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2章総集編

「そういえば、貴方の中に彼女の記憶は無いのですか?」


リディアとエドワーズの手配書が発行される前にグレスター王国の手薄の国境を越え、早二ヶ月。

ディールスに案内されて、北東の方角を歩いている途中のことだった。


まさか彼から質問されるとは。


道中リディアは罪悪感と気まずさからろくに彼に話を振れなかった。彼も自ら話をするタイプでもないので、この二ヶ月間、二人はまともに会話をしていなかった。


また、リディアに関しては会話どころではなかった。


あの夜から人の視線が怖くなった。誰しもが私を憎んでいると感じるから。

あの夜から人の瞳を見るのが苦痛になった。見つめた人に見透かされている気がして。


それでも絞り出すように彼の言葉に答えようとする。久しぶりに出した声はかすれて絶え絶えだった。


「……他のディディはあるの?」


「はい、ありましたね。やはり半人前には無いのでしょうか」


無意識なのだろうか、その言い方は。


目を瞑り、過去へと遡る。

両親との最後の日のこと、教会の大人に殴られたこと、エドワーズに初めて会った日のことなど。

自分の思い出しかなさそうだが二つだけ、私の知らない景色があった。


とても綺麗な場所。おそらくこの世界の何処でもない場所だ。


「……二つあった。一つは真っ白なところで目を覚ました記憶。もう一つは知らない部屋で泣いている記憶。後ろにあなたが居たわ」


「たった二つだけでしたか」


吐き捨てるように聞こえたが、呆れる訳でも悲しむ訳でもなく、ただの確認だったようだ。


段々と彼の性格が分かってきた。しかし、彼のことが少し分かっても、この世には知らないこと、知らなくてはならないことが多すぎる。


「私からも質問させて。知りたいことがたくさんだから」


「どうぞ。ただし、三つだけ質問に答えます」


何故三つなのか、と考えても無駄なんだろう。

神の考えることを人類は理解できない、永遠に。それが世界のルールだ。


ならば、せめて質問を間違えるな。恐怖を忘れて彼と向き合い、情報を奪え。


「一つ目。ディディになった人はどうして神を殺すことができたの?神は不老不死のはずでしょ」


「また神を殺したいんですか。……神を殺す方法は一つ。死の間際、明確な殺意を持って自身の血の付いた武器で神を傷つける、それだけです。信仰が力の神にとって敵意は毒。たったそれだけで神は消え、ディディが誕生します。彼女も毒には勝てませんでした」


彼の一言がリディアの心に刺さる。そうだ、私は彼の大切な人を殺した罪人。

だが、方法が分かれば対策も出来る。もうこれ以上、神も人も傷つけたくない。


「二つ目。あの方が人類のためと言って私を殺そうとしたのは何故?」


「答えは貴方の記憶にあります。正確には貴方の中の彼女の記憶に。ふとした衝撃で思い出すかもしれないですね」


あくまで答える気はないらしい。こちらも深掘りする気はないが。


あの方は、私が人類の脅威になる予言でもされたのだろうか。

予言は回避出来ることは知っている。私があの夜、彼が死ぬ予言を回避出来たからだ。


 ――あの方は予言を回避出来たのだろうか。


「三つ目。私、予言の力を使いたくないの。だから私の神の力の発動条件を教えて」


「貴方の発動条件は、おそらくそのガラスで自身を切ることです。あと、貴方が嫌がっても私は貴方に神の力を使わせます」


何のために、と開こうとした口を渋々閉じる。


……最悪だ。三つ目の質問を最初に持ってくるべきだった。

質問の順番を間違えたせいでさらに疑問が増えてしまった。彼は私があの方の力を使うのを嫌がるとばかり思っていたのに。


そんなリディアの思考を遮るように、彼はぽつりと言った。


「そろそろ着きますよ、フルーフの森」


「……は?」


彼は今なんて言った。フルーフ、の森?

ディディが呪いをかけたと言われる禁忌の森に向かっていたの……⁉


「何で怖がるんですか。ディディの貴方が」


「……」


彼の一言に衝撃を受けた。あの方の記憶は戻らなかったが。


言われてみれば、確かにそうだ。そうだった。不覚にも彼の言葉で冷静になれた。それに――


 ――あの夜程、怖いものはない。


        *  *  *


生い茂る草木に足を引っかかれ、木に体をぶつけながらもリディアは、ディールスを見失わないようにするので精一杯だった。


フルーフの森はかつてルジャダ国の支配地だった。だが、呪いがかけられてからは王国は所有権を放棄し、今はどこにも属さない土地となった。呪われた地を欲しがる変人が現れるはずもなく、放置され続けている。


子供の頃、言うことを聞かなかったら両親にフルーフの森に置いていくと笑って脅されていたっけ。


そんな禁断の地を歩いて数日、意外にも何も起こらなかった。何の変哲も無い森だった。強いて言えば動物たちをほとんど見かけないことぐらいで。

呪いがかかっている森で何も起こらないのは、私がディディで彼が神だからだろうか。


……いや、そもそも呪いをかけられていない?


当たり前だが、誰もが都合の悪いこと、後ろめたいことは隠そうとする。神であっても。

それはディールスも言っていた。


 ――誰かが知られたくない秘密がこの先にある?だから偽の情報を流した?


あり得ないことではない。誰が、何のためにしたのかも、この先に答えがある。

もちろん、知ろうとすれば阻止しようとする輩も現れるはずだが。


「到着しました」


ディールスの声を聞いてようやく、ずっと下を向いていたリディアは青空の下、目の前の白い建物に気が付いた。


ボロボロだったがかろうじて教会だと分かった。周囲にはまばらに草木が生えている。壁には無数の亀裂と穴があり、ツタに覆われているところばかり。

しかし、朽ち果てていても、その教会は立派なものだったことがうかがえる。大きさも従来の教会の比にならない。


「世界で初めての教会です」


珍しく質問するより先に彼が答えた。

呪われた森に、世界初の教会。これを隠したがっていたのだろうか。


迷いなく入っていくディールス。

この様子だと彼の目的のものはこの中らしい。歴史的なものが欲しかったのか?


入口だったと思われる所にかかっている蜘蛛の巣をくぐり、見上げた教会の中の作りは村のものに酷似していた。


土を微かに被った身廊。数本のうち、1本に黒くなった血が付いている柱。天井に空いた穴。

若干、祭壇のスペースが大きい構造になってはいるものの、何故か祭壇は無かった。が、驚くべきことに――


 ――祭壇があるべき場所には知らない少年がいた。


白を基調とした祭典用に似た服、頭を覆う汚れた包帯、包帯から僅かに出る肩まであるホワイトブロンドの髪、目は包帯で隠れているが整った顔立ちと分かる少年だ。両足に付けられた不似合いな錆びた足枷を後ろの柱に結び付けられていた。


人が暮らせるような所ではない。周りに人が居る様子もない。

状況的に誰かに無理やり閉じ込められたのだろう。


一歩を踏み出した時、何かを踏んだ感覚があった。

静かに寝息を立てる少年の周囲には、青緑に輝く鉱石が散乱していた。種類までは特定できない程の小さいが加工されていないことが分かる。天井の穴から太陽の光に照らすとより一層輝きを増した。


「――貴方とミスター・レイヴァーンを二人合わせて三番目のディディとすると、彼は正真正銘二番目のディディですね」


ディールスの紹介に咄嗟に言葉が出なかった。目の前の少年がディディなのは百歩譲って分かる。

だが――


「ディディが二人……⁉」


「言ったでしょう。あの本は不都合なことを数多く消された、信用してはいけないと。もっとも、彼は本が完成した後にディディになりましたが」


神を殺した罪人が、私と彼以外に二人。

目の前の少年は何か理由があって神を殺したのだろうか、それとも殺したくて殺したのだろうか。

それによって少年への印象が変わってくる。


とりあえず少年を起こし、話を聞いてもらおう。

エドワーズを神界から連れ出すためには彼の協力が必要だ。


リディアは震える手で彼の肩を軽く叩き、「あの……」と気に触れないように声をかけた。

天井の穴から木漏れ日を受ける少年の眠りは案外浅かったようで、すぐに目を覚ました。包帯で目は見えないが。


寝顔を見て思ったが、顔立ちが可愛らしくあどけない少年だ。

十三か十四歳のように見えたが、ディディにその推測は通用しないだろう。


教会の孤児で弟のように可愛がっていた子に雰囲気が似ていた。もう二度と会えないだろう。

リディアは思い出に浸るのをやめ、彼の言葉を待った。


「――こんにちは。嬉しいなぁ、誰かがここに来てくれるのは初めてなんです。ずっと誰かが来てくれるのを待っていて」


少年は朗らかに笑みを浮かべる。敵意も害意も無い、純粋な笑顔。

長い間、本当に人を待っていたのだろう。


突然、包帯の目の辺りにシミが作られていく。笑っていても、少年の涙は止まらなかった。


        *  *  *


少年が泣き止むまで、リディアは彼の側に居続けた。


少年の風貌でも何十年と生きているはずだが、内面はさらに幼い少年のようだった。

おかげですっかり毒気を抜かれた。害をなそうとは思っていなかったが。


「ごめんなさい、泣くつもりはなくって」


「大丈夫?」


「はい、おかげさまで」


鼻をすすり、目の辺りを必死に擦っていた少年はようやく落ち着いたようだ。


もう少し待ってもいいが、あまり時間が無い。

手を貸りたいのなら、手早くこちらから挨拶するべきだろう。


「遅れてしまったけど、私はリディア・ハートフォード。半人前の三番目のディディ。あなたにお願いしたいことがあってここまで来たの」


「……えっと、リディアさん。ディディって何ですか?」


ディディを知らない……⁉

いや、この世界で生きているのなら知らないはずがない。だとしたら、――


「……ごめんなさい。ディディというものも、自分のことも何も知らないんです。気が付いたらここにいて、ずっと……」


彼が記憶喪失だとすれば、口調と内面が幼いことにも納得がいった。

ディディを知らなくてもおかしくはない。


失望されるとでも思ったのか、少年は俯いてしまった。

リディアは少年の肩を震わせる姿が、幼い自分の姿と重なって見えた。教会の大人に殴られた時の自分と。


「私達と一緒にここから逃げない?私、君のことが必要なの。大変な旅になるかもしれないけど、君に辛い思いはさせないわ」


出来る限り優しく語りかける。今は説明をしない方が良いだろう。

何も知らない彼に、焦って全てを教えるのは酷だ。ゆっくりと、時間をかけて教えていきたい。


「それに、三人だもの。きっと賑やかで楽しいわ」


彼が誰であっても、泣いている人を一人にはしたくなかった。

自分勝手な同情とか、自己満足の哀れみなんだと思う。でも、さっきの言葉も今の心も嘘ではなかった。


―私は今、この泣き虫さんを飛び切り幸せにしてあげたい。


「良いんですか⁉……ボク、期待に応えられるか分かんないし、泣いてばっかりだし。でも」


「でも?」


「ひ、一人はもっと嫌です」


「うん、決まりね。……ディールス!足枷取るの手伝ってくれない?」


憂鬱そうに開いていた本を閉じ、彼は視線だけを向ける。

必要最低限で完結された動作が実に彼らしい。


「ようやくこちらを見たと思ったら今度は雑用ですか。別に構わないのですが……」


足枷をゆっくりと眺めた彼は重い口を開いた。


「鍵も無いですし、何よりあまりに錆びすぎている。取り外しは不可能だと思います」


壊せば取れる。しかし、壊すにしても怪我は避けられないだろう。

ディディでも痛みは感じる。それをこの少年には、出来る限り感じさせたくはなかった。


どうするべきか。悩んでいるとディールスがこちらに近づいてきた。足音が空虚に響く。

何か策でもあるのだろうか。


「彼女を殺すのに使用したガラスを渡しなさい」


「え?……えぇ」


きっぱりとした口調。若干命令じみた言い方に少し違和感を覚えた。

こんな時に必要なものだろうか。だが、彼が言うのだからおそらく重要な役割を果たすのだろう。

彼の口数はあまりに少ないが、話す言葉は必ず意義がある。その点では彼を信用していた。


「どうぞ?」


微かな迷いが消え、アクアマリンに決意が宿っているように見えた。


慎重にディールスの手のひらに置こうとする、が彼は強引にガラスを奪い取った。尖ったガラスは案外簡単に傷つけることが出来る。

ディールスの手にも真新しい切り傷が作られた、はずだった。


彼に出来た傷は一瞬で塞がり、血の一滴すら流れなかった。

リディアは呆然として言葉を失った。


傷が塞がったことに対してではなく、彼の不自然な行動でもない。もう無い怪我に対してだ。


 ――また、傷付けてしまった。


ただただ罪悪感が込み上げてくる。あの夜から何を学んだんだ。何も、何も変わってなかった。

また同じ失敗を繰り返して、多くの人を泣かせるのか。目の前の彼のように!


脳裏に浮かんだのは、あの方の死に顔だった。


吸っても吸っても肺に空気が入らない。息の仕方を思い出せない。寒いのに汗が止まらない。溢れる涙を止められない。手足が震えて言うことを聞かない。

さっさと、止まれよ……!言うことを聞け!


 ――誰よりも泣きたいのは、愛する人を殺した罪人の近くにいる彼でしょ……!


「痛っ」


ディールスがリディアの手を乱暴に掴み、引き寄せる。

泣いている少女に心配の声をかけるような気配りをしないのはいつも通りだが、本当に彼らしくない。

しかし、彼はいつもの無表情だった。本を読んでいる時と何一つ違わない凛とした顔。


少しだけその顔が悲しげに見えたのは、彼が私に今していることへ罪悪感を抱いて欲しいと願っているからだろうか。


「失礼」


 ――ディールスは躊躇なく、リディアの手にガラスを突き立てた。


手の平を貫通してガラスが深々と刺さる。血が滴り、床に跳ね返って二人の服の裾を汚した。


手が焼けているかと錯覚する程痛い。さらに彼はガラスが刺さったままの傷口に指を押し込んだ。

いつもなら耐えられる痛みが、今は耐えられなかった。

泣いて叫びながら彼の手を振り払おうとする。


「リディアさん!」


廃墟に少年の声が響いた。包帯で目を覆われているが見えているらしい。

真っ青な顔でこちらを助けようとしているが、足枷の音が鳴るだけだった。

彼自身、本当は怖くて逃げだしたいだろうに。


まるで無力なあの夜の私を見ているよう。彼が私を庇って死にかけたのに何も出来なかった私。


彼と私の決定的な違いは逃げ出さなかったことだろうか。


リディアの頭を強引に掴み、ディールスは力ずくでガラスに刺さった手に近づける。

華奢な少女の筋力では勝てるはずもなく、リディアはむせび泣くことしか出来なかった。


 「――何が、見えますか?」


淡々と言い放った言葉。涙で視界が歪んだリディアに鮮明に届いた。


止まらなかった涙が突然止まる。あの夜と同じ違和感を再び目に覚えた。

彼のしようとしていたことがようやく分かった。


使いたくないのに、見たくないのに、ガラスに映ったあの方の目がより一層と輝く。


 ――いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだ!


少女の我儘な願いは叶わず、映ったあの方の姿が消え、ガラスは新たな予言を映した。


「……空、から紅、い槍、と一本、の弓がこ、こに飛ん、でくる」


嗚咽を抑えて辛うじて告げることが出来た予言。


そこでやっと彼は両手を離し、少女は崩れ落ちた。

夢を見ていたような感覚が残る。予言を見て、意識がはっきりとした。痛みでも戻ってこなかった正気が戻った。


 ――何をやっているんだ、私。


どんなに悔やんでも過去には戻れない。奇跡も魔法も起きはしない。あの夜、分かったことでしょ……!

今の私に出来ることは、償うことだけ。許されない罪に、永遠に向き合うだけ。


ガラスは刺さったままで、傷は塞がっていなかった。でも、それよりも見た予言を忘れなれなかった。


予言では突然空に穴が開き、開いた穴から出てきた槍と矢が少年に向かって飛んでいた。

そこで終わっていたが、それで十分だった。阻止するためには。


ガラスが刺さっていない方の手を床について立ち上がり、少年に向かって走り出す。


予言で見た空は今と色がほとんど違わない綺麗な群青の空だった。

つまり、すぐに起こる未来ということだ。


緑の鉱石に足を取られ、バランスを崩して前のめりになる。だが、足は止めなかった。


 ――泣きじゃくる少年を体で覆うように抱きしめた。


誰も傷つけたくなかった。もう、誰も傷つかないで欲しかった。それが最低な私の最後の願い。

誰かが傷つくなら、私が傷つこう。誰かが傷つかなくちゃいけないなら、私が傷つこう。


 ――あの夜の誓いを違えないように。二度と間違えない。今度こそ最善を、突き進もう。


 少女は決意を再び胸に、笑って矢に刺され、槍に穿たれた。


口から朱い血を吐き、胴が槍を深々と貫通し、矢が腕に刺さり、手にガラスが刺さった少女。

人間だったら二十秒程で絶命しているであろう攻撃を、少女は一身に受けた。


口いっぱいに広がる鉄臭さ。耳鳴りが遠く聞こえた。

体の感覚が無くなり、ゆっくりと倒れる。ボロボロの体が痛いはずなのに、何処も痛くない。


名前も知らない少年を守れた。その達成感だろうか、穴の開いた胸が久しぶりに心が軽くて心地よい。

少年の悲愴な面持ちだけが目に入る。また、泣かせてしまったなぁ。


あの夜の私に似た泣き虫さん。あなたは、間違わずに進めるかな。


 少女は少年に向けて優しく微笑みかけて、深い眠りについた。


        *  *  *


無音の世界で、目を覚ました。

何処までも広がる端の見えない真っ白な場所。


何も無い所だからか、逆に自分の姿に目を惹かれた。

純白のワンピース、膝まである白い髪、すらりとした長い手足。それがわたしだった。


とりあえず歩き始めた。きっと誰かに会える気がして。


焦りから走り始めた。終わりがない気がして。


走って、走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って。


ゆっくりと立ち止まった。期待が、希望が打ち砕かれたような気がして。


世界の終わりも、同類も、色も、音も、影も、希望も、何も無かった。

何一つ無かった。いや、わたしだけ。何者でもないわたしだけが居た。


膝を抱えて座り込んだ。自分までも消えてしまいそうな気がして。


怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


心が締め付けられる。

何故こんな所で一人ぼっちなのだろう。誰も居ないのなら、わたしも居なければよかった。

このまま、ここに居た証も残さずに消えてしまいたい。


視界が歪んだ。ぽろぽろと、とめどなく涙が頬を伝って落ちた。


        *  *  *


長い悪夢を見ていた気がした。

働かない頭でぼんやりと思い出していたら、真っ先に目に入ったのは三つの月の一つ、黄色っぽい白の月だった。


「リディアさん!良かった、目が覚めたんですね……!」


あまりに大きな声だったので、驚いて完全に目が覚めた。


嬉しそうにこちらを覗き込む少年。まだ少し鼻をすすっていた。

しかし、身を挺した結果として、可愛らしい笑顔を見られたので良かった。


不思議だ。旅をしてからの方が守りたいものが増えてしまった。

いつかは皆、幸せにできるだろうか。私なんかが出来るだろうか。その幸せに私は居ないのだけれど、それが当然だ。


「随分と寝坊しましたね、もう夜ですよ」


その幸せには、実は貴方も入っていたりするのよ、ディールス。

私のせいで不幸になった神様。彼も自由にしてあげたいものだ、縛っている私が言えないが。


「何笑っているんですか、気持ち悪い」


「あの!リディアさんに失礼ですよ!大体アナタ、リディアさんに怪我させたじゃないですか!謝ってください!」


「はぁ……」


彼の正体を知らないからか、少年はぐいぐいと彼を責める。少年からしたら、ディールスは知らない人のはずだが、まるで家族に説教をしている場面みたいだ。


責められているはずのディールスは、少年を相手にせずリディアに対して報告し始めた。


「貴方の表面上の傷は完治しました。今回は重傷だったので、しばらく歩けない程の疲労感があると思います。あと飛んできた槍は消えたのですが、残った矢で彼の足枷を壊すことが出来ました」


「あの槍って、秩序の神のよね。何でここに飛んできたのかしら……」


「さぁ?彼に痛い思いをさせて外に行かせる気力を無くしたかったのでは?オルドルの性格は社会統制の横暴性を表していると思うんですよね、私」


すこぶると饒舌かつ毒舌なディールス。

彼の言うシャカイトウセイはいまいち分からないが、秩序は横暴なんかではなく、必要なものだと思う。

……神と議論する(負け試合)をするつもりは無いが。


「責めないんですか?貴方は私に傷つけられたのに」


いつもの無表情が少し訝しげに見える。責められたいのか?いや、その気持ちが何となく分かった。


 ――殺したい程の相手と旅をしている彼に責められた方が楽だと感じる私と同じだ。


「必要なことだったと思うし、何よりあなたには私に復讐する権利がある。あんなの、甘んじて受け入れるわ」


何より再び罪を、罪への向き合い方を、覚悟を、確認することが出来た。


それは極端に省略された彼の行動のおかげだろう。

一言言って欲しかったが、言われた所で私が反発しただろう。合理的だったと言わざるを得ない。


ディールスの反応は無かったが、彼は黙って教会の隅に移動し、本を開いた。彼は本を二冊所有しているらしく、あの夜以外はもう一冊の方を読んでいた。


その反応を見るに、彼の欲しい言葉ではなかったのだろう。


「あ、そうだ」


勢い良く立ち上がり、今度は置いてけぼりだった少年に向き合った。きょとんとした顔も本当に愛らしい。


「今日から君も旅に加わるんだし、名前。無いとちょっと呼びずらいかなって。だから、――キジェ。素月に照らされた空っていう意味なんだけど、どうかな?」


「やめた方が良いですね。大体、月は――」


「キジェ!すごく素敵ですね。ありがとうございます!」


「喜んでもらえてよかったわ」


二人で長くなりそうなディールスの小言を無視する。会ったばっかりなのに息ぴったりだ。


しかし、気に入ってもらえたようで本当に良かった。この短時間で必死に考えたかいがある。

キジェとの旅が楽しみになってきた。それと同時に私の正体を伝えることに億劫になってしまう。


 ――彼は知った後でも、同じように接してくれるだろうか。


そこはかとない不安を彼に知られないように押し殺す。

少年 ――キジェに手を差し伸べ、彼がその手を掴み、立ち上がる。その瞬間、体から力が抜けた。どっと疲れが押し寄せる。


「馬鹿みたいですね。先程の注意をすぐに忘れるなんて」


戻ってきたディールスの辛辣な一言が心に刺さり、思わず「うっ……」と声が漏れる。


なにせ二人して床に横たわって夜空を仰いでいたからだ。

よく考えたらキジェは長いこと、ここで座っていたのだ。立てるはずもない。本当にバカだ、私。


「夜ですし、今日はここで休みましょう。あぁ、渡そうと思っていたこれ、置いておきますね」


ディールスの呆れた声が耳に辛うじて届く。


彼は再びリディアに近づき、少女の隣に拙い花束と古びたオルゴール、―見覚えのあるエドワーズの私物を置いた。あの夜にでも持ち出したのだろうか。


起きたばかりなのに、すごく眠い。彼に申し訳なく思う気持ちが、眠気に負けてしまっている。

意識が遠のいていく。でも、それがとても心地よかった。


        *  *  *


無音の世界で、目を覚ました。

何処までも広がる端の見えない真っ白な場所。


何も無い所だからか、逆に自分の姿に目を惹かれた。

純白のワンピース、膝まである白い髪、すらりとした長い手足。それがわたしだった。


とりあえず歩き始めた。きっと誰かいる気がして。


焦りから走り始めた。終わりがない気がして。


走って、走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って。


ゆっくりと立ち止まった。期待が、希望が打ち砕かれたような気がして。


世界の終わりも同類も色も音も影も希望も、何も無かった。

何一つ無かった。いや、わたしだけ。何者でもないわたしだけが居た。


膝を抱えて座り込んだ。自分までも消えてしまいそうな気がして。


怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


心が締め付けられる。

何故こんな所で一人ぼっちなのだろう。誰も居ないのなら、わたしも居なければよかった。

このまま、ここに居た証も残さずに消えてしまいたい。


視界が歪んだ。ぽろぽろと、とめどなく涙が頬を伝って落ちた。

自分から落ちたその涙に唖然とした、が慌てて手で掬う。両手で出来る限り多く、零れないように。

心の奥底から嬉しかった。


 ――この世界でわたし以外のものがあることが。


おかしい話だ。わたしの一部だったものが手のひらにあるだけなのに。

長い孤独でいたわたしの心はそれ程壊れてしまったのか。それでも、喜ばずにはいられなかった。


この忌まわしくも美しい世界で初めて見つけたもの。


手のひらの涙が愛おしく感じる。涙には、わたしが映っていた。

そこで初めて知った。わたしの瞳、——これも白ではなかった。


長い間、探していたものはすごくすごく近くにあった。

時間はかかったけど、ようやく二つも見つけられた。


涙が止まらない。集めることも忘れてただ泣き叫んだ。泣いて泣いて泣きわめいて涙が枯れた。

でも、まるで自分の涙と瞳に元気づけられたみたいな。だから立ち上がることが出来た。


 ――何だか分かった気がしたの。ここに何も無いのは、わたしが0から創るためだって。


目を閉じ、涙に力を注ぐように、優しく息を吹きかけた。瞳から、体から、何かが抜け落ちる感覚。

手の中の涙はとても可憐な青色の花へと変貌を遂げた、がすぐに枯れ、しおれた灰茶色の枯草になってしまった。


だが、前向きに成功したと捉えよう。枯れてしまっても、この子は美しいのだから。


時間はいくらでもあるのだ。少しずつ、歩んでいこう。


 今までの孤独を取り戻すために。


        *  *  *


今度こそ、長い夢を覚えていた。いや、夢なんかじゃない。夢なんかじゃなかった。あの方の記憶を見ていた。


涙がリディアの頬を伝って静かに落ちた。

これは、あの方の孤独の涙なんかじゃない。あの方が一人じゃない喜びの涙だ。


床に落ちた涙をじっと見つめる。その時、一つ、記憶の違和感に気が付いた。


あの夜のあの方は可愛らしい少女の姿をしていたが、記憶のあの方は大人らしい美しい女性の姿だったことだ。

神は不老不死だから、姿が変わらないのではなかったのか?


そして、あの方の記憶を一つ思い出した今だから言えるが、キジェとあの方は少しだけ過去が似ていると思った。


 ――何処にも行けず、一人だったキジェと何処に行っても何も無くて、一人だったあの方。


「起きてください、レディ・リディア!」


ぼんやりとしていたリディアの頭に低い声が響いた。朝早くのディールスの大声に仰天して飛び起きる。慌てて目を擦り、涙を隠した。


初めてだった。初めて彼の大声なんて聞いたし、焦った表情なんてすると思っていなかった。


何よりも彼の瞳がほのかに輝いていることに驚いた。海を閉じ込めたように澄んだアクアマリンが今だけは深い青水晶のようだった。

かつて両親と見た水平線がフラッシュバックした。


「急いで出発します、目的地はルジャダ国からクラネーシュ帝国跡に変更。今すぐ四番目のディディに会いに行きます!」


四番目⁉まさか――


「たった今、ディディに変じた者が現れました……!」


 唇を嚙み締めた悲しげな彼の表情を、私は一生忘れられないだろう。

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