22 アクアマリンとピンクフローライト
「――逃げさせませんよ、レディ・リディア」
かつて、私を引き留めた言葉が今度は隣から聞こえてきた。
驚いて思わず、閉じかけていた瞼をはっきりと開ける。手首を掴まれるのは二度目だが、今回は加減してくれているようだった。
ディールスに腕を引かれ、複数の同時攻撃から逃れることが出来た。未だに化け物に囲まれていることには変わりはないが、確かに未来が変わったということだ。
呆然としていた。未来が変えられるのは、未来を知っている人だけではないのか。
「ワルツですか、悪くない。それに貴方のこの作戦も。あと少しの辛抱ですよ」
彼の言葉にはっとする。無意識のうちに二人でワルツを踊っていたらしい。
様々な種類のダンスを教会の大人に叩き込まれた影響か。たくさんの種類のダンスといっても剣舞と舞いの次にワルツが多かっただけだが。
慣れたようにワルツを踊るディールス。踊りながら、化け物の攻撃を避けるのにも彼は余裕がある。
しかし、表情までは取り繕えていなかった。普段のように振る舞ってはいるが、瞳の奥には陰りが、言葉の端からは焦りが変わらず見えた。
「どうして……」
未来が変わったの、と言いたかった。驚きが強すぎて言葉が出なかった。
予知の力が無い人も、未来を知るすべのない人も、未来を変えられるのなら、頭脳明晰なディールスみたいな人があの方の死をみすみす見逃す訳がない。
そんなことが出来るなら、あの夜は存在していない。私は今、生きていない。
「愚問ですね。諦めた貴方の表情を見れば、未来は予測出来ますよ」
……要するに未来を知った人を観察しておおよその未来を知った、ということか。食えない人だ。
滅多にない程焦っているにも関わらず、見捨てることはしない。こんな所でも彼の優しさが滲み出ている。……いや、というか。
「……あなた怒ってる?」
「さて、そろそろ終わりそうですね」
彼の言葉を皮切りに、突如としてワルツは終了した。
キジェの居た教会で会話を遮ったことへのしっぺ返しのように、彼は自然に無視した。本当に珍しい。
しかし、それ以上に驚いたことに異彩を放つ一体を除いて四十体程居た化け物は居なくなっていた。
――そこに居たのは四十人程の人々だった。
年齢も性別もバラバラだったが、皆こぞってやせ細っており、気を失っている者、息をしていない者ばかりだった。
受け入れられなかった。これじゃあ、まるでさっきの化け物がこの人達みたいではないか。
慌てて一番近くに居た男性の安否を確認した。弱弱しいが、確かに胸が上下に動いていた。
ほっと安心したのも束の間、男性の片腕が血まみれであることに気が付いた。外傷は一切無いのにも関わらず。
嫌でも認めるしかなかった。私の腕を潰した化け物は、この人だったのだと。
怒りは微塵も湧かない。恐怖も嫌悪も、驚きも。
ただ考えなしに男性の腕を軽くなぞった。指先に乾きかけの血が付く。どうでも良かった。
体温がぬくい、生きている人の腕だった。
立ち上がり、最後の化け物に向き直る。俯いた化け物は誰に向けた訳でもなく、ただ消え入りそうに呟いた。
「t5lqe」
意味は分からない。
だが、この人がずっと抗っていたことは分かった。私たちにじゃない、化け物としての本能にだ。
実際にこの人は会ってから一度も動いていない、動けるはずなのに。
ずっと痛かっただろう、苦しかっただろう。計り知れない程。
抱いていた恐怖も無くなり、駆け足で近づく。まずは警戒を解き、信用に足る人物だと思ってもらわなければならない。
言葉よりも、人は行動で心が通わせられる。
どんなに飾り立てた言葉よりも、相手を想った行動こそ心を強く動かす。それが私の持論だ。
あなたを助けたい、あなたの力になりたい。そんな想いを込めて、手を差し出した。無い目を見つめたまま、返事を待った。
その人は長い間、動かずに手を見つめていた。
やがて、その手を掴む訳でも握る訳でもなく、――その手に軽く頬ずりをした。
言葉に出来ない感情が体の中に込み上げてくるものがある。
この人は何の罪があってこんなにも苦しまなければならないのか。こんなにも優しく、哀しい人が。
「キジェ。お願い」
いつの間にか、音も無く隣に立っていた少年に聞こえるかどうかの声量で話した。それで精一杯だった。
私に泣く資格は無い。この人の苦しみを完全に共感することは出来ないのだから。だから、せめてこの人より先に泣いたら駄目だ。
キジェは頷きもせず、その人の頭に手を添えた。
幻想的な光が舞う訳でも、天から一筋の光が降り注ぐ訳でもなく、気が付いたら化け物は人へと姿を変えていた。
愛らしい幼い顔つきの少女だった。九歳程に見える背丈にバターブロンドの髪で編まれた大きな三つ編み。ボロボロの一般的な教会の服とその上に羽織った麻で作られたローブ。眉尻の薄い眉毛とピンクフローライトの淡い瞳が少女の幼さをより際立たせているように見える。笑顔がとても似合いそうな、……いや、笑顔の似合う可憐な女の子であることを知っている。
しばらくは無表情で立っていた少女は突然後ろに倒れた。突然の出来事で体が動かなかったが、少女を素早く支えたのはディールスだった。
彼は少女を強く抱きしめ、少女のおでこに顔をうずめた。生きていることを確かめるように、長い間。
「い、イスト、ワールお兄、様……?」
少女から紡がれたのは、消え入りそうな鈴が転がるような音。震える手で青年の口の端の古傷を撫でた。
青年はその手を掴み、嗚咽と涙を堪えたような声で応えた。
「……えぇ、遅くなってすみません。――カダチ」