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5章前半総集編

「……君達さぁ……!そろそろ休憩とかしないのか?」


しびれを切らしたようにウィリアムが声を上げました。ルジャダから出発した日の昼、ルジャダからトネリカ聖教国への隠された一本道、獣道のような草の生い茂った道を進んでいる時でした。


あぁ、そういえば……。


「ウィリアム、あなた――」


「おっと、おれはウィリアムじゃないぜ。そういや、言い忘れていたな」


狭い道の端を通って列の先頭に躍り出て、誇らしげにふんぞり返って彼はこう言いました。


「おれの名前はオーウィル・オーウェン。オーウェン家の唯一の嫡男にしていずれ『司書』となる、ハズだった男」


「ずっと頭に葉っぱ付いてますよ。改めて聞くと、不思議なお名前ですね」


「え”⁉嘘……。…………だろ?そうだろう?そうだとも!お父様が酒に酔った勢いで付けたらしい。おれは気に入っているけどね」


「取れてませんよ、もっと下」


取ることを諦めたのか、怒りながら両手で雑に髪をわしゃわしゃし始めたウィリアムことオーウィル。何だか犬みたいですね。


「そ、し、て!流石にルジャダを出てもう昼過ぎになるのだが、飯は?休みは?」


「……?ウィリア……、じゃなくてオーウィルさん貧弱なんですか?」


「キジェ、そいつとは口利かない方が良いのよ。耳とか腐りそう」


「…………君なぁ……!」


先程起きたばかりのカダチのキレッキレな一言が彼を傷付けました……。耳とか、って……。


カダチって実は相当キジェのこと気に入っていますよね。多分言ったら、手の甲をつねられるので黙っておきますが。

それと同時に結構オーウィルのこと嫌っていますね。確かに彼女の周りは純粋無垢なキジェや真面目なディールスですもの。彼のようなうさん臭く、頭に血が昇りやすい噂好きで皮肉交じりの煽り言葉しか言えない男性は疎んでしまうのもまぁ、分かります。


「……カダチ、ミスター・オーウィルを虐めるのは程々にしてください。下手に刺激するのはよろしくない」


「旦那はおれのこと爆弾か何かだと思ってる⁉」


「……いえ?」


それってわざとですか?本心ですか……?彼ならどっちでもありそうですね……。

…………いえ、よくよく考えたら絶対悪意持ってますね。こういう時はわざとですよね、彼。


ここにはオーウィルに辛辣な人しか居ないのでしょうか。


「まぁいいや。おれってば普通の人間なんで、腹も空けば体力も雑魚なワケで……」


「要するに何?要領を得ない会話で時間を潰さないで」


「ちょっとカダチ、ディールスの言う通り、言い過ぎです。ダメですよ、謝ってください」


「……………………フン、ごーめーんーなーさーいー」


「……このガキ……」


いえ、こんなにも速く、きちんと言っただけ相当偉いですよ。少し前の彼女だったら、絶対に謝らなかった。


「良いのかぁ!千年に一人の天才が死ぬぞぉ!世界の手痛い損失だ‼…………腹減った」


「……あぁ、そうでした」


「そうでした⁉は⁉リディア君何その忘れてましたみたいな言い方!君達いつもご飯どうしてたんだ⁉」


「この場に居る全員、ご飯なんて要りません。夜間もほとんど寝ずに歩いていますよ」


「……罪人の方がマシな生活送ってるぜ」


……そんな深刻な顔しないでくださいよ。私も最初はディールスに付いていくのも無理でしたが、今では体力が付いてそれ程苦痛ではなくなったので。じきにあなたもこうなりますよ。


「頼むから飯食べようぜ……。餓死するって……」


「だそうですよ。どうしますか?ディ—ルス」


「仕方がありません、本当に」


「おい」


「不本意な足止めですが、川も近いですし、ご飯を作りましょうか。ミスター・キジェ、それ毒キノコなので触らないでください。何なら貴方は何もしないでください」


「え―⁉」


確かに、たまにはのんびりと羽を伸ばして休憩するのも良いかもしれませんね。

キジェ、それも毒キノコ。


        *  *  *


「ふぅー、命拾いしたぜ」


意外と森にあるものだけで、美味しい料理は作れるのですね。ためになりました。発揮される日は来ないでしょうが。


何種類もの食べれるキノコで作ったスープ(偽)。器具は全部、ディールスのトランクから出てきました。何処に入るスペースがあったのやら。

作る方に専念しつつ、人並みに食べたディールス、五杯から先は数えるのをやめたキジェ、一杯でやめた実は食べることが好きであろうカダチ、既に食べ終えたオーウィル。


いやいやだった割に、全員食事を楽しんだようでした。




それからというもの、オーウィルの加入により、私達の旅は三食が付き、程々に休憩をし、夜には寝る、人らしい旅になりました。

前と比べて掛かる日時は倍以上になったでしょう。進みは遅くなったでしょう。手間暇も比べ物にならない程増えたでしょう。——それでも、とても恵まれていましたとも。


        *  *  *


「隣、良いですか?」


「……どうぞ」


全員が寝静まった夜、ランプの光で本を読むディールスにちょっかいを掛けに行きました。何だか、眠くなくて、寝たくなくて。雲が厚く、月明りが全く届かない暗い夜でした。少しの風も怖くなってしまう。


指先に息をかけ、寒さを誤魔化そうとしましたが、ほとんど無意味な行為でした。


「この時間は寒くなってきましたね」


「えぇ、そろそろ冬が来ますから。ルジャダ以外も寒くなってきますよ」


二人だけで会話したのは、久しぶりですね。

オレンジのランプの光に照らされた彼の輪郭がぼやけ、暗闇に混じって溶けてしまいそう。


「ねぇ、どうして死んじゃうのですか?」


「……貴方にしては、随分と直球ですね」


「ヘルトに言われたのです。もっと仲間と会話した方が良いと。私もそう思ったので」


実際、私は仲間と心を通わせられたようで、案外そうでもありませんでした。

言葉が足りなかったと思う。行動が足りなかったと思う。思考するのみに留めてしまった感情がありました。それらを、これからは頑張って言葉に紡ぐから、彼らに知って欲しいのです。


本を閉じ、上を向いて瞼を閉じる彼。まるで私には見えない何かを感じ取っているよう。やがて、静かに目を開けました。

空を見上げても、今日は雲が厚いので一等星は攫ってくれませんよ。


「……当たり前ですが、私はあなたに死んで欲しくありません。何より、あの子(カダチ)を一人にするつもり?」


「……一番目のディディに会えば全て分かりますよ」


「あくまであなたの口から語ってくれないのですね」


どうしようもなく、もどかしい。なぜ教えてくれないのですか。なぜこちらを見てくれないのですか。

それ程までに、私は――


「そんなことより、自身の心配をなされては?」


「?……どうして?」


「トネリカでは、そううまく事が進まないかもしれないということです」


「……ふーん。そうですか」


トネリカは未知の領域。文化も、人柄も、風土も、何も知らない閉ざされたかの国。彼が言うことは最も。それでも、何だか話題を逸らされた気がしてしまいます。


夜風に吹かれた彼のピアスが揺れる。ふわりと舞い上がり、光を微かに反射して、耐え切れないように震える。それは、私の心情でしょうか。それとも、


「貴方の決意を鈍らせることは言いたくない。それでも、貴方が私に生きて欲しいと思うように、私も貴方に普通の、何気ない日常を送って欲しかったと思うのも本心です」


かつて、彼は私をただの人間の少女だと言ってくれました。

あなたの母を一時の感情で殺し、ディディになり果てた愚かな私を、彼は許そうとしているように見えました。

でも、私は許されたいのではない。許さなくて良い。きっと、あなたが私を許すのは、恐ろしく苦痛だろうから。

私は、償いたいの。償い切れないこの罪を、私が許すまで。


「そんなことを言っても、貴方は何も変わらないのでしょうけど」


「ディールス。……普通って、難しいですね、痛いくらい」


笑ってみせました、困ったように、弱ったように。口角を上げ、目を僅かに細め、困ったように肩をすくめる。

変われなくてごめんなさい。それでも、あなたを困らせても、あなたは受け入れてくれると信じ切った私は傲慢でしょうか?それぐらい、思っても良いですか?——あなたに、寄り掛かっても良いですか。


……私は、何が痛いと思ったのでしょう?どこが痛かったのでしょう?分からない。それでも、一つの罪で終わる人生なら、大きな失敗一つ許されない人生なら、——私達はとても、生きずらいですね。



本当に突然、無言を貫いていた彼の両手が私の首に絡みつきました。声を上げる間もなく、何かを思う前に、そのまま後ろに押し倒されました。


冷たい土の上、ランプが倒れて辺りが暗くなりました。月明りも何も無いので真っ暗。こんなに近くの彼の顔も満足に見えません。


首をグッと締め上げる冷たく、まめの一つも無い綺麗で長い指とは裏腹に、彼の瞳は確固たる意志を持ったように、燃え続ける炎の如く揺らいでいました。


そのアクアマリンがあまりに切なくて、思わず呆気に取られてしまう。


ルジャダで二人で会話した夜とは違う。彼は怒ってもいませんし、声も荒らげていません。

……いえ、彼が本気で怒って、怒鳴っていたのは後にも先にもあの時だけでした。


「何を……、貴方が普通で居ようとしないくせに……!」


「……ごめん、なさい」


ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ディールス。

人の悲しみを自分のことのように感受してしまう優しいあなた。世界で一番憎いであろう相手にすら同情してしまう慈悲深いあなた。


彼の言う通り。自分勝手に私が動くから、彼が縛られている。私のせいで、彼は今もあの方の願いを叶えなければならなくなっている。私が、あの時あなたと逃げていれば、——あなたは笑っていられましたか?


 ——彼の本当にしたいことって何でしょう?


彼の指にさらに力が加わる。確かに力一杯に絞められているのにあまり苦しくありません。それなのに、意識はゆっくりと途切れていくのを感じます。


とにかく、最近色々鈍いんです。先程いただいたシチューの味とか、まだ治らない霜焼けの痛みとか、あまり感じなくなってしまった。……私としてはその方が都合が良いのですが、あなたにはそうではないのでしょうね。


でもね、私、どうすれば良いか、全く分からないのです。罪のことも、あなたとの向き合い方も。


        *  *  *


気が付くと、朝が来て、彼は何もなかったように振る舞っていました。首に残っていた手形もその日の午前中には消えてしまっていました。


そんな夜から一ヶ月後。久しぶりに夜も更けてきた時間でも歩き続けていた頃でした。


「ここからは密入国船に乗ります。船酔いしやすい方はあらかじめ教えてもらいたいのですが、……カダチと私、それからレディ・リディア以外、船に乗ったことがないようですね」


「おれはルジャダから出たコトなかったしな」


「船に乗った記憶がありませんので!」


「貴方は全部無かったでしょう」


ディールス曰く、トネリカ聖教国へは船でしか行けないらしく。あの国は島国なんだとか。私は一度だけ、母の仕事であの国へ赴いたことはありますが、幼かったので全く覚えていません。どんな国だったでしょう?


「……待ってください。密入国って……、あの?」


「はい、貴方の想像しているものだと思います。トネリカは貿易、渡航、他国との交流など断絶した鎖国状態ですから、これしか方法がありません。……頭が固く、因習的な古臭い国ですよ」


み、密入国……!


法すれすれどころか完全アウト。トネリカ風に言うとお縄につく、っていうんでしょうか。遂に存在すること自体が犯罪みたいな私が、法を犯す時が来ましたか……。


そんなこんなですぐに船着き場に着きました。

中年の背が低めの男性が一人。ディールスが言葉を交わさず、お金を彼に渡すと彼は頷いてあっさり船を出してくれました。

この二人の手際の良さ。……さては何回かやってますね。


「さて、予習です。大陸の二国よりも北にあるトネリカ聖教国は島国であり、付近の海流の影響でルジャダ国よりも気温が高いのが特徴です。中心都市ショウオには御子(みこ)と呼ばれる神聖視された存在がいます。不定期に当代の御子が跡形も無く消失し、何処からともなく次代の御子が現れる。その繰り返しの中、御子が騎士と魔術師と共に国を治めています。……余談ですが、あの国で彫刻や銅像は購入しないでください。この国は罪人に異様に厳しく、稀に()()()()()()()()()()()。」


「……へぇ」


不思議な国。異邦の国。まるで童話の中の国。

……御子、騎士、魔術師。どんな人達なのでしょう?


「国の近くまで来たら起こしますので、今は寝ていてください」


もう隣で寝ているキジェ、私の膝の上で一生懸命に寝たふりをしているカダチ、水面を覗き込むオーウィル。皆の体温が心地よくて、皆の一定の呼吸で安心出来て、温かくて。うつらうつらとして、瞼が重い。何も考えられなくて、静かに意識が沈んで。それもどうでも良くて。気分が良くて。


        *  *  *


肌寒い早朝。ゆっくりと昇ってきた朝日で目が覚めました。

遠くで鈴のような音が聞こえる。軽く、凛として、幾たびも反芻する音が頭を離れない。島がもう目の前にある。


「おはようございます。そろそろ到着するので全員起こしてください」


本を片手に悠々と読書に耽るディールス。生気を取り戻したように激しく朝日を反射するピアスの光が、本当に美しかった。


「……皆、起きてください。……ふぁ」


あくびが出てしまう。それでも、もう島に着いてしまいます。

寝相が悪く、半身が船から乗り出したキジェを起こすのは最後。意外にも寝起きが悪いカダチも二の次。と、なると……。


「……ん?そういえば、オーウィルも寝起きが悪かったような」


彼の方を見ると、案の定朝日が眩しいのでしょう、眉をひそめた彼がぐっすりと眠っていました。……三人とも寝起きが悪かったのは予想外でした。


さて、誰から起こしましょう……。はぁ……。


        *  *  *


島に上陸し、船で送ってくれた男性とは早々にお別れしました。

鈴のような音を聞いた人々が朝の支度を始める時間、誰も居ない港に静かに、私達はこっそりと人知れずに密入国を果たしました。


ディールスと私以外、まだ眠そうですが……。


そのまま、民家の間を縫うように隠れながら歩き、街の様子を伺っていました。


霧が濃く、土のままの道路の街、街灯も見当たらない住宅街、木で作られた低い家。

それに、褐色の肌を持った人々。


……不思議な服。まるで柄付きの一枚布を切り貼りしたような服。どうやって着ているのでしょう?女性の頭は一つにまとまった髪に飾り棒を刺しています。


ここで、突然カダチから全員に平たく、大きい帽子をいただきました。

カダチがずっと何かを縫っていると思っていましたが、どうやら縫っていたのではなく編んでいたらしく。笠、なるものを受け取りました。頭に被るものらしく、顔を見られなくするのだとか。


渡す時に、彼女はこう言いました。


「……トネリカは唯一神信仰国。他の三国と同じ千二百年前に誕生させたのだけど、他の国とはあまりに毛色が違い過ぎた。お母様以外の神は居ないことになっているし、信仰の仕方もいびつ。輪廻転生はしないから、せめて体だけはと遺体は国立の霊園か納骨堂で永遠に大切に保管するし……。……正直、長居しない方が良いのよ」


トネリカの歴史は、あの本にも、どんな文献にも載っていなかった。ただ、トネリカ聖教国という国があるということしか分からなかった。

とにかく、トネリカは謎に包まれている。しかし、彼女なら、よく知っているでしょう。


「……トネリカって、どうやって生まれたのですか?」


「……トネリカは、あたしが……()()()()()()()()()()()()()姿()()、神託を告げた国なの。……だからかな……。ここの国の人達は自惚れているの……どうしようもなく。……自分達が、彼女に愛されているって。……他の国とは違うって。他の国を見下して国交を閉ざしたまま、今もずぅっと殻に閉じこもってる」


呆れたように、というよりも悲しそうに彼女は言いました。あなたに責任は無いのに、あなたが心を痛める必要はないのに。そういう所も、お兄さんにそっくり。


「さて、この中から数人、とある所に潜入していただこうと思います」


「……はい?」


「潜入先は六年制の国立ショウオ学校。服装は先程の船乗りの方に用意していただいたものを着ていただきます。よって、潜入する人は見た目が学生らしい方が好ましいですね」


「いや、……」


……ちょっとお兄さん。待ってください、お願いですから。


「あれ⁉ボクは⁉」


「私と一緒に待機です」


「えー!何か最近そういうの多くありませんかー!」


「貴方、目を離せば、毒キノコ触ったり、すぐ迷子になるでしょう。順当です」


えぇ……、予想外の急展開ですよ。

一人で進めないでください。いや、この旅はあなたの案内で始まりましたけど。報・連・相!


「メンバーはレディ・リディア、ミスター・オーウィル、それからカダチの三名で行きたいと思います」


取り敢えず、彼の話にこれ以上流されないように一番に思いついた質問を投げ掛けました。いえ、これだけは聞いておかなければなりません。


「……バレたら?」


「ご想像にお任せしますよ」


……うわぁ。

ディールスの口調的に、彼はメンバーではないのでしょう。随分と、まぁ……、彼にしては計画が拙いというか、雑というか……。


「イストワールお兄様、変装はどうなさるつもり?」


「それなら、ミスター・オーウィルに頼もうと思っていましたが、……何か考えが?」


「うん、あたしにやらせて。ティラのチカラを使うわ。練習もしたから大丈夫」


「そうですか。では、お願いします、カダチ」


確かに微笑んだディールスの横顔が、とても美しい宝物みたいで。その微笑みを向けられていない私も、少しだけ嬉しくなってしまいました。


「目標は御子、もしくは魔術師と接触し、一番目のディディの居場所または情報を掴んで来ること。各自、頑張ってください」


        *  *  *


靴を脱いだ足が、盛大に音を立てて階段を軋ませます。警備は無し、……生徒らしき人物も居ない。

難なく侵入出来た校舎の中、不気味な静寂を破って、トネリカ人に扮した三人は探索を推し進めています。……何だか、うまく事が進み過ぎている。


低い天井、開けた廊下、緑のタタミ、光を透かすショウジ、……それが人一人居ない二階建ての校舎の全てでした。


キモノ、というものは動きづらいですね。ボタンという花の柄が非常に可愛らしいですが、いざという時に脚が前に出せない。万が一の時、走って逃げられませんね。


涼しげでシンプルなキモノが似合うオーウィルと、大きなユリの花の模様のキモノが似合う、私と同じ年齢程の姿になったカダチ。

二人と共にこの校内を歩き始めて三十分以上が経とうとしていました。


 ――というか、どうして学校に御子や魔術師が居るとディールスは思ったのでしょう?


一般的に彼らはこんな学び舎を活動拠点には選ばないでしょう、王宮みたいな所に居るでしょう。

しかし、ディールスはまるで絶対に御子や魔術師が学校に居るような口ぶりでした。だからこそ、私達をここへ来させたのでしょうが。


……正直、私はここには来たくありませんでしたよ、……なんてね。


「……二人とも。既に結構な時間が経ったものの、いまだ手がかりゼロですが、これからどうしまし――」


立ち止まり、振り返って彼らの話を聞こうとした瞬間、——目の前、顔をすれすれで飛んできたものに驚き、後ろに倒れてしまいました。いえ、正確には腰を抜かしました。


一直線に、ものすごいスピードで飛んできたそれは、僅かに空いていたショウジの隙間をすり抜けるように飛来し、壁に深々と刺さっています。


 ——矢⁉


もう少し前に出ていたら、想像したくはありませんが、目が潰れ、頭が壁に貼り付けになったでしょう。今更、背筋に悪寒が走りました。


矢には白い紙が括り付けられており、私達に向けて放たれた矢文であることは一目瞭然でした。オーウィルが丁寧に手紙を取り外す間、私はカダチの手を借りて何とか立ち上がりました。


三人で開いた紙を覗き込むと、共通語なのは分かるのですが、トネリカ風の字体で流ちょうに書かれ過ぎており、私は解読出来ませんでした。オーウィルも頭を抱えており、この場で唯一口を開いたのはカダチでした。


『そこからまっすぐ行って突き当りを右、階段を降りてすぐの厠から四つ奥の扉と五つ奥の扉の間を叩け』


……明らかに、罠。招待状みたいな生易しいものではなく、命令口調で誘導しようとしている点にも、多少、警戒心が滲み出てしまいます。


「……ディールスの旦那に言ってからの方が良いんじゃないか?」


「いえ、このまま行きましょう」


「正気か?」


「えぇ、罠でしょう。……それでも、この矢文が私達を狙って飛んできたということは変装は意味がないということ。ここからは変装も解いて正面突破しましょう」


「何かあったら、あたしが全力で逃がすわ。リディアお姉様は、お姉様のしたいことに集中してくれて構わない」


「頼もしいです、カダチ。ありがとう」


おそらく、ディールスはこれを知っていたのでしょう。なら、知らせるよりも先に多くのものを掴んで戻りたい。それが、この場においての最善でしょう。


「……は⁉リディア君、着替えはっや!というかいつの間に⁉」


「特技は早着替えですので。赤子の手をひねるよりも容易いです」


        *  *  *


指示書の言う通りに、例の扉と扉の間を軽く叩いてみると、ふと隙間風が吹く音が聞こえました。さらに思い切ってその場所を押してみると、手の付いた壁はいとも簡単に後ろへ下がり、新しい通路が出現しました。


鍵のかかっていない隠し扉、といった所でしょうか。


警戒心を解かないまま、三人はゆっくりと進んでいきました。長い一本道に窓は無く、非常用の隠し通路のようでした。災害時の避難用……、ではないのでしょう。


やがて、とてつもなく開けた空間に出た私達は目を見張りました。トネリカ風の木造建築にも関わらず、造りは他の国に似通った神殿のような場所。光沢を持った木製の床、天高くそびえ立つ立派な木の柱が連なっています。


その太く、高い柱に一文ずつ刻まれた文言。



風鈴がなって、陽が落ちて、影が伸びる。

お家に帰ろう。鍵を閉めよう。耳を塞げ。鏡を持て。ディディが来る。悪い子食いにやって来る。

あの方の化身よ、あの方の影よ。我らを守り、慈しみ、長きに渡る繁栄をもたらし給え。

いつか、我らへの久遠の愛が証明される、その時まで。桜の下の約束違えるな。

また明日、憎しみを持ってお茶会を開こう。



詩か、国歌の類でしょうか?それにしては随分と、まぁ、——


「――ようこそ。舎人火(トネリカ)聖教国焼悪(ショウオ)の街へ。歓迎します、見知らぬ若き旅人」


突然響いた声に驚き、柱から目を離すと、清廉で凛とした声の主は……、えぇと、タカミクラ、でしたっけ?ミスで分かたれたその中で、正座で座っているのが影で分かりました。


影だけで見ると、華奢な体格で、ふわりとした巻き毛が肩よりも短く、カダチと私の間程の年齢に見える少女。それしか分かりませんでした。


――幼い女の子。しかし、年相応ではない、非常に大人びた口調に強く違和感を感じました。


隣にタカミクラのすぐ近くで正座する青年。赤黒い髪、黄緑色のヒデナイトのような瞳を持った細い目、異様に目を引く目尻の紅、への字に曲げた口、褐色の肌、立派なキモノに身を包み、トネリカ流の大きな弓を持った人でした。顎の右側から首の下にまで伸びる刃物で出来ただろう傷跡が、酷く目を引きました。私達に矢文を放った人物で確定でしょう。


状況的にも、彼が騎士で、先の少女が御子なのでしょう。となると、魔術師の居所が気になりますが……。


「時代に、ディディに、噂に振り回されない、一貫性のある強固な意志を持つ、神に愛された国にお越しくださったこと、大変嬉しく思います。ワタシといたしましても、わざわざ港と学校の警備を緩めたかいがありました」


その思考は、御子の言葉によって遮られました。


港と学校の警備を緩めた、……やはり誘導でしたか。分かっていましたよ、もちろん、当然。矢文とか、露骨でしたものね。

でも、思ったよりもずっと友好的ですね。


「紹介が遅れました。ワタシはあの方の化身、あの方の影、あの方の言葉を代弁する者。この国の当代の御子です。以後、お見知りおきを」


「それで、あたし達に何の用なのよ?」


「カダチ君、一旦落ち着こうぜ。向こうに敵意が無いなら万々歳だ」


……カダチが好戦的というか、敵意剥き出しというか。確かに彼女はトネリカを恐れていましたが、流石に警戒しすぎですよ。まずは平和的に情報収集を優先すべきです。


「?……何をおっしゃっているのですか?」


「ん?どゆこと?」


きょとん、としているであろう御子は首を傾げ、続けました。


「――ワタシが歓迎するのはアナタだけです。アナタ達はあくまでお客人のオマケですから、この場において発言を許していません。身の程をわきまえるように」


そう言って、彼女は一直線に私を指さしました。


友好的な態度から一転、まるで気に入らない使用人を虐めている王族のような冷酷な視線を送っているように見えました。


そこで突如一つ、ピンと来るものがありました。勘です。


仕事と私生活のオンオフと言われたら否定は出来ません、が、彼女は間違いなく猫の皮を被っています。それも数ヶ月で身に着けた生半可なものなんかではなく、数年、数十年掛けて生み出したもの。

いやはや、恐ろしい。それ即ち、私が何年も踊っていた間よりも長く、彼女は御子としての役割を優等生のようにやって来たということなのですから。


いえ、そんなことはどうでも良く、


「――私の大切な友人です。僭越ながら、先程の発言の撤回と彼らの待遇について再審する旨の異議を申し立てます」


私は、善意を持って私に接する方には善意を持って返しますし、悪意を持って私に接する方には悪意を持って接します。


 ――そして、彼女が彼らに敵意を向けるのなら、私に向けられたも同然。


私も、今から敵意を持ってあなたに接します。あなたが考えを改めないのであれば。


沈黙が続く。先の言葉に怒り、私達を断罪しようとするか、はたまた素直に受け止め、謝罪するのか。どちらに転んでも地獄そうですが。……地獄は無いんですもの。精一杯、暴れさせてもらいます。


「そうですか、立場も分からないとは愚かな子。御子たるワタシに口答えするとは。では、——我々の誇りにかけて、()()()()()()()()()()()()()矮小な存在どもを排除します」


 ――声色が一変、それは背筋がぞくりとする程冷徹なものへと変わりました。


敵意を向けられたことに腹が立ったのか、気に食わなかったのか。彼女は細い片腕を軽く上げました。意味は、”発射準備”。

この国で”誇りにかけて”という言葉は最上級の誓い。何せ自称、神に愛されている国ですから。そのプライドはルジャダの雪山よりも高いでしょう。


ならば、今からこの国の全てが私達に敵対するのでしょう。

ごめんなさい、ディールス。でも、私、後悔してませんから、説教ならいくらでも受けますから。


赤黒い髪の青年が弓と矢をつがえ、こちらに向けてゆっくりと振り絞る。美しく、長い歳月を掛けて洗練されたであろう動作、こちらが息を呑む程の集中力、息遣い一つ、聞こえません。体幹が一切ブレないのは、腹呼吸だからでしょう。


「逃げようとするのなら脚を、攻撃をしかけようとするのなら腕を、服従を選ぶのなら見せしめに心の臓を穿ちなさい。外すことは許しません。よく狙うように」


限界まで引かれた弓が、キリキリと音を立てています。それでも、騎士の視線はたった一ヶ所だけを見つめていました。


「服従も、隷属もしません。私達の旅は、何にも縛られない風、誰も掬い取れない海、生物に支配されない惑星。誰にも止められるものではありません」


「……この場において、何もしないというのは最も愚かですよ、外の娘。疾く這いつくばって許しを請えばよいものを。それに、服従とは()()ものではなく、恐怖で縛る(させる)ものです」


呆れたようにため息をついた御子の手が、私達に向けて降ろされました。


「――放ちなさい」


その言葉を受けて、待ってましたと言わんばかりに矢がリディアの心臓を貫く。まるでそこに飛んでいくことが既に決定付けられていたように、真っ直ぐに。

深く深く、矢の勢いで後ろに倒れる程の威力。傷口から広がる血が、……先ほど道すがら見たヒガンバナを彷彿とさせます。血がゆっくりと、ゆっくりと、傷口を中心としてベッタリとドレスを円状に染めていく。


「どうせ、それは死にはしないでしょう。後で座敷牢にでも繋いでおくように。さて、あと二人。そちらはどうでも良いので、そのまま始末します。早急に狙撃準備を。逃げ回られても手間なので、頭を狙いなさい」


騎士は何も言わず、次の矢をつがえ始めました。人を撃ち慣れた躊躇いのなくなった動作が、次のターゲットに向けられる。


「お前ら……!」


カダチの額に血管が浮き出し、瞳が輝いて、髪が逆立つ程憤慨しているのが分かりました。私なんかに怒ってくれるのがたまらなく嬉しい、ですが、


「カダチ、私は大丈夫です」


おもむろに立ち上がり、矢を乱暴に抜いてへし折ってやりました。手の甲で雑に口元の血を拭い、御子達に向き合う。


二人に動揺の色が見えたのは嬉しいですね。


先に喧嘩を売ったのはそっち、先に手を出したのもそっち。

ディールスへの言い訳(手土産)が増えたのは嬉しいですね。


まさに、戦いの火蓋が切られる、その瞬間に、


 ――突拍子もなく、タカミクラに一番近いフスマが静かに開きました。


見ると、フスマに手を掛け、こちらにやって来たのは、無表情の青年でした。無表情と言っても、決して不機嫌には見えず、ただボーっとしている人。

夕陽に当たった小麦のように輝きを放つ金髪、ラピスラズリのように美しいのに何処か光が無い碧眼、シュッとした輪郭、その整った顔立ちと背格好は大陸の少女達が夢にまで見た白馬の王子様のようでした。

頭にはサクラの枝で出来た知恵の冠が斜めに被さり、高価そうなキモノは帯が解けてしまっています。両手で大事そうに、本当に大事そうにサクラの花びらのようなものを取りこぼさないように持っていました。


謎の乱入者を見て、無言でタカミクラの隔離された空間から出てきていた御子。美しい動作を一つ一つ丁寧にこなす姿は、まさに御子たる存在にふさわしく。ミスを片手で上げた時でさえ、音がしませんでした。


目を引くタンザナイトの紺色の瞳、弓を構えた青年と同じ目尻の紅、ふわふわの肩に届かない長さの濁った白色の癖毛、髪色と同じ色の長いまつ毛、華奢を通り越した細過ぎる体格が色鮮やかなキモノ越しでも分かりました。


ふと目を離せば、サクラに攫われてしまいそうな程、その少女は可憐で、優雅で、儚げでした。


「――どうしてこのようなものを手にしていらっしゃるのですか?」


だからこそ、その御子の重い一言が刺さるように恐ろしく感じました。

口調こそは変わらないものの、その姿からは想像も出来ない程、その声は今までの会話の中で最も不機嫌で、最も不快感を露わにした声色でした。


 ――思い切り眉をひそめた彼女が乱暴にその青年の手をはたきました。


彼の手の中のサクラの花びらがこちらまで飛んできて、私の頬にぶつかり、頬を這って落ちていきました。


しかし、青年の表情は何も変わらない。怒りも、悲しみも、喜びも、何も無い。本当に、何もありませんでした。死人のように顔色も、表情も変わらない。しかし、決して空虚ではない。


全く訳の分からない青年。訳の分からない状況。


だからでしょうか?なぜか今になって、堪らなく恐ろしく感じてきました。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


結論として、下を見た所、サクラの花びらなんてありませんでした。いえ、そもそもサクラの花びらだったら、当たり前のこと、ここまで飛んできません。


橙色の小さな欠片。光を透過して一本一本細い筋までしっかりと見える、それは、


……は?


何、これ……?何でこんなものが……。意味が分からない……。いえ、分かることを脳が拒む。ただ一つ、()()()()()



  ――それは、金魚のヒレでした。



御子は()()を気にも止めず、手際よく青年のキモノの着付けを素早く直し、冠を正すだけでした。


青年はそのことに対し、感謝すら伝えず、さっきまで少女が座っていたタカミクラの中の座布団にストンと腰を下ろし、御子もそれが当たり前かのように、何も言わずにタカミクラの後ろに隠し置いていた大きな旗を持ち、騎士と対称になる場所へ移動しました。


……全く状況が見えてきませんが。


「……困った子だよ、ホント」


御子がそう呟いた気がしました。その顔は慈愛に満ちた母親のものではなく、本当に疎ましく思っているもので。


        *  *  *


トネリカ風の神殿のようなものから追い出され、はや二十分程。

私の近くには、カダチも、オーウィルも居らず、唯一騎士という役職の青年が案内役に居るだけでした。


あの出来事、……アクシデントでしょうか?その後、御子は騎士に私だけを連れてくるように指示を出し、そのまま奥の部屋へと消えていきました。


当然、カダチ達は反対しましたが、滅多な機会ですので、”危なくなったらすぐに逃げる、助けを呼ぶ”ことを条件とした約束をすることで許可をもらってきました。


前を歩く青年に目をやると、……ん、え?


リンゴ……?


この人、リンゴ食べながら歩いてる……⁉


「リディア嬢、あんまうろちょろしないで貰えますか」


いや、……リンゴ食べながら言わないでいただけます?


とは到底言えず。

本当にあの素晴らしい一射を放った騎士と同一人物でしょうか?信じられない、というよりも、信じたくないです。


初手から幸先不安ですね……!


彼と何か話す訳でもなく、ただ付いていった先にはとても立派な中庭が広がっていました。

中央には太いサクラの樹、枝にはガラスで出来た工芸品のようなものがいくつかぶら下がり、樹の下にはテーブルとティーセットがありました。


そのガラスの工芸品から、この国に来てから何度も聞いた、遠くで幾たびも反芻する、軽く、凛として、頭を離れない鈴のような音が奏でられていました。これだったのですね。


……トネリカは、良い所ですね。一年中、こんな透明で繊細な音を聞けるのなら、こんなに綺麗なサクラの花を見れるのなら、この国での暮らしは悪くない、どころか好ましい。


「――ようこそ、『桜のお茶会』へ」


テーブルにある四つの椅子の一つに座った御子が、そう言いました。

日の下に出ただけで彼女の少しだけ青緑掛かっていた髪色はより白く、瞳はより青紫に見え、さらに儚さが増した気がしました。


先程あった時とは違う、柔らかで友好的な雰囲気を持った少女は、こちらに向けて穏やかに微笑みました。


「『サクラの、お茶会』?」


「『桜のお茶会』は御子、魔術師、騎士の三人が息抜きに他の者に内緒でやってた恒例行事さ。桜の木の下だから、『桜のお茶会』。単純だろう?もっとも、この国の初代の御子の名前が”桜”だったという説もあるがね」


彼女の言葉を理解するよりも先に、その口調に驚いたのは言うまでもないでしょう。歳に合わず、大人びた完璧な、一国を導く御子としての使命を担った少女は何処へ?まるで、おばあさんのような話し言葉に、思考が止まり、言葉を忘れました。


「遠慮はいらないさ。取り敢えずお掛けなさい。『騎士』、アンタもだよ」


「了解です」


「さっきは失礼したね。ワタシは本当は、この国の当代の魔術師。といっても今や、簡単な占いくらいしか出来ないがね。名ばかりの役職さ」


……魔術師?彼女が?……なるほど、先程の謁見での自己紹介は嘘だったのですね。


では、本当の御子は何処に……?


「さて!堅っ苦しいのはここまで!」


彼女がおもむろに席を立ち、ものすごい勢いでこちらに向かって歩いて来るではありませんか……!

咄嗟に両手を顔の前にクロスに出し、防御の姿勢を取ってしまいましたが、それは全くの無意味な行為でした。


「やーん、可愛い!ひ孫を思い出すねぇ。アンタ、何かつまむかい?『騎士』も遠慮したら承知しないからね」


「……え⁉うぇ、んぁ……、ぐえ……」


「いいんすか。ありがとうございます」


彼女の小さい手で頬をひたすらこねくり回される。伸ばしたり、押されたり、つままれたり。痛、くはない。全く痛くはありませんでした。


私もそこまで子供ではないのですが……。どうやら、子供がお好きなようで。

小さなおばあちゃんみたいですね。でも、姿は私よりも幼く見えるのですから、不思議です。


……おや、気が付きませんでしたが、テーブルにもう一人着いている人が居たではありませんか。


気ままにお菓子を咥え、テーブルにうつ伏せに伏せっている青年。お菓子も食べているわけではなく、本当にただ咥えているだけでした。今も、口角は上がっておらず、何か一言でも喋った訳ではなく、彼は何処か遠くを見つめていました。


「もう罪遠(ザイエン)には行ったかい?この国の宝、おっきい霊園と納骨堂が見れる。ここのすぐ隣の都市だから、行ってみるといいよさ」


「へぇ、今度行ってみますね。あの、それで、お二人のことは何と呼べばよろしいでしょうか?お名前は?」


「……どうします?自分から説明した方が良いっすか?」


「いや、ワタシから言うよ。アンタは好きにくつろぐか、『御子』の面倒でも見ていておくれ。あー……、名前。名前ね、うん。ワタシ達はこの役職に就いた時に、名前を捨てなければならなくてね。名前が無いのさ。もう思い出せもしないけどねぇ。ワタシのことは『魔術師』、そこで寝っ転がっている彼のことは『御子』、アンタをここまで連れてきた彼のことは『騎士』と呼んでくれ」


「それは、……すみません」


「どおして謝るの?良いんだよ、そんなこと気にしなくても。お菓子お食べ、口に合うと良いねぇ」


「……いただきます」


お菓子は色んな種類がありました。真ん丸なお餅とか、フワフワの生地で餡子を挟んだものとか。でも、あんまり冒険する勇気もなかったから、見慣れないお菓子の山から、私でも馴染みのあるクッキーを選びました。


私でも感じる程甘く、上に乗ったリンゴのドライフルーツが甘酸っぱかったです。歯で軽く噛んだだけでホロホロと崩れていくクッキーは、口に良く合いました。


「……なぜ、そこまで私に良くしてくださるのですか?」


彼女、もとい『魔術師』は子供が好きなのだろう。だからこそ、カダチやオーウィルへのキツイ対応の差が気になってしまいました。


「私がディディだからですか?それとも、リディア個人に何か価値を見出したからですか?」


手配書はルジャダでは『司書』が広まることを防いでいたし、何より広まるような状況ではありませんでした。

この国でも、手配書が広まっていることはほぼ確実。事実、先程『騎士』は名乗っていないのに私の名前を言ったことが何よりもの証拠。


「……両方、じゃな。アンタ達の手配書は確かにワタシ達の国にまで届いた。血眼になって探すグレスター王国、黙秘と不干渉を貫くルジャダ国。グレスターに至っては、鎖国をしているウチにまで図々しく捜索の要請をしてきた程。でも、我々はそれを拒否して、グレスターの使者を手酷く追い払った。不法入国っていう素敵な理由も付けてね」


「手酷く?それは、どうしてですか?下手をすれば、それに反感を買った向こうが戦争を仕掛ける可能性もあったでしょう」


「それはないね」


「断言、しますか」


「あぁ、グレスターは今年作物が歴史的な凶作かつ長年に渡るルジャダとの貿易の縮小が響いている。いくらディディが憎かろうと、武器と食料難じゃ、戦争なんて出来る状態じゃないのさ。何より、ディディを憎むあまり、この国を攻撃するのは目的がすり替わっている。本末転倒どころじゃない手痛い損失になる。そこまでアイツらも馬鹿じゃぁないね、ルジャダじゃあるまいし」


……いくら御子を演じていたとしても、その頭の良さは本物でしたか。広い視野に長期的に物事を見る目、先まで見通す計算高い頭脳。おそらくは御子に変わってこの国を統治する実質的な支配者なのでしょう。


「そして、追い払った理由だね。我々は唯一信仰だよ。言い換えると、あの方以外の神の存在を許容していない。あの方以外の神を殺したディディなんて、邪魔以外の何者でもない。そいつらの存在すらも認めていないのさ」


唯一信仰。カダチの言った通りですが……、何かが引っ掛かりますね。


「――だから、この際アンタがあの方を殺したかどうかなんて極論、どうでも良い。あの方の生死も。いや、そもそもアンタみたいな小娘が殺せるはずない、と考えている。とにかく、アンタという存在があの方の存在を確固たるものにすることを願っている、だからここにアンタだけを呼んだのさ」


 ——あぁ、分かった気がします。


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今ならカダチの言ったことがよく身に染みました。信仰の仕方が歪。これ程までに、この国のことを表した言葉はないでしょう。


「さぁ、この話はお終いだよ!何でも聞きなさいな。ワタシはこの国で一番長生きだから、答えられないことはないぞ~」


「……え?」


衝撃の事実。いえ、前にも似たようなことが……。

……あぁ、キジェの時と同じですね。キジェの時は、タイミングが悪くて驚く暇がありませんでしたけど。


「ん?あぁ、もともと魔術師の家系は巫女の家系でね。まぁ、御子と色々と被るから名前が変わっただけで役割は変わっていない。しかし、その名残としてこの家系のおなごは姿が少女のままなんだよ。ワタシも、こんな見た目で体が止まっちゃったけど、実際は婆さ。何人もの御子がワタシの代で姿を消したし、何人もの騎士が現役を退いたのを見届けてきた。この国一番の古株さ」


その『魔術師』の言葉を聞いて、ずっとお菓子をとっかえひっかえしていた『騎士』の手が止まり、重く閉ざされていたその口を開けました。


「……自分はあんたが死んでも、騎士やめるつもり毛頭ないっすよ」


「それは無理だわさ、意地っ張り小僧。負けず嫌いもそこまで行くと疎まれるぞ、程々にしなさいな。先々代も、その前も、おんなじこと息巻いて死んじまった。アンタがワタシより長くこの役目を続けることはないね」


「あんたが無理だと言っても、自分はやり遂げてみせます。あんたが(うち)の伝家の宝刀真っ二つにぶち折った時から、決めてるんで」


「そのことは突っつかないで欲しいのう」


急におばあちゃんらしくシオシオを肩をすぼめてお茶を啜る彼女。対照的に『騎士』は何事もなかったかのように片手でお茶を啜っていました。


喧嘩、ではないのでしょう。彼女達の関係は不仲には見えません。……『御子』は除いて。


『御子』の方を向くと不意に目が合いました。何処までも奥に続きそうな深淵を映した美しいラピスラズリがこちらをじっと覗き込んでいます。


ふと、その美丈夫がこちらに向かって微笑みました。何かを思い出したような、遠くの家族に思いを馳せるような、そんな何気ない笑み。それが、酷く心を刺し留めました。


それが何か嫌で、咄嗟に『魔術師』に話を振りました。


「あの、話題が変わるんですけど、神殿?でしょうか。先程の場所の柱の文言って何ですか?」


「あれかい?良い目の付け所だね、魔術師に向いているよ」


風が吹く。太陽の下、木漏れ日の下、……椅子の上。

サクラの花びらが舞って、あの民芸品がより一層激しく音を掻き鳴らし、サクラの花が擦れる。

地面に生えた短い芝生が、自身の上を何かが駆けていくように頭を垂れる。何度も、何度も。何度も、何度も、何度も。それでも、何度もその草々は頭を上げて上を向いてみせた。……確かに、上を向いていました。



風鈴がなって、陽が落ちて、影が伸びる。

お家に帰ろう。鍵を閉めよう。耳を塞げ。鏡を持て。ディディが来る。悪い子食いにやって来る。

あの方の化身よ、あの方の影よ。我らを守り、慈しみ、長きに渡る繁栄をもたらし給え。

いつか、ディディを打ち滅ぼす御子が現れる、その時まで。桜の下の約束違えるな。

また明日、憎しみを持ってお茶会を開こう。



一息に彼女は言い切ると、ため息をつきました。頬杖をついて、深く深く、悲しそうに。心底、疲れたように。


「……これはね、何代もの御子が一言ずつ伝えてきた言伝だよ。神託なのか、はたまた予言の類であるのかすらも不明。いつの何処を指したことなのか、誰かのことを言ったことなのか、何も分からないんだよ」


「ということは、彼も?」


「いや、まだだ。御子は消える二十日前にこの言伝の一部を口にするんだ。その子にはまだ十分、少なくとも二十以上の猶予があるってことさ。……いや、『御子』がその言伝を口にするよりも先にこの国が滅びるかもね」


だからこそ、さらりと『魔術師』が言ったことにとても驚きました。

謁見の時も、今も彼女は明らかに愛国心を抱いている。それこそ、形は違えどオーウィルと同じ。……いえ、訂正します。違いますね。


国民と文化を愛する殺人鬼 オーウィル、子供と神に愛されたというレッテルを愛する実質的な為政者 『魔術師』。


……笑えませんね、どちらも。


「この国は遠くない未来、いずれ滅びるよ」


彼女は上を向き、遠くの雲を眺めながらそう言いました。


「……仮に百歩譲ってそうだとしても、なぜ断言出来るのですか?」


「単純な話、ワタシ達が人間だからさ。人間は両親から良い所も悪い所も受け継ぐ生き物。他の国が積極的に貿易をするのに対し、この国は千二百年もの間、こんな辺鄙な所で引きこもっていたツケが回ってきたってことさ。ここの国民は一定の病気に極端に弱ければ、他の所の環境で生きていく耐性もない。流行り病なんか流行れば全員漏れなく死んじまう。まさに歴史的な自業自得、さ」


……なるほど。

私はそういうのに疎いですが、確かに一理ある説ですね。


「ねぇ、アンタの仲間のこと、聞いて良いかい?どう思ってる?名前は?」


「……え~っと」


興味、あるんだ。


「アンタがあんなに啖呵切って庇ったんだ。それ程、思い入れがあるのだろう?」


……あぁ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ということですか。…………私にそこまで価値があるとは思えませんが。


「そうですね。では端的に紹介を。誰よりも優しく知的なディールス、笑顔が素敵で無垢なキジェ、照れ屋で素直になれないけどそこも可愛いカダチ、皮肉屋と煽り屋を同時経営している、人のために行動出来るオーウィ、……ウィリアムです。これで全員」


「へぇ、で?アンタの恋人はどれだい?」


「ヒュッ、……ゴッ、ゲッホゲホ!」


気管にお茶が……。自然に涙が溢れ、嗚咽が漏れました。陸でお茶に溺れる所でした。

急に何を言うのかと思えば……。


「オホン、……居ません。全員等しく、大切な仲間です」


「――あぁ、もう一人の指名手配犯、四番目のディディの片割れか」


頭に血が昇る感覚がする。それと同時に不意にエドワーズのことが出てきたことに対して、背筋に寒気が走った。


あぁ、嫌だ。人に詮索されるのは嫌いだ。嫌い、大嫌い。いい加減にして欲しい。何、止めてよ。それされて嬉しい人なんて居ないでしょ。


「――もう、良いんじゃないすか。まだこの話続きます?」


「…………『騎士』、さん……?」


お菓子を食べるのも止め、への字の口を更にへの字に曲げて青年はふんぞり返って腕を組んでいました。ヒデナイトの瞳があからさまな不快感を隠そうともしていません。


先程まで眼前のお菓子に夢中だった人がどういう心変わ、り――。


……これ、は、……拗ね、てる?


……のでしょうか?………………なぜ?


「何だい、『騎士』。珍しいね、ワタシの話に口を挟むなんて」


「別に、アンタが他の男の話してるのがただただ面白くないんで」


人の心の機微に昔から疎い私は、彼の心情が理解出来ませんでした。人が人の話をしたら、なぜ不愉快になるのでしょう。答えが分かるのは、多分ずっと先なのでしょう。


それでも、あなたのその言葉にその意思がなかったとしても、助けられたのは紛れもない真実。……本当に、助かりました。


「……あの、私達は一番目のディディを探してこの国に来たのですが。何処で封印されているとかご存じですか」


ここで、ようやく本題、一番聞きたかった質問を投げ掛けることが出来ました。


「……アイツが言っていたことは(まこと)じゃったか」


……アイツ?


「一番目のディディはな、数ヶ月前にこの国にフラッと訪れてきたよそ者。図々しくもワタシに契約を持ちかけてきた度胸があったんだよ」


「ぇ、……?」


 ――なんて?彼女は今、何って言った?


封印は?世界創世記に書いてあったではありませんか。


一番目の神、封印の神 カシェ様の封印によって今も何処かで眠っているって。


「向こうの要求は至って端的。”この国に留まる許可が欲しい”だったのう」


私の異変に気付いていながら、彼女は話を続けました。話を滞らせたくなかったのもあるでしょうが、反応が面白かった、というものもありそうな笑みを浮かべました。


「……あなた達はそれに見合う何を受け取ったのですか?」


「――情報と、釣り餌」


……釣り餌?彼女が釣られる程のものをそのディディは持っていたというのか?


「アイツはワタシに言ったんだよ。”ぼくを追いかけてきみが望む人物 ——四番目のディディの半分がやって来る。ぼくはこの国でやらなくてはならないことがあるから、きみ達の邪魔はしない。だから、きみ達もぼくに関わるな”ってね。だから、ワタシは特例でアイツを”一番目のディディ”ではなく、”この国が呼び寄せた腕利きの宝石商人”として入国を認めたのさ。アイツという釣り餌にまんまと引っ掛かったっていう訳。……本当は他のディディを入れることはおろか、例外的とはいえ鎖国を破ることも死ぬ程癪に障ったよ」


「……」


「いや、何でもない。最後は聞き流しておくれ」


この人達はテコでも、私以外のディディの存在を認めようとしませんね。千二百年分の怨霊ですか?……真相を先程聞いた私は、下手に口を滑らせれば死待ったなし、ですね。


「コホン、……とにかく、絶対に一番目のディディは絶対にこの国に居る。保証するよ。手伝いは出来ないけどね」


「いえ、そこまでしていただけたら十分です」


全員が話し疲れたように沈黙が続く。実際、私は結構疲れました。話すのは楽しいのですが、如何せん今回は気を張り詰めていましたし、情報量が多過ぎた。


「……この国に救世主は要らぬ。この国に革命家は要らぬ。久遠の不変、悠久の不動。それこそがこの国の全て」


突然、彼女は再び遠くを見つめて、独り言のようにそう呟きました。机に突っ伏したまま冠を弄る『御子』、絶えずお菓子を食べているものの視線が『魔術師』から離れない『騎士』、そしてここまで事細かに説明をしてくれた『魔術師』。


「改めてようこそ、神に愛された舎人火(とねりか)の地へ。この地の民、この地の王、この地に息づく全ての生き物は心から、アナタを歓迎、そして祝福します、小さな友人」


彼女は穏やかな微笑みで、こちらに話し掛けてきました。彼女のタンザナイトは敵意も無く、害意も殺意も無い。向けられるのは親愛の意。まるで古くから付き合いのある親友のように、しかし確かに礼節を持った口調で。


祝福……。そんなの、この旅で初めて言われた。


「――どうか、ここでの全てがアナタを幸せにしますように」


        *  *  *


「起こさないであげてください。この人最近眠れてなかったんで」


『サクラのお茶会』は彼のその一言で幕引きとなりました。

いえ、あの後すぐ『御子』と『魔術師』が寝てしまい、帰るタイミングを完全に逃して困っていたので助かりました。感謝を伝えるタイミングがなくなってしまったのは惜しいですが。


「そう、何ですか」


「はい、もう歳なんでしょう」


……女性に対してその発言は失礼通り越してますね。


「見送ります」


そう言うと、『騎士』は先程歩いてきた道を進み始めました。こちらに一切気を使わずに歩幅を考慮しない姿は、先程から子供っぽい彼らしいと思いました。


背後で誰かさんの裸足がペチペチと音を立てる。一定のリズムでもなく、はたまた私が知っている人のそれでもない。そう、子供が懸命に親の背中を追うような、そんな音。


横目で後ろを見ると、……少し後ろをなぜか『御子』が付いてきているのですが、……『騎士』はあまり気にするのでもなく、注意するのでもなく、自由にさせていますね。


「あの、よろしいのですか?彼、付いて来ていますけど……」


「あぁ、お構いなく。というか、どうしようもないですし。どうでも良いですし」


「私があまり言うものではありませんが、随分とまぁ、冷たいですね」


「……あれ?彼女の話聞いてもピンときてませんか?」


……何が?

え、そんな重要なこと見逃していましたっけ?


「子犬みたいに警戒してた割に意外と鈍いんすね、あんた」


へぇ、そんな風に笑うんですね、あなたは。


屈託のない、は違うのかもしれませんが、少し丸めた手で口元を隠し、細められたヒデナイトが愉快そう。悪意も無く、人を馬鹿にした訳でもない、本当にただ面白くてニヤけてしまった、そんな笑い方。


「『魔術師』が言った通り、御子は言伝を言った二十日後に行方知れずになります。でも、それって()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ——は。


「それって、どういう――」


「自分が送れるのはここまでっす。後は自力でお願いします」


彼の言葉に遮られるように、私の疑問は搔き消されました。

……いえ、聞いた所で無駄だったでしょう。この現象は誰かが作為的に起こせるものではない、人の身であるのなら。彼も説明がつかないから、答えられないから、わざと遮ったのでしょう。


「……いえ、ここまで来れば十分です。色々とありがとうございました。彼女達にもそうお伝えください」


「了解です。では」


すぐに背を向けて来た道を戻り始める彼、——


「あ、せんせー!探したよ!」

「『魔術師』様はどこー?」

「せんせい、ケガしちゃった子がいるの。こっち」

「わたしはだいじょうぶだって!もっとあそぼうよ」

「あのひと、だれ?舎人火(とねりか)のひとじゃなさそう」


を多くの子供が取り囲みました。別れてすぐなのに、彼にものすごく懐く子供がいっぱい。『騎士』は彼ら投げ掛けられる数々の質問になあなあに返事を返し、慣れたように怪我をした子供の一人を抱きかかえました。


「ふふっ、子供お好きなのですか?」


「いえ、どちらかと言えば嫌いっすね」


「えー!せんせーそーなの⁉」

「ほんと……?」

「うそ。わたしショック……」

「せんせい、きらいにならないで」

「いった!!だれ⁉キズさわったやつ!!」


彼の周りに群がっていた子供達は思い思いの感想を述べました。


「はいはい、あんた達は別」


投げやりな回答をする『騎士』に対しても、子供達の対応は依然変わりませんでした。相変わらずベタベタくっつき、馴れ馴れしく話し掛け、人懐っこい笑みを浮かべる。


「そういう所が好かれるのでしょうね、先生?」


「勘弁してください。別に自分は教師やってる訳じゃないんで。自分がやってるのは怪我した奴の治療だけです」


なるほど、教師(せんせい)ではなく、医師(せんせい)、でしたか。


「それじゃ、今度こそ失礼します」


「……さよなら」

「またねおねーちゃん!また会えるといいな!」

「せんせい、ぼく『魔術師』様とあそびたい、……です」

「せんせーいたい!もっとやさしく!はこんで!」

「じゃあな!」


ある子は『騎士』の腕の中で文句を言い、ある子は彼の陰に隠れてこちらの様子を伺い、ある子は元気よく進んで前を歩き、ある子は彼の服の袖を掴んで辺りを見回し、ある子は彼の脚にしがみ付きながらも怪我をした子を気に掛けている。


彼らの背中が遠のいていく。それでも、『御子』は『騎士』を追いかけるのではなく、いつまでも私のことを眺めていました。


……綺麗な肌にクリっとしたラピスラズリの瞳。金色の星屑がまぶされたようなのに、何だか光が宿っていない。私の方を向いているはずなのに遠くを見つめているように見えます。彼の行動に意味はないのでしょう。


……あれ?どうして今まで気付かなかったのでしょう?


 ——彼、トネリカ人じゃない。


褐色の肌ではないのもそうですが、体付きがこの国の人じゃない。ここの国の主食は穀物が中心のようで、中々肉付きの良い人が見当たらない。しかし、彼は違う。体の、特に肋骨の辺りと二の腕の筋肉の付き方がルジャダやグレスター寄り、……に見えますね。


鎖国してきたトネリカの今代の御子が、トネリカの人ではなかった。

これはバレたら大目玉でしょうが、そもそも何処から来たのか分からない人を定期的に『御子』としてもてはやしているいるこの国もこの国でしょうに。


「……またね?」


何だかそのまま立ち去るのは気まずくて、思わずそう声を掛けてしまいました。

返事をする訳でも、頷く訳でもない。聞こえて、意味が分かっているのかも分からない。流石に言語までは一緒だと思いたいのですが。


周りに人が集まり、なあなあな対応を貫きながらもまんざらでもないように、ここから離れていく『騎士』。対照的に誰もが遠巻きに見るだけで近寄らず、何を言う訳でもなくずっと一人でこちらを見続ける『御子』。


普通、逆では?……いえ、グレスターを例に挙げるなら、ですが。


一般的な国では、王族は愛され、優遇され、政治をこなし、国の象徴となる。

だが、彼はどうでしょう?

軽く疎まれ、冷遇とまではいかない処遇に、為政者としての全ても魔術師の家系に移行し、この国の象徴なのに秘匿されて表に出ることはない。その癖あの言伝を言う役割を果たしたら消える。


それで、良いの?


「――来る?」


そう考えると何だか悲しくて、気が付けば彼の手を両手で握ってそう言ってしまいました。


「付いて、来る?」


もう一度、繰り返す。ゆっくりと、噛み締めるように。


前の私だったら、絶対に出なかった提案でしょう。”嫌だったら自分で何とかすれば良い、自分で行動を起こせば良い。私は関係ない”。そう吐き捨てていたでしょう。


当然、この国の御子の逃亡補助とかバレたら本当にどうしようもないですが、別にもう良いじゃないですか。そんな役目捨てても。自分の幸せ探しに行っても。この国にあなたの幸せがあるとは思えない。


この旅を続ける()だからこそ言える。この旅を続ける()しか言えない。


 ——あなたの()()は逃亡じゃない、あなたの()()は今までの対応に対する正当な、仕返しだって!


        *  *  *


少し先、学校の校門でソワソワとしているオーウィルとカダチを発見しました。二人も私とほとんど同時に互いの存在に気が付いたようで、オーウィルの顔には安堵が浮かび、カダチは今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていました。


それでもカダチは泣きださないように必死に涙を堪えて、私に抱き着いてきました。力一杯に腕を締め付けてくるので、何処かの骨が軋む音が内側から聞こえてきます。


「………………バカ」


「ごめんなさい、カダチ。でもほら、大丈夫だったでしょう?」


彼女から一度離れて、お得意のターンで一周してみせる。矢を受けた以外は怪我をしていないことを見せるために。

それに、彼女が喜びまではいかなくとも、少しぐらい笑ってくれないかと。そんな浅薄な希望を抱いて。


「そうっ、——そういうことじゃないでしょ⁉」


「カダチ君、落ち着けって」


再び、彼女が私に抱き着く。先程よりも強い、彼女の込める力。それよりも、カダチはきっと怖い思いだったのでしょう。甘んじて受け入れます。

……本当に?本当に私は受け入れてる?受け止めてる?


彼女達が心配すると分かっていながら分かり切った罠に飛び込み、心の奥底から反省もせず、ただ悲しませてしまっているのに?


「取り敢えず、無事そうで何よりだよ。おかえり、リディア君」


「……えぇ、ただいま」


オーウィルが言ったただ一言、”おかえり”が頭から離れない。脳裏を叩き、何度も反芻する。


家ではないけど、帰る場所が出来た。ただいまと言えばおかえりと返してくれる仲間が出来た。私の帰りを心から待ってくれる大事な仲間が出来た。


その仲間を大切に思っている。なのに、本当の意味で大切にすることが出来ない自分を殺したい。


「さて、それじゃ行きますかっと」


「……お兄様達と合流するのよ。…………お姉様、しばらくこのままで居させて」


私の手をがっしりと掴み、離さないカダチ。込められた力の強さは、親が子供とはぐれないように手を繋ぐそれではなく、二度と離さないという気概がある気がしました。


「甘えたか?可愛いトコあんじゃん」


「うるさい黙れ消えろ」


「はは、涙が出てきたぜ」


服の袖で涙を拭くオーウィルが不憫でならない。カダチの素直になれない所と毒舌な所が同時に彼を襲いましたね。いえ、元々の好感度と彼の要らぬ一言も加味すればまぁ当然、この結果になるのですが。



……結局、『御子』は何も変わりませんでした。

彼はあの場で逃げたいという訳でも、手を振り解く訳でもなく、ただ私の中を見透かすようにずっとこちらを見ているだけだった。その瞳が段々と不気味に思えてきて、遂に自分から掴んだ手を離して逃げるように去ってしまいました。


彼のラピスラズリの瞳は、何と言うか、文字通りの深淵でした。底が無く、光も届かず、覗いているはずなのにこちらが覗かれているように錯覚する。それなのに、()()が奥で蠢いている。


あれ以上、私があの瞳を凝視していたら、私の何かが狂っていた、私の何かが壊れていた、私の何かが崩れていた。それだけは、はっきりと分かったのです。


彼はダメ。人が手を出して良い存在ではなかった。そもそも人なのか?私には、人の形をした()()か、人の皮を被った()()にしか見えません。

今なら『魔術師』達の対応の意味が嫌になる程分かる。


口をきいてはいけない。

見てはいけない。

目を合わせてはいけない。

触れてはいけない。

近付いてはいけない。

興味を持たれてはいけない。

気遣ってはいけない。

関わってはいけない。

そもそも、存在を知らない方が良いまである。


全部、自分達を守るために。



「お~い、愚図は置いてくぞ~」


彼の言葉でハッとして前を向くと、私の歩幅が短くなっていたらしく、一本道の先でオーウィルが後ろ歩きをしながら、私達を煽るようにわざとらしく大きく手を振りました。


すると、当然。彼は自分の脚がもつれてそのまま後ろに。

あら、盛大に転びましたね。顔にも土が付いて、少し所々擦り剝いてる。あらあら、一張羅も台無し。


「……大丈夫ですか、ポンコツ」


笑いをこらえて言うのに必死でした。思わず心配よりも、ざまぁ、と思ってしまいました。

大きな怪我でもありませんし、正直、自業自得。


その時、今まで手を繋いでいただけだったカダチが私の手を引きました。私は彼女にされるがまま、特に抵抗もせず、彼女に付いていきました。


そのまま、私の手を引く小さな神様は、何事もなかったかのように目の前の障害の腹を踏み抜き、下から聞こえる嚙み殺された短い悲鳴を無視して素敵な笑顔でこう言い切りました。


「お姉様、こんな奴さっさと置いていきましょ?」


「……煽った手前、言いずらいけど、心配してくれても良いんだぜ?」


「フン、どの口がほざくのよ。生憎だけど、あたしはお前に割く時間は持ち合わせてない」


「カダチ、もっと踏んでも良いのですよ。いえ、むしろこの際、思い切りやり返しましょう」


「リディア君⁉君が言うと洒落にならなグエッ……」


「お姉様の許可も出たのだし、……え~い、おりゃ、と~」


「ゆるい言い方の割に本気で腹にクる!」


一通り踏んで満足したのか、程なくして彼女はオーウィルから降りました。

カダチは彼女の体格と背なら、強い力もなく、重くはないはずなので、そう大きなダメージはないはず、……。そう思っていましたが、彼は私の想像以上に貧弱だったらしく。呻き声が微かに聞こえているだけでした。

——そんな訳もなく、


「また狸寝入りですか?運べる人はここには居ませんよ」


「……流石に何度も通じないか。…………えへ?」


「……イラっとした。踏み足りない気がしてきたから、もう一セットやろうかしら」


「すみませんでした」


躊躇なく頭を下げ、カダチの機嫌を伺う彼が貧相に見えて仕方ない。

プライドが高いくせにこういうおちゃらけた時だけ躊躇がなくなりますね、彼って。


……いえ、放っておきましょう。彼に構っている時間も無いですし。それよりも優先することがあります。


「ほら、速く行きましょう。ディールス達も心配して……、心配……、していますかね?」


彼が?


心配するのなら、こんな雑な計画なんて立てなかったでしょう。潜入するにしても陰から見守るでしょう。いつもしれっと無茶なこと計画して、その無茶を通そうとする。


きっと、良く言えば信頼されている。悪く言えば体の良い道具。そんな扱い。……どっちでしょうかね。


「きっと心配していたわ。お兄様は優しい方だし、キジェだってそうだもの」


「それはおれも同感。君の方が付き合い長いだろ。君から見てディールスの旦那はそんな薄情なヒトなのかい?」


「……そう、ですね。えぇ、あなたの言う通り。——彼はきっと、私が知っている中で、最も優しい神様です」


        *  *  *


一本道を変わらず進むと、雨が降ってきました。


近くの木の下で雨宿りして、どうしたものかと顔を見合わせた瞬間、木の葉から大粒の雨が一滴垂れて、カダチの頭に直撃しました。驚きのあまり、ピンクフローライトの瞳を見開き、僅かに声をあげた彼女。それを笑ったオーウィルに怒ったカダチが木の幹を蹴り、今度は滴り落ちる大量の雨水が彼に降り注ぎました。


このメンバーでこの狭い場所で居続けても、仕方がない。本気の喧嘩には至りはせずとも、間に挟まれ続けるのは本望ではないので。


浮きながらオーウィルの頬を強くつねるカダチ曰く、合流地点まであと少しらしいので。


「うん、もう走って行きましょう」


「良いのか?君のドレスが汚れ、……元から血まみれだったな!」


「お前は泥まみれなのだけどね」


泥まみれどころか、ずぶ濡れですけどね。降りた髪から張り付く服、彼の体で濡れていない所がない程。風邪引かないと良いのですが……。


「……何をしているのかしら?」


「ん?分かんない?見ての通り、準備運動。……よし、じゃあ走るか!ゴールはあそこの建物。最下位はダンゴ驕りな!」


……元気一杯のようで安心しました。何でしたっけ、こういうの。キユウ、というのでしたっけ?


脚の筋を伸ばしたり、腕を大きく振る彼は、本気で勝ちに行くという姿勢でした。何よりも、狼のそれに似たアンダリュサイトの瞳が獲物を捕らえるが如く、静かに揺らめいていました。

こんなお遊びに本気になれる所が、何とも彼らしいというか……。


「よし!カウントダウンするぞ!……三!」


…………三と同時に本気で走り出す奴が居るとは、夢にも思いませんでした。


カウントダウンの意味もなければ、提案者としての誇りもない。


あぁ、そういえば勝てる勝負しか挑まないタイプの人でしたね。根が負けず嫌いで、手段を選ばない戦略家。……この手のせこいことをするとは思っていませんでしたけれども。


「――は⁉」


カダチからしたら彼の行動は予想外だったらしく、素っ頓狂な声を上げたものの、すぐに状況を把握し、追いつこうと必死に走り始めました。


比較的に同年代の男の子の中でも速い部類に入りそうなオーウィル、神の力で若干ながらズルをするカダチ。


さて、二人のこの速度とハンデなら、——


        *  *  *


「リディア君、速ぁ……」


「…………はぁ、はぁ、はぁ」


「私が一番、二人が同着でしたね。少々、大人げなかったでしょうか?次は手加減しましょうか」


「二度とゴメンだね、ホントに。……勝ち筋が作れるまでは」


「それは残念」


……久々にこんなにはしゃいでしまいました。流石に反省ですね。気を引き締めなければ。


…………でも、楽しかった。誰かと一緒に競争なんて幼稚なお遊びが。今まで子供っぽいと心の中で蔑ずんできた、こんな行為が。……幾分、初めてのことだったので。


どうやら、私はこれまでやらず嫌いで疎んでいたのではなく、その輪に入りたいという嫉妬で疎んでいたのですね。……何だか、恥ずかしい。


「くっそ、……絶対勝てると思ったのに。流石に速過ぎだろ……」


「…………疲、れた、のよ……」


「これでも持久力にはキジェに、持久力や瞬発力などではディールスに全て負けていますよ」


「……マジ、で?」


えぇ、まじで。まじの大まじ。


実際、彼らと共にカダチを救うために連日走った時は私は非常に足手まといでした。ディールスはともかく、四百年ぶり程に立ち上がったばかりのキジェにも負けたのは、なかなかショックでしたけどね。


「お姉様、何か、速く走る、コツとか、あったりするの?」


「……何とも」


言えません。


短距離でも疲れずらい呼吸法を知っている。雨で濡れた地面でも、足を取られない足首の使い方を知っている。自然に脚の回転数が増える姿勢を知っている。疲れずらく、力を入れやすい腕の振り方を知っている。走りやすい地面の見極め方を知っている。


ただ、それだけ。


知っていて、それでもって、それらを試させられる時間が有り余っていただけ。


でも、それらはあくまでリディア()が最も速く走ることに特化していると感じた動作。他の人の体には、ほとんど合わないでしょう。


「人によって異なるので、あんまり。しかし、一番はやはり、経験を積み、自身に合った動作を意識的に習得することでしょうか?」


そう言った後に、これは彼女が求める答えではないことに気が付き。


「あまりアドバイスらしいアドバイスではなくて、ごめんなさいね」


「とんでもないわ。とてもお姉様らしい答えだとあたしは思います」


カダチは、なぜか誇らしげに胸に手を当てて、そう言いました。それでも、自信満々に胸を張る彼女は可愛くて、思わず頭に手を伸ばし、撫でてしまいそうになりましたが、彼女が嫌がるかと思って、すぐに手を引っ込めました。少し触れてしまったけど。


「…………撫でて、くれ、ても、………………ううん、……い、行きましょ」


聞こえるか、聞こえないかぐらいの小さな声で呟いた、茹蛸のように真っ赤な顔の小さな神様。


「……撫でてやっても良かったんじゃねぇの?」


小声でそう耳打ちしてきたオーウィル。彼の顔には煽りとか、嘲笑とか、そんなものは一切なく、ただ彼女が気の毒でならない、という感じでした。


「そう、でしたか。……そうでしたね」


惜しいことをしてしまった。


カダチは素直になれない子、甘えられない子、恥ずかしがる子。でも、自分を嫌っている人のためであっても行動出来る優しく、強かな子。

今から、はもう遅い。私もつべこべ考える前に素直に撫でてしまえば良かった。この機会を逃せば、次はいつになるか分からないのに……。


……いえ、悲観主義になるのは悪癖ですよ、リディア。


こう考えましょう。——彼女と共に旅をする上で、彼女が再び甘えてくれる時まで、側に居ると。


そう考えると、ほら、——悪い気はしないでしょう?


        *  *  *


 ――雨って、人に嫌われていますよね。


濡れることが嫌だったり、そのせいで体が冷えることも嫌。濡れたもの一式を乾かすのにも一苦労。


それでも、私は雨が好きです。その理由は、案外単純だったり。



雨模様が広がり、日も暮れてきたからか、住宅街でも人々はめっきりと姿を消しました。曇天の空の下、雨が降って暗くて見えずらい地面の土が跳ね、雨粒が幾つか出来上がった水溜まりに浮かぶ葉を沈めようと躍起になっている風に見えました。


誰もが家に閉じこもり、眠りにつく準備をしている。明日を迎える準備をしている。生きている。生き続けている。これからも、生きようとしている。


「ここら辺の予定だったわ」


彼女はそう言いましたが、周囲に彼らの姿は見えず、居るのは閉まったダンゴ屋の椅子に座る男性だけでした。


深く俯き、濡れた髪で顔が隠れたその彼は、着慣れているであろうキモノを僅かに着崩し、何をしている訳でもなく、ただ座っていました。この街で私達以外の外出者。雰囲気も何だか不思議で、まるでトネリカ風の幽霊のよう。


トネリカの幽霊、ゴーストは女性の姿で描かれることが多いらしいですが、男性の幽霊が多く描かれていたら、まさに目の前の男性のような人物像になるのでしょうか?それとも、もっと口を裂けさせたり、脚が透けていたりしていたでしょうか?


まぁ、関係ないので、彼について特に何も考えずに放って通り過ぎると、


「何処行くんですか?()()をほっぽり置いて」


何と、その人物が私達の探していた人だったというオチでした。


「人を服装と髪型だけで判断しているのですか?」


私の若干の驚きを気にせず、髪を軽く上げ、嘲笑うディールス。笑う、ではない。嘲笑う、の方が適切で適当な感じの笑み。


……ふぅ。そう、ゆっくりと息を吸う。頭を冷やす。

何か言う前にそうしないと、第一声が「めんどくさい」になってしまいそうだったので。


…………うわ。……雨の中、傘も差さずに居た時点で嫌な予感はしていましたが、何だかものすっごくいつもよりも面倒臭い。


「あぁ、それとも眼中にな――」


「あら、ごめんなさい、色男」


わざと遮るように、わざとこちらも嘲笑うように、言いました。言ってやりました。嫌味ったらしいのは、もはやご愛嬌。これも一種のスパイスということで。……これで精一杯だったので。


……うるさい。うるさいな。うるさいですね。これ以上今のあなたの言葉を聞きたくありません。


あなた、本当にディールスですか?

いつもの冷静さは何処に置いて忘れてきたのですか?それとも、自棄になりたくなった出来事でもありましたか?


というか、あなたが無茶な潜入の計画を立てたのに、何をそんなに怒っているのですか?本来だったら、怒りたくなるのはこちらでは?


 ――面倒。


人の気持ちが分からなくて困惑すること、悲しかったこと、申し訳なかったことは結構ありましたが、面倒だと感じたのは初めてです。特に彼に関してこのような感情を抱いたのは。


「あ、皆さん!おかえりなさい!」


「ただいま戻りました、キジェ。そちらはどうでした?何か楽しいことがあったのでしたら、ぜひ教えてください」


ディールス同様にキモノを着たキジェが、彼の後ろの建物の奥からひょっこりと出てきました。


面倒な人と違い、キモノというものに慣れていないからか、キッチリと着こなす彼。トネリカにうまく溶け込めそうだと、一瞬思いましたが、両目を包帯で隠しているのに普通に歩けている時点でアウトでした。


まるで警戒心のない人懐っこい子犬のように、無いはずの尻尾を振り、頭頂部に付いた無いはずの耳を後ろに倒したように見える私は相当疲れているのでしょう。


「……!わぁぁぁあ!血まみれ!リディアさんどこかケガしたんですか⁉」


「え?……あぁ、これですか。大したことはないので、気にしないでください。怪我もすでに塞がっていますよ」


……本当のことを言ったのに、キジェは心配そうに私の心臓の辺りを眺め続けていました。大丈夫ですよ、もう慣れっこなので。


この程度で弱音なんか吐いていたら、あの方の代理人として不合格も良い所。

この程度でへこたれていたら、この旅の終着点にたどり着けない。彼を助けられない。

この程度で負けるのなら、居ても価値はない。


「……」


突拍子もなく、無言で立ち上がったディールスが、拗ねたように大股で歩き出しました。

私達はそれに付いていくことしか出来ず。


 ——雨が私達の足跡を隠すように、私達の存在を隠すように、変わらずに降り続けていました。

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