92 『面影の鏡』、其の一
「いつまで寝ているつもりだい?あぁ、いや、寝ている訳ではないかのぉ。やれやれ、気丈に生きるのも考え物だね。そのせいで、若い女の子がこんなにも壊れてしまうのだから」
…………え?……ディールス?じゃ、ない、わよね……?
「――おいで」
靄に掛かって見えずらい相手から、差し出された小さな手を躊躇いながらもそっと握る。綺麗な手。微かに握り返されて、熱が伝わってくる。
その手に優しく引かれながら、惹かれながら、静かに歩き出す。二つの足音が響き渡り、偽物の私がパッタリと姿を現さなくなった。
何も無い場所を歩き続ける。
目的地が分からない。手を引く方がどうしてここに居るのか分からない。でも、ここに居続ければ私はいずれ死ねることが何となく分かる。……死にたいのに、その手を拒めない私の精神が分からない。
前触れもなく、彼女の踏んだ地面から若い草花が生えてきた。
空間が、移ろい、変わっていく――。
突然吹いた自然の風が心地良い。何処までも果てしない青空と遠い雲。目の前にさっきまで絶対無かった建物があった。
空虚な暗い場所から、……ここは、キジェと出会った、世界初の教会?
間違いない。無数の亀裂が入った白い外壁に巻き付いたツタ、周囲に生えてたまばらな草木。朽ち果てていても、立派なものだったことがうかがえる大きさと造形。
「ここまで来るともう安全だ。久しぶりだねぇ。いや、アンタからしたらそうでもないかな?」
「……『魔術師』、さん」
「おぉ!覚えてくれてたのかい、こんな老いぼれのことを。嬉しいねぇ」
紺色のタンザナイトの大きな瞳、肩に届かない長さの濁った白色の癖毛、髪色と同じ色の長いまつ毛、キモノではなく、白と赤のトネリカの巫女の服に袖を通し、前にあった時と変わらない目尻に引いた紅の化粧がタンザナイトを際立てている。
「どうし、いえ、……なぜ、あなた、が」
「取り敢えず座りな。臨時の『桜のお茶会』を開こうじゃないか。皆待ちくたびれてるよ」
古びた変わらない教会の中に入ると、前回の『サクラのお茶会』と同じ四人分の椅子と大きな机。二つには既に先客が居て、もう二つは空席だった。机の上には様々な種類のお菓子と、水の入った花瓶に九輪のサギソウ。
彼女が素早く席に腰掛けた以上、私の席は暫定的に確定してしまった。今はまだ目が屋外の明るさに慣れていなかったが、手の感覚と薄目で見えた距離感で必死に席を探し当てた。
椅子を引き、座面の感覚に安堵すると、ようやく目が太陽の眩しさに慣れた。そして、隣の席の存在に驚いた。
「――!」
思わず席を勢いよく立ち上がって、その存在を再確認した。
祭典用に似たいつもの白い服、肌身離さず身に着けてくれている白いフード付きケープ、美しすぎるエメラルドの瞳を覆う惜しい包帯に、包帯から出る肩まであるホワイトブロンドの髪。容姿だけで言えば少年のような男性。
間違いない。見間違えようがない。見知った意外な人物が、席に座っていた。
人目もはばからず、座ったままの彼を抱きしめる。勢いで椅子ごと、倒れてしまったけど気にしない。
怖かった。どうしようかと思った。……生きてる。息、してる。
「――キジェ!!」
「……はい、リディアさん。キジェですよ」
いきなり飛びついたことで驚いたからか、一瞬キジェは呆けた表情をしたが、すぐにいつもの素敵な笑顔に戻った。緩み切った口が、こちらの安否を相互に確認してさらに緩んでいる。また、こうして見れて良かった。本当に、良かった……!
「大丈夫?水銀の影響は?怪我は無かったわよね?具合が悪かったりしない?」
「はい!なぜか分かりませんがピンピンしてますよ」
質問攻めにしてしまったが、彼は普段通りに明るいままだった。怪我も無く、具合も良さそう。彼は無事。水銀の幻覚であんなに、苦しそうだったのに。
「……ふふ」
「どうしたの?」
「いえ、何でもないです!ただ、前のリディアさんだなぁって思って」
???
…………口調か!口調のことか!話が飛躍し過ぎて全く分からなかった、……ですね。
「……こっちの方が良い?」
「どっちもリディアさんですが、ボクはアナタと初めて会った時の方が一番リディアさんだなって思いますよ」
「……そっか」
……なら、尚更こっちの口調じゃなきゃいけませんね。わざわざ聞いておいて、キジェには本当に申し訳ないですが。
私は、無駄だとしても、無意味だとしても、無価値だとしても、変わらなくてはいけない。過去は変えられずとも、今ならまだ間に合うかもしれない。今度こそ、未来を変える。
そのために、死なないと――




