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朗読会

作者: 不出水
掲載日:2026/02/18

書店の隅で行われていた小さな朗読会に、時間つぶしのつもりで座った。朗読者は女性で、自作の短編を読んでいた。物語は、ある男が毎朝同じカフェで同じ女を見かけるが一度も話しかけられない、というものだった。聴きながら、背筋が冷たくなった。

書店の朗読会に行こうと思ったのは、暇だったからだ。


もう少し知的な動機を捏造することもできる。たとえば「現代文学の動向に対する知的好奇心から」とか「声に出して読まれることで立ち上がるテクストの身体性に興味があった」とか。しかし嘘はつきたくない。暇だった。土曜日の午後三時、予定がない、財布の中身も心許ない、映画を観るほどの気力はなく、かといって家に帰れば洗濯物の山が僕を待ち受けている。その山はもはや「山」というより「丘陵地帯」と呼ぶべき規模に達しており、視界に入るだけで精神衛生に甚大な被害を及ぼす。


要するに、家に帰りたくなかったのだ。二十八歳独身男性の土曜日として、あまりにも標本的な惨状である。


駅前の書店に入ったのは立ち読みで時間を潰そうという算段だった。入口の自動ドアをくぐると、レジの横に小さな手書きの看板が出ていた。


《本日15:00〜 朗読会「声と言葉の実験室」 3F特設スペースにて 入場無料・予約不要》


入場無料。この四文字が持つ引力を侮ってはいけない。予定のない人間にとって「入場無料」は重力に等しい。抗えない。特に「予約不要」がセットになると心理的障壁は事実上ゼロになる。マーケティング的に言えば完璧なコンバージョン導線だ。僕は導線に乗せられて三階に上がった。


三階の特設スペースは、書棚を少し動かして作ったささやかな空間だった。パイプ椅子が三十脚ほど並んでいて、その半分くらいが埋まっている。客層は四十代から六十代の女性が多い。男は僕を含めて三人。うち一人は書店の店員で、もう一人は完全に寝ている。実質的な男性客は僕一人だった。客観的に言えば場違いだった。


最後列の端に座った。逃げやすい位置取りだ。つまらなければ途中退席する気満々である。文学に対する敬意が著しく欠如していると言われればそのとおりだが、未知の体験に対しては常に撤退路を確保しておくのが僕の処世術だ。


§


司会の女性が簡単な挨拶をして、最初の朗読者を紹介した。五十代の男性で、宮沢賢治の詩を読んだ。悪くなかった。声がよかった。しかし宮沢賢治の詩というのはそもそもの完成度が高すぎるので、よほど壊滅的な読み方をしない限り「悪くない」以上の感想にならない。イチローの打席を見て「打つのうまいね」と言うようなものだ。


二番目は若い男性。自作のポエムを読んだ。「僕の心は砕けたガラス」で始まり「でもその破片こそが光を反射する」で終わった。なるほど。僕のほうが砕けそうだった。


三番目。


「次の朗読者は、橋本凛さんです。自作の短編小説を朗読していただきます」


パイプ椅子に浅く座っていた女性が立ち上がり、朗読台に向かった。こちらに背を向けて歩いていく。黒い丸首のニットにデニム。ショートカットの後ろ姿。小柄な体が書棚のあいだを抜けていく。


朗読台の前に立ち、A4の紙を数枚置き、手元のライトを点けた。客席側の照明はもともと薄暗いが、朗読台のスポットライトがその対比をいっそう際立たせていた。客席から見れば朗読者の顔は明るく照らされているが、朗読者から客席を見れば——おそらく、暗がりに人影が並んでいるだけだろう。


「橋本です。今日は、短い小説を読みます。タイトルは、『116日目の隣人』」


マイクを通した彼女の声は、低くて、少し掠れていた。その声質自体に物語を聴かせる力があった。二番目のポエム氏との差は歴然だ。


彼女は読み始めた。



> ——男には習慣があった。

>

> 毎朝七時二十分に家を出て、駅前のカフェに入る。カウンターでブラックコーヒーを注文し、窓から二番目の席に座る。そこで三十分ほど過ごしてから会社に向かう。

>

> 半年前のある朝、窓際の席に女がいた。

>

> 一人で、文庫本を読んでいた。カフェオレと、小さなスコーンが一つ。それが女の朝食らしかった。男はいつもの席に座り、いつものコーヒーを飲んだ。それだけのことだった。

>

> 翌朝も女はいた。その翌朝も。毎朝、同じ時間に、同じ窓際の席に座り、同じカフェオレを飲み、文庫本を読んでいた。男は窓から二番目の席で、つまり女の隣の席で、ブラックコーヒーを飲んだ。

>

> 一度も話しかけなかった。

>

> 話しかける理由がなかった。同じカフェの常連だというだけで声をかけるのは不自然だ。男はそう判断していた。正しい判断だ。世の中には、正しい判断だけをし続けた結果、何も始まらなかった人間がいる。男はその典型だった——



僕はパイプ椅子の背もたれに背中を預けたまま、呼吸を忘れた。


比喩ではなく、物理的に息が止まった。三秒か五秒、肺が機能を停止し、脳が酸素の欠乏を訴えて初めて慌てて息を吸った。隣の席のおばさんがちらりとこちらを見た。


僕の話だ。これは、僕の話だ。


毎朝七時二十分に家を出て、駅前のカフェに入る。カウンターでブラックコーヒーを注文し、窓から二番目の席に座る。半年前から窓際の席に女性がいて、カフェオレとスコーンを頼み、文庫本を読んでいる。一度も話しかけていない。半年。約百八十日。百八十杯のブラックコーヒー。百八十回の「今日こそ話しかけよう」と「やっぱり無理だ」の反復。


タイトルが「116日目の隣人」だということは、この小説の中の男は百十六日目なのだろう。僕は百八十日を超えている。小説の男よりも長く、僕は何も言えないでいる。フィクションに現実が負けている。


朗読台の上の橋本凛という女性を見た。スポットライトに照らされた横顔。原稿に目を落としている。メガネをかけている。黒縁の、少し大きめの丸いやつ。


僕は目を細めた。


最後列から朗読台までの距離は約八メートル。遠い。薄暗い客席から明るい朗読台を見上げる角度。メガネのレンズにライトが反射して、目元がよく見えない。見えないが——見えないのだが、その横顔の輪郭が、なにか既視感を伴って僕の視覚野に引っかかった。引っかかって、離れなかった。


§


朗読は続いた。



> ——男は女のことを何も知らなかった。名前も、年齢も、職業も。知っていることは三つだけだった。カフェオレを飲むこと。スコーンを食べること。文庫本を読むこと。

>

> ある朝、女が読んでいる本の表紙が見えた。男が好きな作家の本だった。「話しかけるなら今だ」と思った。「その本、僕も好きなんです」。たった一言でいい。たった一言を口にするだけで、半年間のゼロがイチになる。

>

> 男はブラックコーヒーを飲み干し、席を立ち、店を出た。

>

> 一言も発さずに——



会場から小さな笑い声が漏れた。自嘲とも共感ともつかない笑い。


九月のあの朝だ。カフェの窓際の彼女が読んでいた本の表紙が見えた。西加奈子の『サラバ!』。僕が大学時代に三回読んだ本。「あ、僕もその本好きなんです」と言おうとした。口を開きかけた。唇が動きかけた。そしてブラックコーヒーを飲み干し、席を立ち、店を出た。一言も発さずに。


小説と現実が一致していた。


朗読台の上の橋本さんは、原稿に視線を落としたまま読み続けていた。客席は見ていない。暗い客席の最後列の端に僕がいることを、彼女は知らない。


僕は——カフェでいつも彼女の横顔を見ていた。彼女は窓際の席に座っている。僕はその隣の、窓から二番目の席にいる。彼女の左側に。つまり僕の視界に映るのは常に彼女の右側の横顔だった。半年間、正面から顔を合わせたことは一度もない。目が合ったことすらない。隣の席というのはそういう距離だ。最も近いのに、最も見えない。


今、朗読台の上にいる女性は、正面よりやや左を向いている。原稿を読んでいるから俯き加減だ。スポットライトが彼女の右側の横顔を照らしていた。


右側の横顔。


僕はこのアングルを知っている。百八十日ぶんの朝が蓄積した視覚的記憶が、脳の奥で何かに接続しようとしていた。パズルのピースが回転しながら、はまるべき場所を探している。あと少しで——


橋本さんが原稿をめくった。その拍子に顔が少し上がり、顎のラインが見えた。耳たぶの形。ショートカットの襟足。


パズルのピースが嵌まった。


音もなく、静かに、確実に。


僕の両手が、膝の上で、きつく握られていた。いつからそうしていたのか自分でもわからなかった。


§


朗読は佳境に入っていた。僕はもう、物語の筋を追ってはいなかった。聴いてはいた。言葉は耳から入ってきていた。だが処理の優先順位が完全に変わっていた。



> ——百十六日目の朝が来た。

>

> 男はいつものようにカフェに入り、いつものようにブラックコーヒーを頼み、いつものように窓から二番目の席に座った。女は窓際にいた。いつものように。カフェオレ、スコーン、文庫本。完璧な再現。昨日のコピー。一昨日のコピーのコピー。百十六回の反復の、百十七回目。

>

> 違ったのは一つだけだった。

>

> 女の目が赤かった。

>

> 泣いたあとの目だった。眼鏡のレンズの奥で、まつげがわずかに湿っていた。文庫本を開いてはいたが、ページは進んでいなかった。男は気づいた。気づいてしまった。気づかなかったことにすることもできた。これまでの百十六日がそうだったように。見て、見ないふりをして、コーヒーを飲み干して、店を出る。正しい判断。正しい距離感。正しい他人。

>

> 男はポケットからハンカチを出した。

>

> 女の机の端に、何も言わず、置いた——



十月の金曜日のことを思い出していた。カフェに入ったら、窓際の彼女の目が赤かった。泣いたあとの目だ。文庫本は開いていたが同じページのまま動いていなかった。気づいた。気づいてしまった。僕はブラックコーヒーを三十分かけて飲み、席を立ち、店を出た。何もしなかった。


小説の男はハンカチを置いた。現実の僕は何もしなかった。


朗読台の上の彼女の声が、さっきより少しだけ柔らかくなっていた。この場面を読むのが好きなのかもしれない。あるいは——この場面を書いたとき、書きたかった未来を書いていたのかもしれない。現実では起きなかったことを、フィクションの中で起こした。そういう種類の小説なのだと、僕は思った。思って、胸の奥が鋭く痛んだ。


朗読は続く。



> ——女はハンカチを見て、それから男を見た。男は前を向いていた。コーヒーのカップに視線を落として、何事もなかったかのように振る舞っていた。何事もなかったかのように振る舞っている男が、耳の先まで赤くなっていることに女は気づいた。

>

> 女は小さく笑った。

>

> そして初めて、男に声をかけた。

>

> 「ありがとうございます。……毎朝お隣の方ですよね」

>

> 男は顔を上げた。声が出なかった。頷くのが精一杯だった。

>

> 「知ってたんです」と女は言った。「ずっと」——



橋本さんが最後のページをめくった。会場が静まり返っていた。寝ていたおじさんも起きていた。



> ——「知ってたんです」と女は言った。「ずっと。この席に座っているのは、あなたの隣だからです」



朗読が終わった。


二秒ほどの沈黙のあと、拍手が起きた。僕も拍手をしていた。膝の上で握りしめていた両手をほどいて、手のひらを合わせていた。手汗がひどかった。


橋本さんは朗読台の前で軽く一礼した。顔を上げたとき、客席のほうに目を向けた——が、スポットライトの逆光で、暗い最後列まで見通すのは無理だったのだろう。目線がふわりと客席の上を通過して、手前に戻ってきた。僕のことは見えていない。


見えていない。


その事実に、僕は奇妙な安堵と、それを上回る焦燥を同時に覚えた。見つかっていないなら、今ならまだ逃げられる。最後列の端、逃げやすい位置取り。撤退路は確保してある。このまま黙って立ち上がり、階段を降り、書店を出て、何事もなかったことにできる。月曜の朝にまたカフェに行き、窓から二番目の席に座り、百八十一日目の沈黙を重ねる。正しい判断だ。百八十回繰り返してきた、正しい判断——


小説の中の男の声が、頭の中で反響していた。


正しい判断だけをし続けた結果、何も始まらなかった人間。


彼女がそう書いたのだ。彼女がそう書いて、大勢の前で声に出して読んだのだ。僕を見ながら。いや——僕だとは知らずに。でも僕のことを書いて。


§


朗読会が終わった。司会の閉会の挨拶。客がぱらぱらと立ち上がる。橋本さんは朗読台の横で、何人かの客に囲まれていた。「よかったです」「あの最後の一行がねぇ」。一人一人に丁寧に頭を下げている。


僕は最後列の端から動かないまま、その光景を見ていた。彼女のまわりにいる客は正面から彼女の顔を見ている。僕がカフェで半年間見られなかった角度——正面——から。当たり前のように。何の逡巡もなく。朗読がよかったです、と言うだけでそのアングルは手に入る。僕が百八十日かけても手に入れられなかったものが。


人垣が解けるのを待った。待ちながら書棚を眺めるふりをした。哲学書の棚の前だった。ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』が視界に入った。「おまえは、おまえの道を行け」。今の僕にはちょっと重い。僕の道は書店の三階で朗読者に話しかけるか否かという卑小な岐路であり、ツァラトゥストラの高踏な思想とは何の関係もない。ないのだが、ニーチェに背中を押された気がしたのは事実だ。


人垣がなくなった。橋本さんが鞄を手に取り、出口に向かって歩き始めた。スポットライトの下を離れて、客席側の薄暗い照明の中に入ってきた。近づいてくる。


「あの」


声が出た。自分の声がやけに大きく聞こえた。書店の三階は静かだ。哲学と文芸のフロアは基本的に静寂が支配している。


橋本さんが足を止めて、振り返った。


近かった。二メートルもない距離。朗読台の上で八メートル先にいたときとは情報量が根本的に違う。黒縁の丸いメガネ。黒目がちの、少し垂れ気味の目。化粧が薄いぶん肌の質感がそのまま見える。そばかすが薄く散っている。


この顔を、僕は知らなかった。


百八十日間、隣に座っていた人の顔を、正面からは一度も見ていなかった。横顔の輪郭は暗記するほど知っていたのに、正面は知らなかった。隣の席とはそういう距離だ。最も近いのに、最も見えない。


今、初めて見ている。この人を。


「はい」


橋本さんは僕の顔を見た。何の反応もなかった。朗読会の客の一人として見ている。それ以上の認識はない。当然だ。彼女にとっても僕は横顔の人間だ。カフェの、隣の席の、横顔。正面から見た僕の顔に、彼女の記憶は反応しない。


「朗読、聴いてました」

「ありがとうございます」


ぺこりと頭を下げた。本当にぺこりと。擬音がそのまま動作になったような会釈だった。何人もの客にこの動作を繰り返していたのを見ていた。僕もその一人として処理されている。


「あの話は——」


言いかけて、喉が詰まった。ここから先の質問は、この人の世界を変える。僕の世界はもう変わっている。朗読の途中で——正確にいつかは言わないが——変わった。だが彼女の世界はまだ変わっていない。彼女はまだ、朗読会を聴きに来た客の一人と話しているだけだ。


その平穏を、僕は今から壊す。


「あの話は、どなたかモデルがいるんですか」


橋本さんは少し首を傾けた。右に、五度ほど。


知っている。この仕草を知っている。カフェの窓際の席で文庫本を読んでいるとき、たまに顔を上げて窓の外を見る。そのとき同じように首を傾ける。右に、五度ほど。


「ええ。毎朝カフェで見かける方です」


橋本さんは答えた。少し恥ずかしそうに、でも隠す気のない率直さで。朗読台の上で自作の恋愛小説を読み上げた人間は、その程度の質問で動揺しない。


「隣の席で、いつもブラックコーヒーを頼む人」


僕は一つ、深く息を吸った。


次に口を開いたら、この人の世界が変わる。暗い客席の匿名の一人だった僕が、カフェの窓から二番目の席の男になる。元には戻れない。戻れないが——戻れないことが、たぶん正しい。百八十回の「正しい判断」の末に、初めて正しく逃げない判断をする。


「それ、僕です」


橋本さんの表情が変わった。


変わった、というのは正確ではない。凍った、のほうが近い。顔の筋肉が一斉に動きを止めた。五度傾いていた首がそのまま固まった。メガネの奥の目が僕を見ていた。見ているのだが焦点が合っていなかった。僕を見ているのではなく、僕の顔の中に何かを探している目だった。


二秒。三秒。


橋本さんの視線が、僕の顔の上を動いた。目から鼻へ、鼻から顎へ、顎から耳へ。それから髪の生え際を辿って、もう一度目に戻ってきた。正面から見た顔のパーツを、記憶の中の横顔に変換しようとしている。頭の中でぐるりと九十度、僕の顔を回転させている。


パズルのピースが嵌まる瞬間を、僕は正面から見ていた。


橋本さんの目が見開かれた。唇が薄く開いた。


「——嘘やん」


関西弁が出た。標準語の殻が一瞬で剥がれ落ちた。メガネの奥の目が泳いでいた。右を見て、左を見て、僕を見て、また右を見た。


「嘘ちゃいます」


思わず関西弁に合わせてしまった。僕は千葉県出身である。「ちゃいます」のイントネーションが確実に間違っている自覚はあったが取り消せない。


「あ、いや、え、すみません、私——」


橋本さんが一歩後ずさった。朗読台の上の落ち着き払った声の持ち主が、今は完全に壊れていた。顔が赤い。赤いにもほどがある。


「小説のモデルにしてて、その、勝手に。許可も取らず。あの——あ、ていうか、なんで、ここに——」

「暇だったんです」

「は」

「暇で、入場無料だったから」


橋本さんの目がさらに大きくなった。この状況に最もふさわしくない回答を僕が返したことに対する純粋な困惑が、その目に浮かんでいた。


「……暇て」

「はい」

「百八十日話しかけられへんかった人が、暇つぶしでたまたま来た朗読会で自分のことが読まれるって——なにそれ」

「僕もそう思います」

「フィクションでもそんなご都合主義書かへんわ」

「フィクションに負けてますね、現実が」


橋本さんは数秒のあいだ僕を凝視し——それから、手で顔を覆った。メガネの上から両手で顔を挟むようにして。肩が震えていた。泣いているのかと思った。だが、手の隙間から漏れたのは笑い声だった。


「あかん。あかんわ。なんやのこれ」


笑っていた。声を殺しきれずに笑っていた。書店の三階で、朗読会が終わった静かなフロアで、大人の女が手で顔を覆って笑っていた。


「ちょっと待って。整理させて」


橋本さんがメガネを外した。目元を手の甲で拭った。笑いすぎて涙が出たらしい。メガネをかけ直し、僕を改めて見た。正面から。


「じぶん——加藤さん?」

「はい。……なんで僕の名前」

「カフェのポイントカードに書いてあったんが見えてん。前」

「それは結構こわいですね」

「観察力言うて」


声は笑っていたが、目はもう笑っていなかった。真剣な光が射していた。


「加藤さん、聴いてたんですよね。最初から」

「はい」

「全部」

「はい」

「……最後の一行も」

「はい」


橋本さんの赤い顔が、さらに一段階赤くなった。人体の色彩表現の上限に挑戦しているようだった。


「あれは——」

「フィクションですか」


僕が先に言った。橋本さんの目が揺れた。


五秒ほどの沈黙。書店の三階は静かだった。空調の低い音だけが流れていた。


「……半分」

「半分」

「半分フィクションで、半分は——」


橋本さんはメガネを外した。レンズの汚れを拭くふりをしていたが、手元を見ずに僕を見ていた。拭けていない。レンズが余計に曇った。


「半分は、ほんまのことです」


静かな声だった。朗読台の上の声とも、さっき笑い転げていた声とも違う。橋本凛という人間がいちばん奥に持っている声だと思った。根拠はない。でもそう思った。


「窓際の席に座ったのは、最初は偶然やったんです。でも——隣に、毎朝同じ時間に同じ席に座る人がいて。ブラックコーヒーで、本を読んでるときの横顔が……なんか、よくて。それで、次の日もその席に座って。次の日も。いつの間にか、その人のおる朝が日常になってしまって」


橋本さんは一気にそこまで言って、大きく息を吸った。水面に顔を出すように。


「小説書いたんは、話しかけられへんかったからです。百八十日。ずっと隣に座ってて、一回も話しかけられへんくて。このまま何も起こらんで終わるんやったらせめて小説にしよう思て。フィクションやったら、その人に話しかけられるから」


ここで僕は初めて自分の目が熱くなっていることに気づいた。泣くな。書店の三階で泣くな。泣いていいのは哲学書を読んで人生の意味がわからなくなった学生だけだ。僕は学生ではないし、人生の意味がわからなくなっているのは哲学とは無関係の極めて個人的な理由による。


「僕もです」


声が裏返った。完全に。二十八歳の声変わり。生物学的にありえないが実際に起きた。


「僕も、話しかけたかったんです。毎朝。ずっと」

「……え」

「九月に、西加奈子の『サラバ!』読んでたとき。僕あれ三回読んでて、『その本好きなんです』って言おうとしたんです。言おうとして——」

「言えへんかった」

「言えなかった」


沈黙。二秒か三秒。


橋本さんが笑い出した。さっきとは違う笑いだった。脱力した、どうしようもない、という種類の笑い。


「なにしてんねん、じぶん」

「すみません」

「謝らんでええけど。でも——なにしてんねん。百八十日やで?」

「知ってます。数えてたので」

「数えとったん?」

「はい」

「……私も数えてた」


また笑った。僕も笑った。書店の三階で二人の大人が向かい合って笑っていた。何がおかしいのかと聞かれたら説明に困る。おかしいのは状況ではなく僕たちだ。百八十日の沈黙を経て、暇つぶしで入った朗読会で出会い直す。ご都合主義が過ぎる。


「あの——月曜の朝、カフェで」

「はい」

「隣、座っていいですか」


橋本さんが目を丸くした。それから少し首を傾けた。右に、五度ほど。


「いつも座っとるやん」

「そうなんですけど。その——ちゃんと、話しかけたいなと」

「百八十一日目にして」

「百八十一日目にして」


橋本さんはメガネをかけ直した。今度はちゃんとずれていたので実用的なかけ直しだった。


「ブラックコーヒーと」

「はい」

「カフェオレ」

「はい」

「隣同士」

「はい」

「……ええよ」


ええよ、と彼女は言った。たった三文字だった。原稿用紙のマス目を三つ埋めるだけの、ささやかな言葉。しかしその三文字に三百六十日分の沈黙のすべてが詰まっていた。


§


書店を出ると外は暗くなりかけていた。二月の日はまだ短い。五時前なのに街灯が点いていた。


「ほな、月曜に」

「月曜に」

「七時二十分」

「よく知ってますね」

「そらそうやろ。百八十日見とったんやから」


こわい、と思った。こわいし、嬉しかった。


橋本さんが駅の方に歩き出し、数歩進んで振り返った。


「加藤さん」

「はい」

「——次の小説のタイトル、何日目にしたらええと思います」

「一日目、でいいんじゃないですか」


橋本さんは少し驚いた顔をして、それからまた笑った。


「ええな、それ。『一日目の隣人』。……ええタイトルや」


背を向けて、今度は振り返らずに歩いていった。改札に消える直前、小さく手を振ったのが見えた——ような気がした。距離があったから確信はない。確信はないが僕も手を振り返した。


僕は駅前に立ったまま、しばらく動けなかった。寒かった。二月の風が頬を叩いていた。鞄の中には何もない。あるのは月曜日の約束だけだった。


帰り道、近所のスーパーに寄って夕飯の材料を買った。普段は惣菜コーナーの半額弁当で済ませるところを、なぜか自炊する気になった。カレーを作った。一人暮らしのカレーは四日分くらいできてしまうので月曜の朝も火曜の朝もカレーだが構わない。月曜の朝にカレーを食べてからカフェに行き、橋本さんの隣に座ってブラックコーヒーを頼む。その一連の流れを想像するだけでカレーの味が三割増しになった。


洗濯物の丘陵地帯にも手をつけた。洗って、干して、たたんだ。土曜の夜に洗濯をしたのは何ヶ月ぶりだろう。人間は予定ができると生活が整う。月曜の朝にカフェで隣の人に話しかけるという、ただそれだけの予定のために、カレーを作り、洗濯物をたたみ、風呂を沸かし、早めに寝ようとしている。百八十日間何もできなかった僕が、百八十一日目の予定一つでこうも変わるのか。


布団に入って天井を見た。暗い天井。飾り気のない白い天井。


橋本さんとは連絡先を交換していない。つまり月曜日、本当にカフェに行くしかない。彼女が窓際にいることを信じて。信じるしかないというのは、考えてみれば百八十日間ずっとそうだった。毎朝ドアを開けるとき、彼女がいるかどうかは確認するまでわからなかった。でも彼女はいつもいた。僕が知らなかっただけで、彼女もまた同じことを思っていたのだ。


月曜の朝が来る。七時二十分に家を出る。カフェに入る。ブラックコーヒーを頼む。窓から二番目の席に座る。


そして初めて、隣を向く。


「おはようございます」と言う。


たった九文字。百八十一日かかった、九文字。

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