104 二番、其の五
なのに、なんだかその後は記憶が曖昧で、気が付いたらグレスター王国の郊外の小さな村のベッドの上だった。
うっすらと覚えているのは、三人で何処かへ逃げている時に前に立ちふさがる誰か、逆光で顔の見えない女性が立ち塞がっていたことだけ。ものすごく見覚えがある背中だった気がするのは、気のせいなんだろう。
頭には包帯が巻かれていたが、既に止血は済んでいた。ベッドのすぐ傍でずっと看病してくれていたソルニーゲルは看病疲れで深く眠っていたけど、彼は****の姿だけは見つけられなかった。
しばらくして起きたソルニーゲルに慌てて聞いたら、引っ越した日にケガをしたから、その辺りの記憶が曖昧なのだと言われた。
引っ越し?そんな急に、……ボクは、ボク達は引っ越しなんてしただろうか?
……いや、彼女がそう言うのなら、ボクは覚えていないけど、彼女が言うなら、きっとそうなのだろう。
それでも、グラディアウレウスは彼女が****なんて知らないと言ったことだけは信じられなかった。
ボクは退屈な日々に飽きて、都合の良い夢か幻でも見ていたのだろうか。そんなはずない。妄想でも、あんなに美しい人は見ることが出来ない。それに、****は泣いていた、笑っていた、隣で走った、”生まれてきてくれてありがとう”って言ってくれた、生きていた。
でも、当時六歳のグラディアウレウスに何か出来ることもなく、悔しい気持ちを胸にグレスターの小さな村で生活していた。
大人になったら、会いに行く。****という人が居たって、証明してみせる。
しかし、時の流れとは残酷で、グラディアウレウスは始め、徐々に****の声を忘れた。次に顔と性格、さらに名前、最後に髪色や瞳の色。二十歳になる頃には、小さい頃の妄想だったと結論付けたのを最後に思い出すことも少なくなっていった。十四年の月日は、****という人物の記憶が欠損していくには十分過ぎるものだった。
子供の頃の記憶なんて不確かで、実際に存在したかも曖昧。何よりソルニーゲルがはっきりと否定したんだ。彼は自信が持てなくなってしまった。
十四年、二十歳になるまでに彼は段々と****のことを忘れて生活していったが、グラディアウレウスの心の奥底にはずっと一つの別の疑問があった。その疑問は、グラディアウレウスの中では****という妄想の存在に成り果てたもののことすらも薄らぐ程重要で、恐ろしかった。
——ソルニーゲルとは、こんな人だっただろうか?
前は分からない問題と直面していたら、ヒントは出すもののほとんど自力で解かせようとしていた。
今は懇切丁寧に解き方から教えてくれる。
前は悪いことをしたら、黙って反省するのを待っていた。
今は怒って叱ってくる。
前はもっと気持ちに余裕があった。
今は何かに急かされているように色んなことに気を張っているように見えた。
前は近所付き合いが上手そうだった。
今は苦手で、何処か避けている気がする。
前は料理のレパートリーがあって完璧で美味しかった。
今は所々焦げているけど、頑張ってる。
前はお菓子をたまに手作りしてくれた。
今はたまにお菓子を買ってきてくれる。
前はもう少しおっとりした人だった気がする。
今はちょっとせっかちで、動きが俊敏になった気がする。
前は髪を結ぶのが上手かった。
今は少し時間が掛かっている。
前は本をたくさん読んでいた。
今は家事をやっている時間の方が長いし、たまに出来た暇な時間は新聞を読んでいる。
前は自分の寝たい時間に寝ても、何も言われなかった。
今は就寝時間にも口を挟んでくる。
前はものすごく綺麗で整っている字で文字を教えてくれた。
今は字が……少し、汚くて崩れているけど、一生懸命書いているのが伝わる。
些細な差だ。それこそ、良く注視していないと分からない程の微々たるもので。それが、酷く引っ掛かった。前の、グラディアウレウスが共に暮らしていた彼女は、何でもそつなくこなす完璧な淑女という風にしか映らなかったから。
……そう、いつからかは分からないが、ソルニーゲルが全く別の他人がなり代わっているように思えていたのだ。
証拠は無い。直感だ。でも、昔から頭が悪かったからか、直感だけは良く当たったから。だから、逆に怖かった。
自分の良く知ったものが、いつの間にか全く別のものにすり替わっていた、なり代わっていた。
それはグラディアウレウスが最も恐れていること。
本物でないと、意味がない。それが彼の信念の一つだったからだ。
物心付いた頃から同じ時を過ごしたソルニーゲルすらも、自分の前から居なくなるのが嫌だった。別のナニカを彼女として認識して、このまま同じ日常を送るのも気味が悪かった。
気付いていない方が幸せだった。でも、もう遅い。少しでも疑ってしまったら、もうその考えが頭を離れることはない。彼は一生、ソルニーゲルがソルニーゲルであるかを疑って生きていく。
そのはずだった。




