19 化け物
傷口から手を離し、錆びた鉄剣の柄を引き寄せて刃を握る。何処でも良い、何処でも良いんだ。
狙いなど定めずに化け物に振りかぶる。殺すつもりは無い、一撃だけだ。
殺意に近しい敵意を隠そうともせずに気に入らない化け物に剣を打ち付ける寸前、
――見知った人影が少女の剣を蹴り飛ばした。
水に濡れた髪がなびいて、視界が一時塞がれる。
剣を持っていた手首にまで衝撃が来て、ジンジンと痛む。手全体が赤く、痙攣している。それもそうだった。
長い足から繰り出された蹴りを受けた剣は、爆音を轟かせ、風を起こし、恐ろしい程回転しながら遠くの穴の壁面にぶつかり、バラバラになった。
砂煙の中の剣だったものを呆然と眺める。先程までの敵意も霧散してしまった。
間髪入れずに今度はすさまじい勢いで少女は服の首根っこを掴まれた。
勢いで取れかけだった腕が千切れ、置き去りになったが、青年は構わず地面に引きずるように引っ張り続けた。
喉の閉まる感覚から逃れるために服の間に指を入れようと掻きむしるが無駄だった。
しかし、お陰で化け物から一時逃げることは出来た。代償に腕一本と手を持っていかれたが。
相変わらずの不愛想な顔に説明不足の言動。最低な化け物を傷付けないためにここまでするか。
ディールスは走って、化け物から着実に距離をとっていった。恐らく私が化け物一体にいたぶられていた時も一人でおよそ八体の相手をしていたのだろう。額に汗が滲んでいた。
一週間走り続けた時でさえ息一つ乱れていなかったのに。本当に傷つけないように抗ったのだろう。このたちの悪い化け物達にそこまでする価値は無い気がする、私が言えたことでは無いが。
彼がそこまでする意味は何だろう。この化け物達にそこまでしてやる意義は何だろう。
ふと、もう一人の仲間の存在が気になった。
白い少年。リディアが辛い時、隣で手を握って勇気づけてくれた温かい手の少年。無垢な笑顔が眩しい少年。周囲を見回しても見つからない。声も気配もしない。
まさか、まさかまさか……!
「彼なら逃げましたよ」
ディールスが淡々と言った。いつだってこちらを見透かしたように話す。
いや、それよりも彼の発言だ。キジェが逃げた?そんなの――
「こ、んな状況だ、ったら誰だって、逃げ、るわよ」
意外でも何でもない。むしろ化け物に喰われたのかと思って焦った。
キジェは記憶が無い。何も呑み込めていない少年がこんな化け物と対峙したら、当然怖くて逃げ出すに決まっている。いや、どんな人でも正体不明で人間を襲う化け物に会ったら逃げ出すだろう。
穴に飛び込む時、彼も手が震えていた。キジェと私は変わらない。ディディなのに傷付くのが、死ぬのが、ただ怖い子供だ。
「ディールス。時間、稼げる?」
「……十一分以内に戻ってきてくださいね、二人で!」
ディールスはリディアを宙へ投げ、身を翻した。当然、今のリディアに受け身がとれるわけなく、盛大にダイブしたが、溜まった水のおかげでそんなに痛みは無かった。
急いで立ち上がろうとするが、片腕が無いだけで体のバランスが取りづらく、少々もたつく。ドレスも水を吸って重たい。何とか立ち上がった後、彼が私を投げた方向へ走り始めた。
汗が目に入り、痛みで目を瞑るが文字通り汗を拭う手が足りない。何なら血も足りない。人手だって足りないし、この戦いの決め手にだって欠ける。
それらを少年なら補ってくれると信じていた。
* * *
こんなにも深い穴ならそう簡単に抜けられないと推測はしていた。案の定、走り続けて穴の端が見えた頃、白い人影が目に留まった。
こちらに背を向けて丸く縮こまった姿。頭を抱え、何度も鼻をすすり、呼吸を忘れたかのように不規則に息を吸っていた。
「キジェ」
そんなに大きな声を出したつもりは無い。ただ名前を呼んだだけ。
だが、少年の肩は声に応えるように跳ねた。青ざめた顔をこちらに向けて。
「近づかないで!」
声色と彼の表情から鮮明に恐怖が伝わる。気が動転しているのだろうか。
リディアに化け物の前へ連れ戻されると思っているのだろう。
しかし、連れ戻しに来たことは事実だし、無理にでも連れ戻さなければディールスがどうなるか分からない。
優しい嘘はキジェのためにならない。彼がこの場面では絶対に必要だ。リスクも全部話して、それから彼に懇願しよう。
「……リディアさん。どうしてボク達が出会った時、あの白い教会で槍に貫かれても死ななかったんですか?」
……不意に紡がれた予想外な言葉に妙な胸騒ぎがする。
「どうして片腕が無いのに今も、そんな、……何でもないようにしているんですか?」
妙な胸騒ぎが確信的な嫌な予感へと変わっていく。思わず息を呑む。
「あの化け物を見て、思ってしまったんです」
それ以上、何も言わないで欲しかった。彼の口を、自分の耳を塞いでしまいたかった。
「恐ろしいって、怖いって。でも、リディアさんの方がよっぽど化け物じゃないですか……!」
信頼していた仲間から指をさされ、突然の糾弾。
――いつか起こると恐れていたことが、今起こってしまった。