一.異常と正常①
件名:
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日時:二〇一〇年四月三十日(金) 三時十三分
本文:
『キジーツを欲する者は、本メールの受信から一時間以内に返信せよ。
キジーツとは、条件を満たした相手に呪をかけるペンである。
呪の内容はキジーツによって記された通りとなる。
尚、キジーツにより発生した如何なる事態に対しても、当方は一切の責任を負わない。
以上』
「……何だ、スパムか」
十七里真は、携帯電話の画面を見つめて呟いた。
先ほど起き抜けにメールが来ているのに気付き、そそくさとチェックしたところ、このような有様である。何が呪のペンだ。ほんの僅かでも気分を高揚させた自分が情けない。
真にはつい最近までメールをやり取りする相手などいなかった。電話帳に登録されているのは数件のみで、携帯端末の使い道と言えばもっぱら外出先のブラウジングくらいであった。
しかし高校入学から一ヶ月――、彼の生活にはちょっとした変化が起きつつあった。連絡を取り合うクラスメイトができたのである。彼らはしばしば他愛のないメールをよこし、真もそれに素っ気ない内容ながらもリプライを返した。初めは少々煩わしくもあったが、ある日、開いた新着メールが徒のスパムだった際、幾らか落胆している己を発見して大層驚かされたものだ。他人に露も興味がないと思っていた自分が、まさか人恋しさを感じているとは。その事実には苦笑せずにいられなかった。
再び携帯電話のディスプレイへ視線を戻す。
それにしても奇妙なメールだ。まず呪などというオカルト染みた内容は、これまで迷惑メールで見かけたことがない。しかも受信時間が午前三時過ぎにも関わらず、注文の受付はそこからたったの一時間だ。この限定は送った側にとって非効率的でしかないと思うのだが……。
しかし何より気味が悪いのは、差出人の欄である。文字化けを起こして解読不能なアドレスになっている。こんな状態は初めて見た。背筋にうすら寒いものを感じる。
メニューを開いてメールを削除しようとするが、その瞬間、画面端に表示された現在の時刻が目に飛び込んできた。
押っ取り刀でベッドから飛び起き、制服に着替える。高校の始業時間までにはたっぷりと余裕があったが、のんびりとしているわけにもいかない。
自室のドアを静かに開け、まだ誰も起き出している気配のない家の中を移動する。歯磨きを済ませて冷たい水で顔を洗うと、眠気が幾らか身を潜めた。髪を濡らして手で押さえながらドライヤーをかけ、盛大についた寝癖を直す。最近髪が伸びたせいか、なかなか乾かなくなってきた。俯いた際、前髪が目にかかるのも鬱陶しい。明日は土曜だから切りに行くか、などと考えながら薄暗いダイニングで独り手を合わせて朝食をとる。
マーガリンを塗っただけの味気ないトーストを半分ほど食べると、母親の比佐子が部屋へ入ってきた。その場の空気が少し変わる。
「……おはよう」
彼女が躊躇いがちに声をかけてきた。真も小さな声でぎこちなく挨拶を返す。
しかし二人の会話は、それきりぷつりと途切れた。
比佐子はキッチンで朝食の支度を始め、真はただ黙々と目の前の食事を処理する。流れる水音とトーストの乾いた音だけが室内に響く。
そこにあるのは、親子特有の気兼ねない沈黙ではなかった。お互いに落ち着かない、肌を刺すような静寂。気まずい雰囲気。緊張、異物感。
それに耐えかねてか、比佐子がテレビの電源をつけた。淡々とニュースを読み上げる男性アナウンサーの声が流れ出す。
『昨日、業界二位の三ツ岸銀行と三位のみずの銀行が統合を発表しました。これによって都銀再編の流れは節目を迎え、阿知波銀行との二大メガバンク体制が――』
間が持ったように感じたのは一瞬に過ぎなかった。結局の所こういったノイズとは西瓜にかける塩みたいなもので、元からある静けさをより際立たせてしまうだけなのだ。
真は朝食の残りをコーヒーで流し込み、逃げるように席を立つ。しかし食器をシンクへ運ぶ途中で比佐子に話しかけられた。
「もう行くの?」
真は皿を水に浸しながら、口も開けずに「ん」と答える。足早に立ち去ろうとする彼に向かって、比佐子が遠慮がちに言い添えた。
「そう……、いってらっしゃい」
その言葉は自然に出たものか、或いは母親という立場を考えて発せられたものなのか、真には判断がつかなかった。
彼は母親と目を合わせずに「うん」とだけ返事をして、ダイニングをあとにした。
自室のある二階へ上がると、ちょうど正面のドアから妹の心緒が出て来るところだった。その姿を捕えた瞬間、真の体が無意識的に強張る。
しかしそんな彼を尻目に、心緒は寝癖を押さえながら不機嫌そうな顔つきで横を通り過ぎる。挨拶どころか、一瞥することさえない。真がただ視界へ入ることすら嫌悪するように、ずっと前だけを見据えている。先の母親のたどたどしい対応とは違い、その態度からは陽に憎悪が感じ取られた。だがそれは今日に始まったことではない。
張り詰めた空気の中、妹は重苦しい余韻だけを残して階下へと消えて行った。真は小さく息を漏らしてから自室へ戻る。学ランに袖を通して玄関へ向かうと、途中でダイニングのドア越しに母と妹の楽しそうな談笑が漏れ聞こえた。
――危なかった、と彼は安堵する。
もう少し朝食が遅れていれば、自分はあの中にいなければならなかった。その状況は、想像するだけで冷や汗が出てしまう。
というのも、この家の住人はとても仲が良い。真ただ一人を除いて。
二つ年下の妹は、中学二年という普通なら反抗期真っ只中の年頃だが、母は勿論、父とも距離を置こうとする気配が一切ない。むしろ積極的に彼らと会話し、笑顔を振りまいていた。両親と過ごすひと時は、きっと彼女にとって特別で楽しいものなのだろう。
ではそのような場に、憎悪の対象ともいうべき真が紛れ込んでしまったらどうなるのだろうか。妹は大切な時間を邪魔された不快感を露わにし、凍りついたように何も喋らなくなるだろう。そしてそんな兄妹の確執に直面して、両親はただおろおろと狼狽えるのだ。
そのような最悪の事態は、できうる限り回避しなければならない。
今朝のニアミスは、自身の起床時間の遅れに起因したものだ、と真は反省する。おそらく寝坊の原因は、最近寝る間を惜しんで本を読んでいることだろう。持続的な解決のためには、睡眠時間を元に戻すべきだ。四月初頭に立てた読書計画は修正しなければなるまい。
この家で平穏に過ごすには、こういった対処が非常に重要なのだと真は考えていた。
自身と彼ら、可能な限り互いの領域を侵してはならない。でなければ、相互に不必要な精神的負荷を負うことになる。
名目上の家族関係を保ちながら、今の非干渉性を維持し続けること。それが真にとっての家庭であり、日常そのものであった。
外は雲一つない快晴だった。
早朝ならではの心地よい肌寒さが首筋を撫でる。大きく息を吸えば、肺の中にひんやりとした空気が満ちていくのが分かった。一面が水色の空には、薄い黄色の光が眩しく輝いている。その刺激に眠気を引きずる脳が幾分クリアになる。
住宅街の細い路上にまだ人影はなく、辺りはとても静かだった。もう少しすれば、それぞれの家からまな板を打つ音やテレビの声が流れ出してくるのだろう。
高校までの道のりは、徒歩で二十分強といったところ。小中学校の頃は電車で一時間以上かかっていたので、登下校はかなり楽になった。しかし朝起きる時間は以前と変わらない。それは、真なりの家族に対する非干渉策の一つだった。
狭い路地を抜けて商店街のアーチを横切り、小さな花が隅に置かれた踏切を俯きがちに横断する。県道を渡る交差点まで辿り着くと、赤信号で立ち止まっている一人の女子高生を見つけた。真が通う高校のセーラー服を身に着けている。行儀よく伸ばした背筋と流れるような長い黒髪から、遠目でも同じクラスの守薙綺澄だと分かった。
彼女はこちらに気付くと、体ごと向き直って一礼する。
「おはようございます、十七里さん。朝、お早いんですね」
そう言って軽く微笑んだ後、前に垂れた横髪を耳へかけ直した。
真は彼女と学校で席が隣同士である。その配置関係ゆえに会話をすることはあるが、特に親しい間柄というわけでもない。何度か言葉を交わした印象では、控えめで礼儀正しく、今時では珍しい古風な雰囲気を纏った女子という感じだ。クラスに二人といない、背中まで伸びたストレートの黒髪もそのイメージに拍車をかけていた。
「早いのは君も同じだ」
真の無愛想な返事に守薙が答える。
「私は弓道部の朝練を見学しようと思いまして」
弓道部か。また狙い澄ましたように古風だな。と笑いそうになってしまった。
真達の学校は部活動が盛んで、今は新入生のための入部体験期間となっている。部活の数は運動系と文化系を合わせれば、優に四十を超えているだろう。バレーやバスケなど、男女で分かれているものをダブルカウントすれば、六十に達しているかもしれない。
しかし受験で一学期しか参加しない三年生を除けば、生徒の数は六百人強といったところ。複数を掛け持ちする事例はさほどないだろうから、死に体の部が山ほどあると想像できる。
それを証明するように、今の時期はどの部も勧誘活動に躍起だった。皆ビラを作って誰かれ構わず強引に渡して回る。おかげでこれほど部活が多いにもかかわらず、新入生は数日のうちにほぼ全てを把握できてしまうのだった。
信号が青へと変わり、二人は並んで歩き出す。
「十七里さんも朝練の見学ですか?」
「いや、俺はいつも通りだよ。早く行って本を読んでる」
それにこの時間なら、しつこい部活勧誘にも出くわさずに済む。
「なるほど。何か部活動はされないんですか?」
「ああ、入るつもりはない」
「そうなんですか。そういえば、棗さんはどうされるんでしょう?」
「棗か。おそらく彼女も入らないだろう。バイトで忙しいようだし。寺浦はもうバドミントン部に決めたようだが」
クラスメイトの話をしながら、小さな桜の並木道を歩く。桜の花はとうに散り果て、地面にもその痕跡はない。だがその代わりに木々は枝いっぱいの若葉を大空へ広げていた。
しばらく進むと、青々とした茂みに囲まれた鳥居と長い石階段が左側に見えてくる。ここまで来れば、学校まではあと十分もかからない。
ふと前方の路肩へ目をやれば、一台の黒いセダンが停車していた。アシナミのゼニスSA――、滅多にお目にかかれない高級車だ。随分と渋い趣味をしている。横切る際にちらりと中を覗き見たが、運転席には誰の姿もなかった。
「十七里さんて、よく読書をされていますよね。どんな本を読まれているんですか?」
守薙が首を小さく傾げて尋ねてきた。
「ん? そうだな。学術書……、といったらいいのか。まあ、あまり難しいのじゃない。概論みたいなやつだ」
「小説などは読まれないんですか?」
「読まないな。守薙さんは?」
「私はほとんど小説ですね。特に推理小説が好きです」
そう言った後、彼女の黒い瞳が一瞬煌めいた気がした。
青春小説とか、爽やかな感じを好みそうなものなのに、なかなか意外な趣味である。
「へえ、今はどんなのを読んでるんだ?」
「最近は……、ちょっと読めていませんね」
彼女は少し困ったように苦笑いを浮かべた。
その直後、遠方で微かに甲高い異音が鳴った。左手にある神社を囲む林の中からだ。遅れて女性の悲鳴だったかもしれないと気付く。
真がそちらの様子を窺おうとすると、突然ぐいっと腕を引っ張られた。
「急ぎましょう!」と守薙が一目散に駆け出す。
その躊躇いの無さには正直驚かされた。彼女の奥ゆかしいイメージと乖離していたからだ。思ったより勇ましい性格なのかもしれない。
守薙の後を追って樹林へと入る。悲鳴がしたのはかなり奥のようだ。
地面は雑草が生え放題になっていて、とても走れるような状態ではなかった。二人とも足場を確かめながら慎重に進む。歩くほどに木々の密度は濃くなり、鬱蒼と生い茂る木の葉で空は見えなくなる。朝だというのに周囲が仄暗くなってきた。人はおろか動物のいる気配さえしない。足下には樹木の根っこが地面からせり上がって、所狭しと張り巡らされている。無秩序に伸びて絡み合ったそれは、浮き出た血管を想起させて酷く気味が悪い。
真は若干の恐怖心を抱きつつあったが、先行する少女がずんずんと前進するので追いかけるしかなかった。
だいぶん奥部まで分け入ったところで、彼女がぴたりと脚を止めた。真も立ち止まってその視線の先を見る。離れた藪の先に、何か黒いものがうずくまっているのが確認できた。その得体の知れぬなにかは、微かにもぞもぞと動いている。どうも生き物のようだ。真はごくりと生唾を飲んだ。
木の陰に隠れながら近付いてみる。歩を進めるたびに胸の鼓動が早まっていく。五メートル程まで接近すると、その黒い塊がしゃがみ込んだ人間の背中だと分かった。少し安心する。
しかし体格と服装からして、その人物は男だった。故に悲鳴の主とは思えない。
男は黒のスーツを羽織り、その上からでも充分に分かるほど筋肉質な肉体をしていた。軍人のような鍛え方だ。身長も真より一回りは大きく、百八十センチを優に超えているだろう。その精悍な後ろ姿をよく見れば、背広の中央よりやや左に丸い小さな穴が開いていた。
目線を下へ移すと、男の奥にもうひとつ何かが横たわっている。しかし死角になってよく分からない。背伸びして覗き込もうとした時、隣で小さな悲鳴があがった。
はっと我に返ったように守薙が手で口を押さえる。だがもう手遅れだった。
黒スーツの大男はゆらりと立ち上がってこちらを振り返る。
その姿に真はぎょっとした。
男は白いシャツを真っ赤に染め、右手には鮮血の滴るミリタリーナイフを握っていた。しかしそれよりも真を戦慄させたのは、男の形相であった。顔の筋肉が歪んだように引きつり、血走った目は飛び出しそうなほどに見開かれている。割れんばかりに食いしばった歯の間には濁った色のカスのような物がびっしりとこびり付き、さらに口の周りを赤黒い血が汚していた。
どう考えても、まともな人間の様相ではない。薬か何かの中毒症状だろうか。
男がだらりと上半身を倒した瞬間、真はその背後に守薙が発した悲鳴の訳を見た。
広大な血の海と、その中心で今なお血飛沫を上げる肢体。そこに伏していたのは、喉元を裂かれ、腹から内臓を覗かせた若い女性であった。
逃げろ! という雄叫びが全身を駆ける。
が、次の瞬間、男が一直線に飛び掛かって来た。
真は咄嗟に前へ跳ね出る。彼の首筋めがけて男の鋭い刃が振り下ろされる。
しかし真はその一刀を片手で素早く払い、ひらりと身を翻した。男の側面へ回り込み、横目で瞬時に体勢を窺う。
――顔面が隙だらけだ!
踵で男の脚を払い、よろけたところへ人中に思いっきり掌底を叩き込む。骨が砕けるような鈍い轟音と共に、男が勢いよく背後へ転倒した。
真はナイフを持った右腕に飛びついて力いっぱい抱き締める。その腕の異様な冷たさに一瞬怯むが、すぐさま動揺を振り切った。
上腕部を両太腿でがっちり挟んで後方へと倒れ込む。男の腕が逆関節方向へと引き伸ばされる。腕挫十字固だ。
肘を極められた相手は、奇声をあげて激しく抵抗する。が、真は両脚で男の首と胴を抑え込み、足首で左腕の自由を封じている。
完全に極まった。この状態から抜けることは、相当の体格差があっても難しい。
黒スーツの男はじたばたともがきながら、野獣のように低い唸り声をあげている。その体勢のまま真が顔を上げると、守薙は茫然と二人の男を見下ろしていた。
「警察と救急車っ、早く!」
その叫びで我に返った彼女は、慌てて白い携帯電話を取り出す。これであとは警察の到着を待つだけだ。
なんとか上手くいったな、と真は胸を撫で下ろす。しかし油断は禁物だ。警官が駆け付けるまで体力が持つかという懸念があったし、何より男の右手は未だにナイフを握りしめていたからである。
守薙が震える指先でなんとか電話をかけようとするが、突然はっとしたようにその手を止め、真の名を叫んだ。その声で彼も異変に気付く。
固技から抜けようとする相手の抵抗が変わった。
先程まで男は、引き伸ばされた右肘を曲げることで逃れようとしていた。極めて順当な反応である。しかしこの場合、腕を曲げようとする力より、腕を反らせる側の背筋力がずっと強いため、技を破ることはできない。だがそれを察してか、男は体を回転させ、真に締め上げられた右腕を引き抜くように力を込めている。
あり得ない。無理やり外す気か。そんなことをすれば、間違いなく靭帯が切れる。
この男は正気じゃない……!
真の背筋に悪寒が走った。
男の右肘から、バリバリという耳障りな不協和音が鳴り始める。だが男は一片の迷いも見せず、尚も腕を引き抜こうとする。
くそっ、絞技で失神させるべきだった。真は奥歯を噛む。
額に脂汗が浮かんだ。だがもはや無駄と分かっていても、彼は技を維持し続けるしかない。
遂に、ぶちん、という分厚いゴムが裂けるような異音が響き、男の右腕が解き放たれた。
その瞬間、真の左掌に熱が走る。遅れて激痛。腕が抜けた勢いで、ナイフの刃が当たったらしい。
彼は急いで起き上がろうとするが、その腹部を男に力強く踏み付けられる。鋼鉄の棒を叩きつけられたような衝撃が全身に響いた。
咳き込んでのた打ち回る彼の上に男が馬乗りになる。丸太の如く太い左腕が首根っこを押さえ込んできた。
呼吸ができない。両手で必死に振り解こうとするが、強靭な腕はびくともしない。
男が憤怒の様相でナイフを持った右腕を振り上げた。真は唖然とする。
馬鹿な。完全に靭帯が切れたはずなのに。なぜ自由に動かせる……。
次第に意識が薄れていく。
力が抜ける。
視界が歪む。
男の体が捻じれていく。
遠くで守薙が何かを叫んでいる。
朦朧とする真に向かい、男が凶刃を振り下ろす。
その刹那、低い炸裂音が鳴り響いた。