21 さぁ、こっちに来なさい。
「キジェ。それの側面にあるネジを時計回りに、優しく何周か回してちょうだい」
走りながら片手で物を扱うのは難しい。それでも何とかキジェに木製の箱を、――エドワーズのオルゴールを慎重に渡した。
キジェはオルゴールに興味があるのか、オルゴールを一周見回してネジに手をかけた。
何度か回された後、受け取ろうとした瞬間、懐かしいメロディーが奏でれられ始めた。驚きでキジェが声を上げて手を離した。予想はしていたので、放物線を描きながら落下するオルゴールをキャッチする。
物凄い勢いで謝るキジェにリディアは気にしないで、と声をかけた。元々こちらの説明不足なのだから。
「……キジェ。私、頑張るからさ。だからさ、色々よろしくね」
返事も待たず、少女はゆっくりと立ち止った。
いつもの作り笑顔はしなかった。出来なかったのかもしれない。
土くれがボロボロと崩れるように、張り付いていた仮面は先程割れてしまった。もう彼の前では必要が無くなってしまったこともある。
遠くでディールスが化け物と激しい攻防を繰り広げていた。地形を駆使した彼の動きが先程より僅かに鈍ったように見える。いつも綺麗だった彼の服の裾は裂け、汚れていた。
速くこの戦いに決着をつけなければならない。
穴の真ん中、水面より微かに顔を出した岩の上にオルゴールを置く。空いた手で素早く、あのガラスの破片を持った。
息を肺いっぱいに吸う。冷たい空気が内蔵に染みる感覚がした。――準備は整った。
――少女は歌った、声高らかに。少女は舞った、軽やかに。
かつて彼が口ずさんでいたメロディーに勝手に付けた歌詞をオルゴールに合わせて。天に轟かせ、地を裂くように声を張った。この際、上手さは関係ない。
わざと水が跳ねるようにステップを踏む。地面が水浸しであるにも関わらず、ヒールは音を立てて鳴ってくれた。
遠目でも化け物が一斉にこちらへ向かってきているのが見えた。前を走っていたキジェは思わず立ち止まり、反射的に腕を顔の前に出す。
しかし、化け物はキジェの隣を素通りして、リディアを目指して走ってきた。少女の想像通りに。
もしかしたらと思った。
化け物と会ったばかりの時、奴らは水音を聞いて初めてこちらを見た。
腕を潰された時、奴らはよく見るようにこちらに顔を近づけた。
――幾つも付いた目玉は、あまり役割を果たしていないのではないかと。
そして、少女に釘付けになった化け物は狂ったように走り、少女を陥れようと協調性の無い攻撃をし始めた。これも想像通りだ。
歌うことも、舞うことも止めずに、ガラスの破片を強く握る。手の皮が裂け、鮮血が滴り落ちた。
二度だ、あの方の力を使ったのは。
一度目はあの夜、エドワーズを守った時。
二度目は教会で半ば無理やり使わされ、結果としてキジェを守れた時。
――あの方の力は誰も傷付けない。いつだって誰かを守るための尊い力だった。
この力を返すことは出来ない。あの方が創った世界のどこにも、あの方は居ない。
なら、せめて使うなら誰かを守り続けるために使いたい。それもまた、私なりの罪滅ぼしだ。
不思議な力が瞳に宿るように感じた。目がうずく。
これで三度目だ。ガラスを通して、そう遠くない未来が見える。
ある未来では片足を貫かれた。それに対し、少女は攻撃される直前に足を引いた。
変わった後の未来では目を潰されていた。それに対し、少女は顔を軽く仰け反らせた。
再び変わった未来では頭を喰われていた。それに対し、少女は攻撃を片手で受け流した。
そんな繰り返しだった。ガラスで未来を見ながら、全てを避けはせず、損傷の少ないもの、かする程度のものは甘んじて受けた。
時間稼ぎの囮。少女が思いついた最低限の被害で済み、少年に全てを託した作戦だった。
音楽が止まり、驚きで一瞬、歌を止めてしまう。見れば一匹の化け物がオルゴールを壊したらしく、不思議なことに中から白銀の光が飛んでいた。
はっと我に返り、歌い続ける。どんなことが起きても歌い続けなければならない。
リディアは化け物を集めるために歌っている、がもう一つ、歌は重要な役割を担っていた。
ステップのリズムを忘れないことだ。化け物の攻撃を避けるためには、タイミングと攻撃される位置が分かれば十分である。
位置は未来を見ることで補える。あとは自分でタイミングを計るだけである。そのための歌だ。
――再度見えた未来は、生きたまま何匹かの化け物に腹を喰われていた。零れた内臓を競うようにすすり、咀嚼されていた。
悲惨な情景を回避するために回らない頭を必死に回す。酸素が足りない。思えばこんなにも深い穴、当然空気も薄い。こんなところで歌い、舞えば酸欠になるのは自明だった。
考えて、考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて――
――少女は自身の存命を諦めた。
自信があったのだ。喰われきる前にきっと二人が何とかしてくれるだろうと。喰われている間も時間稼ぎになる。痛いだろうが、死にはしないのだ。楽観的と言われてしまえば反論出来ないが。
穴に飛び込む前とは違う。旅の途中の私とも、あの夜の私とも違う。
遅くなったが、誰かを頼ってもいいと知った。一人で抱え込まなくてもいいって。悲しいこと、辛いこと、苦しいことは誰かに伝えていいって。
彼らには伝えきれていない程、感謝している。救ってはならない私を、私の心を救ってくれた。
――もう、十分だよ。ありがと。
狭い空を見上げる少女は静かに歌を止めた。