16 今のあなたを見ていると虚しい。
「流石にこ、こから歩い、て三週、間かかる距離を一週間でっ、走るのは無理、があると思うわ……!」
息を切らしながら、リディアはついに音を上げた。
頭から持っていた水筒の中の水を被り、喉がひりつく痛みを堪えて抗議した。いくらディディと神に食事が必要無いからといって三日間水だけなのは気が滅入る。我慢した方だ。
確かに数日かけて歩いたフルーフの森をたった一日もかけずに走り抜けたことはすごい、が流石に冗談抜きで一切休まずに三日走っている。一週間という馬鹿みたいにハードなスケジュールにも疑問を抱かない訳はなかった。
森を抜けた後も、三人はひたすら舗装されていない土の道を進んでいた。広い空と低い草だけが広がる平野。何にも阻まれない太陽の光で照らされ、肌がヒリヒリと痛む。
未だ遥か先のクラネーシュ帝国跡までの距離を考えただけで、体力面でも精神面でも辛かった。限界だった。
「リディアさん、もう疲れたんですか!」
初めて会った日は立つことも出来なかったキジェは、ディールスと同じく体力お化けだった。
「残った矢で彼の足枷を壊すことが出来ました」なんてディールスは言っていたけど、実際には彼の足には厳つい足錠が残っていた。壊せたのは鎖だけらしい。
ディールスからしたら、教会を出るために足枷を壊そうとしていた訳で、足枷の本体を壊そうと、鎖を壊そうと、教会を出られたら変わらないのだろう。認識の齟齬がこんなところに出ている。
彼が走るたび、重い金属の擦れる音が響く。足元だけを見れば逃げ出した囚人か、はたまた主人を殺した奴隷に見えてしまっても仕方ない。
当の本人はそんなことを気にせず、ずっと周りを見回しては楽しそうに笑っていた。その笑顔が太陽よりも眩しい。
本人曰く、「新鮮で楽しくて飽きなくて疲れない」のだそう。
そうだとしても、全く疲れていない様子を見ると本当にすごいと思う。
彼らだけならば、一週間ギリギリで到着出来るかもしれない。私が足を引っ張っていなければ。
大体、ディディが増えたとしても急いで会いに行く必要がない気がする。
彼がこんなにも急ぐ理由は、一番目よりも四番目を優先させる理由は、なんだろうか。そんなことも彼の顔を見れば言う気が失せた。
彼は三日前からずっと張り詰めたような顔をしている。
足を止めず、眉をひそめ、何も言わず、ずっと切なそうにクラネーシュ帝国跡の方角を見つめていた。
そんな彼の様子を見ても、リディアは何もすることが出来なかった。何もしてあげられなかった。
下手に希望を持てば、それ以上に絶望することを少女は知っている。
なすすべなく、ただただ目の前で希望が打ち砕かれることは、初めから希望を持たなければと酷く後悔させる程辛く、痛く、悲しいものだ。
胸の奥で燻る不快な感情は永遠に消えることはなく、一種の呪いや毒のように残留する。
彼の憂いを晴らすには、先を急ぐことぐらいしか出来ない。
痛みに耐えながら、何度も前へ踏み出す。泥で汚れ、草で切れた足は赤く腫れ、無数の針が刺さっているようだった。しかし、決して止まらなかった。
肩で呼吸をする少女。袖で汗を拭いながら彼から目を離さないように前を見続けた。一瞬でも目を離せば、見失ってしまいそうな程小さく見える彼の背。
いつもの太々しさとでもいうのだろうか、彼の背には覇気がないように思えた。
――彼の助けになってあげたい。少なくとも庇う程度なら出来る。
浅はかで強欲な考えだと思った。思考を払おうと、頭を振った時、
「――失礼」
「……きゃっ!」
予期せず、柄でもない声が漏れてしまった。
青年は突然、少女を小脇に抱えた。そのまま、スピードを落とさずに走りづける。
少女は抵抗せず、大人しくされるがままだった。それに続くように、少年は後ろを走った。
リディアは抗議したかった。だが、今下手に動けばさらに彼の足を引っ張るということが分からない程、馬鹿ではない。ゆっくりと彼の腕の中で息を整えた。
実際、ディールスはリディアを抱えてからの方がより一層速くなった。こんなにも焦っているのに、疲れたリディアを配慮していたのだろう。置いて行っても良かっただろうに。
青い空の下、揺られながら彼の顔を覗いた。
「重い」「あまりにも遅かったので」「今の貴方如きに何ができるというのでしょう?」
こんなことを言うかと思っていた。いや、言って欲しかった。
いつもの軽い軽蔑が、いつもの無愛想な言動が、いつもの落ち着いた声色が、彼の口から紡がれて欲しかった。
こんな状況なのに、こちらに対し心を砕いてくれる。砕いた心は今まで多くの人に配ってきたのだろう。言動の裏に、節々の行動から彼の優しさが滲んでいる。本当に、優しい人だ。
――彼の視点は変わらず。ただ無言を貫いていた。