48 自我の境界線
「……いえ、何でもありません」
それだけ言うと彼はすぐに再び口をつぐみ、本に目を落としました。
驚きました。彼の発言もですが、確かに彼の言う通り、踊っていた時、ほとんど踊りについて考えて踊っていなかった。
――踊っている時、踊りのことを考えていなかった、この私が。
雷が体を走ったような衝撃でした。耳鳴りがうるさい。微かな恐怖で手が強張る。
脳裏に教会の大人の、冷淡な視線を一身に浴びた日々。「マーリーンの娘」。それが私のレッテル。あの女優の娘だからと勝手に期待して、誰として私を「リディア」として見てはくれませんでした。
上手くいけば「私達の教えのおかげ」、「血が繋がっているから当然」。
上手くいかなければ「お前のせい」。
家族を失う喪失感も、家族に捨てられた絶望感も、自由だったはずの日々が突然鎖に繋がれた困惑も、支配される恐怖も、抱え込めない後悔も、母との思い出が、——踊りがあったから。辛うじて乗り越えてこれました。今笑って話題に出来ていました。
それすらも、今は楽しめない。苦しい。息を吸っても吸っても、肺からすり抜けていくような。
いつだって怖くて、焦って、怯えている。何に?分からない。でも、堪らなく逃げ出したくなる。
――「私」が意識を持ったまま「私」でなくなる。
「リディア」の境界線がブレる。
輪郭を失って体がグズグズに崩れていくような、糸を一本引っ張ったら全てほどけるような、氷のように為す術なく溶けていくような、どうしようもない出来事みたいに。
――こんなの、笑えない…………!
「ターンが癖になってんぜ」
「…………ぁ、そ、そう」
「落ち着けって。水飲むか?」
「はい、いただきます」
「……何に怯えている?まるで無敵みたいに己が舞に誇りを持った君がそこまで」
「……詮索は控えていただけますか」
「へーへー、そりゃ失礼」
適当な返事。彼は人をイラつかせる才能の持ち主ですね。皮肉屋で一言多く、人を下に見ている感じが。
「ま、いいや。舞、良かったぜ。そこで足上げて……、ターンの時のポーズ。そう、それ。もうちょい顎引いて。……後は天井のシミでも数えて待っててくれ」
「シミって……」
相当古い、それこそ建国からだとしたらおそらくは千二百年前の建物でしょうが、神が作り、人間が必死に保存してきたものですよ。シミどころか塵やゴミの一つすら見当たりませんが、ひとまず彼の言葉に従いましょう。
…………しかし、しんどいですね、姿勢を維持するのは。
「……少しだけ、お話しませんか?」
「あぁ、その姿勢じゃ苦しいだろ。すぐには終わらないが君の気晴らしになるなら」
スケッチブックから目は離さないが、彼はしっかりと応答しました。
てっきりデッサンの邪魔だから我慢しろ、ぐらい言うかと思っていましたが。
息を飲み、思い切って一歩を振り出してみました。
「エーリゼとあなたの出会い。彼女はあなたを命の恩人だと言っていましたが、何があったのですか?」
「……いや、君は人の詮索はするのかよ」
彼の手が明らかに止まった。しかし、再び鉛筆が紙の上を走り始めるのにそう時間は掛かりませんでした。
ウィリアムは何事もなかったように思案し始め、肩を落として静かに重い口を開きました。
彼の言葉はごもっとも。しかし、私は知りたいのです。知らないといけない。
「一年くらい前か。内戦が激化した時にお嬢様達と奥様が逃げ遅れたらしい。奥様は足が瓦礫に挟まって逃げられず、お嬢様達は恐怖で奥様から離れようとしなかった。敵の兵士が段々近付いてきて殺されるって瞬間、そこを通りかかったおれが敵兵を不意打ちで気絶させて瓦礫をどかして助けたってワケ。……正直、あと少し遅かったら奥様は亡くなったと思う」
「そのようなことがあったのですね。すみません、聞いてはいけないことでした」
「いや、構わないさ。……うん」
反芻するように彼は言い、再び視線を落とし黙り込んでしまいました。彼の伏せたまつ毛に光が滑り、まるで泣いているよう。
あれ、彼、化粧なんてしていましたっけ?
光を受けた右頬に、若干色むらがあるように見えましたが、気のせいでしょうか?
重い空気の空間に、紙を滑る黒鉛の軽い音だけが響いていました。




