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4章後半総集編

次の日、リディアはドレスを受け取り、皆と共に『図書館』に来ていた。理由はもちろん、キジェの希望があったからだ。


『図書館』では余程の人ではない限り、観光客も地元の人も入れる。飲食及び飲食物の持ち込み禁止、動物の持ち込み禁止、本に接触禁止など細かなルールはあるものの、国が誇る文化財の中に入れる時点でこの国はかなり寛容だ。


腫れぼったい目を擦りながら、ディールスと距離を取りつつ、無数の背表紙に刻まれた題名の活字を睨む。高い天井から漏れる光と床に反射したそれが眩しすぎる。


……辛い。


彼に信頼されていなかったことが。彼に隠し事があったことが。


この長い旅で、仲間だと思っていたのが私だけだったと思うと胸が張り裂けそうになる程悲しくなる。目を背けたくなる程の事実。


…………私は、彼の何だったのだろう。少しでも、分かりあえていたと思えていた自分が憎くて恋しい。


再版から、改編、翻訳され続けて数百冊にものぼる七百年の歴史ある世界創世記の棚に差し掛かる。本棚の影に体を覆われた時、リディアは改めてしみじみと痛感した。事実が、彼女を押しつぶしに来た。


 ――あぁ、ディールスは、死ぬのか。


手を差し伸べてくれた、幾度となく助けてくれた、助けを求めてくれた、プレゼントをくれた、対等に接してくれた、彼が死ぬ。


文字の羅列として理解したのではない。ただ、「彼が死ぬ」という事実が今や悲観的な脳に刺さった。


 ――死。


昔の私なら、他人も親戚も友人も家族も、何も感じずにいられたはず、だ。


自分の死よりも他人の喪失が、堪らなく怖い。この気持ちは、エドワーズが死にかけた時以来だ。胸糞悪い。


少し前の私なら、どうにかしようと奔走していただろうが、その気力すらも湧かない。改めて、現実を突きつけられた。残酷だ。人間にはどうしようもない、残酷な現実。


泣いても泣いても悲しい。ただ悲しかった。湧き上がる泉のように、涙は止まることを知らなかった。


私の手は小さい。何もかも零れ落ちる。

私の腕は短い。何にも届かない。

私の声は小さい。誰にも響かない。

私の心は丸い。ぽっかりと、中心に穴がある。

私のドレスは白い。心情を全く反映していない。


 ――彼の言う通り、私って結構変わったんだなぁ。


冷徹で非道で素直になれなくて、そのくせ鈍感な昔の私。

決意と行動、仲間に囲まれて無敵みたいに慢心していた少し前の私。

結局手の中には信頼も真実も無く、ただ指の隙間から仲間の命が零れるのを見ることしか出来ない空っぽな今の私。


マシになったかと言われれば返答に困るような変化だ。どの道、面倒くさくて嫉妬深く、舞い上がりやすいガキということには変わらないのだから。


……あぁ!むしゃくしゃしてきた!手あたり次第に八つ当たってしまいたい!


ここのものを殴る気は流石にないが、周りに手ごろなクッションでもあればと思い、辺りを見回す。そんなもの無いって知っている。知っているけど、八つ当たりしないと気が狂いそうだった。また泣いてしまいそうだった。


 ——彼と、目が合った。


反射的に目を逸らし、その場から立ち去ろうと足早に歩きだした。響く二つの足音が絡み合い、反芻して消えていった。


手首を掴まれる。彼は何も言わない。


「……何か言いなさいよ」


放しなさいよ、じゃなくて、言いなさいよ。心の弱さが出ているぞ、リディア。


「それはこちらのセリフです。何かあったのですか?」


……それ、あなたが言っちゃう?笑っちゃう。


「………………むかつく」


……あぁ、そうだ。何もかも壊したくなる程に腹が立つ。


「あなた、死ぬらしいじゃない。どうして?」


「…………聞いていたのですか……!」


否定、しないのね。


あぁ、許せない許せない許せない!無知は残酷で、酷い罪だ。無知すらも知らず、のうのうと生きていた自分が許せない!



過去は変えられないが未来は変えられる、今の私なら。


それを一番知っている、痛い程に。


まだ、間に合う。


今までのままでは居られない。甘えては居られない。私は、変わらなくてはいけない。


 ——アメジストよりも硬く、透明な心に。


変わらなくては、——いえ、変わりましょう。演技ではなく、本物のアメジストに。今、この瞬間から。


「――答えは得ました。もう充分です」


「リ、ディア……?」


「どうなされましたか?ディールス」


彼の手からするりと抜け出しました。

少し歩いた先、彼を振り返ると二人の間に影と光の境界線が。いつもあなたは眩しい方にいらっしゃるのですね。


 ――影に飲まれたリディア。光に包まれたディールス。


そう、それで良い。それが正しい。

あなたは世界に愛され、祝福されています。そうでなくてはならない。


ディールスが死ななくてはいけない世界なんて、()()()()()()()()()。私は彼の喪失を世界の間違いと定義します。


 ――変えましょう、その未来も。


大丈夫、変えられるはずです。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


人間は弱い。ですが、それと同時に、どんな時代であろうと、どのようなことが起きようと、決して絶えず、全身全霊で抗って、もがき続ける強かさも持ち合わせている。


神は万能。ですが、それと同時に、死を悲しみ、死者を悼み、それ故の愛と柔らかさも有している。


ディディは後悔の塊。ですが、償い切れない罪だと知りながら、自責の念に潰されても、それでもなお、償おうと前を向いて歩く不屈の精神を身に付けている。


どんな時代も、誰もが必死に生きてきた。

喜び、悲しみ、笑い、怒り、慈しみ、悔やみ、恨み、憐み、それでも手を取って誰かを愛してきた。

その集合が、連鎖が、積み重ねが、今の世界。


あの方の代わりに素晴らしいこの世界を、今のままで存続し続ける。あの方の代わりに愛する。それが今の私の役目でしょう。


 ――私が、あの方の代理人となります。


        *  *  *


「な、何を馬鹿なことを……⁉」


まだ何も言っていませんが、持ち前の推理力と察しの良さで彼はまた私の心情を手に取るように分かったそうです。流石です。手間が省けました。


「何を血迷いましたか、リディア⁉そんなこと出来るはずがありません!」


「出来る、出来ないの話では既になくなったことはあなたも重々承知のはずです。しかし、私にはあの方の力の半分が流れている。それだけで”原初”の紛い物としては成立、機能します。何より、死ぬことが出来ない私の罪の償い方として、これが最も理想的な形ではありませんか」


あなただって一度でもこの考えが浮かばなかったと言えばそれは嘘でしょう。賢明な方ですもの。私よりもずっと前に、思いついたはずです。それでも決して口に出さなかったのは、きっとあなたの優しさもあるのでしょう。


「……困惑していますね。ですが、ご安心を」


あなたがくれたペンダントを握りしめながら、私ははっきりと言い切ります。あなたが望む言葉を、今度こそ。


「――私は、何も間違っていませんから」


罪を償いたいと思う気持ちがどうして間違いとなりましょう?この気持ちも、行為も、方法も、全て正しい。間違いであるはずがありません。


「……いいえ、貴方は間違っている!」


そう。真っ直ぐに、あなたは否定するのですね。


「リディア。貴方は彼女になれないし、彼女も貴方にはなれません。その償いは間違いだ」


あなたは常に正しい。人間ではないのに人間らしく、でも人間よりもはるかに強か。その一生はまるで一本の線を書いたように真っ直ぐだったのでしょう。だからこそ、自分が正しいと思った方にしか居られない。それでも、


「良いのです。今は理解を示していただかなくても、いつか」


いつか、あなたは認めざるを得なくなりますから。


あなたが否定しようとも、拒絶しようとも、邪魔をしようとも、私はあなたを排除なんてするつもりは毛頭ありません。世界にも、私の償いにも、彼は絶対に必要ですから。


ただ未来を変え、償いが始まった時には、——私は世界諸共、あなたとも永遠の別れをしましょう。


「待ちなさい、リディア!!これ以上――!」


ディールスに背を向けて歩き始めた時、静かな『図書館』に彼の怒声に近い叫び声が響きました。

 

その時、二人の後ろにあった高い梯子が勢いよく倒れました。近くには倒れて動かない人、状況的に彼の声に驚いた人がバランスを崩してしまったのでしょう。


ディールスが駆け寄り、状態を確認しました。私も顔を覗き込んでみたところ、呼吸正常、目立った外傷も無い。ただの気絶ですね。


近くに居た『図書館』の関係者を呼び止め、状況を伝えると、彼女は慌てて救急箱を取りに行ってしまいました。


「『図書館』の関係者には連絡しました。簡単な説明も済ませたので後は待機ですね」


ディールスに伝えた時、先程の女性が数人を引き連れて戻ってきました。


的確な指示と外傷を確認したのち、気絶していた男性は小さな呻き声を上げました。頭を押さえながら制止も聞かず、上体を上げると彼は周囲を見回しました。


私と同い年ぐらいの青年。スーツの上に着た乾いた絵の具が付いたエプロン、年相応の低い声、オールバックにした枯れ枝のようなこげ茶色の髪、一瞬細められた髪色に近い薄茶色のアンダリュサイトの瞳は、彼の芯の強さを表している気がしました。

まるで狼のようだ、という印象を受けました。


「……うっ、痛った…………」


状況をまだ掴めないのか、それとも意識が完全には覚めていないのか、青年は虚ろな目を細めたまま、ブツブツと呟きました。


「……い、家まで……、連れて、って…………」


そこまで言うと、青年は再び意識を失いました。

首は垂れ、瞳は深く瞑られ、規則正しい寝息が聞こえます。


……さて、嫌な予感がするのはどうしてでしょう?

答えは簡単、彼がこうなった原因が私達にあるから。


「…………あの、私達がお連れします」


「よろしいのですか⁉」


「えぇ、彼がこうなったのは私達に責任がありますし、何よりあなた方は『図書館』の業務で手が離せないでしょう。私達が適任かと」


面倒事には首を突っ込まず、静かに立ち去る主義ですが、流石に今回はそんなこと言えませんし。ディールスも納得してくれるはずです。


職員の方々から話をうかがうと、どうやら彼は巷では結構な有名人らしく、自宅を知っている方がチラホラいらっしゃいました。


何でも十七家の司書の一つ、ディケオスィニ家に仕える気さくな従者だそう。若くして将来有望。素晴らしい人材なのでしょう。


キジェとカダチを呼んで事情を説明し、ディールスに彼を負ぶってもらい、貰った手書きの地図で土地勘のある私が先行し、少し長い間、私達は歩き続けました。

大通りで変な目で見られ、裏路地で泣きながら叫ぶ酔っ払いに絡まれ、吹雪が激しくなってきつつあった時、彼の家らしき所にたどり着きました。


……一人暮らしと聞いていましたが、一人で暮らすには大きい気がしますね。


この国特有のレンガ造りの家、屋根に積もりに積もった雪、心細い家先のランプ、よく手入れされた庭に花を咲かせる低木がありました。


ピンクの花が小さくとも愛らしい。雪に、寒さに、負けず必死に頑張っている姿に心を打たれました。


「――コノエハコ、だな。寒帯、冷帯に見られる常緑低木で一年中白い花を咲かせる珍しい特徴を持っている。花の香りや形の可愛さから昔から根強い人気があって、この国ではわりかしスタンダードな庭木だぜ」


「……へぇ」


うーん、前半何を言っているのかさっぱり。

時々ディールスが別世界の言葉でも話している気がしてしまいます。学の差、ですね。悲しいですが。何せ私、まともに学校行ってませんし。


勉学は嫌いですが、少なくとも同い年の友人と過ごす掛け替えのない時間、”青春”には興味はあるんですけどね。仕方がありません。

そんな人生でも、家族と共に過ごした時間は幸せでしたから。


……あれ?目の前のコノエハコはピンクの花が小さく愛らしい。少なくとも白ではありません。


「ディールス、この花はピンクに見えますよ」


…………ん?


「んあ、それにはこの雪山よりも高ーく、ここからは見えない湖よりも深ーい理由が……」


「いえ、起きてらっしゃるのなら先に言ってください」


「……えへ、バレた?」


「これでバレてないと思われていることに驚きを隠せませんね」


驚き、というよりも呆れ。まぁ、流石に彼も本気で言っていないと思いますが。というか途中まで気が付かなかったことは黙っておきましょう。


「まぁまぁ、わざわざ狸寝入りして送ってもらった身だ。茶でも出すからあがれよ。歓迎、するぜ?」


皮肉な笑みを浮かべた彼は、鍵すらもかけていなかった家のドアノブを回し、奥へ消えていきました。


 ――まぁ、本当に食えない方。驚嘆を通り越して今度は怒りを覚えてました。


ここまで来たのです。癪に障る、……いえ、少々性格に難のある方ですが、何も得ず手ぶらで帰りたくないと思ってしまいました。


ため息をつきながら冷たいドアノブを回しました。


        *  *  *


……本当に人数分お茶を用意する気遣いが出来る方だとは思っていませんでした。何でしたらお茶菓子まで出していただきましたし、数ヶ月ぶりの飲食は貴重でした。


「……今、おれにとってすごく失礼なこと考えたろ」


「さて、何のことでしょう?」


すました表情で紅茶を口に運ぶとふわりと華やかな香りが口一杯に広がりました。……もしかして、この香りはコノエハコ?


青年はというと、私達がお茶をしている最中にエプロンを外し、髪をくしゃりと乱雑に下ろしていました。若干大人びた印象が薄くなっただけで、あまり大きな変化がないように感じました。


部屋を見回すと、デッサン用の黒鉛、積み重なった画材、色の混じったパレット、何本もある筆、途中まで描かれたキャンバス、絵の具の付いたイーゼルスタンド、絵の具がこびりついた(逆に芸術的な)流し台、など彼を物語る道具が転がっていました。


彼の職業を知るには十分すぎる程の代物です。それでも形式上、聞いておきましょう。


「まずはご自身の自己紹介をなされては?」


キジェとカダチが私の口調と笑顔に明確に困惑しているのが、視界の端に映りました。もどかしいですが、それでも、今は目の前の青年から情報を得ることが先決ですね。


「それもそうだな」


彼はドスンとソファーに座ると、頬杖をつきながら言いました。


「おれはウィリアム。歳は十八。苗字は無いぜ。この国では十七家の『司書』の家の者しか苗字を持たないからな。気軽にウィルって呼んでくれ。趣味は機械弄り。肩書はディケオスィニ家の庭師兼、専属絵師兼、代理執事だ」


「すごい肩書ですね。余程ディケオスィニ家の方々に好かれているか、優秀な人材なのでしょう?」


「鋭いな。あるコトがきっかけで特に奥様にいたく気に入ってもらってね。この家も古いが借家として貸して頂いたり、ディケオスィニ卿の懐の広さには感謝しかない」


「そうなのですね」


「……君達の自己紹介をまだ聞いていないな」


聞きたい、ではなく、聞いていない。そんな風に言うあたり、私も人のことを言えませんが、ひねくれていますね、何がとは言いませんが。


「また失礼なコト考えてるだろ、君」


「あら、何のことでしょう?」


この方もこの方で、変な所で鋭いですね。


「私はリディア・ハートフォード」


「キジェ!」


「カダチ、なのよ」


「ディールスと申します」


……四人分の自己紹介が目の前の青年の自己紹介よりもずっと短かったのはなぜでしょう。語ることはない、みたいなスタンスですね、私達。


キジェ、お菓子を頬張りながら喋らないこと。


「……キジェ?それってあの?」


ウィリアムが目を見開き、驚いた表情を浮かべています。流石に彼にはバレますね。


「えぇ、そのキジェです。()()()()()()()()|彼にキジェという名前をあげたのは私です」


ぽかんとするキジェに向き合い、いつかするつもりだった話をし始めました。


「キジェ。私達が初めて会った日を覚えていますか?あの日、私は素月に照らされた空、という意味の名前をあなたに差し上げました」


「はい、覚えています。僕にとってあの日は忘れられない程大切な一日ですから」


ふにゃり、と笑う彼。万人を癒し、愛し、包み込んでしまいそうな、彼らしい笑みだった。


「キジェ、という名前はこの国で有名な童話の主人公の名前でもあるのです。知らない者のために立ち上がり、友のために手を取り合い、家族のために戦い、隣にいる者のために決して膝をつかない、勇敢で慈愛に満ちた英雄。私は彼のようになって欲しいとも思い、この名前にしたのです」


「そうだったんですね!」


目を輝かせたキジェが嬉しそうに手足をバタつかせています。いつか、この話は彼に聞かせたいと思っていました。彼が


「……この名前をさらに気に入ってくれたら幸いです」


小さな独り言はそのまま消え入っていきました。


「そっちのお嬢さんは神様とおんなじ名前か。何か存在感あるし、ぴったりだな」


「……ふん」


ぴったりどころか本人ですしね。


そう、そうではなく。私も感じていましたが、カダチは昨日から在り方が違っていますね。

一昨日は確かに”人間だったディディ”として彼女は存在していました。それが昨日から彼女は”ディディであり、神でもある”存在として過ごしています。おそらくは彼女の力によって変わったのでしょう。


彼女にどんな思惑があって在り方を変えたのかは分かりませんが、彼女なりに自分を認め、在り方を定めた結果だったのなら、それはきっと素晴らしいことですね。


「……本題に移りましょう。どうして、私達をここへ連れてこさせるような真似を?」


「いや、おれ気絶したのは嘘じゃないんだぜ」


え?……いえ、確かに彼は「狸寝入り」と言っていましたが、それは始めからではなく、ということでしたか。


「その節は失礼しました」


私が口を出す前にディールスが先に謝罪する。


「あー、良いの良いの。何も謝らせるために呼んだんじゃねぇんだし」


苦笑交じりに青年は謝罪を受け入れました。


「おれは君を描きたくて呼んだんだ」


「……指を刺さないでいただけますか」


「それは失礼」


わざとらしく両手を上げ、お手上げとでも言いたげなポーズをとって笑っているウィリアム。挑発ともとられそうな彼の仕草に乗らないように目を閉じました。


「少し前、おれはディケオスィニ一家の肖像画を描いて欲しいと依頼されたのね。でも案の定、行き詰って困ってたワケ。そこで今、すっごい噂の舞姫でも描けばインスピレーションでも湧かないかなと」


「噂、ですか?」


「知らなかったのか。”妖精の如き高潔な舞を見た者は永い生を手に入れ、セイレーンの如き清純な唄を聴いた者は不死を手に入れられる。いと美しき紫の眼の君、——舞姫がこの国にやって来ている”。リディア君の今の噂だぜ」


私は歌までは披露していませんが。噂が独り歩きしてしまったようですね。


「嬉しい評価ですが、生憎とそこまで素晴らしいものではありません。……生きるためには舞うしかなかっただけですから」


「ははっ、謙虚も行き過ぎればただの嫌味だぞ。少なくとも、その大層な噂が広がるくらいには君の舞は民衆の心を掴んだ。その噂のおかげでおれは君を一目見て”紫の眼の君”だって分かる程に。誇れよ」


真っ直ぐと、誠実な瞳でこちらを見据えるウィリアム。本心からの言葉というのは、どうしてこんなにも心を締め付けるのでしょう。


思わず、ディールスに目配せをしました。彼を少しだけ信用して、話を伺っても良いですか、と。

裏があるのは確かですが、彼は悪人ではない。何よりも、今は情報が無さすぎます。


この国の静けさはあまりにも気味が悪い。今もなお怯え続けているように目に映った人々が憐れで仕方がありません。


「――というか、君は俺に協力するしかない」


……空気が変わった。わざとらしい笑みをした彼が、芯から凍える程の冷気をまとっているような。敵意でも、殺意とも違う。これは、残虐な――?


「俺はこの国が好きだ。歴史も、文化も、景観も、民衆も。特に伝承や噂が好きなんだけどな」


彼の言葉でハッと我に返る。呑まれてはいけませんよ、リディア。


「引き裂かれた運命の二人”オーウェンの恋人”は知っているか?『図書館』の最深部に眠る世界創世記の原本の伝説は聞いたことくらいはあるか?真夜中の劇場から聞こえてくる若くして散った奇才の大女優マーリーンの唄は?吹雪の中で月初めだけに現れるオンボロの幽霊船の中の遺物はマイナー過ぎるかな。孤高の哲学者ロウの最期の場所ウェニ湖は流石に有名過ぎるよな。——あぁ、この国では『司書』の家の者しか知られていない指名手配犯の似顔絵、とか?」


………………第一印象の通りでした。私は、この方とは根本的に合わない。この方の仕草、行動、言葉選び、全てが気に入りません。


作り笑顔をしなければ、私は今ウィリアムを思い切り睨みつけているでしょう。


「もちろん、これは対等な関係だ。脅した後に言うのも何だがね。君達の事情に首を突っ込む気はないし、実のところ、あまり興味がないのも事実」


卑怯者。……いえ、情報も立派な武器、という教訓にいたしましょう。


「この国の情勢を知りたいです。内戦は、どうなったのですか?」


「事実上、この国の内戦は停止した。終結じゃない、停戦だ」


「どうして⁉」


終わっていない⁉どうしてこの国の戦争はまだ続いているのでしょう!どうして終わらないのでしょう!


どうして、終われないのでしょう?この国は。


「そんな顔出来たんだな。……いや、元々そんな顔をする奴だったのか」


驚きのあまり、紅茶を零しそうになったウィリアムは、机にカップを慎重に置いた後、真剣な顔をした。


「落ち着けよ、猫被りことリディア君。ちゃんと説明してやるから。……あー、まず、この国は十数年前から非常に不安定になっていた。詳しく明かされもしなかったが、『司書』達の政治的な策だの方針などが違ったから始まったとしか言われていなかった。それが完全に崩れたのは十一年、『司書』の十七家の一つ、オーウェン卿が他殺され、その御子息が連れ去られたのか行方不明になった時からだ。糸が切れたように内戦が始まったよ。だが、同時に奇妙なことが続いた。——『司書』の当主が後を追うように次々と亡くなっていったんだ。十一年間、ずっとね」


ウィリアムは憂いを帯びた顔で言い続けました。


「逆恨みで刺されたブラベウス卿、火事で屋敷ごと燃えたへ―リオン卿、車輪が壊れていた馬車に乗って崖に転落したセリニ卿、遠出で船が難破して生存が絶望的なアステリ卿、人が近づかない地下室に誤って閉じ込められて餓死したピルゴス卿、領地で狼に食い殺されたソープロシュネー卿、梯子から転落したフォントゥーナ卿、朝には冷たくなっていたエリミーティス卿、酔った勢いの決闘で体を真っ二つにされたズィナミ卿、雪崩に飲み込まれたハルマ卿、恐怖のあまり当主の座を譲った夜に毒を盛られたソフォス卿、遭難して仲間内で争った後凍死したと思われるディアドコス卿、荷車に圧し潰されたマゴス卿、気が狂って四人の使用人を手にかけた後自身の喉笛を掻き毟って死んだイリスィオス卿、——そして三週間前に遺書を残して首を吊ったディケオスィニ卿」


彼は続けます。決められた言葉しか言えない機械みたいに。自分が仕えていた主が亡くなったことすら。


「次は自分が、と死を恐れた『司書』の家系の人間達は理由を付けて当主になるコトを拒んだ。現在、十七の席は全て空席だ。だから、事実上の停戦状態になった。政治もままならないが、市民の立場としてはそっちの方が断然良いんけどな。ただ、またいつ内戦が再開するか分からない。それが今のこの国の内情だ」


 ――空席と、再開が不明な停戦、ですか。


期待って、やはり辛くなるだけですね。


「……なるほど。貴重なお時間ありがとうございました。今日はもうお邪魔しますね。明日、ここに来ればよろしいですか?」


「あぁ、それで頼む」


退去の準備を済ませ、席を立った時、ふと――。


「…………あぁ、お一つ、よろしいですか?」


「どーぞ」


「――あなたが先程語ったマーリーンという女性は私の母だ。彼女を面白半分で侮辱するのなら、私はお前を許さない」


「そ、れはすまなかった」


「母は素晴らしい人でした。彼女の尊い魂は、舞台の上でも、それ以外の場所でも、自由で、気ままで、何にも縛られていなかった、妬ましい程。私は彼女を母に持ったことに誇りを持っています」


血の気の引いた顔をしながら彼は絞り出すように謝罪の言葉を言った。……少し、大人げなかったでしょうか。


「いえ、何でもありません。良いのです。分かっていただけたのなら」


「……いやはや、”紫の眼の君”は噂よりもおっかないな」


「あら、噂通りの人形(ドール)が欲しいのならどうぞ他をあたってください。私は大人しくいるだけの人形(ドール)で居続けるのは、もう二度と御免ですから」


「いや、さらに気に入ったぜ。特にその信念については同感だ。おれ達、案外合うかもな」


「ふふっ、ご冗談を」


合いはしませんね、絶対。世界が裏返っても、あり得ません。


それに合う、というよりは似た者な気がしますよ。


 ――何せ、人形(ドール)機械(ロボット)ですもの、私達。


「さようなら、ウィリアム。今日の所は、これで失礼します」


閉まりかけの扉の向こうの彼に、きつく、軽蔑の眼差しを向けました。


        *  *  *


翌朝、改めてキジェとカダチには巻き込んでしまったことへの謝罪と、今日一日を自由に過ごして欲しいという旨を伝えました。


二人とも不満げな顔をして、最後まで折れてくれませんでしたが。……いえ、三人とも、ですね。


「すみませんでした」


「どうしてあなたが謝るの?」


「私のせいであなたが彼の要望に応えることになったからです」


「あなたが責任を感じることではないでしょう。良いのです、私がしたくてしていることなのですから」


責任感が強いのは悪いことではないと思いますが、ディールスは肩の力を少し抜いても良いと思います。彼もまた、私の説得に最後まで折れず、同行することになりました。


ウィリアムの家の扉に手を掛けた時、屋根に積もっていた雪が落ちました。大きな音をたてながら、滑り落ち、地面に積もった雪の中に、冬服の袖が――


走り寄り、雪を素手のまま掻き分けました。何処?何処何処何処⁉


まずい。いくら防寒しても、雪に埋もれて窒息なんてすれば意味がありません。長い日数を掛けて屋根に積もっていた雪なら尚更硬いでしょう。


四人で深い、深い雪を掻き、袖を引っ張り続けました。そしてようやく、頭と思わしき場所が見え、そこを掘り続け、埋もれていた少女を引きずり出すことが出来ました。


耳まで赤くなった顔が雪から出た瞬間、彼女は陸に打ち上げられた魚のように必死に酸素を取り込み続けました。


カダチと同じくらいの年齢の少女。蜂蜜と夕焼けを溶かしたようなニンジン色の長い髪、青白い顔、涙ぐんだ 鈍い黄色のパイライトのような瞳、紫になった唇。今は息を整えることで精一杯のようですが、年頃の女の子は砂糖菓子で出来ている、というが言葉を体現したような、カダチとはまた違う愛らしさを兼ね備えた少女でした。


「えぇっと、……は、初め、まして。助け、てくれて、あり、がとう」


まだ咳をしているが、少女は謝罪を忘れませんでした。まだ苦しいでしょうに弱弱しく笑い、こちらに気を使っています。


「ふふっ、アナタたちにびっくりして、こんな所にかくれちゃった。もうメイドにバレちゃったかと思って」


「大丈夫?どこか痛い所はありませんか?」


真っ先にキジェが声を掛けながら、手を差し伸べました。意外にも、彼は子供好きなのでしょうか。


「うん、もう平気。ありがとう」


少女は手を握り、ゆっくりと時間を掛けて立ち上がり、服に付いた雪を払いました。


「アナタたちもウィルに用事があるの?」


「ボク達、というより、リディアさんがウィルさんに頼まれ事をされたんです」


キジェがこちらに手を向けます。少女の視線がこちらに向けられたので、軽く会釈しました。


「おねえちゃん綺麗だねぇ。妖精さんみたい!」


「ふふっ、ありがとうございます。ウィリアムさんとはどのようなご関係なのですか?」


「ウィルはね、いのちのおんじんなの!昔アタシのこと助けてくれたんだ。……アナタたちもだね!」


そういうと顔の火照りがまだ治まっていない彼女は私の手を取って再び、困ったように笑いました。まだ幼い少女なのに、まるで諦めた大人みたいな笑い方。カダチの方が外見相応の笑い方をしている気がしました。


「すげぇ音したけど、来てるなら言ってくれよ……」


眠たそうに目を擦り、頭を掻くラフな格好の青年が窓を開けて身を乗り出していました。


「ミスター・ウィリアム、今はもう昼近くです」


「知ってる、ディールスの旦那……。朝は弱いんだよ」


半分も空いていない目に小さい声。本当に朝弱いんですね。


「わ、ウィル髪下ろしてるー!」


「ははっ、髪下ろしてもウィルさんは色男だろぉ」


そう言いながら何処から持ってきたのか、淹れたての紅茶をすすり、少女の頭をポンポンと軽く触れました。嬉しそうに少女はされるがままになっています。


「ウィリアムさん、この少女は?」


「……え?」


夢と現実の狭間で揺れていた彼の目がはっきりと覚めた瞬間でした。カダチだと思っていたのでしょうか。


彼は今、気付いたのでしょう。一度も目の前の少女を目視していないことに。


恐怖心と葛藤しながら、ぎこちない動作で目線を下に向けて、必死に手に触れている少女の姿を見ようとする彼。まるで今触っている少女に心当たりがあるが、違う人物であってくれ、というような。


「――おはよ、ウィル!」


やがて、少女の姿を視界に入れ、その声を聞いた瞬間、青年は見たことがない程真っ青な顔と悲鳴にならない悲鳴で、卒倒しそうにふらふらと数歩下がり、勢いよく窓を閉めました。家の奥からガチャガチャとやかましい雑音が響き、やがて勢い良くドアを開けて彼が戻ってきました。


昨日着ていたしわの付いたスーツ、雑に上げたであろう前髪、靴は踵が潰された状態で履いていた。


「…………大変申し訳ありませんでした、エーリゼお嬢様」


 ――流れるような、完璧な土下座でした。


タイミング、角度、声の張り、抑揚、メリハリ。ぐしゃぐしゃの服装と場所が雪の上でなければ、思わず拍手していました。それを加味しても、謝罪としては八十九点の高得点ですね。

何よりも意地もプライドも捨てたと言わんばかりの額の付け方が、彼の性格を知る者ならあり得ないと思わせるには十分でした。


「もう、そんなにあやまんなくてもいいのに」


少女 ——エーリゼは少し頬を膨らませ、ウィリアムの腕を掴んで強引に彼を立たせました。頭を撫でてもらったことが、実は相当嬉しかったのでしょう。


「いえ、休日だろうがわたくしはディケオスィニ家の使用人であるコトには変わりません。従者が主に不敬を働くなど、とてもではありませんが許されることでは――」


「はなしが長ーい!おじゃまします!」


「お嬢様ー⁉」


……圧倒されている、あのウィリアムが。


それはそれで大変愉快、……面白いのでエーリゼに付いていった。


        *  *  *


「……なるほど。雪に埋もれてしまったお嬢様を助けて頂いてたとは」


ウィリアムにはエーリゼが簡単な説明をしてくださいました。


「皆さん、この度は大変ありがとうございました。エーリゼお嬢様に何かあったらと思うと、……こう、首が寒うございます」


渇いた笑いをしながら手で首を触る彼。おそらく本気で繋がっているか確認してらっしゃいますね。


「……たいへん、ウィル。アタシまだおんじんさまにじこしょうかいしてないわ!」


「お嬢様、それが済みましたら説教ですよ」


「えー!」


「お嬢様、お願いですからもう使用人の家なんかに訪れないでください。ここは貴方様のような方が来て良い所ではないと散々申し上げております」


「ウィルがきているなら、あたしもきていい!」


「わたくしの家だからでございます!」


エーリゼはどうやらウィリアムに相当懐いているらしい。今も隣に座り、幸せそうに笑っています。反対に頭を抱え、本気で思案している青年。


「……えー、こほん。もうしおくれました。『司書』の十七家の一つ、ディケオスィニ家の娘、エーリゼ・ディケオスィニでございます。どうかお見知りおきを」


彼女はそう言うと完璧なお辞儀を披露しました。幼いながらこの完成度。これはかなり厳しい状況下で練習した成果でしょう。


「立派でしたよ」


「えへへ」


ウィリアムがそう言うと、エーリゼはさらに嬉しそうに彼に笑いかけました。


「えっと、本題なんだけど『図書館』でデッサンしたいんだが、『図書館』へ向かう……、前にお嬢様をお屋敷までお送りしても良いか?」


「アタシも行くー!」


「お嬢様、おいたが過ぎますよ。それでは風邪を召されます。お体が弱いのですから」


「私はそれで大丈夫ですよ」


「すまんな、助かる」


「むー」


唇を尖がらせる彼女。


「……ん?お嬢様。もしかして、また奥様に何も言わずにいらっしゃいましたか?」


「おかあさまがいいよって言うとおもう?」


「ですよね!勘弁してください。怒られるのわたくしなのですよ⁉」


ソファーの背もたれに全体重を掛けて天を仰いでらっしゃるウィリアム。小悪魔っぽく微笑むエーリゼ。

こうして見ると、彼は苦労人のエリート、という面が強いですね。


「とにかく、もう帰りますよ!重ね重ね申し訳ないが、先に『図書館』に行っててくれ!」


「いーやー!もっとウィルといっしょにあそぶー!」


……ウィリアムとエーリゼ、最後はどちらも互いに必死でしたね。


        *  *  *


「……お待たせ。いや、ほんとにすまんかった」


息が切れたまま、スケッチブックを持った彼が到着したのは、それから一時間半後のことでした。


相当叱られた後、急いで来たらしい。再び乱れた髪、適当に選んできたようなスケッチブック、汗が滲む額、顔は先程よりも覇気がないように感じられました。


「いえ、その……、ご苦労様です」


「し、仕事だから……、それに好かれているしな……。ははっ……」


「……鉛筆を持ってないように見えるのだけど?」


彼の乾いた笑いを無視するように、私の疑問をカダチが代弁してくれました。確かに、彼は鉛筆を持っていません。そもそも、ここに鉛筆などのペンは持ち込み禁止のはずです。


おもむろにウィルは誇らしげに、懐から隠し持った布に巻かれた数本の鉛筆を出しました。……呆れました。『図書館』の雑な警備にも、彼の悪知恵にも。


「ここ以外でも描けたはずなのよ。どうして、ここを選んだのよ?」


「いやぁ?おれは『図書館』の妖精、みたいなコンセプトで描きたくってね。まぁ、要するに『図書館』も描きたいが、リディア君も描きたかったってコトよ。おれの好みで我儘。あ、そこに立って」


「……」


カダチが望んだ答えではなかったらしく、彼女は何も言わずに『図書館』の端に座って何かを縫い始めました。……やっぱり、兄妹ですね。しっかり。


人目に付かない、それでもって日当たりが良い場所を彼は知っていたらしく、人知れずデッサンが始まろうとしていました。


「まずはそこで適当に踊ってみてくれ。もちろん静かに頼むぜ」


「適当に、と言われましても……」


「君なら出来るだろ?」


「……まぁ、出来ないとは言っていませんし」


言われた場所に立ち、ブーツを脱いで適当に揃え、ポーズをとる。ピタリと、時が止まったかのように、息を忘れて静止する。

舞う始めと終わりは、完璧に止まらないと私は始められない、気が済まない面倒なたちなので。


音楽が、……キジェのピアノ?があればなぁ。


頭の中で音楽を掛け、頭の上にしなやかに手を伸ばします。足音が響くのでいつもよりも意識してつま先に力を入れます。


髪もドレスも普段よりもなびかない。風がないからでしょうか、無性に体が熱い。しかし、これも踊りの醍醐味。この熱が、心地良い。


……でも、どうしてでしょう?


踊りに人生を狂わされた、踊りにありとあらゆる時間を捧げた、それでも踊りを楽しんできた、私が


 ――今はちっとも楽しいと思えていないのは。


心が埋まらない。何を入れてもカラン、とガラスが空虚に鳴る音がする。余計なものを全てそぎ落とした、綺麗な音だ。透明感があって、とても綺麗。綺麗なのに、空っぽ。


 ――透けて見える向こう側には、何も無かった。


その場で華麗に見えるようにターンをし、決めポーズでピタリと静止。息が切れても、疲れても、肩では呼吸をしない。見栄えが悪くなります。


そのままドレスの裾を軽くつまんで一礼。顔を上げ、口角を少しだけ上げた笑みを作りました。教会の大人曰く、終わった後に余裕のある、庇護欲を搔き立てるような愛らしい笑顔を作れ、とのことらしいです。


いつもよりも息が切れましたね。しかも、なかなか整わない。


本に隠れてこちらを見ているディールス、静かに満面の笑みで拍手をするキジェ、ディールスの陰で縫うのを止めてこちらを凝視するカダチ、ブツブツと独り言を言いながら既にこちらを見ていないウィリアム。


「そんなに見られては穴が開いてしまいますよ、カダチ」


「……フンッ!」


真っ赤にした顔を逸らす彼女。そのまま刺繡を再開しました。

そんな素直じゃない所が、彼女の魅力の一つであるのですが。


「楽器があれば弾いたんだけどなぁ。残念です」


キジェは楽器を弾くことが結構好きなのでしょう。今も自信がある!、と言わんばかりに腕をまくっています。彼の白い肌、二の腕に、小さな、赤い湿疹が――


「キジェ、腕にある湿疹は大丈夫ですか?」


「……?わ、なにこれ!」


本人に自覚はなかったそう。キジェは無暗に掻いて消そうとしています。手で静止し、じっくりと観察しました。


仄かに赤い斑点が数ヵ所、症状は特になさそう。これは一体何なのでしょう?


「四百年前に流行った感染症の後遺症ですね」


黙っていたディールスがおもむろに口を開きました。


「四百年前……」


キジェは四百年以上生きているということですか。そろそろ彼の年齢が気にもなってきますが……。


「踊っていた時、何を考えていたのですか?」


「……え?」


「……いえ、何でもありません」


それだけ言うと彼はすぐに再び口をつぐみ、本に目を落としました。


驚きました。彼の発言もですが、確かに彼の言う通り、踊っていた時、ほとんど踊りについて考えて踊っていなかった。


 ――踊っている時、踊りのことを考えていなかった、この私が。


雷が体を走ったような衝撃でした。耳鳴りがうるさい。微かな恐怖で手が強張る。

脳裏に教会の大人の、冷淡な視線を一身に浴びた日々。「マーリーンの娘」。それが私のレッテル。あの女優の娘だからと勝手に期待して、誰として私を「リディア」として見てはくれませんでした。


上手くいけば「私達の教えのおかげ」、「血が繋がっているから当然」。

上手くいかなければ「お前のせい」。


家族を失う喪失感も、家族に捨てられた絶望感も、自由だったはずの日々が突然鎖に繋がれた困惑も、支配される恐怖も、抱え込めない後悔も、母との思い出が、——踊りがあったから。辛うじて乗り越えてこれました。今笑って話題に出来ていました。


それすらも、今は楽しめない。苦しい。息を吸っても吸っても、肺からすり抜けていくような。

いつだって怖くて、焦って、怯えている。何に?分からない。でも、堪らなく逃げ出したくなる。


 ――「私」が意識を持ったまま「私」でなくなる。


「リディア」の境界線がブレる。

輪郭を失って体がグズグズに崩れていくような、糸を一本引っ張ったら全てほどけるような、氷のように為す術なく溶けていくような、どうしようもない出来事みたいに。


 ――こんなの、笑えない…………!


「ターンが癖になってんぜ」


「…………ぁ、そ、そう」


「落ち着けって。水飲むか?」


「はい、いただきます」


「……何に怯えている?まるで無敵みたいに己が舞に誇りを持った君がそこまで」


「……詮索は控えていただけますか」


「へーへー、そりゃ失礼」


適当な返事。彼は人をイラつかせる才能の持ち主ですね。皮肉屋で一言多く、人を下に見ている感じが。


「ま、いいや。舞、良かったぜ。そこで足上げて……、ターンの時のポーズ。そう、それ。もうちょい顎引いて。……後は天井のシミでも数えて待っててくれ」


「シミって……」


相当古い、それこそ建国からだとしたらおそらくは千二百年前の建物でしょうが、神が作り、人間が必死に保存してきたものですよ。シミどころか塵やゴミの一つすら見当たりませんが、ひとまず彼の言葉に従いましょう。


…………しかし、しんどいですね、姿勢を維持するのは。


「……少しだけ、お話しませんか?」


「あぁ、その姿勢じゃ苦しいだろ。すぐには終わらないが君の気晴らしになるなら」


スケッチブックから目は離さないが、彼はしっかりと応答しました。

てっきりデッサンの邪魔だから我慢しろ、ぐらい言うかと思っていましたが。


息を飲み、思い切って一歩を振り出してみました。


「エーリゼとあなたの出会い。彼女はあなたを命の恩人だと言っていましたが、何があったのですか?」


「……いや、君は人の詮索はするのかよ」


彼の手が明らかに止まった。しかし、再び鉛筆が紙の上を走り始めるのにそう時間は掛かりませんでした。

ウィリアムは何事もなかったように思案し始め、肩を落として静かに重い口を開きました。


彼の言葉はごもっとも。しかし、私は知りたいのです。知らないといけない。


「一年くらい前か。内戦が激化した時にお嬢様達と奥様が逃げ遅れたらしい。奥様は足が瓦礫に挟まって逃げられず、お嬢様達は恐怖で奥様から離れようとしなかった。敵の兵士が段々近付いてきて殺されるって瞬間、そこを通りかかったおれが敵兵を不意打ちで気絶させて瓦礫をどかして助けたってワケ。……正直、あと少し遅かったら奥様は亡くなったと思う」


「そのようなことがあったのですね。すみません、聞いてはいけないことでした」


「いや、構わないさ。……うん」


反芻するように彼は言い、再び視線を落とし黙り込んでしまいました。彼の伏せたまつ毛に光が滑り、まるで泣いているよう。


あれ、彼、化粧なんてしていましたっけ?

光を受けた右頬に、若干色むらがあるように見えましたが、気のせいでしょうか?


重い空気の空間に、紙を滑る黒鉛の軽い音だけが響いていました。


        *  *  *


『図書館』の閉館時間が迫っていたため、私達は退館しました。今はウィリアムの自宅へ向かっています。お礼に紅茶をご馳走してくださるそうで。


夜も更け、三つの月の一つ、赤銅色の月がこちらを覗き込んでいます。空気が澄んでいるからかはっきりと見える。空には高く飛ぶ大きな鳥が二羽。


私の隣にウィリアム、少し後ろにディールス、さらに後ろをカダチと並んでキジェが歩いています。


カダチとキジェ以外の間で特に会話はありませんでしたが、私としてはこの位置は好都合。周囲に人が居ないことを確認し、覚悟を決めて彼に話しかけました。


「これはただの予想ですが、一つ、お伺いしてもよろしいですか?」


「ん?別に構わない。それに敬語も止めてウィルって呼んでも良いんだぜ?」


「それは遠慮します」


「泣くぞ、おれも」


全然悲しくなさそうに彼は言いました。こんな軽口を言われるとエドワーズを思い出しますね。


「では……」


少し強引になってしまうでしょうが、仕方がないと割り切っていきましょう。

軽く息を吐き、息を整えて彼に問いました。


「――あなたですよね、この国で『司書』が次々と死んだ怪奇事件の犯人」


「…………ふ、ははは!」


彼の大きな笑い声が辺りに響きました。予想外の反応ですが、……うん、うるさい。


「リ、リディアさん。それは流石に失礼ですよ!」


「どういうことなのよ。説明を求めるわ、リディアお姉様」


「……いや、失敬。構わないさ。さて聞かせてくれ。——君はなぜ、そう思った?」


「きちんとした根拠はありません」


「……君なぁ~」


出鼻を挫かれたように、もしくは呆れたように、不満げなアンダリュサイトの瞳がこちらを見ていました。


私を探偵か何かだと勘違いしていませんか。華麗な推理とか、期待されても出来ません。学がないからと大体直感で生きているような女ですよ、私。


「最初の疑問はあなたがこの国の情勢を話してくれた時でした。あなたは十七家の説明をしてくださった時、オーウェン卿だけまるで別の事件に巻き込まれたように話していました。普通でしたら、怪事件の始まりとして、一人目の犠牲者として、卿を語るはず」


事実、彼はまるで全く別の二つの事件のような口ぶりでした。しかし、オーウェン卿が内戦前に殺されたことも事実。これだけではただの偶然や言い方が悪かった、と逃げられるかもしれません。不十分です。


「それに不思議だったのです。あなたが私の手配書を見ていたことが。あなた自身が『司書』しか知らないと豪語したにも関わらず」


実際、彼は不明瞭な点が多過ぎる。生い立ちが平民のようにしているが、行動の隅々で育ちの良さが出ている。おいおい追及させていただくつもりですが。


「そこで思ったのです。あなたは何かしらの重要な情報を握っている人物であり、私達に何か隠している、と」


彼は私達に絶対、何か隠している。これまでも、これからも。


「これより先はただの想像ですが、愛国心の強いあなたは内戦を始めた『司書』達を憎んだ。様々な手段で『司書』達を殺していった。きっとあなたのその道は私が想像もつかない程長い道だったと思います。そして、三週間前、ついにディケオスィニ卿を自殺に見せかけて殺害し、あなたの長年の悲願だった平和が叶った。オーウェン卿を除いた十六人の犠牲で」


彼の言葉が真実なら、オーウェン卿は別の事件に巻き込まれた可能性が高い。その事件もおそらくは政治的な意見の衝突に関係するもの。明確な目的を持った殺害事件ですから。

……彼が殺していないと信じたい。


「証拠がないぜ。君の言う通り、今のは全て君の妄言だ」


……そう、証拠がない。そもそも、難癖付けられない程、彼の犯行は完璧。

私がこんなにも確信を持って言えるのは直感だから、としか言いようがありません。


そっとウィリアムの頬に触れました。彼は動かず、ただ立ったまま。

指で軽くなぞると、彼の肌色と同じ色のおしろいが付きました。すっぴんに近い、とても自然なメイクで気が付くのに時間が掛かりましたが……。


「顔、隠していましたね」


「化粧くらいおれもするぜ。『司書』の家系に仕えるものとして当然だろ」


「にしてはおかしい。あなたは昨日も、寝ぼけていた今日の朝も、今も、全く同じ化粧をしていますね。流石に寝坊した今日の朝はそんな暇なかったと思いますが。しかも、わざと目元を上げて、……印象を変えるメイクですよね?それ」


だが、これも弱い。もう一押し、絶対的な証拠がいる。


しかし、一点。私でも気が付く、明らかに不自然な点があった。


「……どうして、屋根には雪が積もっていたのに庭はあんなにも手入れがされていたのでしょう?」


……あぁ、今、()()()()()()()()()()()()()()()()()()


そう、少女一人が埋もれてしまう程、屋根には雪が積もっていたにも関わらず、庭は最近手入れされたばかりだった。


「何でも、植物は吸った液体の色によって花の色を変えるんだとか。トネリカ聖教国の美しいサクラの下には死体があるそうですが、——あなたの庭のコノエハコの下、何が埋まっているんでしょうね?」


「……いつからだ。いつから君はおれは疑われていた?」


「初めて会った時から」


やっぱり、木の下に何か血痕の付着したものでも埋めていましたか。


それにしても、こんなあっさりと認めてしまうとは。


「本に触ってはいけない『図書館』で梯子に登って、あまつさえ落ちる人など居ないでしょう」


「悲しいねぇ、初めからだったとは。あぁ、君の言い分は大方合っているよ。まさか会って二日の殺人犯にバラされるとは。……君なら共感してくれると信じていたのに。友達だと思っていたのはおれだけだったってこった」


ガックリとわざとらしく肩を落とし、大きなため息をつくウィリアム、……いえ、この名前も偽名でしょう。


それでも、私は彼の呼び方を「ウィリアム」しか知らない。


「それで?君はどうする?」


「自首してください、ウィリアムさん」


「おいおい、君に言われる筋はないぜ。その言葉、そっくりそのまま返してやる」


「こちらこそ、あなたに言われるまでもありません。これは、私の、——私だけの懺悔の旅です」


「懺悔の旅、ねぇ……。そこの三人は含まれないのか。いや、そもそも手配書の男性の方はどうした?」


……その彼を連れ戻すための旅でもあるのですけどね。


あなたには関係がない、という代わりに沈黙をしました。


「あぁ、すまん。脱線した。おれは君に親近感を勝手に抱いていたが、どうやら明確に一点、違う所があるらしい」


勝手に親近感を持たれても迷惑なのですが、そんなことを言っている場合ではありませんね。


「――おれは自分がしたコトを悔いていない」


 ——。


「必要な犠牲なんて言わないが、『司書』には相応の罰だったと自負しているよ、おれは」


……罰?それは内戦を起こした罰なのでしょうか?


「政治的な意見の衝突、って言ったよな。君達にこの国について説明した時。何についてだと思う?」


「貿易や関税について、……でしょうか?」


一生懸命に頭の隅から政治に関する言葉を引っ張り出してきました。それは正しい答えではなかったようで彼は首を横に振りました。


「あいつらはな、——どこの国と戦争をするか、でずっと揉めていたんだ」


 ――は?


「人口が少ないであろうトネリカを攻めるか、貿易を止めて困窮したグレスターを落とすか。そんなくだらないことで『司書』は二分化し、どちらにもつかなかったオーウェン卿を殺して、やがて内戦を始めた」


本当にそんなことが……。オーウェン卿は戦争を辛うじて食い止めていたキーパーソンだった……?

だから彼は全く別の二つの事件として語っていた……⁉


彼の言葉が真実であるとするなら、それはなんて残酷な――


「――なぁ、こんな馬鹿げた内戦、誰が止められた?」


シンと静まり返った空間を切り裂くような彼の声。私は、……何も言えませんでした。


「こんな強引な手を使わなかったら、あと何人死んでた?何年続いた?答えてみろよ!」


声が、出ない。いえ、出す気力すらもなかったのかもしれません。


「オーウェン卿が、——お父様が目の前で殺されて!クソみたいな理由で戦争が始まって!次々人が死んだのにあいつらは死なねぇ!何なんだよもう!勝手に死ねよ!」


あぁ、彼の憤怒が、憎悪が、伝わってくる。彼の憤怒も、憎悪も、私は一片たりとも分かってあげられないのだろうけど、彼は分かられようとしていない。()()()()()()()()()()()()()()()


「殺したよ!自分で小細工したり、人を雇ったり、勝手に死ぬよう誘導したり!」


やけになったように叫ぶ彼。そこには先程までの彼の余裕も、皮肉も、友愛もありませんでした。


「おれが正義だ。おれは、悪くない…………!」


涙交じりの苦しそうな声、痛く細められたアンダリュサイト、自分に言い聞かせるような言葉が、余計に彼の首を締め上げている気がしました。


「――お前さんが探してる奴。どいつだ?オーウィル・オーウェンって奴。また随分とふざけた名前だな」


道の先、遠くから知らない声が聞こえました。こんなにも離れているのにその張った声はまるで近くで聞こえました。おかしい、さっき人が居ないのは確認しました。声の主を見ようと目を凝らすと――。


……何というか、目を逸らせば良かったと後悔しました。


成人を大幅に過ぎたであろう大の大人が二人、今にも崩れそうに肩車をしているじゃありませんか。二人とも背が高いからか高い肩車なのがさらに見るに堪えない。下に四十五歳程の細身の男性、上に若い屈強な男性なので余計にアンバランス。なおかつ上の男性は腕が四本で頭に猫の耳のようなものが付いています。

……まるで修復に失敗した名画を見ているような気分。


私も、ディールスも、キジェも、カダチも、笑い飛ばしてくれそうなウィリアムまで、思わず引いて黙ってしまいました。シリアスな雰囲気は何処へやら。


「あの、師匠……。そ、そろその限界ですねぇ……!」


「あァ⁉弟子なんぞ取った覚えはねぇ!そもそも根性足りてねぇんだよ、お前さんは!」


「ミィー……」


「ほら、姉貴も呆れてらぁ。お前さんが根性足りてないって……、姉貴、痛くはないが髪をガシガシ噛むのは勘弁してくれ。分かったから」


「シャー!」


「分ぁかったから!降りるから!」


「た、助かったぁ……。そもそも、師匠こんなことしなくても見えたでしょう……?」


どうやら巨大肩車の正体は二人の男性と一匹の猫だったそう。近くにもう一人居るので合計三人と一匹ですね。


「あ、静かに近づこうとしたのにバレてらぁ」


「当たり前ですよ。もう、どうするんですかぁ……」


ケラケラと半笑いで喋るガタイの良い若い男性と、いまだに息が整わない訛った口調な初老の男性。

前の私ならこう言っていたでしょう。……なんだこいつら、と。


「よっ、カダチ。久しぃな」


「……?」


「まじかよ、覚えられちゃいねぇ」


この会話と彼の気配から神の一柱であることが確定しましたが、家族に忘れられていることすら笑い飛ばしましたね、この方。メンタルが強いのか、気にしていないのか。


「えぇっと、あなた達は……?」


「おぉ、お前さんが一番新しぃディディの半分か」


こちらのことは知られていますか。


「戦う前の流儀だ。名乗っとくか」


こちらに戦う意思はないのですが……。しかも、なんか準備運動始めていますし。


「俺ぁヘルト。彼女から生を受けた十二番目の神。戦いを司る神、いわゆる武神って奴だな」


日に焼けた肌、四本のたくましい腕、服の隙間から見える厚い胸板と引き締まった腹筋が素晴らしいですね。流石武神。

赤褐色の月光を浴びて美しい銀髪の髪に血飛沫が付いたよう。瞳は血塗られたレッドスピネルでしょうか。


何よりもその存在感が凄まじい。息が詰まります。


「こっちの若いのが、……お前さん、そんな老けてたか?」


「師匠、歳ぃ考えてください。ワタシだってもう良い年ですよ」


「こいつがデイビット。いつからか付いて来るようになったルジャダ人だ」


「えぇ……、ワタシの評価が雑ぅ……」


さっきから不憫そうな方が力なく応答しています。どことなくこの扱いの不憫さ、キジェに近いですね。

ヘルトとは違う所々白髪の混じった銀髪、力強いグレースピネルの瞳、深く刻まれた皺、アレンジが聞きつつも伝統の型を残したスーツを良く着こなしていますね。


「俺の頭の上がスパーツィオ。彼女から生を受けた九番目の神。空間を司る神。その昔、人間が嫌い過ぎて偏見の神に姿を変えてもらうよぅ取引したらしい。命知らずが過ぎるってもんよな」


……それが事実なら本当に命知らずですね。


彼から紹介を受けた神もとい猫。

オレンジの縞模様の茶トラ柄、クリソベリルと全く同じ金緑色の瞳、長い髭、長い尻尾と愛らしい、普通そうな猫。


神であることがいまいち信じられない方です。

今もにゃっと短く鳴いていらっしゃいますし……。


「そっちのがモール。彼女から生を受けた十三番目の神。死を司る神。こいつは死そのものだ」


紹介をされた後も彼……、——彼女?

どちらでしょう?いえ、そもそも神ですし、どちらでもあってどちらでもない方だっているのかもしれませんね。


とにかく、モールは何も言いませんでした。息をしている様子もありません。

長い前髪に顔全体が隠れていることもあり、表情も読み取れません。


男性とも女性ともとれる背と体格、背中から生えた痛ましい錆びた鉄製の翼、ボロボロの指先、青みがかった黒い長髪が床まで着きそうです。


未知数、という言葉がピッタリな神様ですね。


「さて、俺ぁ舞姫に、モールはオーウィルに用ぉがあるらしい。どいつだ?」


端的な問いが過ぎると言いますか……。戦うと宣言している人の前で出てくる正直な人って居ないと思いますが。


「あぁ、それはおれだ」


……何考えているんですか、あなた。


「……だ、そぉだ。俺ぁ舞姫、モールはそいつ。デイビットは白い奴、スパーツィオの姉貴はカダチとそこの長身の男の足止めだけで十分だ。あ、姉貴、ここの空間切り離しといてくれ」


 ――ディールスに、気付いていない……?


その言葉に答えるようにスパーツィオの目が光ると、辺りの景色が少し歪んで見えるようになりました。結界でしょうか。おそらく脱出は困難。


これは……、相当まずいですよ。


「皆、とりあえず出る方法を、――ゴフッ!」


すごい勢いで殴ら……、殴られたのか?速い。速すぎて何も見えない。

その挙句、結界の端まで吹き飛ばされた。打ち付けられた背中も痛いが、お腹が尋常じゃなく痛い。


くたびれた草を下敷きにして地面に付いた顔に、泥が混じった雪が跳ねていました。


遠くでヘルトが立っている。私がさっきまで居た所に。彼と私の間に一本の抉られた土の道が出来ています。


あぁ、息が出来ない。陸に打ち付けられた魚の気分です。

目の前がチカチカするし、頭がくらくらする。血の混じった唾液が口の端から垂れてる。よく見ると手形の残ったお腹が気味の悪い赤紫に変色してる。この色の宝石の名前、何でしたっけ……?


「師匠、こんな可愛い子の相手だけで良いんですかぁ⁉いやぁ、今日は運が良い」


「デイビット、お前さん何言ってんだ。そいつは男だし、俺ぁ見るにディディだが肉体は二十代の後半くれぇだ」


「…………はぁ?……チィッ。坊主、悪ぃがくたばってくれ」


遠くで素っ頓狂な声を上げ、舌打ちをした挙句、手のひらをくるりと変えたデイビット。この人はおそらく、博打、酒、葉巻、女が大好物ですね。よく居ますよ、そういう方。この国の路地裏に。


いや、キジェの実年齢も驚きですが。四百年前の時点で既に二十代後半だったということですか?

私よりも年下だと思って弟のように接してきた子が人生の大先輩だった、なんてどんな顔すれば良いんですか。


あぁ、いえ、そんなこと言ってる場合じゃない。


向こうが油断しているとはいえ、これは非常にまずい。明らかな戦力差のことではなく、()()()()()()()()()()


いえ、武神の相手をしながら仲間を助けられると思う程、おごってはいませんが。せめて連係や敵を変えるぐらいはしたかった。


霞んだ瞳で仲間の方を見る。

ディールスはカダチを片腕で軽く抱き上げ、その周りには様々な色の光が舞っています。機動力を彼が、遠距離からの攻撃を彼女が担う戦闘のスタイルとして最も理想的な形。対峙しているのがその光の倍の数を纏った猫一匹。超次元的な戦闘は既に火蓋が切られたようですが、劣勢に見えます。


一方、キジェはデイビットと正面からにらみ合い。デイビットはキジェの先制を待っていますが、キジェは果たして戦えるのでしょうか。武器を持っているような気配も彼はありません。

正直彼のことが一番心配です。


……あぁ、ウィリアムは何もしていませんね。モールも動きがない。ただ、緊迫した空気の中でウィリアムがモールを警戒しているだけ。モールは何を考えているのか微塵も分かりませんが、彼のことを歯牙にもかけていない。


そんなことを考えていると足元に何かが転がってきました。……考え事が過ぎましたね。今は自分を優先しなくてはいけないのに。


視点だけを下に下げると、それは何だか弱そうな剣に見えました。華奢な鞘にわずかにはみ出た細身の刀身、人が握るには少々細い柄、使い込ませていないように見えます。見た目も、性能も、彼には似合わな過ぎる。


使え、ということでしょうね。


「……へぇ、意外と渋るかと思ってたが、案外あっさりと握んだな」


「誰かを傷付ける覚悟、があるからでしょうか」


「良いねぇ、傷付ける気概もなしに失うことを恐れる馬鹿者よりよっぽど」


当然、あなたに傷の一つすらも負わせられないことは重々承知です。が、彼に私の言葉の意味はしっかりと伝わったそうです。どうして私の周りは皆頭が良いんでしょう。


さて、挨拶代わりの一撃は非常に堪えましたが、もうある程度は治りました。この程度の鈍痛なら耐えられる。


今最も恐れているのは私が呆気なく倒されて誰かの加勢に向かわれること。つまり、私は彼を倒さなくてもいい。精々、彼の攻撃に耐えて時間を稼ぐ。それが最低条件。


「安心しな。俺ぁ神の力はもちろん、腕一本しか使わねぇし、何なら片目だって閉じててやんよ」


「そのハンデを貰っても、全く勝てる気がしませんね」


ヘルトは腕二本を体の後ろで組み、余裕を含んだ笑みを浮かべながら右目を瞑りました。


舐められていますね。しかし、今はそれで良い。少なくとも彼の足元ぐらいは掬いやすくなるというもの!


ヘルトとの距離を詰めるために蛇行するように走り始めました。丸腰の彼の間合いに入らなければ話にもならない。彼は様子見、というようにただこちらを見ているだけ。まだ手を出す気はないのでしょう。


距離が縮まっていく。それでも彼は鼻歌を歌いながら片目を閉じています。それでもまだ、まだだ。耐える、その時が来るまで、辛抱強く。先走りたくなる気持ちを押し殺す。息を潜め、息を殺し、息を吞む。

一瞬、瞬きで目を閉じた――


 ——今!


一気に距離を詰め、彼の間合いに完璧に入った。彼の左目が開ききる前に、左目に映らない視野から仕掛ける!


脚は跳んで躱される。顔も首も体を逸らせば避けられる。なら、私が狙うのは腰の少し上——!


「……⁉」


何ということでしょう。彼はそれでも()()()()()()。頭頂部が脚に付きそうな程、腰から上を大きく仰け反らせるだけで。しかし、それは常人の動きなんかではない。


規格外の男性特有の筋肉量に、桁違いの女性特有の柔軟性。


しかも、彼は今目を開いていません。()()()()()()()、気配だけで彼は避けてみせた。

何という化け物。何という怪物。日常の一つの風景のように、彼はそつなくこなしてみせました。これ程とは。


状況の立て直しのために一度彼と距離を取り、もう一度詳しく彼を観察しました。


殺気どころか敵意すら微塵も無い。何もしていない。何事もなかったように、ただそこに居る。だが、あり得ない程の存在感を確かに放っている。


「――見えたか?」


 ――⁉


いつの間に後ろにっ⁉


驚きよりも恐怖。体を翻し、改めて後ろに跳んで距離を取る。

着地すると微かに痛みを感じ、頬を触りました。ぬるり、と少量の血が指を濡らす。見ると、体全体に浅い無数の切り傷が。武器を持っていない彼が、いつの間に。


さらに彼はわざとらしく上げた手から何か小さいものを落としました。ペールオレンジに小さなサクラ色が先端についた見覚えがある――。


急いでドレスをめくると、ブーツの先端から先が綺麗さっぱり消え、代わりに足先が温かいものを零しながら地面を濡らしていました。


彼は私の後ろを取る間に、無数の傷を付け、足先を切断し、それを拾ってみせた。


あり得ない、そんなことが――!


さらなる恐怖で、無意識に後ろへと下がっていた時、


「――爆ぜろ」


彼がそう呟いた、気がしました。実際、その声はとても小さくて私の耳には届かなかったから。


突然、体中が不規則に小さな爆発を繰り返す。熱と爆風で体が勝手にはねる。切り傷に直接炎が当たり、風が傷口をさらに広げる。……いや、()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「ひっ、あ、……ぐぁっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


必死に地面の雪を草ごと引き千切って、拾って、傷口に押し当てる。それでも爆発も、炎も、何も収まらなかった。むしろ、草も雪も燃料にしているかのように、そり一層弾けた。


「かはっ……。い、いぎっ、いだっ、……。あっつ………!」


呂律すらもうまく回らない。傷口に毒を塗られた方がマシであると感じる程に。


苦痛、ただ苦痛。永遠に続くような恐怖を感じながら、強がって、無理に立ち上がって、彼を睨んで言った。


「……()()()()()()()()()()()()()()()()!」


彼の返答はない。にやりと笑っているだけでした。


彼ほどの武術の達人であるなら、こんな方法は取らない。一瞬の内に首を斬って終わらせるはず。それでも、彼がこのような方法を取る理由は一つ。彼はディディの弱点を明確に把握しているからだ。


ディディは不死。だが、それは傷口の癒合や打撲に対してのみ特化している。

例えば、切られた腕などを持ち逃げされた時、傷は癒えず、そのままだ。腕が一から再生する訳ではない。

そして、それよりももっと効率の良い方法が確かにある。傷が癒える暇すら与えない程、ダメージを与え続ければ良い。癒えるスピードが超絶的に速い訳ではないのだから。


だから彼は足の指を取ったのだ。”お前さんが凍傷に困っていたのを見てた”と言うように。


出来レース、もとい八百長だった。時間稼ぎすらも出来ない程の。

彼は荒っぽい性格だと誤認していました。彼は戦いに本気だ。本気ゆえに下調べも怠らないタイプの。


弱点も露見しており、純粋な技量でも劣る。


……血が止まらない。爆発の威力はだいぶ収まったものの、いまだに炎は消えない。眠い、だが鮮烈に怖い。膝をつき、地べたに寝そべって、敵を前に指一本も動かせず、ただ死を待っているかのようなこの状態が。


「……お前さん、罪を償ってどぉしたいんだ?」


……?


「罪を償うのには理由があるんだよ。被害者への罪悪感と謝意だけで責任を取る人間ってのは少ねぇ。償った後でしか出来ないことをしてぇから償う、そんな奴らばっかりだ。家族に会いてぇから償う、元の生活に戻りてぇから償う、償うしか方法が無ぇから償う、信頼を取り戻してぇから償う、償わなければ非難の目に晒されるから償う、さっさと終わらせてぇから償う、表面上でも許して欲しぃから償う。お前さんも、そっちの人間だろ」


彼の言っていることがいまいち良く分からない。理解しきれない。頭が回らないし、働かせる気力も湧かない。切り傷が冷たい夜風に当たってヒリヒリと痛むくせに瞼が重すぎる。


何でそんなことを彼は聞くのでしょう……?私に用があると言っていましたが、それがこれ?普通に聞いてくださいよ……。


……あぁ、それでも一つ。彼の問いに答えるとしたら。今の私にも捨て切れなかった夢が……、あったっけ……。


「…………帰りたい」


「教えてくれ。何処にだ?」


「——エドワーズ()の隣に」


殺して、封じて、捨てたはずの夢。許されないからと諦めた理想。


過去は変えられないことをよく知っている。痛い程知ってるから、帰りたかったのだ。あの方を殺す前の、彼の隣に。


許されるのなら、温かな彼の手を、もう一度——。


        *  *  *


「あぁ、どうしよ……?イストワール、わたしはどうすれば良いと思う⁉」


「……」


思考がまとまらない。必死に頭を働かせようと、自分の部屋を無意味に回る。白い部屋に白い髪がなびき、長い時を掛けて短くなった足がペタペタと足音を響かせる。


話しかけたというのに彼は黙ったまま。何かを思案しているような、何かを諦めたような、暗い表情で下を見ている。


「わたしは視たわ、変えらないかもしれない未来を。何もかも消えて、誰一人生きていなくて、地平線の先の先まで……、生き物が居た痕跡一つ無かった。このままだと皆死んじゃうわ。一人残らず!」


「……私は思うのです。人間なんぞ、もう居なくても良いのではないかと」


「――それはダメ」


彼が一時の世迷言でもそんなことを口にするとは思わなかった。失望した、まではいかなくとも驚いたし、少し悲しかった。


何よりもあなたは歴史の神。歴史の神が歴史を否定するのは悲しいわ。


「わたしが創り、命を吹き込み、愛した子達の子孫よ。わたしが創って、わたしの勝手で壊すなんて責任のない行動。それは絶対にダメ。……いえ、あの子を放っておいてる時点で……」


……私が言えたことではない、わね。


「……ねぇ、イストワール。あの子はどう?」


「何とも言えません。手を加えてはみていますが、ずっとあのままです」


「そう……、不甲斐ないわ」


彼女はいつになったら起きてくれるのだろう?


……いえ、それよりも今は――。


「イストワール、お願いがあるのだけど」


「……嫌だと言ったら?」


あぁ、彼が初めてそんな答えを言った気がする。これが反抗期なるもの?人間特有のはずだけど……、うん、別に人間のモデルは神だもの。あってもおかしくないわ。


「あなたにしか頼めないの。お願い」


それでも、わたしはお願いしてしまう。困ったように笑って、逆にあなたを困らせちゃう。あなたは優しくて、聡い子だもの。きっと折れちゃう。


「……聞くだけ聞きます」


「ふふっ、ありがと」


ごめんなさいね、子を困らせちゃうダメな親で。


「予言までにあと五百年程。一人だったら怖かったけど、あなたが居るもの。一緒に考えてちょうだい」


        *  *  *


短い夢を見た。正しくはあの方から受け継いだもう一つの記憶、を追想していた。

分からないことが多い。一回頭を整理したい。


でも、それは後回し。あぁ、ダメ。ヘルトがディールス達の所へ行ってしまいます。


剣を杖代わりに立ち、息を大きく吸う。体はもう爆発していないが、彼に始めに殴られたお腹がズキッと痛んだ。内臓が潰れていてもおかしくない威力でしたからね。


肺一杯に空気を取り込み、わざとらしく大きな声で叫んだ。


「――まぁまぁまぁ!今度のお客様は随分とお急ぎのご様子で!まだカーテンコールどころか本編すらも始まってなくてよ!」


「ん?もう立てねぇと思ってたんだがなぁ。いやはや、伸びてた方が楽だっただろうに」


私の言葉を気にしない、というように彼は振り返り、淡々と言いました。

確かに彼の言う通り、気絶していた方が痛くなかったでしょう、苦しくなかったでしょう。


しかし、ここで立たなかったら?再び目を覚ました時に何もかも失っていたら?


過去を想い、未来に目を背けるのは違うだろ。


戦うと決めた。

過去との清算をつけるため。


戦うと決めた。

今持つ大切なものを失いたくないから。


戦い抜くと決めた。

彼の明日が自由であるために。


だから、改めて


「――傷付ける覚悟を持ったのは、大切な仲間を守るためだから!」


剣を構え、堂々と胸を張って啖呵を切る。寝てなんていられない。起きろ、立て、武器を持って戦え。


仲間を大切に思う気持ちも、誰も失いたくないと思う恐怖も、輝かしい明日への希望も、きっとこの想い全ては私にとって不要なものじゃない!


この全てが!私を「リディア」たらんとするものよ!


「……あァ、そうだ。それで良い。そうでなくっちゃなぁ!」


この時、彼が初めて構えの姿勢を取った。


時が止まったような感覚。今だけはこの世界に彼と私しか居ないような錯覚。

よく視える。よく聞こえる。よく感じる。腕に力が入る。落ち着いて呼吸が出来る。地を踏みしめる。


ヘルトと全く同じタイミングで走り出した。

軽い剣は私でも振りやすく、弾かれた瞬間反撃に出ることが出来る。彼は素手で剣を捌き、こちらにも殴りかかってきた。私に出来たのは辛うじて攻撃を致命傷ではないものにすることだけ。完全に受け流すことも、避けることも、防ぐことも出来はしない。


それでも私の傷は戦闘中でも着々と治ってきている。自動回復。長期の戦いであれば確実に私が有利であるはずだが、そう思えないのは相手が武神だからか。


しかし、彼に付いていける。彼の行動が見える。

先程よりも私は速く、強くなっていく。


心臓の音がうるさい。まるでいくつも体の中に心臓があるみたい。


彼の大振りの拳が飛んでくる。身を低くして躱し、潜り込み、再び彼の間合いに入った。

前回のような避け方をされないよう、狙う所はもっと低い場所。反撃に備え、片手だけで剣を握る。


あと少し――!


彼の美しい体に剣が触れる前に、ヘルトは片手で地面に触れる。なぞるように触れた後、指先に力を込めるのが見えた。彼は地面をめくるように、地面を持ち上げた。片手だけで。

突如、目の前に現れた大きな土の壁。無茶苦茶すぎる!


土の壁は分厚く、視界が遮られ、彼の姿を捉えられない。

また背後を取る?壁を回り込んでくるか?彼がどう仕掛けてくるのか分からない。


とりあえず一旦距離を取るしかないか――!


バックステップで後ろに下がろうと脚に力を入れた瞬間、土の壁の中心、一点から鮮烈な殺意を感じた。何かが来る。恐ろしい何かが。考える前に体が勝手に剣を体の前で構えた。本能から来る防衛反応。


体を丸ごと持っていかれる程の衝撃。気が付けば、土の壁ごと蹴られていた。


「……うぇ、ぐ……、おぇっ……」


剣の柄に当たったとはいえ、もろに入った。

治りかけだった内臓から体液の全てが逆流しているような錯覚。腕全体が痺れて剣を握れず、するりと剣が手の中から抜け落ちてしまった。


「……あー、すまんな。脚ぃ使っちまったよ。何なら治るまで待とぉか?」


本気で申し訳なさそうに謝罪をするヘルト。ルールには忠実なのですね。戦士としての教示か、はたまた神としてのけじめか。


 ――彼に勝つには秘技がいる。奇をてらった、対策をすぐに立てるには困難な秘技が。


それしか方法は無い。しかし、あの方の神の力を使う余裕も時間も貰えないだろう。


彼の流儀に乗っ取って、長ったらしいこの戦いに決着を付けよう。


「――リディア・ハートフォード。我が人生、我が信念、全てから解き放たれた自由な我が母に恥じぬ剣舞をご覧に入れよう」


私の言葉を聞いた彼はハッとしたように驚き、ニヤリと笑った。楽しそうに、まるで小さな子供が遊びに夢中になるように。


「――彼女から生を受けた十二番目の神、戦いを司る神、名をヘルト。偉大なる我が母の誇りと愛にかけて、お前さんを倒そう」


仕掛けにいく。

手は今も痺れているが、辛うじて剣は握れる程度には回復した。策と呼べるほどのものではないが、作戦は浮かんだ。後はやるだけだ。


「飛び道具だと……?んなもん何処に仕込んでやがったんだか……」


彼が訝しみ、声を上げた。無理もない。


彼の足元目掛けて投げたのは、隠し持っていた武器でも暗器でもない。この旅でずっと肌身離さず持ち続けていたただのガラスだ。

しかし、武神であるヘルトなら嫌でも分かるのではないだろうか。このガラスがあの方を殺した凶器であることが。現に彼の視線は釘付けになっている。


そして、彼が警戒して跳ねた今がチャンスだ。いくら疾風のような彼も空中なら身動きは取れないし、回避も退避も不可能。今一度、距離を詰めた。


それでも彼は攻撃してくるだろう。身をよじり、拳をこちらに向けてくるはずだ。それをいちいち回避していてはいつまで経っても攻撃できない。


だから考えた。——盾なんかで多少防げれば良いのではないかと。


左手で腰から鞘を引き抜く。彼が持っていた剣なのだから剣も鞘も一級品だろう。使えるものは何でも使う。


それを体の前へ持っていき、即席の盾とした。彼の拳とぶつかる。鞘はひび割れ、左腕は血管が破裂して肉の形を留めない程ズタズタになっていく。


「いっ、……」


唇を噛んで声を殺す。黙れ、私。叫ぶ前に、悶える前に、泣く前に、痛みで思考が鈍る前に、やるべきことがあるのだから。


彼の攻撃が腕一本で済むのなら、それはとてもとても安い。そして、ここまでプラン通りだ。


無事な右腕で彼を狙う。彼はそろそろ着地する。それよりも速く。


ヘルトの足の指が少し地面に触れた。それだけで目の前の彼の姿は消えた。……遅かったか。

辺りを見回しても姿は無い。殺気も、音も、気配も感じない。それでも目を閉じ、必死に音を拾う。


さっきので片を付けたかったが……、それは叶わなかった。これが本気の彼か。


そう、()()()()()()()

彼があんな強硬な手段を用いた作戦でくたばるはずがない、という一種の信頼だ。


……うん、やっぱり。風の音がする。


息を止める。覚悟は決まっている。


 ――今!


剣を逆手に持ち、——自分の腹を刺した。


柔らかな腹を貫き、反対側まで抜き出た刀身。血を浴びた剣は何かに当たり、先端が盛大な音を立てて砕けた。


「――ア”?」


後ろを見ると、リディアの首にあと少しで掴みかかっていたであろう手と驚いた顔のヘルトが居た。

彼の腹部には飛び散った血と、服を裂いて皮膚に到達したものの傷付けられずに折れた剣先。


届いた――。


ディールスが言っていましたね。神を殺せるのは信仰心を失い、憎む者の血だと。その血さえなければ、やっぱり私なんかには殺せない。

結果として、私は守るために戦ったけど、誰も傷付けず、殺すことも殺されることもなかった。一番望んでいた結末ですよ。私の、勝ちです。


「ふふっ、……。あなた、人の背後取るのが癖になってんぜ」


口から溢れた血を放置しながら、無理にウィリアムの真似をしてみせました。

人間観察はあなただけの十八番ではありませんよ。


それと同時にディールス死ぬ証拠が一つ増えたようなものですね。

ディールスが言っていたことが今ので実証されたとしたら、彼は本当に死ぬんでしょう。キジェの居た教会で、誰かの血すら付いていないガラスで傷が付いたことが何よりもの証拠。


これが終わったら、とことん追求しましょうか。万が一、少しでも言い淀んだりなんかしたら、その縫ってある口の端でも解いて差し上げましょう。私、怒っていますから。


「ゴポッ……」


体の奥から聞こえる気味の悪い水泡音。

そのまま前のめりに倒れると、お腹に剣がより深く刺さり、痛みに悶えていると、剣とお腹の隙間から臓物のようなものが見えました。


真っ赤な血が真っ白な雪とドレスを染め上げていく。


綺麗。だけど、どうしようもなく寂しい。


横になりながら、剣を引き抜きました。速く治すために、まだ治り切らない両手で必死に傷口を繋ぎ合わせます。舌を噛まないようにしていたら、今度は唇から血が流れました。


「……まだ何か?」


「いぃや、俺の負けだ。本当は彼女の最期の言葉も聞こぉかとも思ったんだがね。止めだ止め。俺ぁもう満足だよ」


ヘルトが振り返り、片手をひらひらと振りました。


結局、彼が本気を出したのは最後だけでしたね。

始めから本気だったら、目や脚を真っ先に潰されて敵いっこなかった。そうされなかったのは、彼の目的が私をいたぶることではなく、何かを試したかったからでしょうか。


私はあなたのお眼鏡に敵いましたか……?


「おーい、こっちはもう終わったよ……、ってデイビット、お前さん何やってんだ?」


「師匠、ちょうど良かった!ちょいとこの坊主説得してくださいよ。こいつおっかな過ぎますって」


デイビットが両手を上げ、降参のポーズをしている。


 ――その先には上下左右逆に持ち、自分の腹に拳銃を向けるキジェが居ました。


「キジェ、それをゆっくりと床に置いて!絶対に引き金を引かないで!」


「……リディアさん、いいんですか?」


「良いから速く。お願い」


「……分かりました」


大声を出したから、さらに喉から血が溢れる。息をするだけでも苦しいですね。額に滲んだ脂汗がゆっくりと垂れました。


キジェが指示通りにゆっくりと拳銃を置いた所で、ようやく気を抜けました。

表面だけ薄く腹の傷が塞がったので、痛みを無視して立ち上がり、彼の元へ近寄りました。いまだに左腕はぶつ切りの肉塊が引っ付いているような感触でしたが。


拳銃は見たことのない型でした。この時代に普及しているどの銃とも違う。それどころか、基本的な構造は似ているものの、超高性能で小型化、軽量化されたものであることが私でも一目で分かりました。

幸いにも、弾は一発も入っていません。


「キジェ……、これはどうしたの……?」


「……分かりません。目が覚めた時からずっと持ってはいましたが……」


何かまでは知らなかった。彼がそう言いかけている気がしました。


おかしい。……今の時代にも無いのに、どうして四百以上生き続ける彼が持っているのでしょう?


いえ、そんなことよりも、


「怪我が無くて、……無事で良かったです、キジェ」


それが、一番です。


「ぁ、リディアさん!ボクなんかよりもディールスさんとカダチさんが!」


キジェの振り絞った声でハッとしました。そうだ、先程から彼らの方向から物音一つしない。


「カダチ!ディールス……!」


慌てて体をよじったからか、腹部に痛みが走り、傷口が開いてしまいました。膝から崩れ、地面に突っ伏すしか出来ず。再び朱い池を作り始めた体に、力が入りません。指一本も動かない。


無理に顔だけ動かし、彼らの方向に視線を送ります。ぼやけた視界でも、彼らの姿は捉えられました。


ディールスが動かないカダチを抱え、地面に膝を着いています。スパーツィオの攻撃が止み、既に戦いに決着がついていました。賢い彼です。きっと敵わないと思って降参したのでしょう。


「……」


彼は何も言わない。ただ一度、こちらを横目で見て再び前を向きました。


「キジェ、……お願い。立つのを……、手伝ってください」


足も、腕も、感覚が無い。血の通った自分の体のはずなのに、自分の体じゃないよう。舞台の上とは大違い。

キジェの手を借り、何とか立ち、ディールスの元へと向かおうとしましたが、——彼はこちらに来ないよう手で制した後、左を指さしました。


 ——どうして?


そう思ったのは一瞬でした。だって、彼はいつだって私よりも正しい選択をする。それが間違っていたことはない。


だから、今は考えない。彼の言うことに従う。彼の動いて欲しいように動く。


彼を、――信じてる、心から。


彼の指した先を見ると、ウィリアムとモールが。先程から変わらない姿勢で居続けていました。ウィリアムは、威圧感か警戒心から動きませんが、モールは違う。


モールは彫刻のようにピクリとも動きません。息をしているのか、何を考えているのか、全く分からない。表情を読むことは不可能ですし、対話も。痛ましい生え方をした鉄の羽は、近づく者全てを傷付けてしまいそう。


その彼が、おもむろに歩き始めました。


ぁ。……あぁ、これは、ダメだ。

本能が絶えず警報を発する。なぜ今まで気が付かなかったのでしょう。ヘルトとは全く違う恐怖と威圧感。モールはダメ。人間には絶対越えられない次元の先に居る。彼の眼に私達は映らない。彼は止められない。彼は止まらない。誰も干渉することは出来ない。


 ——死が、歩いています。


ヘルトが言った通り、彼は死。死の概念であり、死の化身そのもの。


「……止まれ」


「無駄だよ。お前さんの声は届かない。大事な人を亡くして、モールは変わっちまった。今では起きている時はそいつを想って泣き、寝ている時はそいつの夢を見てるらしい。この場に居る誰も、あいつを起こせない」


ウィリアムがモールに向けて振り絞った言葉を、ヘルトはすぐに無駄だと言い切りました。


……あぁ、なんて言えばいいのでしょう。何に例えるのが正確でしょう。

陸に焦がれる魚、燃える森、沈む大地、干乾びた海、堕ちる天。彼は、矛盾だらけ。


死であるのに、ずっと大切な人の死に囚われている、乗り越えられないでいる。


ずっと、死を悲しんでいる。


モールは歩き続ける。思考を止め、頭を空っぽにしているみたいに機械的に、足を交互に前に出しているだけです。


怯えたウィリアムが腰を抜かし、その場に転ぶのが見えました。雪に混じった泥が盛大に飛び跳ね、服の裾を汚しました。


「ウィリアム!」


「……おれはいい!自分でどうにかする!」


「どうにかって……」


出来るはずがない。人間(私達)が干渉出来ない。意思疎通が出来るかも不明。分かっているでしょう、あなたなら!


遂にモールがウィリアムの目の前まで来てしまった。ゆっくりと、青白く細い腕が彼に伸びる。ウィリアムはただその腕をどうすることも出来なかった。


「……気休めだが、お前さん達の宗教の考えと同じでこの世に輪廻なんて無ぇよ。身体が死んだら、その時点で魂は消滅する。前世も、来世も、天国も、地獄も、俺らにぁ無ぇ。あるのは今生だけだ」


彼の言葉が響く。

哀愁を帯びたその声は、とても切なくて。伏せた目が、まるでそうとは思っていないようで。


「――だから、安心して眠りな」


それを聞いた瞬間、そんな場合ではないのに、場違いにも何処か心の奥からホッとしている自分に気が付きました。


 ——そっか、良かった。もうこれ以上の、苦しい生を味わわなくていいの。


きっとこの人生以上の罪も、懺悔も無いと思います。それでも漠然と不安だった。怖かったの。

この旅が終わって、もし私が死ぬことが出来たらそれは救いでも何でもない。輪廻があったら、その死は次の生への備えになってしまうから。


だから、悲しげな彼の言葉に救われてしまいました。心から、安堵してしまった。


「――ふざけんなよ……!」


しかし、その言葉を跳ね除け、怒鳴り始めたのはウィリアムでした。


「何でいっつもこんなんなんだよ、おれの人生!そして馬鹿じゃないか、君!死が死を憂うなよ!生きるものなんて大体全部死ぬって長い人生で分かんなかったのか⁉」


口汚くモールに訴える。大きな声で叫ぶ内容は、罵倒というよりも説教じみています。


「死ぬんだよ!どう生きても結局行きつく先は一緒で人間死ぬ!死ぬからこそ、やりたいことに向かって突き進むんだよ人間って生き物は!死が生に価値与えてんだ!」


……彼の手は止まらない。


「君は大切な人と過ごしてる時、分かってただろ!そいつは君よりも絶対速く死ぬって!置いてかれるって!分かってて同じ時間を共有したんだろ!」


…………止まらない。


「こっちを見ろ、死の神モール!——死の本質を理解していない君に、おれは殺されはしないぞ!」


 ——彼の手が、ピタリと止まった。


モールが顔を上げたように見えました。正確には長い髪のせいで彼を見たのかは分かりません。それでも、彼の言葉は死を止め、微かな猶予を生み出した。


        *  *  *


「ちょっと~、そこの存在感がすごい君、もう閉館時間なんてとうに過ぎてるよ。あと、『司書』以外が蔵書触っちゃいけないんだぜ」


……うるさい。


神にそんなもの関係ない。むしろ、貴様のほうが規律を破っているまである。ここは彼女が我のために作ってくださった図書館だ。この図書館が立ってから、ここ千年。ずっとここは我の財産である。


不遜である。不敬である。この財産の持ち主である神を前にそのような発言は許容出来ぬ。


「うわっ、君、頭に直接響くような声してんね。というか、この辺りじゃあんま見ない服装だし、観光客?」


話を聞け、人間。人間は考える葦なぞと評されているが、貴様は例外か?


「というか、神って言った?何の神様?一旦梯子降りね?」


……彼女から生を受けた十三番目の神、死を司るモールである。


「へー、おれはラチ・オーウェン。『司書』の嫡男。ラチでいいよ。んじゃモール様。おれと勝負しないかい?おれが勝ったら、今日はこの『図書館』から出てってもらう」


くだらん。何故、我が貴様の進言を受け入れねばならぬ。本来ならば、貴様が頭を垂れて許しを請う立場である。


ラチ、と言ったな。そこの茶髪。


平服せよ。服従せよ。人は、神に生かされている。


「――自信ねぇの?」


 ——。


ほう、人間如きが物怖じせず、良くぞ吼えた。良いだろう。その蛮勇に免じて貴様の誘いに乗ってやる。


「勝負は三回。内容はこの図書館の本からクイズをお互いに出す。正解数が多い方が勝ち。ただし、解釈によって答えが変わるのはNGだな。……あと、そろそろ梯子から降りない?」


くどい。……さっさと始めるぞ。



「嘘だろ、三対一で完敗かよ……。自信あったのに、マニアックな問題出しやがって……。しかも、本を手に取ることなく問題作成から解答までしてみせやがった……」


当然である。我はここの書物の内容は全て頭に入れている。


「……ズルでは?」


いやなに、神は人間のように忘却なんぞの欠陥が無いのでな。あんなにも息巻いていたが、やはり人間相手では手を抜いた方が良かったか?


「…………もしかして、今も梯子から降りないのって見下ろしているからか?」


……さて、決着は付いた。もう干渉するでない。


「うっわ、性格悪っ⁉」




「おーい、モール様~。追い出すために今日も来たぜ~」


……その口調を改めぬか。

加えていい加減、くどいぞ。よく飽きないものだ。もう分かっただろう。


断念しろ。諦めろ。人の身では神に勝る部分は一欠けも無い。


「良いじゃねぇか。もう三ヶ月も負け続けてんだ。根は負けず嫌いの俺も、流石に一勝は上げたくもなる」


……良いだろう。こうなっては、貴様が絶望するその時まで、付き合ってやる。




「え〜、何だっけなぁ!?」


何だ、今日はもう終わりか。張り合いがないではないか。


「はぁ!?神様はちょっと待つことも出来ないんですかぁ?」


……さっさと考えろ。




「流石に今日入館した本は分かんないだろ!」


そう思うのなら出してみると良い。


「……少女向けの童話は?」


神は全能故に神である。取り零す知識も、蔵書もありはしない。


「…………ちょっと問題考え直すわ」


そうすると良い。




「モール、今日は良い問題が出来たぜ!勝てる!」


最近ではこの勝負、競る程になったな。


人間が神と並ぶ日も遠くはないかもしれぬ。いつか、我は梯子を降りて貴様と肩を並べる日が来るやもしれぬ。


貴様と勝負をする毎日を我は好ましく思っているぞ。


今日も受けて立とう。




「……モール」


どうした?今日は覇気が無いように見えるが。余程問題に自信が無いのだな。


「違う、違うんだ、っモール」


ならば何故だ。我は人の機微には疎い。人程忙しなく考え事をしておらぬ。葦の考えていることが分からぬ。

言葉にしてくれ。


それくらい簡単ではないか。それ以上の難解な問題にいつも我々は取り組んでいるのだから。


「……おれ、結婚するんだ」


 ――。そうか。


「そ、それだけか?もうここには頻繁には来れない。勝負もお預けだ。おれはまだ勝ててないのに……!」


めでたいことではないか。それこそ、こんな所で時間を潰すよりも余程有意義だ。


「……何だよそれ。君にとってこの時間ってそんな無意味だったのかよ!好敵手(ライバル)って思ってたのっておれだけ⁉」


貴様は、ここで腐る人ではないということだ。


『司書』の家の一人息子なら、いつかはこうなることは分かっていた筈だ。貴様も『司書』の役割に誇りを、祖国に愛を、持っている。こうなるのは決まっていたのだ。定めとか、運命とか、そういう星の元に生まれたとか、そう言うのだろう、お前達は。


「はは、それ、()が言っちゃうのかよ……」


おい、何処に行く?まだ話は終わっておらぬ。


「うっせぇ!」


我は、いつでもここで待っている。頭を冷やしたら、また来るが良い。


「……」


……行ってしまったか。


あれは賢いが、激昂しやす過ぎる。それさえなければ、あれは『司書』としてこの国を支えることも容易かろう。


さて、次の勝負はいつかな。







「久しぶり」


……それ程時が経っていたか?


「経ったろ。結婚式とかで忙しくて一週間すっぽかしたんだぜ」


そうだったか。お前達は忙しないな。我には耐えられぬ程、いつも何かに追い立てられている。


「あぁ、これから本格的に忙しくなる。あんまりここには来れねぇ」


そうか。それでも、我は待ち続けよう。ここから追い出すのであろう?


「……あぁ。また来るよ」




































「……久しぶり」


あぁ、久しいな。本当に久しい。


「悪いな。もうこの体じゃ『図書館』になんてとても行けなくてな」


だからと、我に家まで来させるなど不敬にも程がある。手間を掛けさせるな。貴様でなかったら、許されなかったぞ。突如として勝負しに来なくなるのも、不快だ。


「そうだな。ごめん」


ラチ。貴様そんなにも頭が白かったか?そんなにも頬が痩せこけていたか?手が皺だらけだったか?


「そんなもんだよ。……もう『図書館』に行けなくなって三十年も経つから。もっと速く、会いに来てくれると思ってた」


少しすれば来るだろうと思っていたら、三十年経っていた。それだけだ。今までの時間を埋めるように、また勝負すれば良い。


「……それはどうかなぁ」


曖昧な返事は好まれるものではない。きちんと断言せよ。


「…………なぁ、モール。お願い、聞いてくんね?」


話を聞け、葦よ。貴様はいつでも自分勝手だな。……良いだろう、言うだけ言ってみろ。もう慣れた。


「ありがと。……おれはもうダメだ。長くは生きれない。だから、おれの子供達の成長を見守って欲しい。悪いことをしたらガツンと叱ってやって、良いことをしたら思い切り褒めてやってくれよ。おれの代わりに」


……勘違いと思いたかったが、貴様、やはり死ぬのか?


「あぁ、病気だ。治療法の無い、タチが悪いタイプのね」


それなら心配いらない。今すぐ治せる神を連れてこよう。心当たりはある。


「いや、遠慮しとく」


何故?


「君の唯一の好敵手(ライバル)は始めから最期まで人間で在りたいのさ」


理解出来ないな。だが、貴様なりの考えがあるのだろうから、我はもう口を出さん。


そして、先程の貴様の願いだが、そこまで干渉してやる義理は無い。と言いたいが、貴様の願いだ。善処しよう。


「んふ、サンキュ。君は甘いもんなぁ」


心外だな。我は人をあまり好ましく思っていない派閥に属した神だ。あやつらは殺し過ぎる。生きるためではなく、快楽のために多くを傷付け、無用に殺す。同族をもだ。実に愚か。


「ん、違う。——君は、おれだけに甘いんだよ」


……そうだな。言い返せんよ。


「なぁ、もう一個」


図々しいぞ、ラチ。


「……おれに触れてくれよ」


 ——死ぬぞ。


「知ってる。言ってたもんな、生まれてから一度も生き物に触れたことないって。生みの親にすら。どんなものでも、触れたら死ぬって。君が梯子から降りなかったのって、もしかして手違いでもおれに触れるのが怖かったからか?」


……気でも狂ったか。


「死ぬなら、君の手で殺して欲しい。でもさ、何でだろ。——おれは君に触られても死なない気がする。何となく、さ」


死に、例外はない。輪廻の輪も、冥界も、存在はしない。人がそうあれと望んだ幻想であり、理想だ。


矮小な存在よ。脆弱な存在よ。短命な存在よ。それでも、我の良き好敵手よ。

貴様が我に勝つことはない。しかし、ここまで競った人もまた居ない。誇れ。


「それだけじゃ、足りないんだ。……頼むよ。——おれは君に触れたい」


待て、ラチ。頼む。……考えさせてくれ。


「おれが待つ番かぁ。おれはそんなに待てないぞ……」






 ――ラチ?




本音を言うと。


……我は、きっとあれに惹かれていた。

あれは愚直で真っすぐ過ぎる。人懐っこい笑みをこちらに向けてくる。我が決して得ることがなかった輝きだ。それが、我には眩し過ぎた。


これが恋や愛なぞかの区別を付けることは出来ぬ。知識はあっても経験を持っておらぬ。……いや、そもそもその敷居すら不要と決めてしまった。


それでも、——人の世界は真実の愛より、平凡な愛の方がロマンティックで、求めているらしい。


そんなことだけは分かった。だから、大人しく身を引いてやったのだ。


別に愛の神(兄上)嫉妬の半神()海の神(姉上)のように気に入った人間を攫うことなど容易だ。その程度なら、本の頁をめくるよりも速く、静かに、完璧に出来る。


だが、それはしない。我は人のままのあれの行く末を見届けたいと、そう思っているからだ。それに、死の神に連れ去られるなど、憐れでならない。


だが、その結果がこれだ。


——勇気を振り絞って触れた手は既に冷たく、吐息一つ聞こえはしなかった。輝いていた瞳は硬く閉ざされ、あれは既に事切れていた。


奴の願い一つ叶えてやれなかった。我は愚鈍だ。——愚かだ。最も忌み嫌った人の部分と何が違う?





















目を瞑れば、奴との勝負が浮かぶ。

ラチはまた頭を抱えて、我はそれを梯子の上から愉快そうに見下ろす。問題を出しては答えを待ち、問題を出されては答えを言う。


二百年、そんな日々だ。蔵書の内容が全く入ってこない。思考が溶けそうだった。


戻らない日々、帰らない魂、奪うことを忌み嫌いながら奪うことしか出来ない自分。うんざりだ。する筈のない頭痛がする程にな。


惰性で奴の子孫だけをただ上から眺め続けた。叶えてやれなかった罪悪感から、せめてこちらだけでも。そう思っていた。


叶えてもらえなかったと知ったら、きっと貴様は本気で怒るだろうな。腹いせに子供のように我の気に入った本を隠すだろう。


そんな日々が、待ち遠しかった。会いたかった。

冥府がもしあったなら、我は貴様を攫いに行っても良いだろうか?もう人の身で天寿を全うしたのだ。死後くらい、我に譲れ。人の目なぞ気にせず、静かな冥府で貴様と二人で過ごしたい。


 ——分かっていた筈だ。


死ぬと。奴はそろそろ死ぬと。いや、人はいつか死ぬと。その程度、頭に入っていた。ただ少し、思ったよりも速過ぎただけで。


それでも、どれだけ心の準備をしても、我にはきっと耐え切れなかった。


気が付けば、勝手に涙が流れ、気が付けば、勝手に夢で奴を見る。

忘れられないのだ。寝ても覚めても、他のことを考えられぬ。


 ――忘れられないことは、こんなにも苦しかったか?


忘れられないのなら、いっそのこと狂って仕舞おう。凶器に飲まれればこの魂、幾分か楽に感じよう。


そうだ。何故思いつかなかった。名案だ。狂って仕舞おう。狂って仕舞おう。


 ——この身、この魂、自ら水に飛び込む虫となろう。









あァ、見覚エのアる、茶髪。人ヲ殺シてイル。いッパい殺しテる。コれは悪いコト。イケなイこト。

約束ヲ守ろウ。願イを叶エヨう。……誰とノ?分からない、でモいイや。


 ――罰ヲ与エヨう。殺そウ。


        *  *  *


「……殺すんじゃなかったのか?」


ウィリアムがモールを睨みながら、嫌味ったらしく言いました。せっかく彼の手が止まったのにどうして挑発するようなことを言うのでしょう……!


しかし、モールは動きません。……いや、微かに手が震えています。明らかに、怯えて嫌悪感を示している。先程まで一切無駄のない動きをしていた彼が、初めて人間らしい行動をしました。



 分かラナい。お前ヲ殺サなイトいケない。デも、お前見ルト気持チ悪い。初メて見タ時かラ、ずッと。



突然頭に誰かの声が直接響きました。片言で細々とした声がはっきりと聞き取れる。慣れない感覚が不快で、肩を担いでもらっているキジェに至っては眉をひそめていました。


「は、気持ち悪い?そりゃどうもっ!誉め言葉だよ」


あなたはどれだけ不用心に相手を煽れば気が済むのですか⁉



 何デだ?何故?何故何故何故何故何故何故何故——⁉



「――それは君の大切な人がおれに似ているからじゃないか?」


え――?


「オーウェンの恋人。昔からこの国に伝わる伝説。オーウェン家のお嬢さんと庶民の男が互いに惹かれ、恋焦がれ、破れた身分違いな悲恋を書いた物語。君はその男のモデルで、おれはそのお嬢さんのモデルの子孫何じゃないか?」


いや、いやいやいや!そんな偶然、ある訳ない。そんな運命、存在する筈がない。それはあなたの理想でしょう?証拠も無いのに。


「……いや、違うな。おれがそうあって欲しいと思ってるだけかもしれん。そこの所、どうなんだ?」


それを聞いて、はい、そうですと答えてくれる相手ではないでしょうに……。度胸があるというか、変な所で肝が据わっているというか。


大体、その返事をしてもらったとして、それを聞いてどうするつもりですか。



 お嬢さん?は、はは、はははははははははははははははははははははははは――!



地の底から響くような笑い声。人目をはばからず、本気で、心の底から笑っている。モールのそのような声を初めて聞きました。



 いつだって、そうだ!人間は都合の良いように歪曲させる!事実かどうかなんてどうでも良いんだ!事

実でなくても自分が楽しかったらそれで良い!面白半分で燃やした枝の後のことを歯牙にも掛けぬ愚か者どもめ!



 我とあれの記憶を、我等だけの思い出すらも捻じ曲げたか!人間!



「――やっと本当の君と話が出来るな。思ったよりも、化けの皮が剝がれるのが速かった。狂った振りなんて、楽しかったか?」


その場の空気が凍りました。

確かに、今のモールの発言は、今までの彼らしくなかった。今までは死の化身、という印象だった彼が、今の発言では理知的な死を司る神、のような印象を受けました。口調だけでない。雰囲気までもガラリと変わり、初めて感情的な一面を覗くことが出来た気がしました。


「いや、少し訂正。正確には、君は大切な人を亡くして深い悲しみの中に居た。そいつのことを思い出すのが、もう二度と会えないことが、たまらなく苦しかった。狂ってしまいたい程。——でも、狂えなかった」


永く、重い沈黙。本当に重い。空気が負の感情を吸い込んだように。



 ………………あぁ、その通りだ。オーウェンの子孫、奴の末裔、我が託された子供よ。



次に聞こえてきたのは、とても理知的に聞こえる彼の声でした。冷たい死とは思えない、優しく慈悲深そうな声。彼の声だとは信じられませんでした。



 我は狂いたかった。しかし、それは叶わなかったのだ。どんなことをしても、結局我の思考は明白で、あれとの記憶も色褪せなかった。だから、狂った振りをすれば、いずれ本当に狂えるのではないかと本気で思ってしまった。



 ……本当に殺すつもりは微塵も無く、ただ心の奥底から怯えて震えて欲しかっただけだ。叱ることをしたことがなかった故、このような乱暴なことしか出来なかった。すまなかった、つまらない茶番に付き合わせてしまった。



「……いや、おれはそうは思わない。確かに死ぬ程怖かったぜ。けど、——君に会えて良かった、モール」


今もモールの顔は長い髪でほとんどが隠れて見えません。それでも、彼が弱弱しくも、満足げに笑ったことは見えなくても分かりました。


「もぉ満足か?モール」



あぁ、手間をかけた。



「んや、良いよ、別に。あーあ、帰ったら説教かー。まぁ、兄貴的にモールが気になって勝手に付いてきたなぁんて言っつぁいるが、結局俺もちょっかい出しちまったからなぁ」


「……?どうしてですか?」


どうして、説教を受けるのでしょう?ふとした疑問をぶつけてみました。おそらく、今のヘルトなら答えてくれる気がしたので。


「ん?何、今向こうではお前さん達に接近禁止が命じられてんだよ」


……へぇ。それ程、私達を危険視しているということでしょうか。それを破ってやって来た彼らの肝の据わり具合にも驚かされました。


「そうだ、舞姫。お前さん自覚が無いらしいから忠告してくが、仲間が大切ならもっと会話しといた方が良いぞ」


「どうし――」


「それも言わんと分からんか?」


「……いえ、参考にしておきます」


「応よ」


そう彼は言うと、私の頭を掴み、容赦なく乱雑に撫で回しました。ぐしゃぐしゃの髪を片手で直しつつ、とりあえず一息付きました。


数多の仲間と共に武器を取り、戦場を駆けてきた戦の神から、仲間とのコミュニケーションについてのアドバイスです。無下には出来ない。


「じゃぁな、お前さん達。神はたった千年とちょっとで人間なんぞに愛着なんか湧かんから、精々頑張れよ!」


「そんなものなくても、私が好かれる訳ありませんよ」


「そうかよ」


「ちょ、師匠。置いていかないで……」


「……にゃっ」


こうして、押しかけてきた迷惑な四人組は気ままに帰ってゆきました。……本当に気ままに。


「あ、リディアちゃ〜ん!またね〜!そこの寝てるカダチちゃんにもよろしく!!」


「速く帰ってください」


「おい、デイビッド。お前さんまた性懲りもなく……」


うわ……。と言う所でした。危ない。

わざわざ戻って来て言うことですか、それ。人を見る目が無いというか、随分と年下に……、一言で言えば趣味が悪いですね。


そして、彼らの姿が本当に見えなくなった所で、私達の戦いは終わりました。


「キジェ、ありがとう。もう十分です」


「分かりました。……無理はしないでくださいね」


「えぇ、分かっています」


キジェがこちらを苦虫を嚙み潰したような目で見ています。……分かっているつもりですよ。


「……ディールス、怪我は?カダチは大丈夫?」


「ご心配なく。私達は神ですから。怪我はありませんし、カダチは眠らされただけです」


「そう、……良かったわ」


良かった。本当に良かった。確かに二人の服はボロボロなだけで怪我や血はありません。カダチの顔色も良いものでした。


「ウィリアム、あなたは?」


「……あ、あぁ、別におれは平気だ。結局モールと話しただけだったしな」


「そうですか」


良かった。彼も無事でした。


「その、君の方が怪我が酷いだろ……?大丈夫なのか……?」


「え、……あぁ。大丈夫です。もう大体塞がりました」


「そ、そうか……。え⁉」


「ウィリアム、お別れです」


「え、え⁉」


「私達は人々が起きる前にここを発ちます。これ以上の長居はあまりにも人目に付いてしまう。絵の完成まで手伝えないことは残念ですが、了承してもらえたら幸いです」


「……」


「さようなら、ウィリアム。どうか、私のことだけでも忘れてください」


彼がディディと過ごしたことは、当然ですが極力秘匿するべきです。特にあの方を殺したディディなんて……。

キジェやディールスやカダチのことまで忘れてくれなんて言えません。彼らに罪は無い。この旅は私が付き合わせてしまっているだけなのですから。


「――いや、おれも連れて行ってくれ」


「――は?」


「前から薄々思っていたんだ。国に平和をもたらすため、なんて言って大量に殺人したおれがこの国に居てはいけないって」


「な、何を、言って、……。あなたはこの国の人々のために、平和のために、その人生の多くを犠牲にしたあなたが⁉何よりもこの国を深く愛しているあなたが、国を出ていくですか⁉」


「あぁ、もう決めたよ。おれは人を殺した、たくさん。そんな殺人鬼がこの国に居て良いハズがない」


「でも、そんなのって……」


人を殺すことは悪。どんな状況でも、世界はおおよそそれに良い印象は抱いていません。


それでも、あなたがそのために多くの人を殺めたとしても、誰にも知られずに平和を為し、起こったかもしれない大きな戦争を未然に防いだ一人の少年のことを誰も知らない。誰も讃えない。誰も憧れない。誰も愛さない。

ただ人知れず、愛した国のために動き、自戒で愛した国に自ら追放されるなんて……


「あなたが、報われないじゃない……!」


「……良いんだぜ、それで。それが、——正しいのだから」


結界のようなものはいつの間にか消えており、辺りは明るくなってきていました。

誰一人欠けることなく越した夜。そうして迎えた日の出。


 ――朝が来る。

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