102 二番、其の三
かく言うヴィーレスは、皇后の策略により、処刑前には一人の侍女と共に樽に入れられ、大河を流れて国を脱出していた。数日流され、運良く石に引っ掛かったことで樽から出られたが、侍女に真っ先に捨てられた彼は、再び孤児として路地で泣いていた。
そこで、幸運か不幸か。また彼は拾われた。次に拾ったのは、聡明で、たおやかで、しかし、確かに強かな芯のある女性だった。
ほんのりと紫がかった髪と、薄い青緑色の瞳を持った大人の人。身なりも整っていて、女性にしては少々高い背で、長い髪を常に高い位置で一本に結い上げていた。完璧で貞淑な淑女で、容姿だけでなく、性格も誰も差別せず、平等に愛する慈悲深さがあったので、彼女を嫌う人には会ったことがなかった。
彼女はソルニーゲルと名乗り、ヴィーレスにグラディアウレウスという新たな名を与えた。
そのまま、グラディアウレウスは彼女と二人きりの生活の中で育っていった。彼は自身の生い立ちや境遇を聞かされていなかったものの、ソルニーゲルを母とは呼ばなかった。それは幼少の時からの彼女との約束でもあったからだ。
クラネージュ帝国が一夜にして完全に消え失せたため、世界には終末論なんかが流行り、経済はとてもじゃないが安定しなかった。そんな中でも、グラディアウレウスはすくすく健康に過ごしていった。手の掛からない、素直で謙虚な子に育った彼は、何処か性格や仕草がソルニーゲルに似ていた。彼自身も、それで正しいと思っていた。
彼のソルニーゲルと共に育った小さな村には、とても立派な教会があった。
真っ白で、大きくて、彼の目にはあの建物が教会にも、塔にも見えた。村の象徴でもあり、誇りでもあった教会に、彼女と共によく通ったのを覚えている。初めて祈りに行った時、彼女はこれが世界で初めて出来た教会だと教えてくれた。
その教会は、一般的な教会では祭壇があるはずの場所に、大きな、とても大きな青緑色の宝石があった。まるで人一人分、埋まっているような大きさだった。
彼はその円柱型に近い宝石に、なんの疑問も抱いたことはなかった。物心ついた時から当たり前にあって、無い様子が全く想像出来なかった。あの教会には、あれがあって当然なのだ。
……それが何かも知らないまま、六歳の年の、なんの変哲もない一日の朝だった。
——彼には一瞬だけ、中に人が入っているように見えた。
飛び切り美しい、宝石の中で凍て果てた妖精のよう。僅かに開けられた黄金の瞳にまっさらな純白の髪、人間離れした美麗な顔立ちがチラリと見えた気がしたのだ。一秒にも満たない時間、見えただけで見間違いだったかもしれない。
それでも、顔もしっかりと見えていなかったのに、電流が流れたように一目で心を奪われた。生まれて初めて、恋をしたのだ。
「教会の宝石の中に居る妖精と話がしてみたい」
さっそく、彼は人生で初めてわがままを言ってみた。
この頃のグラディアウレウスは、ソルニーゲルに言えば大抵のことは叶うと思っている節があったのだ。それ程彼女のことを信頼していたとも言えるが、当時の彼は年相応に身寄りに依存気味だった。当然、初めての壮大過ぎるわがままに、彼女はとても困っていたが、意外にも肯定的だった。
さっそく準備をすると外出したソルニーゲル。彼女が帰ってきたのは、その日の深けた夜だった。
彼女に連れられて、すぐに家を飛び出した。住民に見つからないように隠れ、見つからないように松明は使わず、森から遠回りをするように移動し、教会に忍び込んだ。
ソルニーゲルがドアノブに手を掛けたら、不用心にも扉が開いていたことにはとても驚いた。
月光を透かしたガラスから、微かに宝石が照らされている。
それでも、宝石の中はもう何も見えない。宝石自体が不透明で、奥を見通すことは難しい。それでも、期待していた。信じていた。中に、妖精が居ると。
ソルニーゲルが手を向ける。宝石にゆっくりと、徐々に亀裂が走った。
あらよあらよという内に、青緑色の宝石は粉々に砕け散り、地面に散らばり、中から息を呑む程美しい麗人が倒れ込むように現れた。
改めて見ると、妖精のようにも、天使のようにも、あるいは女神のようにも見える。長い髪の間から覗いて見えた顔から、辛うじて血が通っていて生きているのだと実感出来た。
何も身に着けておらず、体のラインがはっきりと月光によって照らされている。傷一つ無い、綺麗な曲線美は彫刻で出来たあの方の姿と瓜二つだった。
自分が上着を脱いで着せる前に、ソルニーゲルが手で制し、何処からか取り出した成人男性用の大きさの白のタキシードの上着を素早く掛けていた。




