第五話 終話
遠くから腹の底から響くような遠吠えが聞こえた。空気が赤く染まる。
狛梨が肩を跳ねさせて、周囲を見渡した。明らかに彼女は何かに怯えている。
「な、なんですか!?」
イヅナも耳や尻尾を逆立てたまま、鈴乃の腕にしがみつく。
鈴乃だけが一度、呼吸を整えた。心の奥底で覚悟を決める。
地響きが鳴った。イヅナの小さな悲鳴が聞こえた。
鈴乃は体勢を崩さないように、体の芯を固定する。
「う……あっ!」
狛梨が痙攣する。近づこうとして、手が弾かれた。
気がつけば、教室に一つだけ黒鳥居が建っている。鼓動をするように輪郭が歪むそれは、禍々しいどころではない。
狛梨はその鳥居に体が引っ張られていく。
「こ、こまちゃん!」
前に出ようとしたイヅナを手で制した。彼女が鈴ノのことを何で止めるのと言いたげに見つめる。
「こまちゃんが! こまちゃんが連れて行かれます!」
「大丈夫。イヅナの友達を死なせはしないわよ」
鈴乃は一歩前へと歩んだ。
鳥居から流れてくる異様な妖気が、彼女を押し返そうとする。その圧力にも負けず、宙空にお札を一枚貼る。
「『陰と陽は交わらず』『又』『朝と夜も交わらない』」
二枚目、三枚目と陣を組むように貼り付ける。
「『しかし、決して違わず』『お互い手を取り合いて世界を回す』」
四枚目を貼った時だ。鳥居から大きく黒く汚れた狼の手が出てきた。その手は先ほどの狛梨よりも何倍も大きい。
それが、大狼の手だとすぐに分かった。
大狼は全身を穢している。だから求めているのだ、新しい器を。
空間に誘い込み、弱り、自分に取り込む。その利用として下級妖怪たちや鈴乃を利用しようとした。
すべて狛梨をこの空間に飛んでこさせようとするため。
狛梨はただの可哀想な生贄だ。妖怪といえど少女がそんな終わり方をしていいだろうか?
陣を完成させる。手を添えて、目をつぶった。
「力を貸せ! 朝の化身──天照!」
彼女の声に応えるように、札が溶けて消える。
手が光に包まれた瞬間、周囲の空気が静まり返る。
赤い世界が、一瞬だけ昼のように明るくなった。
鈴乃の手には神々しく光る剣が握られている。
かつてお供えとして作られた最も神力の集まった剣だ。
鈴乃の身の丈ほどもあるそれを、軽々と振りかぶる。そのまま鳥居ごと、大狼の手を両断した。
悲痛の叫びが響き渡る。空間が歪み、亀裂が入る。
半分に斬られた黒鳥居は、散り散りとなって消えた。
※※※※※※※※※※
今日も朝がやってくる。鈴乃は社務所から欠伸をしながら境内に出る。
「あ、おはようございます!」
いつものイヅナの明るい声。最近はそれにも慣れてきて、彼女の声を聞くと目が覚めるようになってきた。
「ん、おは──」
「鈴乃ー!」
「んあっ!?」
後ろから抱きつかれて、体勢を崩す。どこからか狛梨が現れた。
やたら体温が高く、暑苦しい。そんなことを気にする様子もなく、彼女は頬ずりをしてくる。
「おはよう、鈴乃〜!」
「こ、こまちゃん! 鈴乃さんから離れてください!」
二人のやかましい声が聞こえてくる。どうやら、あの一見以来、狛梨になつかれてしまったようだ。
「あーもう鬱陶しい!」
狛梨を振り払って、呆れたようなため息をついた。
「つか、狛梨。何で私の神社の巫女服着てるわけ?」
「え? えへへ! イヅナちゃんが巫女やってるくらいだし、私もやろうかなって!」
「あの、巫女は遊び感覚でやるもんじゃないんだけど……」
こらは追い払ってもまたやってくるやつだと頭を抑える。やっぱり助けるんじゃなかったと今更ながらに後悔した。
それでも狛梨の笑顔を見ると受け入れてしまうあたり、自分は相当に甘い人間なんだなと思う。
「こまちゃん、だったら私の言う事を聞いてくださいね? だって私は先輩ですから!」
一方のイヅナは楽しげだ。尻尾を物凄い勢いで振っている。
「え、やだよイヅナちゃん赤点じゃん」
「んな!?」
「私より頭悪い人の下につかないよ〜」
一方犬尻尾をゆっくり揺らして、狛梨はべっとイヅナに舌を出した。
「だ、だったら前の数学のテスト何点だったんですか!?」
「え、九十八点」
その言葉を聞いて、イヅナは膝から崩れ落ちた。
完全に彼女の敗北である。
この神社が将来妖怪たちの遊び場になってしまうかもしれないと、鈴乃は後頭部をかきながら大きなため息をついた。
言い争い合う二人を見ながら静かに漏らす。
「……今日も平和だ」




