25 四番、其の二
それから八百年は城に居たり、地上で遠くから人間の生活をただ眺めていた。自分が建国のきっかけになった国が、その国の人々がどうなっていくのか。それをたまに見ることだけが楽しみになっていた。
四百年前、久しぶりに黒い兄に出会った。兄は深刻な顔をしてカダチの手を無理に引き、地上の最初に訪れ、国になった地へと再び降りた。
その国は人が人を殺す、殺伐とした風景だけが広がる場所へと姿を変えていた。かつての憧れの面影は、何処にも無かった。
この時、兄は前と同じ鳥の姿になってこう言えと命令した。
「――神はお前らに愛想が尽きた。今ここで、全員死ね」
兄の言葉を聞いて、久しぶりに自分の意思が、感情が蘇る。泣きながら拒否した。あたしには出来ない、と。黒い兄には逆らえないと分かっていても。
その後は記憶が曖昧だ。チカラの影響も多少あるが、忘れたかった面が大きかったのだろう。しかし、兄の言う通りにしたことだけは確かだった。
そして、命令された全ての神が黒い兄の命令に逆らえず、言われるがまま行動した。それだけで国民のほとんどが死んだ。
何一つ信じられなくなって、城に帰らなくなった。人間も神も寄り付かない孤島の深い森で自分のしたことから目を逸らすように暮らし続けた。
あの国がどう変わっても、あの国の人々に憧れたことは変わらない。
あの国に期待を込めて兄の言う通りにしたことも。
あの国の行く末を見届けようと思ったことも。
彼女を愛する気持ちと同じような、温かい思いを抱いていた。いつまでも繁栄する豊かな国になることを望んでいた。
――その国で最後に見たものは、空を見上げて絶望した愛しい国民の顔だった。
頭に深くこびり付いて、片時も忘れられなかった。
喉が裂けんばかりに子の名前を呼ぶ母の声が、泣き叫びながら人混みを走る子供の嗚咽が、愛する人を抱きしめ、全てを諦めた虚ろな瞳が、現実を受け止められず、ピストルの引き金を引いた自殺者の鼻を衝く血の匂いが、肉が火に炙られる匂いが、焼け切れなかった死体が積み重なってできた山が、建物が倒れる音が、煤が混じった空気が、少女の五感の全てを支配していた。
その後、今から二十年程前まで、孤島の深い、深い森の中で水に揺蕩う水草のように、宙に漂う羽毛のように、ただ無気力に生き続けていた。ところがある日、森に見たことがあるような灰色の神が訪れた。それがイストワールお兄様だった。
カダチのことを知ってか、知らずか、島を訪れたお兄様はカダチを連れ出した。いえ、優しいお兄様はカダチのことを放っておけなかった。
お兄様は誰よりもカダチに寄り添ってくれた。
カダチがどんな神だったか、思い出させてくれた。思い出す方法を模索してくれた。
「何かに姿を変える度にあたしが消えてしまいそうで怖い」なんて言ったら、「一人称を名前にするのはどうでしょうか?」って提案してくれた。
誰よりもカダチに寄り添ってくれたイストワールお兄様だけが、カダチの本当の兄弟だと思った。
だから、彼が古い友人にカダチを預けた時、本当はすごく怖かった。やっと家族だと思えた方と離れてしまうことが。
その人間は元水兵だったらしい。歳を理由に退いた後は故郷の村に戻って漁師として細々と一人暮らしをしていた。
いくらお兄様が四十年の付き合いがある人間の友人が信頼できるといっても、全く知らない齢五十七の人間の老人と生活は先行きが不安だった。
五十七歳の人間なんて目を離したらすぐに死んでしまう程老いているし、カダチの人間の家族への憧れの気持ちはざっと千二百前に無くなっていた。多くの国民の見殺す形で。
今更千二百年前の願いが叶っても嬉しくない、人間に関わる資格なんてもう持っていない、そう思っていた。
最初は口を利かなかった。それでも人間は気にせず、関わってくれた。
毎日ご飯を作ってくれた。近くの丘でピクニックしたり、海岸で桜色の貝殻を集めてくれた。一緒に舟に乗って魚を釣ってくれた。大きなリボンとリメイクした服を縫ってくれた。裁縫を教えてくれた。カダチのために趣味の詩を作ってくれた。うんと甘えたら、うんと甘やかしてくれた。
そんなことを人間はしてくれた。カダチの凍った心をクラウスとの暮らしは溶かしてくれた。生きてきて、一番幸せだった。
お兄様はカダチの心の奥まで察していた。人間の家族の憧れが諦められていなかったことを。
お兄様はカダチがずっと欲しかったものをくれた。家族の幸せを。