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4章前半総集編

カダチが旅に加わって、早五ヶ月。七ヶ月にもなる旅は一番目のディディに会いにディールスの案内の元、ルジャダ国を目指して雪山の麓を突き進んでいた。


まだ麓だというのに雪がうっすらと積もっている。

赤くなった指先に息を吐くと、隣に居たキジェが愛らしく真似をした。指先が温かくなるのを感じたのか、はたまた自身に向けられる視線に気が付いたのか、彼はこちらに向かってにっこりと微笑む。


リディアは彼のあまりの可愛さに、胸を締め付けられる感覚に襲われる。天使のような彼の愛嬌に敵う者はいるのだろうか。思わずこちらも笑みが零れる。


そんな彼の目には再び包帯が巻かれていた。綺麗な瞳が隠れているのはもったいないと思い、理由を聞いたところ「なぜか落ち着くんです」だそうだ。キジェが良いなら、それ以上は口を出す必要も無いと思い、口をつぐんだ。


ディールスは相変わらず無言、その後ろを伏目がちなカダチがついていた。


しかし、旅の最中ずっと無口だった訳ではない。


キジェはディールスから一般常識から世界の成り立ち、ディディについて説明されていた。

世界創世記の作者から直々の教えなんて、とてつもなく贅沢なことだが、キジェは要領があまり良くないらしく、眉間を抑えるディールスというレアな光景を目の当たりにした時は思い切り笑ってしまった。その後、機嫌を損ねた彼の顔色をうかがいつつ、心の中で猛反省した。


カダチは全員の服のほつれを直してくれた。ちなみにリディアのドレスは小さなほつれを直してもらった後、「流石に全部は無理なのよ」と見放された。


そんなこんなで二人旅だった頃からは想像できない程、旅は明るく、口数が多いものになっていた。


        *  *  *


吐く息が段々と白くなってきた。山小屋や洞窟での休憩時間も体が休まることはなく、ただ寒かった。

赤から黒に変わった足の指に細心の注意を払いつつ、何でもないように隠し続けた。秘密裏に何度か取れた指をくっつけるのにも苦労した。凍傷が治るまで、傷口が完全に癒着しなかったディディの体の不便さが垣間見える経験だった。しかし、そうなるのも仕方ががない。


リディアの服装は、旅を始めた頃と変わらなかったからだ。微かに紫がかった白いドレスには多くの大きな穴が開き、足には踵の折れたヒールのみ。羽織っているものなども一切無い。


着の身着のまま旅が進み、寄り道・回り道もあったがようやくあと一人になった。


あと少しでエドワーズを助けられる。


正直、彼にどんな顔で会えば良いのか全く分からない。私の愚かな行動に巻き込まれたのだから、心の奥底から憎んで、恨んで再開した瞬間数発殴られてもおかしくない。


今すぐ助け出したいという焦燥に駆られると同時に、彼に会って全てが変わってしまう恐怖が均衡を保っている。


……いや、変わらない訳が無い。変わって欲しくないというただの身勝手な願望だ。


彼のことを考えると心にぽっかりと穴が開いたような、胸に茨の棘が刺さったような鈍い痛みに襲われる。体全体が重くなり、彼女に向ける罪悪感とはまた違う罪悪感に縛られる。それでも何度も考えてしまう。


 ――一人で勝手に傷付いて、バカみたいだなぁ、私。


        *  *  *


雪山の中腹に差し掛かり、強くなっていく吹雪の中、前が見えなくなっていく。日も沈んできて方角を見失いそうになる。速く到着しなければ、目的地へたどり着けるかも怪しくなる。


「先を見てくるのよ。ここで待ってなさい」


そう言うと、カダチの体がふわりと浮いた。軽やかな彼女はそのまま前方の空を飛び、姿が見えなくなった。


「飛べるんだ……。ねぇ、神様って他に何が出来るんですか?神の力とは何が違うんです?」


「神ですから。空を飛んだり、物を浮かしたり、火や水や風を起こしたり、操ったり、大抵のことは出来ます。そして、神の力というものはその神が司るものに関係のある唯一無二の能力のことです。意味合いは変わりますが、分かりやすく言うならばその神にしか出来ない特技みたいなものという認識で間違いないかと思います」


目が輝かせたキジェの質問にディールスは丁寧に答えた。

流石物書き。分かりやすく、砕いて説明している。


「カダチさんすごいなぁ!……あれ?」


感心していたキジェの興奮がゆっくりと鎮まる。


「ボク、ディールスさんのこと……。ん?あれ?でも、カダチさんとディールスさんは兄妹で……」


頭の中で一生懸命に情報をまとめ、整理している。頭に手を当ててブツブツと一人で何かを呟いては空を見上げる。混乱したようなキジェは仕草も愛しかった。


「ディールスさんって……、神様、なんですか……?」


結果として彼が頭を回転させて導いた答えは大正解だった。


それはそれとして、彼とは五ヶ月と少し旅をしていたが、気付いていなかったのか。そっちに驚いたが、ディールスの反応が気になり、口を挟まず、緩む口元を抑えて彼の返答を待った。


「……あぁ、自己紹介してませんでしたか。私は彼女から生を受けた四番目の神、歴史を司るイストワールという者です」


さらりと自分の正体を暴露するディールス。キジェに向き直り、礼儀正しく挨拶をする姿はまさに上流階級のご子息のそれだ。美しくも慎ましい所作は彼らしかった。


「方角は合っていたのよ。検問もやっていなかったから、さっさと行きましょう」


キジェの驚きを遮るように、宙を泳ぐ人魚のような妙齢の女性が喋った。いつの間にか戻ってきていたらしい。吹雪の中から突然現れたように見えたので心臓に悪い。思わず声を出して驚いた。

キジェに至っては驚きすぎて背中から雪に突っ込んでいた。


「わ、悪かったけどそこまで驚かなくても……」


雪が降り積もった地面にすっと着地するカダチ。その優雅さをどうにか舞に取り入れられないかとリディアは思案したが、それよりも気になることがあった。


キジェに対し、申し訳なさそうだが、決して手を差し伸べないその臆病な姿勢が彼女らしさだと旅で思った。だが違う。それは彼女らしさではなかった。今のではっきりした。


おそらく彼女は予想外のことが起こると体が固まってしまう癖がある。本人が自覚しているかは不明だが念頭に入れておこう。


その後、カダチの言う通りの方向へ歩き続けるとすぐにルジャダ国の門が見えた。リディアはここまでずっと乗り気ではなかった。この国に戻りたくなかった。それでも弱音を全部飲み干してここに歩いてきた。


門には人は居なかったが、すすり泣く声が外まで聞こえてきている。

瓦礫が転がり、半壊しているルジャダ国の東門を駆け足でくぐった時、目の前の光景にリディアは違和感を抱いた。


旅をしてから、これだけ多くの人を見たことが無い。

無償で商品を渡す商人。空を見上げ、涙をこらえる人々。昼からヤケ酒を浴びるように飲むのに酔えない大人達。花を手に走る子供達。皆黒い服を着ていた。


予想外の光景に萎縮する。それを察したのか、ディールスがさっと着ていた白衣を脱いで、頭から被せてくれた。違うのディールス、人に怖がっている訳じゃない。


 ――この国では見られないはずの、あり得ない光景。


おかしい。発砲音が聞こえない。兵士の死体は何処だ?大砲の衝撃は?所々街が修復されているのはどうして?何で皆避難しないんだ?

本来あるべきでない光景が広がっているはずの街。いや国だ。忌まわしくも懐かしい故郷。戦争から逃げて目を逸らした両親の顔が浮かんだ。


一行は足早に適当な路地の宿屋に逃げ込んだ。ディールスによると、とりあえず今日はここで休息をとるそうだ。気を使わせてしまったことを悔いた。


ルジャダ国。王国でも帝国でも聖教国でもない国。

昔、ただの小さな集落だったこの寂れた地に彼女の使いである蛇が降りた。蛇は十七人の若人に『司書』として『ルジャダ図書館』の守りを命じた。以後、その地は十七の家が統治することでずっと平和だった。しかし、それが壊れる時が来た。内戦がおこったのだ。『司書』の政治的意見の違いから、十一年前に生まれた火種は消えることなく今日まで続いていた、はずだった。


ゆっくりと現実を受け入れ、ある可能性を認めた。旅の途中で内戦が終わったのだ。忌まわしい戦争の火がやっと消えたのだ。


ようやくこの国に訪れた平穏への喜びを素直に感じられない。遺族の気持ちを汲むと心が痛む。大勢の人が亡くなった。勝っても、負けても、停戦でも、戦争は人の命を奪う。政治について詳しくはないが、戦争があっていいものではないことは年端もいかない小娘の私でも分かる。


ふと目をやると、相部屋になった女性が部屋の隅で本を抱えてうずくまっているところが見えた。

リディアは未だ彼女がその本を読んでいるところを見たことが無い。隙あらば抱え込んでいるが、ページをめくる音が耳に入ってはこない。


「カダチ、あなたの旅の目標を聞いてもいい?」


「目標……」


無言の空間に張り詰めた空気が重い。だが、その空気に耐えきれずにこんな質問をしたわけではない。


気になったのだ。旅に付いて来てくれること自体ありがたいが、ただで付いて来る訳がない。彼女自身の旅の目標があるはずだ。私はそれが知りたい。


長く考え込んだカダチの口から、微かに答えが漏れた。


「旅であいつを……、弟のことを知って……、知ったうえであいつを完全に否定すること、なのよ」


 ――は?


思っていたものとは違う回答に、唖然とする。彼女は、この子は、そんなことを考えながらこの五ヶ月を私達と過ごしていたのだろうか。何というか……


「まるで……、上手く言えないけど、何だかあなたの弟さんの思い通りみたいに……」


言い終わるより先にカダチの表情が凍りついた。この国に降る雪よりも白く、生気の無い血の気の引いた悲痛な表情が、彼女の砕けた心を物語っていた。


「……違う目標の旅にすれば?ゆっくりでもいいからあなたが目標を決めて、焦らなくて良いからじっくり目指していく旅」


「無意味でしょ、そんなの。クラウスが居ない世界に未練も何も無い。カダチは借りがあるから、ただお前に手を貸しているだけ。カダチに指図しないで」


あるのは後悔と悲しみか?


不躾で余計なお節介だ。神であり、私よりもずっと長い時を生きてきた彼女に説教じみたことを出来る程、偉くもなければ、徳を積んだ訳でもない。


それでもカダチを放ってはおけない。理由なんて要らない。可哀そうな少女を救うことに。


「――クラウスさんは亡くなった、でもクラウスさんは確かにあなたの中で生きている」


「……何を言うかと思えば、くだらない」


「なら、あなたはどうして村の人達を助けようと自分から姿を変えて穴に向かったの?」


「…………黙って」


「あなたはクラウスさんだけが大切だった。あなたを迫害していた村の人を助ける理由なんて無かったはず」


「……黙りなさい」


「あなたは自分を守ってくれたクラウスさんのように誰かを守りたかった。いや、放っておけなかった。クラウスさんの家族だったから。彼に誇れる家族で在りたかったから。そうじゃない?」

「黙れ!この悪魔!!」


カダチの叫びがリディアの言葉を遮ってその空間を支配する。

それと同時にリディアに向けてカダチが殴りかかる。しかし、その拳は顔に当たる直前でピタリと止まった。少し、震えていた。


カダチはその拳を勢いよく下ろし、血が出んばかりに握りしめた。視線は一切変わらず、私の中身を引きずり出すかのように私の目だけを見ていた。


「お前は!あたしの何を知ってる⁉あたしの何が分かる⁉何も知らない人間如きが口を挟むな!!あたしがどんな気持ちで自分の姿を死んだクラウスの姿にしたと思う⁉クラウスの死体を置いていく時、どれだけ心が張り裂けそうだったか!クラウスはあたしの家族だった!彼を!心から愛していた!!」


大きく開いた瞳がこちらに殺意を向けてきた。かすれた声が止まらない。彼女がずっとため込んできた黒い感情がこちらを飲み込むように流れ込んでくる。


「でももう居ない!彼はあたしの目の前で死んだ!最期の言葉は何一つ理解できなかった!!」


精一杯に声を振り絞って彼女は続けた。床には血と涙が混じっていた。


「自分の醜い感情で彼女を殺したお前とは違うんだよ……!」


……そうだ。彼女には復讐の権利があった。私とは明確に違う点。弟に家族を殺され、村の人々を化け物に変えられた。あの場面では殺すしかなかったのかもしれない。他の選択肢が、なんて言っていいはずがない。ディールスの言う通り、第三者が決めつけていい程、あの場でのカダチの決定は軽いものではないと分かっている。


それでも、全てを諦めた目をしたあなたへ。私はあなたと真っ向から向き合います。


「――もっと我儘になりなさいよ!!」


怒鳴られることを予期していなかったカダチの肩が跳ねる。

私だって怒鳴る気はなかった。心の底から湧き出る哀しさが、涙として、怒声としてリディアから発せられていた。


「確かに何も知らないわよ!あなたの感情も!行動も!私が決めつけていい程軽いものじゃない!あなたがあの場で決めた全ては恐ろしいまでの葛藤と苦痛があったと思う!絶対あった!でも何⁉ずっとそのことだけ考えるつもり⁉バカじゃないの⁉過去に縛られて未来まで捨てる気⁉それは正しくない!!」


まくし立てるように次々に言葉が出てきた。感情が抑えられない。


「死んでいたら、何も価値は無いの⁉思い出も……⁉」


カダチの顔を見られない。涙を乱暴に拭い、震えた声でまくし立て続ける。


「違うでしょ!あなたの言ってること!もっと我儘に、自分の気持ちに素直になって!!他人の視線なんか気にしないで自分のしたいこと目一杯やってよ……!」


哀しい少女の自己犠牲の生き方は否定したくない。その生き方を否定するということは、彼女のこれまでの全てを否定する気がしたからだ。ただ、他の生き方を教えたい。


世界で一番失敗した先輩から、唯一教えられることを。


「クラウスさんは、あなたに誰かに尽くす生き方を教えたの⁉違うでしょ!」


 ――彼女が話したクラウスという人物は!


「彼は、あなたらしく!——カダチらしく生きて欲しかったはずよ!!」


恐怖心すらも忘れて、顔を勢いよく上げて彼女と目を合わせる。

大人の女性の姿のはずなのに、今にも泣きだしそうな幼い少女の顔が脳裏に浮かんだ。不安そうに、悲しそうに本を力強く抱きかかえ、家族が迎えに来てくれることを待っている涙ぐんだ白いリボンを付けた少女に。


自身に向けられた拳を力強く握る。想いを伝えるように、強く、長く。


やがて、かすんだ視界に映っていた大人の女性は、可愛らしく懐かしい少女の姿になっていた。ふらふらと立ち、大粒の涙が零れないように唇を噛み締め、目を細めるカダチは数ヶ月ぶりに元の姿になっていた。


「何が分かるのよぉ……。お前なんかに……」


ついにこらえきれなくなった涙がボロボロと少女の頬と服を濡らす。口先では毒を吐こうとしているが、その語調は泣きじゃくる子供と何ら変わらなかった。


クラウスさんと別れてから、彼女は一度も泣いていない。ずっと、我慢してたんだ。


「――クラウス……、いやだ、いやだよ!カダチを置いていかないでぇ!!」


部屋の隅、慟哭する少女を抱き続けて夜を越した。


        *  *  *


次の日の朝、宿を出て向かった東町の中央の広場でディールスは言った。


「今日は各自、自由に行動してください」


彼がそんな猶予をくれるとは予想外だった。無駄な休憩は許さず、旅の続行を最優先に行動すると思っていた。


続けて彼が言った。


「目立たないこと、問題を起こさないこと。それと各々の必要なものは今日中に買い切ること」


……最後のが本音か。

それはそれとして、リディアとしては彼の気遣いはとてもありがたかった。色々としたいことがあったからだ。


何よりこの服装は流石にまずい。見た目も、機能も。


「あぁ、一応言っておきますが、貨幣は支給しますが余ったものは当然回収します」


「当然?何で当然なんですか?」


「この国に来た理由は、一番のディディが居るトネリカ聖教国へ行くための唯一の経路だからです。そしてトネリカ聖教国は偶像崇拝を固く禁じられています。ルジャダ国で流通しているラシク金貨、ラシク銀貨、ラシク銅貨の表全てに彼女の想像の肖像画が彫られており、持ち歩いていた貨幣を落としでもすれば数十年は幽閉されるでしょう。ですので、回収します。特にミスター・キジェ。貴方のを」


「ボクへの信用が低いです……。否定できないけど、傷付きますよ……」


ディールスは懐から三つの袋を取り出し、キジェ、カダチ、リディアの順に渡した。リディアの袋だけ一回り大きく、重いのは服代も込みにしてくれた彼の気遣いなのだろう。


「十八時にここ集合にします。では」


そういうと、彼は振り返らずに人混みの中へ消えていった。あまりにも行動が速すぎる。彼自身、何かしたいことがあるのだろうか。


「キジェ。あなたはどこへ行くの?」


「ボクは『図書館』へ行ってみたいです!」


……彼の服装的に難しそうと思ったのは私だけではないはずだ。カダチに共感と助け舟を求めたところ、彼女は気まずそうに視線を逸らした。


彼もまた旅が始まってから服装が変わっていなかった。見ているこっちが寒くなるような薄い祭事用に似た服は手足が出ていて寒そうだが、彼は涼しいと言い切った。手を握った時、とてつもなく体温が高いとは思っていたが、これ程とは。これでは感覚が麻痺しているみたいだ。


彼の神の力と関係があるとディールスは断言していたが……。


服を買った方が良いのでは、とは言えず、神妙な面持ちで、白と黒の服と足枷が彼を囚人たらしくしてい

キジェを見送った。


「カダチ、あなたは……って」


辺りを見回しても、お目当ての少女の姿は見つからなかった。しかし、少し遠くで興味津々に屋台の串焼きを受け取っている様子が見えて安心するとともに、初めて見る彼女の姿に安堵する。


さて、私にも行きたいところがある。


リディアは、まず修理屋へ向かうことにした。

土地勘を働かせ、路地を左、左、右の順に進み、細道を抜けてやがて見知った古い修理屋へたどり着いた。


店に入ると六代目になる店主がカウンターに座り、葉巻に火をつけていた。老婆はこちらを見ると驚いたように葉巻を隠した。


「や、やぁ、お嬢さん。修理の依頼で?」


慌てたように、誤魔化すように店主が笑った。何だか一言言いたくなったが、それよりも悲しみが勝ってしまった。


目を伏せて、悟られないよう、視線を合わせないように、そっけなく最低限、声色を変えて言った。


「……これの、修理を」


カウンターに静かに置いたのはエドワーズのオルゴールだ。

先の戦いで壊れてしまい、そのままにしていた。歯車が歪み、ネジが外れ、箱に穴が開いて中身が剥き出しになり、かつて見られた素朴だが上品な木面の面影は消えていた。


ひょいと手に取った店主がブツブツと呟きながらオルゴールを四方から眺める。


「……うーん、コイツは…………。修理も難しい程壊れているうえに見たこともない程古い。コイツを直せるのは、神様だけだね。それこそ、あの方ならすぐに直せるだろうに」


「……そう」


カウンターに置かれたオルゴールを掴み、店を出た。店主の謝罪の声を置き去りにするように、走って路地を抜けた。しばらく走り、さっきの広場まで戻ってきていた。


……覚えてなかったな、エミおばさん。


いや、数十年ぶりなのだ。覚えていてくれる方が不思議な年月だ。それに可愛がってくれた八歳の私とは随分姿も変わった。


今の私に関わらない方が良い、それは分かっている。それでも――


「辛いなぁ……」


忘れられるというのは、心にくるものがある。


        *  *  *


その後、リディアはドレスの修繕を専門とする店へ向かった。

店に入った瞬間、数人の店員の顔が笑顔のまま凍りついた。この寒い国でこんな軽装かつボロボロのドレスに涼しげな足元をしていたら、当然驚かれることをリディアは忘れていた。


結果、注文をする前に大量の毛布にくるまれ、温かいミルクを貰った。


ミルクを飲み干し、感謝を伝えると店員はほっとしたように笑った。久しぶりに他の人の親切心に触れたような感じがして心が温まった。


ディディであることを隠すために、今の私のみすぼらしい姿を見たくない、と言って店の姿見を仕舞ってもらった。


「このドレスの修繕をお願い」


「それは今日中に出来ますが……、新しいものを買った方が安いし速いですよ」


店員が躊躇いながら忠告する。親切な店だ。黙って仕立てた方が儲けるだろうに。

しかし、彼の言うことは本当に正しかった。


カダチが多少繕ってくれたとはいえ、数ヶ月を共に歩んだドレスだ。元の美しさの面影はなく、中古品の方がマシなレベル。


でも、それでも。泥も、ほつれも、穴も、破れた刺繡も、——全て私の旅を表している。


「これは……、大切なドレスなの」


「それは失礼しました。少々お待ちください」


店員が店の奥へ行く背中を見て、リディアはぼんやりと思った。


分かった気がする。ディディが黒と白の教会の服を着続けている理由が。着替えることも可能であるにも関わらず、あの本に黒と白の教会の礼服を着ていると書かれていた理由が。


 ――囚人服のように思っていたが、これの本当の役割は喪服なのではないか。


自分の手で殺した神の死を悔やむ心を忘れないための。それこそ、私も、カダチも、記憶喪失であるにも関わらず頑なに他の服を着ようとしないキジェも。


沈んだ心が、体が、泥に引きずり込むように感じた。ぬるくなりつつカップを握り、天井を眺める。


――私は、変われたのかな。


ドタドタという音を立てながら、慌てた先の店員がリディアの着ているドレスと似た型のものを持って戻ってきた。

恐ろしく、目に焼き付く程紅い、レッドダイアモンドのようなドレスだった。過度で華美な装飾は無く、ただ赤を際立たせるために作られたシンプルながら美しいそれは、あの日の教会で流れた自身の血を彷彿とさせた。


「お客様、もし代わりのドレスを借りるのでしたらこちらはいかがでしょう?」


「……とても素敵ね。貸料を修繕費と一緒に会計に入れて頂戴」


「かしこまりました」


これほど美しいドレスを今から自分が着れる。そう思うと思わず笑みが零れた。何よりも店員の尽きない気配りが心から嬉しかった。


「ところで、最近うちにヘアセットとメイクを学んでいる新人が来たのです。お客様さえよろしければお代は要りませんので、どうか相手をして頂けないでしょうか」


店員がそう言うと、恥ずかしがる女性の店員が奥の部屋の壁に隠れながらこちらの出方をうかがっていた。


何とまぁ、本当に親切な店だ。お金を持っていなさそうな、初めての客にここまでする義理は無いと思うのだが。


 ――無償の親切心は身を滅ぼす。でも、堪らなく嬉しさが込み上げてくる私が何処かに居る。


「お願い、したいです」


「ありがとうございます!」


ありがとうはこちらのセリフだ。あなた達の行動に、救われた。


 ――ありがとう、こんな私に優しくしてくれて。


        *  *  *


リディアは昼頃、ドレスを預けて店を出た。

高く結い上げてもらった綺麗な髪、自然なメイク、上からコートを羽織っているにも関わらず、存在感のある真っ赤なドレス。この国の司書に連なる家系の令嬢に見える程、少女は美しくなった。


集まる視線に耐えつつ、リディアはフードの付いたコート、大きめのバッグ、この国用の靴、三人の贈り物を買い揃えた。


なぜプレゼントなんか買ったかというと、それは私が贈りたかったというのが一番の理由だ。日頃の感謝を伝えるのは何だか照れくさい、が伝えたいことは伝えられる時に伝えないと後悔する。


先程の店ではこの時期の注文が少ないからか、ドレスの修繕に集中に出来るので、明日の朝に受け取りに来て欲しいと言われた。流石に速すぎる気もするが、裁縫には疎いので言われたことを信じることにした。


必要なことは一通り終えたので東の広場で一休みしようかと街道を突き進んでいた時、見知った少女の姿が目に入った。

店先のショウウィンドウに張り付いて、目を輝かせながら食い入るように見入っている。一見無表情にも見えるが、見開かれた目の輝きが彼女の興奮を表している。こうして見ると、本当に普通の可愛い少女だ。


「カダチ!どうしたの?」


「……これ」


黙ったままこの場を過ぎ去るかと思っていたが、意外にも少女はショウウィンドウを指さした。


少女が指さしていたのは、品のある懐中時計だった。職人技で作られたであろう銀細工のそれは今の流行には合わない全体的にシンプルな造りだったが、蓋に大きめのアクアマリンがはめ込まれており、目を引かれるものだった。


ガラス越しに眩しく輝いているアクアマリンはディールスの瞳と同じ光。


「イストワールお兄様に、似合うかなって思って」


「確かに……、これは素敵ね」


「でも、お金が足りないのよ」


確かにこの懐中時計は通常のものと比べても桁が違った。さらには隣の証明書が他との格の違いを見せつけるように置かれている。


さすが加工を得意とする国。この国で証明書を掲げることは店の加工の素晴らしさを他社に見せつけるという牽制の一種だ。それだけこの時計には価値がある。


二人分足してもかなり足りない。


「……ちょっと待ってて」


カダチが初めて私の前で欲を出した。少し前まで人形のように虚ろな瞳をしていた少女がだ。先輩として、旅の仲間として、叶えてあげたい。


走って広場へ行くと案の定、まだ多くの人が広場に残っていた。


手っ取り早く始めようと、バッグからペンと紙を探し始めた時、奥から楽器の音と感嘆の声が聞こえてきた。

見ると、キジェがピアノともチェンバロとも言えない楽器を弾いていた。普段の彼からは想像できない、儚げで真剣な表情に呑まれる。彼の指先から奏でられる音色にいつまでも酔いしれて、耳を傾けていたかった。


「誰でも弾いていいそうです、今日だけ」


キジェの言葉にはっとする。気が付くと、演奏が終わり、拍手はまばらになっていた。


もう戻れない昔の暮らしを追想するように、もう居ない大切な人を想うように、記憶の無い彼は昔の温かさを求めるかのように楽器を指先で撫でる。彼らしくない口角を僅かに上げただけの笑み。淋しい淋しい笑みだった。


「あなた、楽器弾けたのね」


こんな聞き方をしたのはわざとだ。恐らく彼はずっと弾けたのだろう。弾けることを忘れていただけ。それだけだ。


私が知っているのは、記憶の無い彼だけ。……でもそれって、彼を知っていると言ってもいいのだろうか。


思考を置き去りにしようと、頭を振り、持っていたペンで紙に大きく丁寧に「ルジャダ国の一刻も速い復興と永きにわたる繁栄を願って」と書き、先ほど買った空のバッグを中身がよく見える状態で広場の中心に置いた。中に紙を入れ、靴を脱いで息を吸う。


「キジェ!適当に一曲お願い!」


「無茶ぶりすぎません⁉でも嫌いじゃないですよ!」


意外と乗り気じゃないか、流石キジェ。しかし、先程の儚げな印象の少年は何処へ行ったのやら。


「リディアさん、道具は要らないんですか?」


踊るとはまだ言っていないのだが、彼は察したらしい。それしても、彼に扇や剣を使った舞は見せていないはずだが……。


「私は体一つの方が性に合うの!」


「何をするのか知りませんが、期待してますよ!」


あ、ダメだ。全然察してなかった。


しかし、キジェの表情が変わった。彼の腕前は確かなものだ。プロとまではいかないが、趣味の範疇はすでに超えている。


その間にリディアは軽く一礼する。さっきの大声である程度の視線は集まった。集まらなかった分は実力で見させる。全ての視線を集めて他の何も見れない程、魅入らせてやる。


キジェが鍵盤を強く叩く。強烈な曲の始まり。もっと静かな曲を想像していたが、キジェのおまかせは驚く程鮮烈で、一瞬で広場の人を黙らせた。まさかこれを狙ったのだろうか。


指先、足先、表情、手足の角度、横髪のなびき方、ドレスのはためき方、その全てに気を張る。穴の底で踊ったものとは違う、人に見られる舞。

ルジャダの伝統的な動きを取り入れつつ、バレエを意識した舞を踊る。今回は狂想曲のような曲が初見なだけにほとんど即興に近いが、それでも舞として成り立っているのは恐らくリディアとキジェの間に生まれた信頼だろう。お互いがお互いに合わせに行く、そんな性質をお互いが知っているから。


裸足であるから当然ものすごく寒い。が、血が出ていないのは長年の練習で年頃の娘のものとは思えない程足の皮が厚いからだろう。自分の努力の結晶がまさかこんな所で役立つとは。


演奏のテンポが段々と速くなる。チラッと横目で見ると髪の隙間から、血が騒いだ、やってやろうじゃないか、と言わんばかりのキジェが汗をかきながら楽しそうにしていた。手は一瞬たりとも止まっていない。

本当に彼は以前、ピアニストみたいな楽器の奏者を仕事にしていたのだろうか。


二人は止まらない。むしろ熱を帯びてヒートアップする。


ただ楽しい。観客を楽しませることを忘れる程、彼の演奏は素晴らしかった。体が動かなくなるまで踊り続けたかった。


雪風が二人を包む。体は熱かった。


しかし、二人の勢いが最高潮に達した瞬間、曲が徐々に大人しくなっていく。それに合わせ、リディアは動きをゆっくりに、滑らかにしていった。


最後には優雅な曲調に変わり、静かな終わりを迎えた。随分とまぁ、緩急の激しい曲だ。


涼しい顔をして、ドレスの裾をつまんで頭を下げる。


観客は大いに感動してくれたようで、余韻に浸っている者や涙ぐむ者も居た。

バッグの中にはそこそこのチップが溜まっており、目標金額に十分足りる程だった。強制や呼びかけをしていないにも関わらず、ここまで集まったのはきっと民衆が私達の舞台に価値を見たからだろう。


肩で息をしながらキジェの元へ向かう。その道のりの間だけでも数人の観客に声をかけられ続けるが、当たり障りのない回答と昔、膨大な時間をかけて練習した上品な笑顔で乗り切った。今の私とあまり関係を持って欲しくなかった。


「キジェ!お疲れ様!」


「リディアさん!ごめんなさい!まさか踊り始めるとは思いませんでした!」


人が多すぎて声が通らないため、二人は自然と大声になる。これだけ近くにいるのに声が届かないのはなかなかもどかしい。


「何だか楽しそうだったわね!」


「はいっ!楽しすぎてリディアさんが踊っていることに気が付きませんでした!」


正直者め。だから途中で曲がゆっくりになったのか。最後まであのペースだったら私は持たなかったと思うが、同時に最後まで踊り切ってみたかったと思ってしまう。


「すごく楽しかったですね!いつかまたやりましょう!」


「そうね。私もまたあなたと一緒にやりたいわ。その時が待ち遠しいぐらい本当に楽しかった。……そうだ!これ!」


タイミングを逃すと厄介だ。少なくともここではカダチもディールスも居ない。渡すのなら一人ずつ、しっかりと感謝を伝えて渡したい。


「キジェには励まされてばっかり。かっこつけさせてくれないんだから」


「何か言いましたか?ごめんなさい!よく聞こえなくて!」


「ふふっ、何でもなーい!」


少しはかっこつけさせて欲しいものだ。弟のような子に何度もかっこ悪い姿を見られちゃ面子が立たない。本当は頼られる人になりたかったのだから。


「――あなたの存在があるから、私はもっと頑張れる!いつもありがとう、キジェ!」


キジェへプレゼントを手渡す。

中身はフード付きの白いケープ。全身が隠れるように大きめのサイズを購入した。


「それを着ていたら、多分『図書館』への入館が受理されるわ」


「そうなんですか⁉実はボク『図書館』に入れなかったんですよ!何もしていないのに!」


「ディールスに頼んで明日の朝、少し寄りましょ。私もドレスを受け取りに行かないといけないから」


キジェは頬を膨らませ、不服そうに口を尖らせる。

ディディということがバレなかったとはいえ、やはり服装が服装だから入れないのも無理はない。というか、結構目的のために行動して、そこそこ目立っているがディディだと騒がれない。


作物も鉱石も何も取れない雪に覆われた不毛の地であるため、大抵のものは貿易で補っているからか、外の人を歓迎する風潮が強いのだが、親切すぎるというか、危機感が無いというか。


……いや、すっかり忘れていたがこの国には私とエドワーズの手配書が張られていない。この国の情勢的に内戦が終わっている今なら、あってもおかしくないと思うのだが。


考え事に夢中になっていたが、目の前の少年が肩を震わせていることを感じ取った。

そんなに嫌だったのだろうか。彼の神聖な雰囲気に合う色、サイズ、素材と真剣に選んだのだが。


かける言葉を必死に考えていると少年は勢いよく顔を上げた。


「~!ありがとうございます!すっごく!嬉しいです!」


ケープを抱いて飛び跳ねるように全身で喜んでくれた。プレゼントをこんなにも喜んでもらえると頑張って選んだかいがある。


ふと、広場の奥でこちらを見る少女の姿が目に入った。

彼女を待たせるのも気の毒だ。キジェに一声かけて、少女の元へ戻っていった。


「カダチ!ごめんなさい、待たせっちゃって。……先にいいかな?」


少女は黙ったまま。しかし、何処にも行かないということは、「YES」なのだろう。


「――これからは弱い所も見せて。頼って。どうか無理だけはしないで。いつもありがとう、カダチ」


腰を落として、視線を合わせる。


彼女の髪色に似合う薄緑色のベレー帽を取り出し、彼女の頭にそっと被せた。白いリボンが無くなってから、彼女の後ろ姿が何だか寂しそうだとずっと思っていたのだ。


カダチはプレゼントに一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに表情がなくなった。何か言う訳でも、要らないと押し戻る訳でもなく、ただ、両手で存在を確認するように触っていた。


雰囲気を変えようと、チップの入ったバッグの中身を見せるように開ける。


「これだけあれば絶対足りるよね。使って頂戴」


「……使えない」


目の前の少女の言葉に言葉を失う。

何がいけなかったのだろうか。それとも、要らないお節介だっただろうか。


彼女の希望を聞かずに自分勝手に行動したことを、リディアは心から悔やんだ。


「お前が稼いだお金なのよ。横取りみたいにカダチは使えない」


目を伏せて、少女が呟く。彼女がそう言うなら、きっとどんな言葉をかけても受け取ってもらえないのだろう。


「だからっ、今度……、舞を教えて欲しい、のよ」


少女はまるで手探りで言葉を探すように、たどたどしく言葉を紡いだ。

不器用な子だ。その言葉を言うのにも、彼女なりに相当勇気が必要だっただろう。だが、彼女の口からその言葉を聞けたことが、彼女がそう思ってくれたことが、堪らなく嬉しかった。


「えぇ、もちろん」


「約束、約束よ!ぜぇったい、教えてね!」


カダチがそう言った瞬間、今まで見たことがない程華やかな笑顔を見せる。花が満開に咲き乱れるように、年相応に見える可愛らしい素敵な笑顔だった。


その笑顔を見た時、リディアは心から願った。


――あぁ、この子が笑って生きていけますように、と。


        *  *  *


目的地に向かう間、おもむろにチップの中にあったラシク銀貨をバッグから取り出し、星明かりに透かすように眺めた。月明りの方が見やすかっただろうが、雲が所々厚く、月は三つ全て見えなかった。

表にはあの方の首から上の肖像画、裏には『図書館』の内観が刻まれていた。


銀貨の表の横顔をじっと見つめる。肖像画はやはり凛々しくて美しい大人の女性だった。

私もあの方に会ってその姿に大層驚いたのを思い出す。今まで信じてきた尊い女神が私よりも幼く見える少女の姿だとは想像したこともなかった。


眉をひそめ、銀貨を無造作にしまうと、カダチに教えてもらった目的地が見えてきた。


そこは遠くの図書館を見上げ、東の街並みを見下ろせる高い位置にある小さな広場だった。人通りの少ない、街灯に照らされたその場所に彼は居た。


広場にあるカフェで、ディールスはただコーヒーを飲みながら、街灯の光とランプの明かりだけを頼りに片手で本を読んでいた。本から一切目を離さず、本にかじりついている姿は彼のイメージと合致した。


そんな何気ない風景すらも絵になるのはきっと彼だからだろう。タイトルは「穏やかな休日のティータイム」、なんてどうだろうか。私が今適当に考えた。


声をかける前にディールスがこちらに気付き、顔を上げる。彼の顔には見慣れない縁の薄い眼鏡がかかっていた。美しい加工だ、すぐにこの国で作られたものだと分かる。いや、そんなことより……。


「ろっ、老眼……⁉」


「ぶっ飛ばしますよ」


抑えきれずに漏れた本音をバッサリと切られた。彼の冷静なツッコミの切れ味がこの国で作られたナイフよりも鋭い気がする。

しかし、冷静であって冷酷ではない。本気で嫌がっている素振りは無いので、こちらは笑って流した。


彼の周りに若い女性の人だかりができていないのが不思議に感じたが、とりあえず笑顔で相席した。もちろん許可は取っていない。


彼は小さくため息をついた後、コーヒーを口に運んだ。


「派手なドレスですね」


「あら、あなたから服装について言及されるとは思わなかったわ」


「いえ別に。今は目立つのを嫌っていたと思っていたので」


本から目を離さない彼は本の虫、という言葉がぴったりだ。会話の内容も褒めるのではなく、思ったことを言うだけ。というか、人と会話する時ぐらいこっちを見ろ。


「……昔は注目されない私に価値はなかったからね、見られることに慣れちゃった。まぁ今は何しても無価値けど」


多弁な口で会話に自虐を挟む。言ってて悲しくないのが不思議だ、というより自虐を言える程心に余裕ができたことを喜ぶべきか。


ゆっくりと本を閉じ、眼鏡を外して、相手を見据えてしっかり向き合う彼の姿は初めて会った日を彷彿とさせた。あの方を殺した直後の私にも手を差し伸べてくれたあの日。


目の前の青年は何事も無いようにスルーするかと思っていたが、彼の表情が僅かに切なげになったように見えた。あなたが悲しむことでもないでしょうに。


「……そういえば随分遅くなってしまいましたが、カダチを救ってくださり、ありがとうございました」


二人きりになる機会が無かったとはいえ、彼はわざわざ彼は椅子から立ち、丁寧に頭を下げてお礼を言った。


「頭を上げて。私は大したことはしてない。頑張ったのはカダチよ」


自然に早口になる。彼に感謝されると喜びよりも落ち着かない。というか、感謝されるほどのことはしていない。とにかく一刻も速く頭を上げて、椅子に座って欲しかった。


こちらの想いが伝わったように、彼がゆっくりと頭を上げる。


「ですが、どうか死に、痛みに慣れないでください」


「……?」


ぼんやりと夜景を眺めながら、しばらく考え、ようやく彼の言葉の真意を理解した。帝国跡の穴の中で彼に救われた時のことか。

というかディールスの中ではずっと燻り続けていたことに驚いた。


何と言えば彼は納得するだろうか。何と言えば彼は安心するだろうか。

きっと答えなんて無いだろうけど。


「大切なものを守るためなら、私は何度でも死んでもいい」


誠意を伝えるように、真剣に私の答えを告げる。真っ直ぐに彼を見据えながら。

その答えは彼が一番望んでいないものだろう。それでも答えは変わらない。変えられない。


「……でも、何度でも死ぬことが出来るのなら、何かを守った時に死にたいわ」


視線を逸らして、少しはにかみながら、リディアは言った。本心であり、本望だ。


その答えを聞いた彼は驚いて、絶望して、次に決心したような顔をした。


ディールスはテーブルにチップを置き、おもむろに席を立った。そのまま広場の低い石壁にもたれ掛かる。その後を追いかけるようにリディアも席を立ち、彼の隣に立って石壁に手を置いた。


目に入った民家や店の窓から漏れる光で作られた夜景と雲の隙間から覗く星空は、本当に美しかった。


「…………逃げませんか?」


「……何処によ」


長い沈黙を破った彼の言葉はリディアからしたら、とても意外なものだった。そんな提案、あなたに利点なんて一つも無いのに。


微笑みながら、彼に聞き返した。どうしてでも、なぜでもなく、何処に。


「何処でも良いです。四人だからきっと賑やかですよ」


あぁ、憎らしいなぁ。私がキジェに掛けた言葉がディールスから私に返ってくるとは。

頭の回転が速いことは知っているが、私が言って欲しい言葉を的確に言ってくるのは悔しい。


「駄目。あの方を殺した私は罪を償わなきゃ。あなたもそれを望んでいたはずよ」


「貴方は罪に向き合おうとしている。いや、十分向き合っている。貴方にだって幸せになる権利ぐらいあるはずだ!」


初めて唐突に彼が声を荒らげる。耐えきれなくなったように語調が強くなる。


「無いわ、そんなもの。ある訳無いでしょ」


「――っ!こっちを見ろ!」


怒鳴るように発せられた言葉にハッとする。ディールスはリディアの肩を掴み、物凄い剣幕でこちらを見ていた。

彼は本気だった。いや、私が本気にしていなかった。


本当に相手を見ていないのは私の方だったか。


「本気で償えるものだと思っているのか⁉彼女を殺した罪を!たった一人の人間が!!」


彼はハッとして手を離し、顔を逸らして口を片手で覆った。彼自身、自分がこんな行動をするとは思ってすらいなかっただろう。


「……貴方はただの人間の少女だ。その罪は貴方が償えない程重すぎる。いえ、誰かが償えるものではない。お願いです、逃げましょう。もう、彼でなくてはいけない理由など無いはずです」


リディアから目を逸らし続けながら、ディールスは早口で言葉を繋ぐ。

共感しやすい彼だ。私なんかに同情でもしてしまったのだろう。


「毎晩、うるさい程泣いていたでしょう。罪悪感から自傷行為を繰り返して。本当は死ぬ程悔やんでいることも、怖いことも、隠して」


「見ていたの。やだ、恥ずかしい」


カダチが仲間に加わってからあまりしなくなったのだが、彼には全てお見通しらしい。


リディアはすでに傷口の消えた手首を隠すように背中に回した。本当は恥ずかしいなんて思ってすらいない。ただ弱みを握られたようで落ち着かないだけだ。


「――お願いだ。私と、私達と逃げよう、リディア」


息を切らし、手を差し出す彼。細められた瞳が苦しそうにこちらに叫んでいるようだった。まるで苦し紛れに神に縋るような悲痛な顔をしていた。今まで何度も見てきたその表情は、最も彼らしくなかった。彼を知っていくのは嫌いじゃない、がそんな顔は見たくなかった。


「……ディールス。私は今、笑えているでしょ?」


少女の言葉にぽかんとする青年。

やがて諦めたような、悔しいような、切なそうな面持ちになって静かに返事をした。


「…………えぇ、そうですね。笑っていますよ」


「じゃあ大丈夫。私はまだ頑張れるわ」


演技ではなく、笑えている。


「演じる時は演じるし、素で居てもいい時は演じない。それが分かったの。当たり前のことなのに、気が付くのにすごい時間が掛かっちゃった。でも、気付けただけ幸せ。前の私だったら一生気付くことなかったと思う」


石壁から少し離れた場所へ小走りし、その場で綺麗にターンをしてみせる。


家族同然の仲間は、知ってたはずの知らなかったことを気付かせてくれる。それが知りたくなくて目を逸らしていたことでも。


「……私、どんな時も自分の気持ちに封をして生きてきたわ。お母さんがあっさり死んで、お父さんがぱったり居なくなって。……うん。捨てられたの、教会に。私が悪いんだけどね。やっちゃいけないことしちゃったから、お父さんが思いつめるのも仕方なかったと思う。……それでも、私を捨てる時に躊躇ぐらいして欲しかったなぁ」


独り言のように呟く。心ここに在らず。この身も、言葉も、感情も、思い出も、夜風が攫ってくれないかと期待してしまう。


        *  *  *


お母さんは一座の有名な千年に一人の大女優で、お父さんは何処にでも居るような凡夫だった。


お母さんは色んな国で公演していたが、まるで運命かのように二人は惹かれ、この国で結ばれ、私が生まれた。たった一人の娘である私を両親は惜しみなく愛してくれた。


両親は私が五歳の時に内戦が始まったら、徴兵制度が施行される前に躊躇なくこの国を抜け出し、お母さんは別の一座に所属して活躍し始めた。二人にとってあの国はその程度のものだったらしい。想い入れのないものは容赦なく捨てる、そんな両親の性格を私はよく受け継いだと思う。


その後、二、三年はお母さんの公演に合わせて世界を飛び回っていた。

忙しく、友達もできなかったが、愛されていて幸せだった。色んな景色、初めて訪れる街、お父さんの隣で見るお母さんの演技。それが全てだった。それで十分だった。


転機が訪れたのは八歳の私の誕生日。皆で予約していたディナーの店へ向かう途中、お母さんが目の前で馬車に轢かれてあっけなく亡くなった。仕組まれた罠でも暗殺でもなく、ただの事故。


お母さんの体が高く宙を飛んだのをよく覚えている。そのまま勢いよく地面を転がり、やがて目的地のディナーの店にぶつかって止まった。レンガでできた壁に花のように血が飛び散った。誰がどう見ても即死。


舞台の上で堂々と皆を化かした大女優だとは思えない程、死体はグチャグチャだった。骨が皮を破り、口からは泡が出て、目が飛び出し、内臓がはみ出て、血が溢れていた。


お母さんは無敵じゃなかった。私と同じ人間だった。そんなことを幼いリディアは初めて知った。


その日からお父さんは変わった。いや、変わらないはずがなかった。


仕事もせず、家に籠り、酒を浴びる程飲んで、気分が悪くなったら私を殴った。他の人の目に付かない部分を集中的に狙われたことを覚えている。


誰よりもお母さんを深く愛した人だ。その喪失感は計り知れない。


だが、そんな日々が永遠に続く気がして、幼かった私も流石に漠然とした絶望を感じていた。結局の所、お父さんが愛していたのはお母さんとお母さんの血を引く私だった。しかも、前者が居なくなれば、後者はどうでもいいらしい。


八歳で孤独。狂いそうだった。


それでもこの生活を私が耐えていられたのはお父さんが寝静まった後に一人静かに遊べていたからだろう。

夜、家にはランプが無かったのでカーテンを閉じて月明りを頼りに拙く、お母さんの真似をして踊るのが好きだった。お母さんは女優だったが、演技だけでなく歌も踊りも舞も出来た。時間がある時はよく教えてくれた。


踊っている時だけ、お母さんと一緒にいる気がした。

その時間だけが心の安らぎだった。楽しかった。その時だけ、私は笑えていた。


 ――不運だったのは、その日だけお父さんが寝つけず、私を殴りに来たこと。


分かっていたはずだった。こんな姿をお父さんが見ればどんな思いをするか。それでも、幼いリディアは踊ってしまった。踊らずにいられなかった。


 ――これこそが、リディアの最初の罪だった。


お父さんは殴った。我を忘れて、アザができる場所も関係なく、殴って、蹴って、狂ったように何か叫んで私を責め続けた。

潰れた鼻でも感じ取れる程、血に混じった臭い酒の匂いがした。目元が腫れて、周りがあまり見えなかったが、お父さんは泣いていた。


……私が泣いたら、さらに殴ってきたのに。私はずっと泣いていたよ。泣きたいのは私の方。こんな生活、もう耐えられないよ。


初めて朝まで殴られ続けて、意識が飛んで。私はお父さんが知らない建物の戸を乱暴に叩く音で目が覚めた。


握られた腕がうっ血し、今まで来た道の地面には裸足で引きずられた線が出来ていた。子供が自分より大きいテディベアを引きずっているみたいだとぼんやりと思った。

何処まで行ってもお父さんにとって私は人形だったのかな。


「これは誰もが知る大女優の娘だ。好きなようにして良いから貰ってくれ」


お父さんの熱い手が腕から離れた。体も動かず、涙も枯れて、声も出なかったが、必死に目だけは動かしてお父さんの方を見続けた。


教会の大人が聞いた。「血の繋がった娘だろう。良いのか?」って。


お父さんははっきり言った、(わたし)がいる前で。


「要らないからな」


って。


        *  *  *


過去にはもう踏ん切りを付けたつもりだ。


大丈夫、と伝えるようにリディアは微笑みかけた。今度はしっかり、彼の目を見て。


「……これを」


長い沈黙を破って、青年はそう言うと少女の首に銀細工のネックレスを掛けた。ペンダントの部分が円柱の形をしていて、シンプルだが目を引かれる。刻まれたユニの花が可愛かった。


「貰っていいの?すごく素敵、ありがとう」


ペンダントをそっと指で触る。リディアの好みと一致していてとても魅力的に感じた。


「……彼女も花が好きでした。蕾も、咲いたものも、枯れたものも、彼女は平等に愛しました」


か細い声でディールスは言う。


「それでも、……花が枯れたら、やっぱり彼女は悲しそうでした」


遠い目をした彼が、恋焦がれるように一等星を眺め続ける。まるで今すぐに攫って欲しがっているように。彼もまた心ここに在らず。二人きりなのに不思議な感じだ。

星が彼の願いを叶えてしまいそうで、彼の望み通り何処か見えない所に隠してしまいそうで、彼を手の届かない程遠い宇宙へ連れ去ってしまいそうで。堪らなく怖かった。そう思うだけなら良かった。


リディアは長い間封印していた禁断の質問をしてしまった。


「…………どうして、旅に付いて来てくれたの?」


その質問に、今度は彼は目元を手で覆ってしまった。それでも答えを待った。彼の答えが知りたかった。

やがて申し訳なさそうな弱い声で答えを聞かせてくれた。


「――彼女の最後の願いだったから」


……本当に、あの方は何処まで分かっているのだろう?今もあの方の手のひらの上なのか?


 ――じゃあ、どうしてあの方は私に殺されたのだろう?


殺しの才能も経験も無い。本気で人を殴ったことも無い。虫や小動物を殺すのさえ億劫になる。そんな私は、どうしてあの間違いを犯せたのだろう?


あの頃はあの方にとって私が人類に不都合な存在になるから殺されかけたと思っていた。違うのか?その根底から。


「……そう。私も渡したいものがあるの」


いや、というか、私は彼に何て答えて欲しかったのだろう?愛する人を殺した人間の近くに居る彼に何を求めていた?


ディールスが欲しがっている答えは言ってあげないのに、自分が言ってもらえなかったら悲しいのか?


バッグから何重にも包まれた青年へのプレゼントを取り出す。彼へ送る言葉を考えたが、言いたいことが多すぎる。でも、言わなくても彼なら全てを分かってくれる気がして、結局言葉にしなかった。出来なかったのかもしれない、本当はしたくなかったのかも。


深く考えることを止めた。自分の気持ちの詮索なんて、結論は出ない。端的に、短く。


「――いつもありがとっ!ディールス!」


見開かれたアクアマリンの瞳が美しかった。

街灯の光を反射して、私だけの道しるべみたいに澄んだ瞳は翳りが一切無く、この世の全てを見透かしているように思えた。この国の夜景よりも、星空よりも、その光に私は感動した。


手渡しされたプレゼントをその場で開封する彼。手にした青水晶でできたピアスを空にかざした。星の光に透かされた深い青色の影が彼の顔に落ちる。


彼の瞳と同じ色をしたアクアマリンとも悩んだが、結局は青水晶を選んだ。

リディアは一度だけ見た輝く彼の深い青色の瞳を忘れられなかった。まるで深海よりも深く、空よりも高い、そんな神秘的で澄んだ色。


ディールスはすぐに慣れた手つきでピアスを付けた。「似合っていますか?」というよりも「付けましたよ」というようにこちらに向き合う。……思った通り彼によく似合った。


「……変わりましたね」


「あなただって変わったと思うわ」


少女からしたら、初めましての時と比べて青年も変わったように感じた。初めは無口で、聞かれたことだけに答えて、表情がワンパターン。だが、蓋を開ければ、彼は誰よりも人間らしかった。


冷たい夜風が少女の肌だけを朱くする。


これだけ彼と長い間喋ったのは初めてだ。今までは目の前のことで頭がいっぱいで、他人のことなんて見れなかった。いや、見ようともしなかった。


少女はこの時間を惜しんだが、二人きりの本音の対話はこれで終了した。


        *  *  *


「……今度は貴方が来ましたか、カダチ」


先程の会話の余韻に浸るように広場に居続けていた青年は妹の存在に気が付き、表情が緩んだ。


「カダチも……、いや、あたしもお兄様と二人きりで話したかったのよ」


「先程の会話、聞いていましたね。悪い子だ」


「そこまでお見通しなの?流石お兄様。そう、ここにリディアお姉様を連れてきたのはあたしなの。本当は盗み聞きなんてする気は無かったのだけど、どうしても知りたいことがあって。ごめんなさい。でもね、お兄様。あたしは……、カダチは悪い子でいいわ!」


少女は不敵に、強かに微笑む。まるで敵なんていないように、怖いものなんて無いように。


ディールスは「リディアお姉様」という単語に僅かに目を見開いた。彼は確かに驚いていたが、すぐに元通りになった。

彼は知っているからだ。カダチが認めた者には血も、生まれも、育ちも関係ない。ただ彼女が心から信じた者達だ。


「……貴方も随分変わりましたね」


「”この世の全ては変化し続けています。良い方にも、悪い方にも。ただ一つ、変わらないものがあるとするのなら、それは彼女以外の何物でもないでしょう”……だったっけ?あたしも例外じゃなかっただけ。それだけなのよ」


「よく覚えていましたね。……しかし、彼女も悩み、苦しみ、足掻いた。そして未来を変えるために自ら命を失うことを選択しました。私の目には彼女も変わろうとしているように映りました」


虚ろな目で肩を落とし、空を眺める彼。ふと、あの方を求めるように錆びたように鈍く光る星に手を伸ばし、宙を掴んだ。結局何も掴めないことに落胆するように腕を下ろして再び空を眺め始めた。


「お兄様は変わりたいの?変わることが絶対に素晴らしいものだとはあたしは思わないよ」


「私は……、彼女に託されたことを守りたいだけです。変わるも変わらないもどうだっていい」


ディールスはぶっきらぼうに言い放った。本心だからこそ、飾らない言葉でぶっきらぼうに聞こえてしまう。


「ただ、何も思い通りにいかないのは悲しいです」


「そう……」


沈黙が重く二人にのしかかる。


やがて少女は「見てて」と言い、石壁から少し離れて、満足げにその場でターンをした。

先程のリディアの真似をしているつもりらしいが、やはり何処か見劣りするものがある。それを本人も自覚しているようだが、確固たる自信があるように堂々と胸を張っていた。


「ねぇ!イストワールお兄様はあたしの知らないことたくさん知ってるけど、あたしもお兄様が知らないこと、知ってるのよ」


その場の雰囲気を変えようと奮闘するかのように、少女は話題を変えた。誇らしそうに、笑みを浮かべて。まるで親の前で良い所を見せようと奮闘する子供の姿がそこにあった。


「死人と目があった時、体の奥から何かおぞましい感覚が迫ってくることは知ってる?あと、心が壊れた人が虚ろな瞳で服の袖を掴んでくる感触とか!喉が裂けようとも構わないかのように大事な人の名前を叫ぶ人々とか、恐怖でただ怯える老人とか、人混みに潰された子供とか、焼けた血と肉の匂いとか、無理心中した一家の死体が積み重なってできた山とか、建物が人と共に崩れる音とか、強盗が放った炎の色とか、神に殺されるのに神に祈り続ける熱心な祭司が強盗に刺される最期の声とか」


ディールスの表情が段々と雲っていく。彼の心を表すように青水晶のピアスが揺れる。それでも彼女の言葉を制止しないのは、人の話を最後まで聞く彼の人柄が出ていた。


「……内臓が常に感電しているような痛みも、動く度に皮膚が腐り落ちてグズグズになった肉が落ちる匂いも、乾きすぎた喉の感覚も、目があった所の空洞を空気が通り抜ける感触も、口に残る血の強烈な鉄臭さも。……大好きな人と離れる苦しみも!大好きな人が死ぬ悲しみも!あたしは大っ嫌いだよ…………」


カダチは止まらない。いや、止まれなかった。心からの叫びを彼に聞いて欲しかったから、彼に自身の弱みを知って欲しかったから。


カダチは両手で顔を覆った。指の間から涙が、彼女の口から本音が零れる。


「知りたくなかったよ、あたしは。無知の方が生きやすいとまで感じてしまう。欲も、好奇心も、消し去って、初めから最期まで鳥籠の中で満足すれば良かった」


心からの後悔。自身の過去の行動にどうしようもない程、後悔して憎んでいる。


自分が居なければ、自分があの時死んでいれば、自分が咄嗟に動けていれば。もしもの未来を強く望んでしまうのは向き合え切れない罪と向き合うディディも共通だ。悪魔でも、魔女でも、何とでも呼ばれようが、心は変わらない。ずっと傷が付いて歪んだまま。


「もうこれ以上生きたくない。あたしは全然強くないし、賢くも偉くもない。強がることしか出来ない愚かな飛べない小鳥だよ。飛べないくせに空に恋焦がれて、高所から飛び降りて結局地面と抱き合う、馬鹿な小鳥。死ねないのにいつでも死ぬことだけを考えてしまう。クラウスじゃなくてあたしが死ねば良かったのに」


共感できる人なんて存在しない。それでも小鳥はさえずる。それは抑え込んできた愚かで臆病な小鳥の弱音。ピンクフローライトの瞳が苦しそうに細められた。


「誰よりも死にたくて、死んだ方が良い罪人が死ねない。なんて酷いのかしら」


飛び出したい気持ちを抑える。今すぐ走り出して少女を抱きしめてしまいたい。それでも彼女に言われたことを守るために息を殺して見守り続けた。


「……ぁ、あぁ。——泡みたいに、消えれたら良いのに……!」


……それが、少女が隠してきた一番の本音だった。やっと言えた、とカダチの口元が少し緩んだ瞬間、堪えきれなくなったように涙が溢れる。


本音は伝えるだけでも勇気がいる。彼女なら尚更そうだったはずだ。


「カダチ……、私は……」


遂にディールスが何かを言おうとしたが、口を閉じてしまった。

何て声を掛ければいいか分からない。彼女が何を言われたら救われるのか分からない。


そんな彼の姿を見たカダチはゆっくりと首を横に振った。


「自分のやったことを許せない。それでもね、お兄様。それでもあたしは人間を、——人類を愛しているのよ」


……青年が声を掛ける必要なんてなかった。目の前の少女はすでに自分で答えを見つけていたから。


「貴方の中で結論が出ているのなら、良かったです」


ディールスは無理に少しだけ口角を上げて言った。彼女の独り立ちを嬉しく思うと共に悲しさを隠すような、笑っているのに悲しそうな顔。


彼は、辛そうだった。


「……ねえ、お兄様。あたしは回りくどいことは嫌い。だからもう端的に聞くよ」


カダチが突然言った。ディールスに向き合い、胸に手を当てる。

彼へ言いたいことを言えたからか、彼女の目には確固たる覚悟が映っていた。


「イストワールお兄様。——お兄様そろそろ死ぬのね?」


「……えぇ、その通りです」


沈黙を破って、あっさりと彼は言い切った。


その言葉を聞いた彼女は驚いた後、悲痛な表情を浮かべていた。嫌な予感を、最悪の予想を、心の何処かで彼の口から否定して欲しかったのだろう。


これ以上大切な人を失いたくないと言った妹。そろそろ死ぬらしい兄。


何故、こんなにも彼女は報われないのだろうか。


「置いて、いかないで……」


「……すみません」


カダチがディールスの服の裾を強く握る。彼は膝をついて彼女を抱きしめた。


彼はそれしか言わなかった。本当に申し訳ないと思っているからこそ、言い訳も何もしなかったのだろう。



息が、止まるかと思った。それ程衝撃的な話だった。


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声が漏れないよう口を塞ぐので精一杯だったが、広場の壁に隠れていたリディアは強く思った。カダチはこれを知らせたくて私をここに連れて来たり、隠れているように言ったのだろうが、覚悟もせずに聞いて良い程軽いものではない。


彼が、死ぬ。今までたくさん助けてくれた、平等に接してくれた、色んなことを教えてくれた、仲間で居てくれた彼が、——死ぬ?


 信じられない、信じたくない。嘘だ、そんな素振り全くなかった。


手が震える。足の力が抜けて、壁に体重を掛けてもたれ掛かる。


怖い。——彼を失うことが堪らなく怖い。



ディールス。あなたへもう一度問いたい。でも、あなたが私の前に居ないから、私は自分に問います。分からないから、分からなくなったから。


 ――私は今、笑えていますか?

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