捲られないカレンダーと腐り落ちた初恋
世界が二つあればいいのに。
私は、毎日そんな夢みたいなことを願っている。
「明日は、映画を見に行くんだ。水曜だと恋人同士で行くと安くなるんだって」
「姉さんから聞いた、楽しんできてね!」
義兄さんは、私の言葉に嬉しそうに笑う。そして、左の薬指にはめた結婚指輪をチラリと見た。
毎日毎日、彼は幸せそうに姉さんとの約束を口にする。惚気ることが日課になっているのだ。
「明日は早いからもう寝るよ。一番早いやつが良いとか言うから」
「はいはい、分かったから。おやすみ、義兄さん」
「あきれてる?まぁいいや、おやすみ」
義兄さんは、毎日夜の9時53分になるまで脱け殻みたいに空を見て、10時に眠る直前に今の会話を繰り返す。
捲られないカレンダーは、2023年の9月から動くことはない。
花丸の付いた第三週の水曜日が、姉さんの命日だった。
彼は、その水曜日が来ることを拒んでいる。
私は、そんなふうに病んでしまった義兄さんの面倒を見るために、二人暮らしをしていた。
「世界が、二つあればよかったのにね」
そうすれば、もう一つの世界で姉さんと映画を観に行けたはずなのだ。
そうすれば、幸せだった頃の二人を探しに行けたはずなのだ。
あの日、姉さんは、義兄さんの目の前で死んでしまった。
交通事故だった。
運転を誤り車道に乗り上げ暴走した車が、たまたま歩いていた姉さんたちに突っ込んだ。
運転手も即死の事故で、悲惨な事故だった。
義兄さんは、姉さんに突き飛ばされたおかげで事故を免れた。けれど、不幸にもそれは彼を抜け出せない地獄に突き落とした。
最愛の妻を失った現実を、彼は受け入れられない。
「寝なきゃ」
捲られないカレンダーを見て、次いで正確に進む時計を見て、リビングの電気を消した。
朝の7時に起きて、死人のように起きてくる義兄さんを笑顔で迎える。そして、無気力に朝食を食べた義兄さんを窓辺のソファに座らせて外を眺めさせ、スイッチが入る夜の9時53分に今の会話を繰り返して、1日が終わる。
毎日毎日、ずっと同じことの繰り返しだ。
(もしかして義兄さんは、もう一つの世界を作ってしまったのかな…)
ならば私も、もう一つの世界を作りたい。
実らずに腐ってしまった初恋を、取り戻したい。
(義兄さんが、ずっと好きだったと言えば……世界は、変わるのだろうか?)
大好きな人達の幸せを願った、ただそれだけなのに。
現実は、お伽噺のように悲しくも美しく、終わってなどくれない。