37 三番、その一人
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お母さんは一座の有名な千年に一人の大女優で、お父さんは何処にでも居るような凡夫だった。
お母さんは色んな国で公演していたが、まるで運命かのように二人は惹かれ、この国で結ばれ、私が生まれた。たった一人の娘である私を両親は惜しみなく愛してくれた。
両親は私が五歳の時に内戦が始まったら、徴兵制度が施行される前に躊躇なくこの国を抜け出し、お母さんは別の一座に所属して活躍し始めた。二人にとってあの国はその程度のものだったらしい。想い入れのないものは容赦なく捨てる、そんな両親の性格を私はよく受け継いだと思う。
その後、二、三年はお母さんの公演に合わせて世界を飛び回っていた。
忙しく、友達もできなかったが、愛されていて幸せだった。色んな景色、初めて訪れる街、お父さんの隣で見るお母さんの演技。それが全てだった。それで十分だった。
転機が訪れたのは八歳の私の誕生日。皆で予約していたディナーの店へ向かう途中、お母さんが目の前で馬車に轢かれてあっけなく亡くなった。仕組まれた罠でも暗殺でもなく、ただの事故。
お母さんの体が高く宙を飛んだのをよく覚えている。そのまま勢いよく地面を転がり、やがて目的地のディナーの店にぶつかって止まった。レンガでできた壁に花のように血が飛び散った。誰がどう見ても即死。
舞台の上で堂々と皆を化かした大女優だとは思えない程、死体はグチャグチャだった。骨が皮を破り、口からは泡が出て、目が飛び出し、内臓がはみ出て、血が溢れていた。
お母さんは無敵じゃなかった。私と同じ人間だった。そんなことを幼いリディアは初めて知った。
その日からお父さんは変わった。いや、変わらないはずがなかった。
仕事もせず、家に籠り、酒を浴びる程飲んで、気分が悪くなったら私を殴った。他の人の目に付かない部分を集中的に狙われたことを覚えている。
誰よりもお母さんを深く愛した人だ。その喪失感は計り知れない。
だが、そんな日々が永遠に続く気がして、幼かった私も流石に漠然とした絶望を感じていた。結局の所、お父さんが愛していたのはお母さんとお母さんの血を引く私だった。しかも、前者が居なくなれば、後者はどうでもいいらしい。
八歳で孤独。狂いそうだった。
それでもこの生活を私が耐えていられたのはお父さんが寝静まった後に一人静かに遊べていたからだろう。
夜、家にはランプが無かったのでカーテンを閉じて月明りを頼りに拙く、お母さんの真似をして踊るのが好きだった。お母さんは女優だったが、演技だけでなく歌も踊りも舞も出来た。時間がある時はよく教えてくれた。
踊っている時だけ、お母さんと一緒にいる気がした。
その時間だけが心の安らぎだった。楽しかった。その時だけ、私は笑えていた。
――不運だったのは、その日だけお父さんが寝つけず、私を殴りに来たこと。
分かっていたはずだった。こんな姿をお父さんが見ればどんな思いをするか。それでも、幼いリディアは踊ってしまった。踊らずにいられなかった。
――これこそが、リディアの最初の罪だった。
お父さんは殴った。我を忘れて、アザができる場所も関係なく、殴って、蹴って、狂ったように何か叫んで私を責め続けた。
潰れた鼻でも感じ取れる程、血に混じった臭い酒の匂いがした。目元が腫れて、周りがあまり見えなかったが、お父さんは泣いていた。
……私が泣いたら、さらに殴ってきたのに。私はずっと泣いていたよ。泣きたいのは私の方。こんな生活、もう耐えられないよ。
初めて朝まで殴られ続けて、意識が飛んで。私はお父さんが知らない建物の戸を乱暴に叩く音で目が覚めた。
握られた腕がうっ血し、今まで来た道の地面には裸足で引きずられた線が出来ていた。子供が自分より大きいテディベアを引きずっているみたいだとぼんやりと思った。
何処まで行ってもお父さんにとって私は人形だったのかな。
「これは誰もが知る大女優の娘だ。好きなようにして良いから貰ってくれ」
お父さんの熱い手が腕から離れた。体も動かず、涙も枯れて、声も出なかったが、必死に目だけは動かしてお父さんの方を見続けた。
教会の大人が聞いた。「血の繋がった娘だろう。良いのか?」って。
お父さんははっきり言った、娘がいる前で。
「要らないからな」
って。
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