103 二番、其の四
「さ、三人で逃げるわよ」
グラディアウレウスと妖精の手を引いて、ソルニーゲルが素早く走り始める。教会を飛び出て、町からも離れようとしている。
まるで何かから逃げるように、何処か怯えたように懸命に彼女は脚を止めなかった。
妖精はというと、物思いにふけるような顔で下を見たまま、手と引かれていた。彫刻のようにピクリとも顔が動かない。
体調が悪いのかな。それとも、気分が優れない?……あぁ、いきなり知らない人達に連れていかれたら、当然怖いか!
「あの、こんな状況でごめんなさい!ボクはグラディアウレウス。彼女はソルニーゲルです。アナタの名前は、何というのですか?」
「名前、?……そんなの、無い」
初めて聞いた彼女の声は、壮大な自然の音みたいだと思った。優しく万物を包み込み、聞く人全てを魅了するその声は、空気を震わせてボクの耳に届いた。
外見はソルニーゲルと同じくらいの年齢に見えたが、若干の幼さを残した女性らしい可愛らしさがある声色。しかし、それから紡がれる言葉は全てに失望したかのように、酷く凍てついたもののように思えた。
あ、いや……名前が無い。それは、親に捨てられた孤児であるということになる。いずれにしても、——
「……ソルニーゲル。どうしましょう。失礼なこと聞いちゃった……」
「なら、貴方がお詫びに名前を付けてあげたらよろしいんじゃなくて?」
「え。……むむ、考えてみます」
振り向きながら、艶やかに笑うソルニーゲル。
黄色っぽい白の月に照らされた彼女の瞳がなぜか青緑色ではなくて、微かに紫色に見えたのは後にも先にもこの時だけだった。
グラディアウレウスは、彼女の突飛な思い付きに戸惑ってしまったが、……うん、悪くない提案だと思った。
でも、
「…………思い、つかない」
無い頭振り絞って頑張って考えたが、不本意ながら、全くアイデアが降りてこなかった。こんなにも美しい彼女にピッタリの音の名前が見つからなかった。恥ずかしい、かっこよくしたかったのに。
「本来なら、貴方が時間を掛けて一生懸命考える所だけれど、こんな状況だものね。仕方がないわ。ワタクシも少しくらいならアイデアを出します」
こんな会話をしながらも、三人は全力疾走し続けている。夜の暗い町を走り抜けている。何軒の家を通り過ぎただろうか、何本の草を踏み越えてきただろうか、そろそろ森の端に着いてしまう。
「あの宝石は、”グランディディエライト”、と言う名前らしいわ」
「じゃあ、——****!」
自分でも、本当に驚く程すんなりと決められた。ソルニーゲルの導きのお陰だ。
****。
うん、良い響きで、なんだか妖精みたいな彼女にピッタリな気がした。流石ソルニーゲル。本当に頼りになる。
「………………**、**?****、****、****……!」
相当気に入ってもらえたのか、****は自身の名前を噛み締めるように何度も呼んでいた。ポロポロととめどなく大粒の涙が溢れている。
全身が宝石細工で出来たような少女の、月光を浴びた涙さえも、希少な宝石みたいに輝いて見えた。
「あーあ、グラディアウレウスが****泣かせたわ」
「えっ」
ソルニーゲルの言葉で肝が冷える感覚がした。もしかして、嬉しくてじゃなくて、名前が嫌過ぎて泣いてしまったのだろうか?
嫌だな、落ち着かない。心がザラザラしたみたい。好きな子を泣かせただけで、こんなにも変な気持ちになるなんて。
胸の辺りを軽く手で掻きむしっても、この不快感はなくならなかった。朝食後にソルニーゲルのコーヒーを間違って飲み干した時と同じ心地悪さがする。
「あ、あの、ごめん、ごめんなさい、****。あ、いや、違う……。えっと、なんて呼べば……」
「いいえ、違うの。グラディアウレウス」
え、ボクの名前——
「ありがとう、グラディアウレウス。わたし、いや、——ぼくに会ってくれて、素敵な名前をくれて、自由にしてくれて。生まれてきてくれて、本当にありがとう……!」
涙を何度も指で拭い、前を向いてほのかに微笑みかけてきた****。
初めて見た彼女の泣き顔も、笑顔も、感謝の言葉にさえも、心を締め付けられる感覚がした。同時に、心が締め付けられたのに、心が満たされた気がしたんだ。彼女にしか出来ない方法で、ボクは救われた気がしたんだ。
育ったこの町に愛着はあっても、未練はない。これから、新しい土地で三人での生活が始まる。****も含めて、三人家族になる。同じ屋根の下、毎日皆でご飯を食べて、他愛ない話をして笑って。小さな畑を耕したり、川で魚を釣ったり、森に小動物用の罠を置いたり。……気が早いけど、大人になったら****にプロポーズして、ボクのお嫁さんになって欲しいなぁ。きっとソルニーゲルだって祝福してくれる。
本当に、そうなって欲しかったなぁ。そう、思っていた。願っていた。




