第10話 「眠りの子」
サヴァルディンは、自室の寝台に静かに横たわっていた。呼吸はある、体温もある。けれども、その瞳は一向に開かれない。
母であるリズ・イシュタルトは必死に息子の手を握り、祈っていた。その様子を執事やメイドたちが静かに見守っている。重い沈黙の中、にわかに屋敷の前が騒がしくなる。それから時を待たずして、勢いよく部屋の扉が開かれた。
「サヴァルディン!!」
真っ先に駆け込んできたのは、顔を蒼白にしたサイレスであった。その後ろには、顔を強張らせたザインとステンドラが続く。サイレスの目に一番に映ったのは、ベッドで眠る青白い顔の息子の姿。そして、その傍らで目を真っ赤に充血させた妻の姿であった。
「……そんな」
信じられない、信じたくない。まるで自分の脚では無いかのように脚に力が入らない。それでもよろよろと最愛のサヴァルディンの元へ近づく。泥と血をかぶった鎧のまま、重い足取りで寝台の横に膝を付く。
「……サヴァルディン、目を、目を開けておくれ」
掠れる様な声を、辛うじて絞り出す。だが、サヴァルディンに反応はない。サイレスの大きな手が息子の頬にそっと触れる……冷たい。いつもの熱が、どこにもなかった。
――カーメイ・マーカインは険しい顔で執事に問うた。
「医者はもう呼んでいるのか!?」
その声色は、常に冷静なカーメイとは思えない迫力だった。
「ここに……今しがた診察したばかりでございます。ただ、話を聞く限りでは魔力を封印されているとしか。これを見て下され……」
一人の壮年の男が喋り出した。冷静さを失い、すでに居たことにまるで気づかなかったが、確かにこの街の医者で間違いなかった。布団をまくるとサヴァルディンの胸元を見せる。そこには、小さいが見たことのない複雑な模様の刻印が刻まれていた。
「方法はわかりませんが、おそらく魔力を生み出す器官《エルネア核》に直接作用し、魔力を封じられているものと思われます。そのせいで、本来は全身へと魔力流通路を通って巡るはずの魔力が停滞しているものと考えられます。この昏睡はその症状かと……」
「どうにかならんのか!!!」
サイレスは医者の両肩を掴むとそう叫んだ。
「ほ、方法はわかりません。ただこの封印を解ければ魔力がまた流れ出し回復すると思われます。つまりこれを行った本人たちを捕まえるのが一番手っ取り早いかと……」
「……グリムさん、もう一度敵の詳細を! 疲れている兵士たちには悪いが、すぐに捜索隊を結成します。並行して、旧都に兵を走らせ高名な医者を頼りましょう。それから、有識者……とにかく封印の刻印に詳しい者を探して連れてまいります。そもそも解除することが可能なのかは分かりませんが、あるいは少しでも敵の手がかりを掴めるやもしれません」
カーメイは即座にそう言うと、周囲の者達に次々と指示を出し始める。
ザインは怒りで拳を強く握り震えていた、とてつもない激情が心を支配していた。
「絶対にそいつらを見つけ出して、封印を解かせてやる。 いくぞ、ステンドラ!!」
呼びかけられたステンドラは、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。頭が真っ白になり、ザインの声は聞こえていない。
「ステンドラ!!」
ザインがもう一度ステンドラの名を呼ぶ。その声にビクリと肩を揺らしたステンドラは、ゆっくりとザインと目を合わせる。その瞳は、まるで、迷子の子供のように不安げにゆらゆらと揺れていた。
「……なんて顔してんだよ、バカ!」
ザインは苦し気に顔をゆがめながら、ステンドラの胸ぐらをつかむ。ザインだって苦しかった。本当は立ち止まってしまいそうなのを、どうにか立っている。それでもザインは、ステンドラを強く信頼している。なんせ共にサヴァルディンへと何年も仕えた仲間だからだ。
「まだダメって決まったわけじゃねえだろ! 俺達が! サヴァルディンを助けるんだよ!」
ザインの必死の訴えに、ステンドラは息を呑んだ。いつも真っ直ぐで弱さを見せないザインが、今にも泣き出しそうな顔をしていたからだ。そしてステンドラは気付く。ザインも、自分と同じなのだ。敬愛する主人を失いかけている今の状況が、怖くて堪らないのだ、と。
ステンドラは、茫然とするばかりで咄嗟に動き出せなかった自分を恥じた。それと同時に、そんな自分を引っ張り上げてくれたザインを相手に、悔しさと、羨望と、それから仲間としてさらに強い信頼を抱く。
「——あ、当たり前だ! 行くぞザイン!」
素直に礼を言うのは癪だった。だからステンドラはそう言うと、精一杯の強がりを込めてザインの腕を振り解いた。その眼差しに、もう迷いはなかった。
ーーー
――三日後
敵の捜索は難航していた。
当然だ、敵の顔も名前もろくにわかっていない。分かっているのは、敵は黒い外套を着た7人の女……魔女だということ。名前が判明しているのは、闇の魔女ウィズ、氷の魔女フリーシア、それとモルデナと呼ばれる緑髪の女だけだ。モルデナは緑色の魔力を纏っていた。しかし、そんな色は五大属性のどれにも当てはまらない。
有識者によると、氷魔法同様、歴史的にも僅かにしか確認されていない《特異魔法》の使い手と判断された。緑色の魔力……つまり《風魔法》である。
他の名前もわからぬ四人の魔女たちは、光、水、火、雷の魔法を使っていた。どこにでもいる五大属性であり、名前も容姿も不明とあって、対象を絞る術は無い。唯一参考になりそうなのは、かなりの使い手たちであるという、曖昧な情報だけだ。
その他の情報としては、イシュタルトの街の北門を襲撃した雷の魔法使いと、屋敷を襲撃した雷の魔法使いは同一人物ではないか? という声も上がったが、それすらも単なる憶測に過ぎなかった。
氷と風の特異魔法の使用者2名、さらに全員が未知の魔法を使うレベルの高位の魔女たち。それならどこかで知っている者がいてもおかしくはない。しかし、兵士たちの必死の捜索も空しく、手掛かりすら見つけることは出来ていない。
少なくとも、イシュタルの街は虱潰しに調べた。すでにこの街からは去っているのだろう。
一方、サヴァルディンの治療の方も難航していた。
旧都から連れてきた高名な医者は、サヴァルディンの容態を見て首を横に振った。分かるのは、魔力欠乏症の末期の症状に似ていること。魔力欠乏症の治療は、魔力を増幅させるある薬草を煎じて飲むことが有効とされている。ただ、サヴァルディンのように意識がない末期ともなると、やれることは殆どないそうだ。
他に可能性があるとすれば、治癒魔法の領域だろう。医者同様に旧都から呼び寄せた《アルテミス教》の司教にも診て頂いた。しかし、《ジップ》という名の司教の反応も医者のそれと大きく変わりはしなかった。ただジップ司教はこうも言った。
「大司教様の知恵と経験をお借りできれば、あるいは何か解決の糸口が掴めるやも知れません」
かつて一信仰に過ぎなかった《アルテミス教》だが、その教義に根差す治癒魔法と高度な医学知識は、多くの病に苦しむ人々を救い、ゆっくりと民衆の間で信頼を集めていった。それが今では、数万とも数十万とも言われる信仰者たちがいるとされている。その巨大宗教アルテミス教の大司教ともなれば、教皇に次ぐ教会の実力者にして、司教たちを束ねる存在だ。現在は大司教を名乗っているのは三人だけだという。
確かに、優れた治癒魔法を扱うだけでなく、あらゆる医学の知識も持ち合わせる大司教なら解決の糸口を見つけるやもしれない。ただし問題は、いくら辺境伯の息子とはいえ、彼らがたった一人の子どものために、この辺境の地まで足を運ぶとは考えにくい。それでも一縷の望みがあるとすれば聖都イヒュゴにいる《ヘルホ大司教》へ頼ることになった。
ヘルホ大司教、彼ならばもしや……とジップ司教は言っていた。話によると、とても慈悲深いお方だという。その大司教へは、ジップ司教が直々に手紙を送ってくれることとなった。
食事も摂れず、点滴で命を繋いでいるサヴァルディンは、日に日に衰弱していっている。聖都は、旧都の遥か西側にある。王都を越えたさらに先なのだ。たとえ大司教が直ぐにここまで足を運んでくれたとして、それまでサヴァルディンの身体が持つとは到底思えなかった。
最後の希望は、魔法陣や刻印などについて研究しているという学者だった。しかし彼はサヴァルディンの胸の紋様を見ると、すぐに匙を投げた。簡易的な封印であれば解除する望みはある。しかしこれほどまでに何重にも重ねられた魔法は無理だと言う。複数の属性で刻み込まれたソレは複雑に絡み合い、サヴァルディンの体を深く蝕んでいる。この封印を解くことができるとしたら、恐らく本人たちだけだろう。と、学者が話すのを聞いて、皆が深い絶望に叩き落とされた。
サイレスはあれからろくに食事をとっておらず。眠れていないのか、眼の下には酷い隈が出来ていた。サヴァルディンの寝顔を見つめるその顔は、あれだけ威厳のあった領主としての顔ではなく、ただただ、これから亡くなるであろう子供を、見届けることしか出来ない無力な父親の顔であった。
「……祈りを捧げてくる……」
そう小さく呟くと、ふらふらとした足取りで部屋を出ていくサイレス。その様子はあまりに弱々しく、今にも消え入りそうであった。当然、心配したザインとステンドラが後を追う。二人はあれだけ息巻いて探しに行った7人の魔女を見つけられず、何も出来ない無力感に苛まれていた。
サイレスは何故か馬小屋へと向かった。祈りに行くと言っていたが、どこに向かうつもりなのだろう? 疑問に思ったステンドラがサイレスに尋ねる。
「サイレス様、どこに行かれるおつもりですか?」
「……聖域だ。そこで祈りを捧げてくる。お前たちはサヴァルディンについていてくれ」
――《聖域》それはククリカの森の西端、その小さな一角にある。
かつての勇者ケンシンが千年前、異世界からその場所に転移してきたとされる始まりの場所。それだけでなく、百年前には勇者エイトがその地を訪れ、光の祝福を得たとされる神聖な場所であった。
イシュタルト家にとって、聖域は特別な場所だ。代々その場所を管理し、大切に守り抜いている。サイレスは一人で聖域に向かうつもりのようだが、スタンピードが起こったばかりのククリカの森で、一体何が起こるかわからない。あまりに危険なため、二人は護衛として付き添うことを申し出た。 例えサイレスに断られようとも無理にでも付いて行く覚悟で、自分たちの分の馬を連れ出してくる。 その様子を見て、サイレスは二人を、無理に突き放そうとはしなかった。
――そうして三人は聖域へと向かい馬を走らせたのだった。