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18 守るために傷付ける覚悟

しっかりと握った手を頼りに穴の壁面を滑り降りる。いや、滑り落ちていく。


慎重に、慎重に、強張った体全体でバランスをとる。足の指に力を込め、膝を曲げ、空いた手で地面を軽くなぞって。ボロボロと崩れる土の壁に砂埃を立てる。


気を緩めてバランスを崩した瞬間、二人は潰れた肉塊になるだろう。


旅の序盤で高い踵が折れたことを惜しんだヒールが、旅が進むにつれて折れて良かったと思えるようになった。

何故なら今では走る時も、こうやって斜面を降る時も有利になった。


この不良品はリディアの数少ない、教会に居た頃からの所有物であり、数年間愛用した思い入れの強い品だ。


一年に一度、贈名祭の舞台のための練習でも本番でも、いつも履いていた。

優雅に踊るときも、堂々と歌う時も、かっこつけて演じる時も、剣を片手に戦う時も、ミスをした時も、ぶたれた時も、このヒールはいつだって、どんな所でも、いい音で鳴ってくれた。


だからこそ、折れた時のショックも大きかった。

魂の在り方を否定されたかと錯覚する程、心にぽっかりと穴が開いたようだった。旅の数日は虚無感に襲われた。


しかし、今ではそう考えなくなった。別に無くなった訳でもない。私が罪を償い始めるまで、使い潰すつもりだ。もちろんその後も地獄に連れていってやる。


長い間、穴の側面を滑り、ようやく底に足が、ヒールがついた。温かなキジェの手を放し、一息つく。


上から見下ろしていた時には見えなかったが、底には水が足首まで溜まっていた。暗い底はあまり日が届かないので、おそらく長年溜まった雨水だろう。湧水が湧いているような所も無い。

足元から生まれた波紋が転がった大小さまざまな岩に付いたコケを揺らす。


穴の中には落ちて出られなくなったであろう荷車や見たことの無い錆びた銅貨が落ちていた。


遅れてディールスが器用に滑り降りてきた。いつも持っている大きなトランクを片手にしながらも、これ程の身のこなしには流石としか言いようが無い。


彼はこちらを一目見た後、何事も無かったかのように走りし始めた。


それに続いて二人も走り始めたが、強烈な悪臭に鼻を覆い、眉をひそめた。

旧帝都に居た時も、土の斜面を降っている時も微かに感じていたが、まさかこれ程までに殺人的な異臭だったとは。


まるで生ごみを腐らせたような、それか海の磯臭さを何倍にもしたような匂い。


二人も辛いようで、特にキジェに関しては真っ青な顔でえずいていた。

リディアも口と鼻を手で覆い、思わず下を向く。


水面に映った白髪の少女と目が合う。少女の姿が前方からやって来た波紋にぶつかり、揺れる。

その場に居る三人、誰も動いていなかった。


 ――近くに誰か居る。


勢いよく顔を上げる。視線の先、――化け物が居た。


漆黒の皮膚から骨のようなものが浮き出ており、突き出た赤黒い血管が不規則な脈を打っていた。血走ったいくつもの目と牙が剝き出しのだらしなく開いた口。短く細い足の関節部分が気味の悪い音を奏でながら四本バラバラに動き、ケタケタとうるさく笑っている。


見るもおぞましい生き物。全部で四十体程だろうか。その中に一際異彩を放つ個体が居た。


爛れたように見える茶褐色の皮膚が所々緑っぽく、刻まれた無数のしわと鱗のようなものが目立つ。よく見ると蛆が蠢き、蠅が飛んでいた。四本の長い足が力無く伸び、ぐったりと地に伏しており、体が水に浸されているが、手には汚れた白い布切れのようなものを強く握っていた。首にエラのようなものが付いてはいるものの、さっきの化け物よりは微かに人の面影がある。


あまりの気味悪さに後ずさりする。リディアの足元に水音と微かな水泡音を生み出す。その瞬間、化け物は一斉にこちらを見た。


その異彩を放つ化け物がガバッと上体を起こす。瞳があるはずの所の窪みが深い。その空洞は深淵のように暗く、底が見えない。要するに眼球が無かった。


見えていないはずなのにも関わらず、こちらを見据えたようににたりと、糸のようなもので縫われた口で不気味な笑みを浮かべる。見えない歯がカチカチと音を立てて鳴っていた。


元々酷かった悪臭が強くなる。この個体が異臭の原因なのだろう。

恐怖が全身を巡り、吐き気として出てきた。


「いいですか、彼らを傷つけないでください。私の予測ではミスター・キジェの持つ神の力で何もかもうまくいくはずです」


「……む、無理よ。そんな余裕なんて……」


今回のディールスの無茶ぶりは流石に許容できない。

数でも不利、私は戦力外、キジェの持っている神の力は当人にも不明でそもそも戦えるのか怪しい。


ディールスも分かっているはずだ。「何もかも」なんて不透明な言葉、彼は普段口にしない。


何よりもこんな化け物、一体相手でも勝てる気がしなかった。世界の憎悪の全てを煮込んだかのような気味が悪く、異様でおぞましい化け物。すくんだ足で一刻も早くここから逃げ出したかった。


「eqe[eqeeqeeqeeqeeqe[eqe9666666」


意味の分からない奇声を、真ん中の一体が発した。鯨のように力強く響く鳴き声。

それに応えるように周りの化け物が一斉に走り始める。四本の足がそれぞれ自我を待っているかのようにぎこちなく、支離滅裂に動く。


しかし、よく見ると動かずにその場に留まっている個体も居た。

四十体の中で動いているのは九体程、走れていないが体が微かに痙攣するように動く個体が二体程、他はピクリとも動かない。


その場から動かない真ん中の司令塔らしき個体を含めたら、動いているのは十二体だけだった。


つまり、二人で九体の囮になって気を引いて、その間にキジェが化け物相手に神の力を使えばいいという訳だ。


だが、その作戦ではキジェを守ることが出来ない。そもそもキジェが神の力を扱えなけなければ、この作戦は根本から瓦解する。


 ――いや、そもそもキジェは本当にディディなのだろうか?私は、少年がディディである確固たる証拠を見たことがない。

瞳の摩訶不思議な紋様も、不老不死の力も見ていない。

もしかしたら、全く関係のないただの少年だったりするのか?


……どうであれやるしかない訳だが、丸腰であの化け物に対抗するのは不可能だ。ディールスは傷つけるなと言ったがそれも不可能だろう。抗わなければ私達が永遠に殺される、この暗い穴の中で。


人も動物も神も傷つけたくない。大切な仲間が傷つけられるのを黙って見たくない。

一度決意を違えれば、その決意はまた軽んじられる。何度も反芻した誓いもだ。


願望ばかりが頭をよぎる。無力な私はいつだって理想だけは高く、自分の立場をわきまえない。昔からそういう所が大嫌いだった。

いつでも願望ばかりで行動しない女だ、私は。気持ち悪い。――あぁ!もう!


怒りに身を任せ、化け物を一体、二体、三体と躱して駆ける。化け物の動きは俊敏だが、少女の方が速い、が水に足を取られ、思うように走れない。


体力の消耗が激しく、すぐに息が上がる。蓄積された疲労もあるだろう。

しかし、化け物を前に、少女はただ一点を見据えていた。


金属特有の美しい光沢が失われた赤褐色に錆びた鉄剣。地面に落ちていたそれは近所の町商人だったら、ゴミだと言って捨てるだろう。


何も斬ることが出来ず、精々攻撃を受け止めるか受け流す程度。どう頑張っても相手を傷つけることが出来ない。


 ――この剣が、リディアにとって今、最も理想的な武器だった。


舞台の練習で剣技には多少の心得と滅多に褒めることが無い教会の大人も唸らせる程の技量がある。リディアの本当に数少ない特技だった。


剣の柄に指先が触れる。しなやかに手を回し、持ち上げようと手に力を込めた。


突然、地面に倒れる。いや、倒された。背骨の軋む音が不快で何が起こったか理解できず、顔を逸らすと少女の背に化け物がまたがっていた。

息をのむ。背筋に悪寒が走り、心臓が止まったかと錯覚する。思い切り叫んでしまいたかった。


化け物はいやらしく顔を近づけ、少女の怯える姿を見て嬉しそうに笑った。うるさい声が脳を、狭い穴の中の世界を震わす程に響く。


化け物は狙いを定めるかのようにゆらゆらと揺らした後、勢いよく一本の足を振り下ろした。少女が剣に向けて伸ばしていた腕目掛けて。


鋭利な足は少女の腕を簡単に貫いた。悪意のこもった行動で、少女の腕の同じ所を何度も狙う。


溜まった水のせいで血が止まらない。片腕で必死に傷口を抑えるが、水が少女を中心に朱く染まっていく。声が漏れ、口の中に血と水が入り、気管に入ってむせた。

苦しいからか、痛みからか、恐怖からか涙が滲む。


そんな少女は千切れかけた腕が辛うじて、皮膚だけでくっついている状態だった。


化け物はそんな少女の様子すら面白いらしい。痛みに耐えきれない少女が叫ぶたびに嬉しそうに刺さったままの足をくねらせた。

足から滴る血の雫を大きく開いただらしない口に垂らす。見せつけるような下品で大袈裟な動作。


限界だった。気に食わなかった、癪に障った、反吐が出る。相容れることのないその化け物の在り方に。


「――他者(ひと)傷付けて、ヘラヘラすんなよ……!」


もしも今、傷つけられていたのがディールスやキジェだったら?私はこの化け物を許せただろうか。

いや、誰であれど他者をいたぶる愚者に情けをかける価値は無い。


人も動物も神も傷つけたくない?大切な仲間が傷つけられるのを黙って見たくない?

でも、それは今ここで、卑しい化け物どもを傷付けなければ叶わない。


酷く、痛感した。――綺麗事の理想では、何もかも失うだけだと!

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