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1章総集編

 遥か昔、彼女が目を醒ましました。


彼女は、神々を、宇宙を、惑星を、星々を、水を、生き物を、そして人間を創りました。


慈愛に満ちた彼女はその全てを愛し、その全てに愛されました。


その後、神々は彼女に名前の贈り物をしたのです。


 ――彼女の名前はアイシェル。


「不滅」の名を戴く彼女は、この世で最も尊く、最も愛されている創世にして予言の神です。


            ――世界創世記 第一章より


        *  *  *


灯りが当たり、まぶしさに微かに目が眩む。

ここでだけは自分と自分の感情を忘れようと、深く、深く呼吸を、する。


大丈夫。刺繍入りの僅かに紫がかった白いドレスに鉄製の胸当て、大粒の宝石が埋め込まれたネックレス、細身の銀色の剣、踵の高いヒール、長い純白の髪、流石に瞳の色までは変えられなかったけど、今の私は紛れもなく、あの方だ。


今だけは全ての光と視線は私だけのもの。

誰にも目を背けさせない。誰も、私以外を見させない。見させてたまるか!


「――我が名はアイシェル。全てを創り、全てを愛する創世の神。ディディである貴様がこの世界に仇なすのなら、私はこのツルギをもって正義を遂行しよう!」


この劇最大の見せ場を完璧にこなした。


拍手を受け、ゆっくりと剣を鞘から抜くと月の光か、はたまたランプに照らされたのか、刃が銀色に鈍く光り、剣の重みに僅かに緊張がほぐれる。


ようやく戻った視界に観客席が映る。小さい村の、小さい教会近くの、小さい野外の仮設舞台で行われる小さい贈名祭(ぞうめいさい)だが、例年に比べて人が多い。


毎年見に来てくれる八百屋の老夫婦、家族で来たであろう目を輝かせるリボンの髪飾りの少女、木こりのたくましい壮年の男性、珍しい貴族のような姿の男性。

 

 ――そして、私を見て優しく微笑む目につく黒髪の青年。……来てくれたんだ、……そう。


何処からか力が湧いてくる。今だったら、どんなものにも勝てる気がする。

あの黒瞳に見つめられただけで何でも出来る気がしてしまう!思わず不敵に微笑む。


あの瞳がこの先ずっと、私だけを見つめ続けて欲しい。


 一歩を力強く踏み出し、少女は見事な剣舞を披露する。


観客が息を忘れるほどの、相手の演者が反撃できないほどの、その全員の意識を呑み込むかと錯覚するほどの、圧倒的で我儘な剣舞。

鈍い金属の交わる音とヒールで地を踏みしめる音が辺りに響く。そんなことは、どうでも良い。


 ――ただ、今を楽しみたい。


        *  *  *


「公演お疲れ様、リディー」


……色々とその発言に物申したいがひとまず一呼吸置き、リディーと呼ばれた少女はアメジストを彷彿とさせる神秘的な深い紫瞳で声の主をキツく睨む。


額の真ん中で分けた短い黒髪にオニキスのように深い黒瞳の青年。この村どころかこのグレスター王国でも珍しい髪色と瞳、舞台からでも見えるほど、目立つ。恐ろしいほど。おまけに顔立ちも整っており、上背もある。コイツ以上に悪目立ちすることが出来るはおそらくディディくらいだろう。


「公演と呼べるものではないでしょ、これは行事の余興のようなもの。あと、私のことは愛称で呼ばないでくれる?たった半年の付き合いでしょ。それから、関係者以外舞台裏は立ち入り禁止……というか、来るなら言いなさいよ!?」


一息で素っ気なく言えていないが、全て彼女の本心だ。


少女はため息をつきながら胸当てとネックレスを外し、剣を置く。かつらを乱雑に取るとウェーブのかかったブラウンの髪が少女の腰までふわりと降りた。


「あはは。ごめん、リディア、何から言えばいいかな」


悪びれることなく、とても楽しそうに青年は言う。今の会話の何が面白いんだ、コイツは。

そんな思惑を知ってか知らずか、青年は先ほどの少女 ――リディアの口調を真似るように早口で話す。


「余興って君は言うけど、あれだって立派なイベントじゃないか!この村の贈名祭の大本命!なおかつ、君は十六歳という若さにも関わらず他の希望者を差し置いて主役の彼女に抜擢されたじゃないか、リディー?あ、あとここはディディ役の可愛い女の子が僕の顔を見たら通してくれたよ」


裏表の無いあの子だ。きっと善意で通してしまったのだろう。


「……リシーに文句を言ってくるわ。じゃあね、エドワーズ・レイヴァーン」


「ちょっと待とうか!?リディア・ハートフォード、僕が出禁になってしまう!あとその子にも申し訳ない!」


「もう行くわ。やる事が多いの」


ペラペラとよく喋る口に口を出すのをあきらめたリディアはエドワーズと呼んだ男性の隣を足早に通り過ぎる。


あの方が名前を貰ったことを祝う贈名祭。

この祭り恒例の劇は教会の大人に言われて九歳の時から毎年参加していたが、そういえば彼が見るの初めてだった。

彼は知らないのだ。主役じゃないと、完璧じゃないと教会の孤児は教会の大人に殴られることを。


待って、という低い声を聞き、ゆっくりと振り返る。声色にいつもの落ち着きがなく、焦っているのが伝わる。彼が本気で焦っているのは珍しい。無視もできまい。


「……君の演技は素晴らしかったよ。何より、君自身が楽しんでいたことが僕は嬉しかった。こればっかりは嘘じゃない。――そんな君が好きだよ、リディア」


……ほとんどの人は感想に「本物のあの方を見ているようだった」みたいなくだらない常套句ばかりを並べてきた。私がどんなに完璧に演じたとしても、尊いあの方の魅力には全く届かないのに。


もしかしたら、目の前にいる彼だけは他の人とは違うのかもしれない。

私の欲しい言葉を、取り繕わずに言ってくれる世界でたった一人の人かも。


突然、エドワーズの茶化した表情が優しい笑みに変わる。リディアは知っている、——彼がその笑みを浮かべる時は本音で相手と向き合っている時だ。


だから、だからこそ、早足にその場を立ち去ろうとする。いつもの口説き文句すらも躱せずに、この真っ赤な顔を見られてしまっては恥ずかしさで死んでしまうと思ったからだ。



数歩走り出した時、頭の上から不愉快な音が聞こえる。躍起になっていたからか気が付かなかった。

物が軋むような、——まるで今から落ちてくるような。


上を見上げようとした瞬間、背中を何かに強く押された。衝撃でバランスを崩し、前のめりによろめく。

僅かに振り向いたとき、視界の端にエドワーズが映った。


 ――コイツの必死な顔、初めて見たな。


必死というか何か怖がっているようにも見える彼の表情。

というか、私はコイツのことを知らな過ぎる。今度好きな食べ物でも聞いてみようかな。いや、それよりも聞きたいのは、何でコイツの名ま――


 大きな音をたてて舞台裏の屋根が崩れ落ちた。


        *  *  *                     


幼い頃、教会の大人にバレないように世界創世記を読むのが好きだった。

この村は小さいが世界のどの村にも教会があり、あの本があることの例外にはならない。


本は高価なものだが「教会に有って家畜小屋に無い物は世界創世記」という言葉、言うなればあの本のない教会は家畜小屋と何も変わらないほど価値がないという意味の通り、あの本を置いていない教会はおそらく三国にも、四百年前に滅亡した帝国にも存在しないだろう。


「あの方」でアイシェル様のことと分かるように「あの本」で世界創世記だと伝わる。


千年以上前からある作者の分からないユニの花のマークのあの本はそれ程世界で重視されている。

しかし、幼いリディアはその本がどれだけ大切なものだったのか、全く知らなかった。


あの方のことをもっと知りたくて、知るのが楽しくて、教会の大人の「あの本は贈名祭の日だけ読み聞かせる」言いつけを破り、隙を見て読んでいた。



例えば、最初の話。

あの方が初めて創った生き物は色鮮やかな蒼いユニの花。その時からあの方の象徴はユニの花となった。


例えば、神々の話。

一番目に封印の女神 カシェ様、二番目に時の神 ライカス様、三番目に歴史の神 イストワール様。四番目に秩序の神 オルドル様。

他にも医学の神、弓の女神、豊穣の神、知恵の神など、多くの神を創った。彼女達は今もあの方を支え続けている。


例えば、ディディの話。

地域によっては悪魔や魔人と呼ばれる神と対極にある存在。方法は書いていないが、不老不死の神を殺した人類の汚点、世界の罪人。

神を殺した後、奴らは神から力を奪い、完全な不老不死になるらしい。

現在、ディディは世界のどこかに封印されている、カシェ様の手によって。


ディディの姿は瞳に映る独特の紋様、黒と白を基調とした教会の大人のような服で神を殺した道具を持ち歩いていると言われている。


しかし、ディディ最大の特徴は鏡や水面に映った姿が自分が殺した神の御姿であることだ。

それがどの家の玄関にも手鏡が置いてある由縁らしい。


しかし、幼い時からリディアは鏡を見ることがあまり好きではなかったため、教会の彼女の私物には鏡が無かった。

そもそも、教会も教会の大人も好きではなかった。


日によって孤児への態度が変わる教会の大人は優しい日と優しくない日があった。

優しい日には私の人生に一生縁の無い宝石のことを教えてくれる、叩かれないだけマシだった。



バンッ、と教会の扉が開き、幼い少女の肩は恐怖と驚きで跳ねる。

教会の大人がリディアの腕を乱暴に掴み、引っ張る。今日は優しくない日らしい。いや、私が優しくない日にしてしまった。


爪と指が食い込む痛さとこれから起こることへの恐怖で泣いて謝る彼女の謝罪は受け入れられず、教会の反省室へと連れていかれた。


        *  *  *         

 

……いつの間にか、眠ってしまったらしい。


エドワーズがリディアを庇い、三日。手当され、何とか一命を取り留めたエドワーズだが、舞台裏の屋根に潰された彼は出血が酷く、未だに意識は戻っていない。

この村の医者は少なく、診察所と呼べる物も一つしかなかったため、不服だがエドワーズは自宅での療養となった。


一人暮らしだと言っていたが、彼の家は想像以上に物が少ない。

彼がよく口ずさんでいた曲が流れるオルゴール、この辺りでは見ない花で作られた不細工な真新しい花束、それから、大きな姿見。生活に必要な物を除けば、彼の私物は本当に少なく見える。


ふと、姿見に映る自分の姿が目に入った。


贈名祭のときから変わっていない服装。元々教会の借り物で裾などがほつれていたが、さらにボロボロで薄汚れたように見える。首元の偽物の宝石もくすんでいる。髪もぼさぼさ。自分の顔を見ると、目元は朱く腫れて酷い顔だ。


とてもみすぼらしい。この姿をエドワーズが見たら、彼は笑うだろうか。……笑って、くれるだろうか。


「……ごめんなさい、エドワーズ」


全て、私のせいだ。血の付いた包帯を見て酷く、痛感する。でもエドワーズ、私絶対に諦めないから。


 リディアは自分の出来る事をするために彼の手を優しく離し、教会へと走り出した。


        *  *  *


あの方をかたどった教会の大きなステンドグラス。三つの月明りを受けて、普段より一層輝いている。

息を切らせ、膝を折るリディアは納得した。


三つの月が同時に出ている夜は十何年ぶりだろうか。通りで教会までの道にランプが要らなかった訳だ。こんな日なら、あの方が願いを叶えてくれても不思議ではない。


姿勢を正し、ステンドグラスに向かって跪く。あの方に向けて祈りが届くように願う。


 ――彼ともっと一緒にいたい。


こんな時に自分の命を差し出すから彼の傷を治してと言えない自分が嫌いだ。


でも、もしその願いが叶ったら?私は彼と同じ時間を過ごせない。もう二度と、彼に会えない。

そっちの方が、耐えられない。彼の側に居られないのなら、この命など捨ててしまえ。


……ははっ、何故こんなにも遅くなって気が付くのだろう。遅すぎるだろ、私。


 彼と共に居たい、彼のことを知りたい、彼の名前を呼びたい、彼に名前を呼ばれたい、彼の笑顔をもっと見ていたい、彼と笑いあいたい、彼とずっと話していたい、彼の手を握り返したい、彼の瞳に見つめられていたい、もっと素直に彼の前でいたい。


 ――こんな感情を、人類は愛だの恋だの言うんじゃないか……!


目から大粒の涙が零れる、本人の意思に反して。必死に目を擦るが、その奇跡はぼやけた視界でもはっきり見えた。


ただでさえ明るかった月光が、より一層とステンドグラスを照らし、彼女に色とりどりの影を落とす。


「――リディア」


確かに、ステンドグラスの方から声が聞こえた。

小鳥が鳴くような、清らかな川のせせらぎのような、聞く者全てを安心させ、蕩けさせるその声は空気を震わせた。想像していたよりも幼さを残した可愛らしさがある、が間違いなく世界で最も尊いあの方の御声。聞き間違えるはずがない。


リディアの表情がわずかに綻ぶ。あの方が私の名を呼んでくださった。それがたまらなく嬉しいのだ。

彼女は嬉々として、次の言葉を待った。


「――人類のために死になさい、リディア」


突然ステンドグラスが粉々に割れ、少女に降り注ぐ。


色とりどりの大小様々なガラスは頬を裂き、片腕を切り落とし、脚を刺した。

祈る姿勢だったからか、奇跡的に胴体にはほとんどガラスは刺さらなかった。


腕の断面や体中の小さな切り傷から温かい液体が零れ、流れていく感覚。朱色の池が作られていくなか、リディアの思考は一つのことしか考えていなかった。


どうして、あの方は彼と生きたいと願った私を人類のためと言って殺すのだろう。


怒っていない。怒りの感情が、全く湧かない。しかし、神託は願いを受け入れない判断を告げた。

あの方が私に死ねと命じたのだ。死ぬしかないだろう。私の想いは届かなかったわけだ。


 ――ならせめて、死に場所は最後の最後に気が付いた恋心の隣が良い。


破片が刺さったまま、ゆっくりと血の池から立ち上がる。全身が気怠く、寒いのに傷口が熱い。

肩で息をしながら片腕でもう片方の腕の傷口を掴み、足を引きずって彼の家を目指す。

枯れた喉から、潰れた呻き声が漏れる。痛みから来る冷や汗が止まらない。


気を抜けば前に倒れそうになる状況でリディアは想い人の事しか考えていなかった。


私のことを命を懸けて守ってくれた初めての人。私の欲しい言葉を取り繕わずに話してくれる人。世界でたった一人かもしれない人。


さっきまで握っていた大きな温かい手が恋しい。最後にその手を今度こそ、ちゃんと握り返したい。


そんな想いだけが彼女を前に突き動かしていた。


        *  *  *


短く感じた行きは、帰りになるとの悠遠のようだった。


ようやくその道のりを終えたリディアは扉の前に立っていた。背後に赤い血のカーペットを作った彼女は最後の力を振り絞り、鉄のように重く感じる扉を押す。


傷口からさらに血が溢れ、意識が遠のく、が扉を開けた瞬間に前に倒れた痛みで意識は飛ばなかった。

体を引きずり、血にまみれた手を伸ばす。さっきまで彼女が彼の手を握っていた場所を目指して。


 ――そこには、全く知らない少女が居た。


こちらに背を向けているが姿見に映った姿は息を忘れるほどとても美しく、端麗な少女。

透き通るような肌、絹のような真っ白の長髪、つま先まで綺麗な脚、イエロージルコンを嵌め込んだような黄金の瞳、リディアより幼く、十二歳程に見える儚げで可憐な少女が彼の手を握っていた。

彼女が大きな音をたてて倒れたというのに少女は見向きどころか眉一つ動かさなかった。


間違いなく、あの声の主。あの方だ。人間として備わった本能が、全ての細胞が、何より魂が、先ほど教会で声を聞いた時と同じようにあの方だと告げる。


目の前に、あの方の御姿がある。


どうしてこんなところに?もしかして、真新しい花束はあの方が彼のために……?あの方にとって彼は特別な人?私……邪魔だったのかなぁ、あの方にとって。嫌な考えばかりが頭をよぎる。


 あれ?エドワーズが好きって言った相手って、誰だっけ?


意識が、消えそう。瞼が重い。私は、何をしにここまで急いで、来たっけ……。


 ――次に少女の口から紡がれた縋るような、今にも泣きだしそうな言葉だけはリディアは聞き逃さなかった。


「――生きて、お願い」


体の中で何かがプツンと切れる音。頭に血が昇る。あれ程煩わしかった痛みが消えた。

ずっと心の奥に押し込んで、燻っていた業火が抑えられず、体の全てを焼き尽くそうと燃え広がるようだと思った。手も、喉も、内臓も、目も熱された鉄板に押し付けられたと錯覚する程熱い。


何処からか力が湧いてくる。舞台の上でオニキスの瞳を見つけた時のように。


死ねと言われたリディア。生きてと言われたエドワーズ。


私と彼は一緒になれないらしい。何かが根本的に違う。


でも認めたくない、諦めたくない。私から奪わないで。奪うな。もうこれ以上、何も失いたくない!


素早く立ち上がり、棒のような感覚の脚を前に突き動かす。自分に刺さった一番大きなガラスを抜き、思い切り、思い切り振り上げる。

狙うのはただ一つ。絶対に外さない。躊躇は、しない。


 ――明確な殺意を持って、その後ろ姿にガラスを突き立てた。


少女は悲鳴すら上げなかった。ふわりと、音も立てずに彼の隣に倒れる。

刺されても、倒れてもなお、手を離さなかった。


少女の刺された所から白銀の光が溢れる。いや、少女が刺された所から白銀の光に変わっていく。


そんな様子をぼんやりと眺めていた。もう、どうでも良かった。その声を聞くまでは。


「――リディア、どうしてここに彼女が……?それに何で彼女……消えかけているんだ……?」


呆然としている彼。ずっと聞きたかった、声。もう見れないかと思っていた、黒瞳。


目を覚まし、上半身を起こした彼のゆるんだ包帯から見えるはずの傷が無い。彼が抱きかかえる少女に目が行った。


顔には生気が無く、浅い呼吸を繰り返している。さっきまで輝いていたイエローサファイアの瞳がくすんで見える。すでに体の半分程が白銀の光になっていた。


間違いなく、あの方が治した。自分が刺したあの方が、刺してしまったあの方が。


リディアは強烈な罪悪感に襲われた。そうだ、一時の感情に身を任せてあの方を手にかけてしまった。なんて馬鹿なことをした。あの方に触ったら魔法でも起こって、元に戻らないだろうか。


戻って、戻って戻って戻って戻って戻って、お願いだから……!


 ――少女に向けて伸ばした手は、少女が白銀の光になったことにより永遠に届かないものとなった。


真っ青な顔でさっきまで少女の居た所を見つめる。まばゆい白銀の光は空中からゆっくりと消えて、無くなった。震える手の行き場をなくしたリディアは何が起こったのか、理解できなかった。


 ――大きな姿見に映る自分の姿が幼い少女に変わっていることに気が付くまでは。


「……ぁ、ああああああああああああ!」


無我夢中で家を飛び出し、ただひた走る。


罪から逃げようと、罰から逃れようと、現実から目を逸らそうと。走って、走って、走った。

視界がぼやけ、何処を走っているのかも分からない。目に汗が入り、痛みで涙が出るが何故か止まらない。


今日はずっと分からないことばかりだ。——分かろうとしてないだけだ、本当は。


村の近くの森の中、木の根につまずいて転ぶまでリディアは走りつつけた。体が動かず、ゆっくりと意識が薄れてゆく。体中が痛い。いや、体よりも心が裂けんばかりに痛かった。


苦しい、痛い、辛い。如何してこんなことになってしまったんだろう。如何して、刺してしまったんだろう。何処から失敗していたのだろう。


感情に身を任せて腕を振り下ろした時?舞台の上で庇われた時?幼い頃、母が死んだ数日後に暗闇で一人拙く踊ったあの時?……それとも、彼を好きになった時?


考えても分からない。――いや、分かろうとしていない卑怯者だ。


……あぁ。もう、このままここでずっと眠っていたい。それが一番楽な道のはず。


全てから、目を瞑ろう。終わらせてしまおう、逃げてしまおう。


欲に従い、ゆっくりと瞼を閉じた。


「――逃げさせませんよ、レディ・ハートフォード」


頭上から低い声が聞こえた。

知らない声から自分の名前が呼ばれた驚きで思わず目を見開いてしまった。


知らない人。……いや、この人は見た。舞台の上から。貴族のような風貌という印象を持った男性だ。

低い位置で一つに結われた灰色の髪、アクアマリンを見ているようなくすんだ紫みの青色の瞳、スーツの上に白衣を羽織っている学者のような服装、誰からも好かれるであろう聡明そうな青年だ。右手にちぎれた腕、左手にトランクとあの本を器用に持っていた。


「あぁ、この本ですか?世界創世記録書と言います。あまり信じない方がよろしいですよ。書けって言われて書いていざ提出したら、自分達の都合の悪いこと全部消してましたからね」


無表情の割に視線を向けただけで随分と喋る。それに言い方が引っかかる。まるで自分で書いたような言い草。世界創世記録書?男性が持っているのは世界創世記だ。


「その本の事は知っているわ、この世界に知らない人はいないと思う。でもタイトルが違う。その本のタイトルは世界創世記よ。もしかしてあなたが書いたの?」


「ご存じでしたか。はい、私が執筆しました。私が付けた名前は世界創世記録書なのですが……、時代が移ろうにつれて変化したのでしょう。大切なのは本質ですので、どちらでも構いませんが」


やはり、目の前の男性も神なのだろう。まさかあの本の作者が神だったとは。


「……今までのご無礼をお許しください。重ね重ね失礼を承知でお聞きしますが、あなた様の御名前を教えていただいても?」


「敬語は不要、先程までの口調で結構です。自己紹介は後にしましょう。それよりも貴方に伝えなければならない事があります」


罪人を裁くのではなく、真っ直ぐこちらを向いて対話しようとしている。

神である立場で、当然あの方と共に居た時間も長いだろうに。罪悪感と死にたい衝動で思わず目を逸らし、地面を見る。


その地面にちぎれたリディアの腕をゆっくり置く男性は淡々と言い放った。


「今すぐ傷を治してください。ミスター・レイヴァーンの所へ向かいます。少しでも遅れたら彼の首が宙を飛びますよ」


 ……は?


どうして、今エドワーズの名前が出てくるのだろう。あの方を殺したのは私だ、彼は関係ない。


 ――いや、分からないと言って逃げるのは違う。


神が言ったのだ、信じられる情報だ。罠の可能性もあるが。


頭より体を動かせ。私のせいで彼が殺されないように。


「彼の元へ連れて行って」


「……えぇ、喜んで」


差し伸べられた手を、触る資格はさっき捨ててしまった。


ちぎれた腕を掴み、自力で立ち上がる。立てなかった程の疲労感が薄れていたが、心はずっと不安と罪悪感の杭で穿たれ、疲弊していた。


今だけは知らないふりをして立ち上がった時、体に違和感を感じた。

細かい切り傷が消え、白を基調としていた血まみれドレスの大半が黒に斑に染まっていた。恐らく、瞳にも紋様が出ているのだろう。


「傷口に腕を押し当て続けてください。ディディならすぐに癒着します」


走りながら、こちらに顔を僅かに向ける男性。

気付かなかったが、彼の口の左端は少しだけ縫われていた。適切な治療を速く受けられた証拠だ、エドワーズもそんな立場だったらと思ってしまう。無い物強請りは意味がないと痛感した筈なのに。

 

 走り続けてたどり着いたのは、解体途中の仮設舞台だった。


        *  *  *


夜遅くだというのに、舞台の上には多くの村の人達が上がっていた。

狂ったように暴言を吐き、石を投げつける光景は平凡で平和な村とは正反対だ。数日前まで温厚な知り合い達が知らない人のよう。リディアは戦慄の本当の意味を知った。


「俺は遠くから見たぞ!そいつが美しいあの方を刺す姿を!」

「違う!僕は彼女を殺していない!信じてくれ!」

「黙れ悪魔!お前の言うことなんて信じられるか!よくもあの方を殺したな!」


暴言の嵐を遮ろうとした反論が暴言に呑まれた瞬間を聞き逃さなかった。

人で溢れた舞台で、一際目立つ存在が椅子に縛られていた。


殴られたあざ、黒にまだらに染まっている服、黒髪、オニキスの瞳に薄っすらと不思議な紋様が刻まれていた。


彼も、ディディに……?お、おかしい。だって――


「あの方を殺したのは私よ……」


弱弱しい告白は誰にも届かずに消えた。


力一杯握った手には血の付いた大きなガラスの破片があり、少女の手のひらに裂け目を作った。ずっと握っていたらしい。……?目に違和感が生じた。


 一瞬だった。――少女は映ったガラスに彼の首が飛ぶのを見た。


素早く頭を上げるが、彼の首は未だあるべき場所にあった。しかし絶対に錯覚ではないと思った。錯覚でも幻でも夢でもない、——あれはこれから起こる未来だ。


だから少女は舞台に向かって走り出した。もう間違えたくなかったから。


舞台に突如、壮年の男性が上がり始めた。無骨な斧を持って目標を睨みつける。

エドワーズは諦めたのか反論を止め、視線を床に落とした。顔から血の気が引いており、体が震えているのに。


ゆっくりと彼に近づき、斧を振り上げる。客席は大いに盛り上がりを見せ、罪人を処刑するという最高のフィナーレを迎えようとしていた。


 ――振り下ろした斧は、華奢な少女の背中に一筋の深い傷をつけた。


リディアは前のめりに倒れた。舞台の屋根が落ちた日、彼が庇ってくれた時のように。


観客は突然の飛び入り参加に驚いたらしいが、劇の参加を許してくれたようだ。少女の服と瞳を見て。

観客はより一層の盛り上がりを見せ、木こりは先に少女から片を付けようと斧を振り上げた。


「……劇、観に来てくれてありがとう。アートンおじさん」


真っ直ぐに、男性を見つめる。

こんな時に言う事でもないが、リディアはこの言葉を今、伝えたいと思った。


アートンと呼ばれた男性に一瞬、動揺が走る。瞳の奥に焦りが見えた。


「――今すぐこの不愉快な劇をやめろ」


その声が、舞台を支配した。


暗めの赤毛にレッドジャスパーのような、今にも燃えだしそうな緋瞳の男性。

明らかに不機嫌な顔だが、一声で全てを黙らせた男性はいつの間にか舞台にいた。


値踏みをするかのようにリディアとエドワーズをじっと見ている。その姿を見ていながら、村の人達は喋れないでいた。黙ってしまった。


突然現れこの状況で強気な様子、美しい顔立ち、この国で見ない服装、太陽を彷彿とさせる存在感、何よりも直感がこの緋色の青年を神だと言っていたからだ。


「視線がうるさい。『この村の人間は次の朝日が昇る時まで家から出てはならない』というルールを設ける」


男性の緋瞳がより一層鮮やかに輝く。その瞬間、村の人々が消えた。


その場に残ったのは、リディア、エドワーズ、灰色の青年、緋色の青年だけとなった。

彼が「ルール」を設定した時、人々は「ルール」に従った。ということは彼はおそらく――


「人間に名乗るのは癪だがお前らは人間ではなく世界の敵だったな、失礼。オレはオルドル。お前らが殺した彼女から生を受けた四番目の神、秩序の神だ」


こちらを馬鹿にした半笑いで彼は話し続ける。村の人達が居なくなった後の方が機嫌が良さそうに見えた。


しかし、リディアは青年が「彼女」を口にした時、目が伏せられたのを見逃さなかった。

この方も私のせいで悲しんでいる。世界の全てがあの方の死没を悲しみ、原因の私を憎んでいるだろう。


「さて、話す価値も無いお前らと遊ぶ程オレも暇ではないんだ。端的に終わらそう。女、お前さっき神の力を使ったな。どっちだ?」


「……どういう意味でしょうか?」


問い返した瞬間、首から大量の血が流れる。文字通り、首の皮一枚繋がった状態。かろうじて、両手で落ちないようにしている。


「おい、誰が質問を許した。言われたことだけ答えろ」


実際の秩序の神は想像より理知的ではなかった。


少なくとも背中を斧で切られ、地を這いつくばっている少女に追撃を入れる神がいることすら信じられない。そんな事を考えていたが、冗談ではすまなさそうだ。


血が出すぎており、不死身のはずなのに死の恐怖が襲ってくる。向けられた紅い槍が命の灯を潰そうとしている。


彼が言う神の力は心当たりがあった。

ガラスの破片を見た時の感覚、おそらく私の瞳も輝いていたのだろう。


血の水泡音が喉から予期せず出てしまう。僅かにせき込みながら懸命に先の問いに答える。


「私が使ったのは、予言の力かと」


「……へぇ、お前が。しかも不死の方もお前に行ったか。じゃあ今、用があるのは愚かな男の方だけだ。お前は後回しにするが、必ず殺す。彼女を殺した罪は取らせる」


器用に縄だけを槍で切り、乱暴にエドワーズの襟を掴んで引きずる。彼が苦しそうに抵抗するが、全く意味をなしていない。


こちらはこちらでまともに息も出来なければ、首も今にも落ちそうだ。

腕がくっついた時のように速く治れよ。治れ、治れ治れ治れ治れ治れ治れ!


また、目の前で彼が傷つくの?


「――まじかよ?さっきまで普通の人間の女だった奴が、背中と首切られて立ち上がるなよ」


傷は依然変わらない。でも関係無い。痛いのが何だ。


奇跡も、魔法も起こらない。ならば自分の手で抗うしかない。


緋色の神に向かって走り、ガラスの破片を振り上げる。相手は無防備。両手は槍とエドワーズで埋まっている。


 ――振り上げた手を、少女はいつまで経っても下ろせなかった。


「ぁ、あぁ……」


今、腕を下ろさなかったら後悔する。分かってるのに、震える手をどうしても下ろせなかった。


「………」


青年は槍を落とし、リディアの額を軽く中指で弾いた。


 それだけでリディアの頭は簡単に胴と別れを告げ、地に落ちた。


        *  *  *


頬に雨粒が落ちるまで、リディアは目を覚まさなかった。


「朝日が昇る前に目覚めたようで良かったです。首は付けておきました。速くここから出ましょう」


急ぐ様子もなく、雨に打たれながらも木製の椅子に座って淡々と話す姿。

私が背中を切られた時も、首を落とされた時も彼は観客席で何処からか持ってきた椅子に座って眺めているだけだった。


「さて、貴方の今後の行動ですがミスター・レイヴァーンを救出するのがよろしいかと。神の国に連れていかれた彼の神の力を考えると、彼を待っているのは地獄です。再び脅すようで申し訳ないのですが」


「……聞きたいことがたくさんあるのだけれど」


「えぇ、どうぞ」


大切な事は聞かない限り言わない方だということは分かった。知りたいのなら聞くしかないのだろう。


「どうしてエドワーズもディディに?彼の神の力は創世の力?」


「貴方なら、もう分かっているはずです。彼女の死因は二つ。一つは貴方に刺されたこと。もう一つは彼女がミスター・レイヴァーンに力を与え続けたことです。本来ならば、あり得ないことも彼女なら話は変わります。今回は死因に関与した二人がそれぞれ半人前のディディになったようですね。神や他のディディと違い、発動条件があるようですが」


半人前、という言葉に妙に納得した。

リディアもエドワーズも、教会の大人の服装でなければ色彩が黒と白だけという訳ではなかった。彼の瞳の紋様もあの本の絵と比べて薄かったようにも感じる。


「そして、彼が奪ったのは創世の力と不老です。創世の力は物や人に力を分け与える、彼女が世界を作った力」


この神様の言葉を借りると私は予言の力と不死を奪ったのだろう。

ふと、感じた違和感を質問にして投げかけた。


「エドワーズが神の国に連れていかれると殺される、ではなく地獄なのは何故?」


「……私の推測ですが彼の神の力の発動条件は体に付けた傷を治すことです。神々は世界を作り続けるため、彼を傷つけ、死に瀕するたびに傷を治すでしょう、永遠に」


少女は漠然とした恐怖を抱いた。そんなもの、誰だって耐えられるはずがない。

神々がそんなことをするような存在だったとは夢にも思わなかった。


「ミスター・レイヴァーンを助けたいのなら他のディディを仲間にしなければなりません。その旅路には私も同行させていただくつもりですが、どうされますか」


「……あなたの提案に乗るわ。エドワーズは私のせいで死にかけ、私のせいでディディになったもの。私が彼を神の国から逃がし、一人で罪を償う」


「貴方がこれから進もうとしているのは茨の道ですよ」


「道があるのなら、どんな道だって私は進む。振り返らないし戻りもしない」


覚悟は決めた。逃げるのはやめだ。


最善を、突き進んで行こう。もう二度と間違えないように。


「遅くなってしまったのだけれど、あなたの名前は?」


目星は付いている。自身をあの本を著者だと言っていた時から。


「あぁ、挨拶が遅れてしまい大変申し訳ございません。私は彼女から生を受けた()()()の神、歴史を司るイストワールという者です」


「リディア・ハートフォードよ。姓ではなく、名前で呼んでもらえると嬉しいわ」


ハートフォードはこの地域の教会の孤児や関係者に付けられる姓。この姓は教会の孤児を縛る鎖。

姓を呼ばれるたびに、教会の大人が脳裏をちらつくので嫌いだった。


「リディアが名前ですよね。では私のことはディールスと呼んでください」


「ディールスって、姓じゃない。良いの?」


「おや、姓なんですね。知りませんでした。人の姓と名前は区別が難しい」


確かに言われてみれば、人の名前とはややこしいものだ。

しかし、どうしてディールスなのだろうか。


思えば分からないことがまだたくさんある。

秩序の神のこと、私が神を殺せた理屈、私の神力の発動条件、あの方が私に人類のためと言って殺そうとした理由、エドワーズの元にあの方が現れたこともだ。――そして目の前の歴史の神のこと。


「ディールス」


「はい」


「……ごめんなさい」


返事は無かった。許されるつもりはない。


文字通り、血で贖う。永遠に。



 ――舞台を降りた少女の劇は、舞台下でも続く。配役を変えて。

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