39 兄妹
「……今度は貴方が来ましたか、カダチ」
先程の会話の余韻に浸るように広場に居続けていた青年は妹の存在に気が付き、表情が緩んだ。
「カダチも……、いや、あたしもお兄様と二人きりで話したかったのよ」
「先程の会話、聞いていましたね。悪い子だ」
「そこまでお見通しなの?流石お兄様。そう、ここにリディアお姉様を連れてきたのはあたしなの。本当は盗み聞きなんてする気は無かったのだけど、どうしても知りたいことがあって。ごめんなさい。でもね、お兄様。あたしは……、カダチは悪い子でいいわ!」
少女は不敵に、強かに微笑む。まるで敵なんていないように、怖いものなんて無いように。
ディールスは「リディアお姉様」という単語に僅かに目を見開いた。彼は確かに驚いていたが、すぐに元通りになった。
彼は知っているからだ。カダチが認めた者には血も、生まれも、育ちも関係ない。ただ彼女が心から信じた者達だ。
「……貴方も随分変わりましたね」
「”この世の全ては変化し続けています。良い方にも、悪い方にも。ただ一つ、変わらないものがあるとするのなら、それは彼女以外の何物でもないでしょう”……だったっけ?あたしも例外じゃなかっただけ。それだけなのよ」
「よく覚えていましたね。……しかし、彼女も悩み、苦しみ、足掻いた。そして未来を変えるために自ら命を失うことを選択しました。私の目には彼女も変わろうとしているように映りました」
虚ろな目で肩を落とし、空を眺める彼。ふと、あの方を求めるように錆びたように鈍く光る星に手を伸ばし、宙を掴んだ。結局何も掴めないことに落胆するように腕を下ろして再び空を眺め始めた。
「お兄様は変わりたいの?変わることが絶対に素晴らしいものだとはあたしは思わないよ」
「私は……、彼女に託されたことを守りたいだけです。変わるも変わらないもどうだっていい」
ディールスはぶっきらぼうに言い放った。本心だからこそ、飾らない言葉でぶっきらぼうに聞こえてしまう。
「ただ、何も思い通りにいかないのは悲しいです」
「そう……」
沈黙が重く二人にのしかかる。
やがて少女は「見てて」と言い、石壁から少し離れて、満足げにその場でターンをした。
先程のリディアの真似をしているつもりらしいが、やはり何処か見劣りするものがある。それを本人も自覚しているようだが、確固たる自信があるように堂々と胸を張っていた。
「ねぇ!イストワールお兄様はあたしの知らないことたくさん知ってるけど、あたしもお兄様が知らないこと、知ってるのよ」
その場の雰囲気を変えようと奮闘するかのように、少女は話題を変えた。誇らしそうに、笑みを浮かべて。まるで親の前で良い所を見せようと奮闘する子供の姿がそこにあった。
「死人と目があった時、体の奥から何かおぞましい感覚が迫ってくることは知ってる?あと、心が壊れた人が虚ろな瞳で服の袖を掴んでくる感触とか!喉が裂けようとも構わないかのように大事な人の名前を叫ぶ人々とか、恐怖でただ怯える老人とか、人混みに潰された子供とか、焼けた血と肉の匂いとか、無理心中した一家の死体が積み重なってできた山とか、建物が人と共に崩れる音とか、強盗が放った炎の色とか、神に殺されるのに神に祈り続ける熱心な祭司が強盗に刺される最期の声とか」
ディールスの表情が段々と雲っていく。彼の心を表すように青水晶のピアスが揺れる。それでも彼女の言葉を制止しないのは、人の話を最後まで聞く彼の人柄が出ていた。
「……内臓が常に感電しているような痛みも、動く度に皮膚が腐り落ちてグズグズになった肉が落ちる匂いも、乾きすぎた喉の感覚も、目があった所の空洞を空気が通り抜ける感触も、口に残る血の強烈な鉄臭さも。……大好きな人と離れる苦しみも!大好きな人が死ぬ悲しみも!あたしは大っ嫌いだよ…………」
カダチは止まらない。いや、止まれなかった。心からの叫びを彼に聞いて欲しかったから、彼に自身の弱みを知って欲しかったから。
カダチは両手で顔を覆った。指の間から涙が、彼女の口から本音が零れる。
「知りたくなかったよ、あたしは。無知の方が生きやすいとまで感じてしまう。欲も、好奇心も、消し去って、初めから最期まで鳥籠の中で満足すれば良かった」
心からの後悔。自身の過去の行動にどうしようもない程、後悔して憎んでいる。
自分が居なければ、自分があの時死んでいれば、自分が咄嗟に動けていれば。もしもの未来を強く望んでしまうのは向き合え切れない罪と向き合うディディも共通だ。悪魔でも、魔女でも、何とでも呼ばれようが、心は変わらない。ずっと傷が付いて歪んだまま。
「もうこれ以上生きたくない。あたしは全然強くないし、賢くも偉くもない。強がることしか出来ない愚かな飛べない小鳥だよ。飛べないくせに空に恋焦がれて、高所から飛び降りて結局地面と抱き合う、馬鹿な小鳥。死ねないのにいつでも死ぬことだけを考えてしまう。クラウスじゃなくてあたしが死ねば良かったのに」
共感できる人なんて存在しない。それでも小鳥はさえずる。それは抑え込んできた愚かで臆病な小鳥の弱音。ピンクフローライトの瞳が苦しそうに細められた。
「誰よりも死にたくて、死んだ方が良い罪人が死ねない。なんて酷いのかしら」
飛び出したい気持ちを抑える。今すぐ走り出して少女を抱きしめてしまいたい。それでも彼女に言われたことを守るために息を殺して見守り続けた。
「……ぁ、あぁ。——泡みたいに、消えれたら良いのに……!」
……それが、少女が隠してきた一番の本音だった。やっと言えた、とカダチの口元が少し緩んだ瞬間、堪えきれなくなったように涙が溢れる。
本音は伝えるだけでも勇気がいる。彼女なら尚更そうだったはずだ。
「カダチ……、私は……」
遂にディールスが何かを言おうとしたが、口を閉じてしまった。
何て声を掛ければいいか分からない。彼女が何を言われたら救われるのか分からない。
そんな彼の姿を見たカダチはゆっくりと首を横に振った。
「自分のやったことを許せない。それでもね、お兄様。それでもあたしは人間を、——人類を愛しているのよ」
……青年が声を掛ける必要なんてなかった。目の前の少女はすでに自分で答えを見つけていたから。
「貴方の中で結論が出ているのなら、良かったです」
ディールスは無理に少しだけ口角を上げて言った。彼女の独り立ちを嬉しく思うと共に悲しさを隠すような、笑っているのに悲しそうな顔。
彼は、辛そうだった。
「……ねえ、お兄様。あたしは回りくどいことは嫌い。だからもう端的に聞くよ」
カダチが突然言った。ディールスに向き合い、胸に手を当てる。
彼へ言いたいことを言えたからか、彼女の目には確固たる覚悟が映っていた。
「イストワールお兄様。——お兄様そろそろ死ぬのね?」
「……えぇ、その通りです」
沈黙を破って、あっさりと彼は言い切った。
その言葉を聞いた彼女は驚いた後、悲痛な表情を浮かべていた。嫌な予感を、最悪の予想を、心の何処かで彼の口から否定して欲しかったのだろう。
これ以上大切な人を失いたくないと言った妹。そろそろ死ぬらしい兄。
何故、こんなにも彼女は報われないのだろうか。
「置いて、いかないで……」
「……すみません」
カダチがディールスの服の裾を強く握る。彼は膝をついて彼女を抱きしめた。
彼はそれしか言わなかった。本当に申し訳ないと思っているからこそ、言い訳も何もしなかったのだろう。
息が、止まるかと思った。それ程衝撃的な話だった。
こんな重要な事実を盗み聞きのように聞いていた良いのだろうか。
声が漏れないよう口を塞ぐので精一杯だったが、広場の壁に隠れていたリディアは強く思った。カダチはこれを知らせたくて私をここに連れて来たり、隠れているように言ったのだろうが、覚悟もせずに聞いて良い程軽いものではない。
彼が、死ぬ。今までたくさん助けてくれた、平等に接してくれた、色んなことを教えてくれた、仲間で居てくれた彼が、——死ぬ?
信じられない、信じたくない。嘘だ、そんな素振り全くなかった。
手が震える。足の力が抜けて、壁に体重を掛けてもたれ掛かる。
怖い。——彼を失うことが堪らなく怖い。
ディールス。あなたへもう一度問いたい。でも、あなたが私の前に居ないから、私は自分に問います。分からないから、分からなくなったから。
――私は今、笑えていますか?




