけることは難しかったかもしれない。
「ふむ、なかなか勉強になった」
タイソンが棗に銃口を向けたまま、左手でこめかみの辺りを掻いた。
「――じゃあ、そろそろ電話の返事を聞かせてもらおうか」
一呼吸置いてから十七里が口を開く。
「貴方達に与するつもりはない」
その拒絶に黒スーツの男は苦笑を漏らした。
「お前は、元の体に戻りたいんじゃないのか? 男の体に」
相手が無反応なのを確認してから彼は続ける。
「どうやって戻るつもりだ? キジーツでは不可能だぞ。あれは害悪しかもたらさん。かといって、自然のエラーを待つつもりでもあるまい? それじゃ、お前が百万回ヨボヨボの婆さんになったって戻れやしない」
数秒瞼を閉じてから、十七里が尋ねる。
「それが……、貴方達にならできる、と?」
「そうだ。我々の目的の一つは、エラーを自在に生み出すことだからな」
「つまり戻る方法はあるということだな。それが分かっただけで充分だ」
タイソンが呆れた様子で返す。
「ふっ……、そんな事をお前ひとりで実現するのは不可能だよ」
「俺が実現しなくても、貴方達がやる。俺はその結果を奪えばいいだけだ」
その返答に彼は大きく吹き出した。
「なるほど、それもそうだ。まあ、そう上手くいくとは思わんが。だがもし仮に成功したとしても、カドゥーシアスがいるぞ。奴らは例外など認めない。見つかればすぐに元通りだ」
綺澄は割り込んで反論する。
「それはタイソンさんが仰っているだけで、本当の事とは限りません」
「なら彼女に訊いてみるといい。なあ、棗嬢」
タイソンが顎をしゃくって銃口の先にいる棗を指した。彼女は唇を何度か震わせたが、結局何も言えずに顔を伏せてしまった。
「……この通りだ。分かっただろう?」不敵な笑みがこちらへ向けられる。
「お前はたとえ男に戻っても追われる身だ。我々の庇護下に入らない限り、それこそ山奥にでも籠るしかない。もしカドゥーシアスに捕まれば、人為的にエラーを発生させた危険な特異点として排除されるだけだ」
そう言い聞かせられても、十七里の意志は変わらなかった。
「俺はそう簡単に排除なんてされない」
タイソンが呆れた様子で白い歯を覗かせる。
「相変わらず意固地な奴だ。……まるで鉄の女だな」
途端に彼の碧眼に憎悪の色が混じった。
「じゃあお前は……、彼女を見殺しにするのか?」
拳銃を強く押し当てられ、棗の小さな頭が傾く。
「ひっ……」
まだあどけなさの残る顔が恐怖心で歪む。
「お前が首を縦に振ってくれるまで、彼女には少々辛い目を味わってもらうことになる」
物腰柔らかな口調だったが、その目には無情で迷いのない光が宿っていた。
綺澄は堪らず叫ぶ。
「止めて下さい!」
「それなら君からも説得してくれないか、その強情者を」
「棗さんを引き入れた方が、タイソンさんにとっても有益なはずです! カドゥーシアスの情報を入手する、絶好の機会じゃないんですか!?」
そう主張するも、それは穏やかな微笑で軽々と一蹴された。
「そんなものは不要なんだよ、守薙嬢。なんせ、私が元々カドゥーシアスの人間だからね」
「……道理で内情に詳しいわけだ」十七里が舌打ちをする。
「それに我々は、奴らと違って量より質を求めているんだ」
そう言って棗を見下ろすタイソンの冷酷な視線は、彼女に対して何一つ関心がないことをありありと物語っていた。
「――さて、あまりここで長居するのもよろしくない」
彼は腕時計へ目をやってから、十七里の顔を見据える。
「お前のことはこれからじっくり口説き落とすとして、先にもう一つの用事を済ませてしまおうか」
群青の瞳がこちらの姿を捕えて名前を呼んだ。
「守薙嬢」
綺澄の身体に緊張が走る。
黒スーツの大男は薄ら笑いを浮かべたまま、彼女の身体を食い入るように見回した。
「我々には、ずっと長らく研究し続けているエラーがある。中身は簡単だ。大昔から人類が憧れて止まないものだよ。……だからね、ぜひ君には確かめたいことがあるんだ」
綺澄はテーブルの影で汗ばんだ手を少しずつ動かす。
「――君は単に死ななかっただけなのか、それとも、死ななくなったのか」
銃口が棗の頭を離れてこちらへと向かって来る。
まさにその瞬間だった。
タイソンの顔面を眩い閃光が襲う。
「くっ!」
綺澄が懐中電灯を点けたのだ。
彼が咄嗟に顔を手で覆った隙を突いて、十七里が鋭いガラス片を投げつける。
直後に短い呻き声。
思い切り振りかぶった荒削りのナイフは、タイソンの右手に深々と突き刺さっていた。
怯んだところへ、すかさず十七里がテーブルを蹴り飛ばす。
相手は前のめりになって体勢を崩す。その間に彼女は机上を疾走して、右手へ鋭い蹴りを喰らわせる。拳銃が勢いよく壁にぶつかった。
十七里は素早く背後へ回り込み、相手の頸部を腕で締め上げる。
タイソンが苦しそうに背中を仰け反らせた。言葉にならない唸りをあげながら、体を左右へ動かして相手を振り払おうとする。が、彼女はがっちりと食らいついて離れない。
白い顔がみるみる真っ赤に変色し、広い額に太い青筋が浮き出てきた。
あともう少し――! その思った刹那、男の口角が不気味につり上がった。
大きな手が十七里の華奢な腕を掴み取り、力ずくで技を引き剥がす。そしてそのまま背中にぶら下がっていた彼女の体を無理やり前へ投げ飛ばした。
分厚い板が割れるような激突音と共に、悲痛な喘ぎ声が響く。
「が……っ!」
細い身体がテーブルの上ではね上がった。
タイソンは激痛に悶える少女の肩を片手で押さえつけ、もう一方の拳を振り上げる。
しかし、その無防備となった一瞬――、光の筋が薄闇を駆け抜けた。
十七里が隠し持っていたガラスで斬りかかったのだ。
その透明な刃は、男の顔に深い傷を刻み付けた。顎から目元までが斜めに切り裂かれ、一気に赤い血が吹き出す。
綺澄は背筋に強烈な悪寒を感じ取った。それは激しい殴り合いのせいでも、飛び出た鮮血のせいでもない。
今、十七里が放った一撃。あれがタイソンの顔面に命中したのは、彼がその斬撃を避けようとしたからに他ならない。もし回避していなければ、ガラス片は間違いなく彼の喉元を引き裂いていた。
つまり、十七里は完全に相手を殺すつもりだったのだ。
ぼたぼたと大量の血液が床へ落ちる。だがそれほどの傷を負っても、男はよろめきさえしなかった。
机に押え込んでいた少女の首根っこを掴み、荒々しく壁へと投げ飛ばす。
びりびりと衣服の裂ける音がし、十七里は背中からコンクリートへ激しく叩き付けられた。そのままばたりと床へ転げ落ちる。
「十七里さん!」
そう呼びかけるが、彼女はぐったりとしてピクリとも動かない。
タイソンが大きく息を吐いて、ずれた背広を整える。
「気絶したか。しかし思ったより筋がいいじゃないか。鍛えれば、もっといい勝負ができる」
彼は愉悦で満ちたように唇を歪ませると、流れる血を拭いながら床の拳銃へ目をやった。
棗が叫び声をあげる。
「守薙さん、逃げてっ!」
それと同時に、綺澄は部屋を飛び出した。
廊下を一直線に駆けて吹き抜けを目指す。しかし階段に辿り着いた瞬間、鈍い破裂音が鳴って前方の窓ガラスが砕け散った。
振り返ると、タイソンが左手で拳銃を構えていた。彼は銃口をこちらへむけたまま、足早に会議室のドアを抜けてくる。
綺澄は一目散に階段を駆け下りる。が、二階まで下りたところで、すぐ目の前の手すりに激しい火花と紫煙が舞い上がった。
相手はもう真上まで来ている。利き腕が使えないとしても、吹き抜けにいては格好の的だ。
綺澄は階下へ下りるのを断念し、身を翻して二階の廊下を奥へと走る。その先に非常階段があったはずだ。
すると忽然、背後から何か重い物が床へぶつかる音が鳴った。
見れば、すぐ後ろでタイソンがうずくまっていた。三階から飛び降りて来たのだろう。
彼が立ち上がる寸前に、綺澄は近くのドアへ駆け込む。
携帯電話のバックライトを照らすと、そこは先ほどいた会議室と同じ造りの部屋だった。
四方の壁に窓はなく、出入り口も背中の一ヵ所だけだ。
つまり、もう何処にも逃げ場は存在しない。
ドアに鍵も付いていないため、せめてバリケードを――と思い、隅に積まれた椅子を取りに行った時だった。
ぎいっと軋んだ音をたてて扉が開く。
「そこまでだよ、守薙嬢」
タイソンが拳銃片手に中へ入って来た。
頬を冷や汗が流れる。綺澄は頼りない足取りで後ろへ下がった。が、すぐに背中はコンクリートの壁にぶつかってしまった。
男がのそりのそりと近付き、銃口を彼女の額へと向ける。
「これでお別れ――、とならないことを祈るよ」
その台詞の直後、短く大きな衝撃音が響いた。




