82 天敵、其の一
傘も差さず、しかし笠を被って、私達は進みました。
片手にはスズの赤紐を掴み、しらみつぶしに歩き回り。陽も落ちて、雲が掛かって分かりにくいものの、先程の勉強の通り、しっかり影が伸びていました。
段々と人里から離れ、森の中へと進んで行っていることは確かですね。完全に日が暮れる前には戻ってきたいですが、一応オーウィルがランプを持っていることは判明したので、そこは安心——
「……わっ。すみません、考え事をしてました」
笠で視界が遮られていたのもあって、念のために前を歩いてもらっていたディールスの背中に激突してしまいました。転びはしなかったものの、転ばないようにし過ぎたがために彼にくっ付いてしまっており、非常にマズイ。
「……随分と、情熱的ですね」
——はぁあ⁉
確かに後ろから抱きしめたようにも見え、……ませんよ。全然見えません。何言っているんですか。
「あら、冗談がお上手で。というか、冗談でもそんなこと言わないでください」
ちょっと口角上げながら言わないでくださいよ。ぶつかったことよりも、彼のその珍し過ぎる軽口に本気で驚きました。そんなこと言うんですね。
何百年に一回の神様ジョークです、か……。え?あれ?嘘。
——彼、緊張してる?
何で、そんな、……彼が緊張している所なんて、初めて見ました。
手が力一杯握りしめられていますし、よく見るとその腕も僅かに震えている。額には微かに脂汗が滲んで、忙しなく視線がズレている。
――猛烈に、鮮明に、嫌な予感がします。
「レディ・リディア」
彼の予期しない呼びかけに、思わず肩が跳ねました。
どうしましょう?私は誰かの緊張が移るようなタイプではないのですが、今、堪らなく怖い。彼の緊張が移った訳ではなく、彼が緊張しているという事実と、彼をそこまでにする一番が。
「貴方は、何もしなくていいです。一番と話をしなくて良い、目を合わなくて良い。居るだけで結構です」
「…………どうして、そこまで……」
「一番が貴方の天敵のような存在だからです」
——それは、あなたが代わりに行う理由にはなってはいけない。
「……いえ、お願いです、ディールス。私にやらせてください。——これは、私がやらなくてはいけない」
彼は何も言いませんでした。反するようにスズが勢い良く、激しく鳴り始めました。まるで、もうすぐ近くに居るように。
スズに連れられて、もとい操られて、獣道を進み、草を掻き分け進み続ける。
やがて、スズの音がピタリと止むと、そこはとても美しい澄んだ湖でした。
* * *
碧く澄んだ湖。そこにヒールの高いブーツのまま足を浸ける人が居ました。
裾上げされた上下白のタキシード、胸ポケットに入った複数の試験管、片手にはその服装に合わない浅い単色のトネリカの傘。顔は分厚い白のベールで隠されていますが、体のラインや筋肉の付き方から二十代後半程の女性だと推察出来ます。
周りには多くの虫や動物が居ますが、こちらの存在に気付き、その子達は蜘蛛の子を散らすように逃げ帰ってしまいました。
彼女自身はそのことを全く気にしていないようでしたが、私の持っているスズを見た瞬間、トランクを開けて漁り、私が持っているものと全く同じものを見つけて引っ張り出しました。赤紐の部分をつまんで持つと、ジッと見つめ、舌打ちをして後ろに投げ捨ててしまいました。
「はじめまし、——いえ、お久しぶりです、ミズ。今こうして再びお会いできて光栄です。変わらずお元気そうで何より。僭越ながら貴方様のお力をお貸しいただきたく、参りました。既に私のことなどお忘れかと思いますので、出過ぎたことのようですが、自己紹介を。彼女から生を受けた四番目の神。歴史を司るイストワールと申します」
「ディールス……」
いつもだったら、私が言うのをただ黙って見ているだけなのに。
しかし、彼に任せる訳にはいかない。これは、私の身勝手な旅で、それは、私がすべき義務です。
「あのっ、私は」
「それ以上、近寄るな」
「……!」
くぐもった声はどこまでも冷たく、永遠に溶けない氷で出来た氷像のように冷酷で冷淡なのが、その一言で分かりました。隠れているはずの目で強烈なまでに睨まれていることが手に取るように分かります。同情は無く、残忍さすらも持ち合わせたような残酷な方で一切隠す気のない敵意が、こちらに向けて剥き出されています。
これ程までに他者を憎む生き物を見たことがない。これ程までに他者を呪う生き物を知らない。
別に、恨まれたり、睨まれたり、陰口を言われたり、嫌がらせをされたり、殴られたり、蹴られたり。そんなことは耐えられます。むしろ鼻で笑ってやれる程、私の心は強い。
しかし、なぜ?
彼女に会った時から、動悸が激しい。落ち着かない。まるで舞の練習後のように、滝汗が流れ、呼吸が安定せず、筋肉が震え、乾いた喉に音を立てながら唾が通る。
怖い。常に刃物が喉元に突き立てられていると錯覚する、そんな恐怖。
彼女の敵意や害意ではなく、彼女そのものが恐ろしい。




