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第九話 ウォーターレプリカ

 最初はなんともなかったが、歩を進めるたびに、身体のいたるところが痛んで、それを口火に、沸々と怒りが湧いてきた。


 俺は足を引きずりながら、水鬼の足元まで戻ると、制服に付着した土埃や草をポンポンと両手で払い深い溜息をついた。


 それから、おもむろに水鬼を睨みあげた。


 五メートルを優に超える水鬼の巨大な体躯のせいで、首にわずかに疲労を覚える。


 水鬼と目があったその刹那、急に身体中がより一層ずきずき痛み始め、俺の苛立ちに拍車をかけた。


 直後、「ちぃ」と舌打ちが口を衝いて飛び出し、そのあとに続くように、腹立ち紛れにこう言った。


「お前、死にてぇのか?」


 そうして、すぐにハッとして口元を押さえた。


 どういうわけか、こんな恐ろしい怪物に、後先考えず、険のある口調で、質問をぶつけてしまった。


 自身の異常行動に信じられない気持ちでいると、急にパンチの風圧で、二十メートル以上吹っ飛んだことを、真っ直ぐに抉れた草原が、水鬼の常人離れした膂力の凄まじさを、雄弁に語っていたことを思い出す。


 めちゃくちゃ怖い不良の先輩に間違った口の利き方をすれば、殴られるのが自然摂理だ。


 そのことを踏まえた俺は想像してしまう。


 これから、俺がどうなるかを……。


 その瞬間、さぁーと血の気が引く音を感覚し、思わずゴクリと喉が悲鳴をあげた。


 と、その刹那、冷や汗を掻く俺の耳に、突然若い女の鈴を転がしたような声が転がり込んできた。


「夜雲の馬鹿! あんぽんたん‼︎ そんな強気な口のききかたするなんて夜雲らしくない! そんなの私の知ってる夜雲じゃない‼︎」


 あとがないことこの上ない俺は、涙交じりに俺を叱責する幼馴染を自分のすぐ斜め左に目視する。


 しかし、自分に幼馴染なんかいないことを即座に思い出すと、その幻覚を振り払うようにブンブンと頭を振って、ついで逸れてしまった視線を元に戻し、目の前の現実を直視する。


 またぞろ水鬼と視線を交わすと、心ならずも「ははは」と乾いた笑声が漏れ、我にもなく顔が引き攣るのがわかった。


 ただ死を待つことしかできない自身の不甲斐なさがおかしくてたまらなかったのだ。


 観念した俺は、眼前の恐怖の化身たる水鬼の返答を、固唾を呑んでじっと待った。


 そして、今まで生きてきた中で一番長い数秒間の沈黙を経て、遂に水鬼が動き出した。


 水鬼は口の両端を持ちあげると、莞爾と微笑んでみせた。


 その身の毛もよ立つ笑顔につられて、俺も返すように、またしても「ははは」と笑い声を発した。


 すると、今度は目頭から涙が溢れてきた。


 笑いながら涙を流す、ちぐはぐな俺と、おぞましい笑みを浮かべる水鬼。


 そのとき、急に水鬼が口を開いて、鋭い牙が目に飛び込んできた。


 頭から食べられるのかと思ったが、違った。


 水鬼がようやく言葉を口にしたのである。


 水鬼は抑揚のない声でこう言った。


「ご主人……さま……。ご命令……を……」と。


 その言葉を聞いて、ズコーという漫画の効果音のような幻聴を耳にした俺は、緊張でガチガチになった肩を怒りでプルプルと震わせる。


 次いで、肩透かしをくらった俺は、てめぇ……殴ってやろうか? と今度は心の中で気炎を吐く。


 それから、プルプルという振動でほぐれた肩を大仰に竦め、嘆息混じりに呟く。


 自分とは思えない口調で、けんもほろろに呟く。


「じゃあもういいからそこで立って見てて……」


 新人バイトが言われたら嫌なことランキング第一位と言っても過言ではないセリフを無慈悲にも投げかける。


 直後、そっぽを向いて、俺の命令に諾々と従っているであろう、水鬼から降り注ぐ視線を努めて無視した俺は、気を取り直すと、残り三つの魔法に意識を集中させた。


「じゃあ、今度こそ、ウォーターレプリカだ!」


 そう独りごちると、かがみ込んで原っぱに右手を載せた。


 そのとき、ふと、あることが気になって、水鬼の足元に視線を投げた。


 見ると、いつの間にか、水鬼を召喚するために使用した魔法陣はその姿を消していた。


「魔法陣が消えてる? ということは魔法陣をもう一つ展開しても大丈夫なのか……?」


 新しい魔法陣を展開すると、古い魔法陣が消失する、という記憶を思い出しながら、慎重に魔法陣を展開させる。


「魔法陣! 展開!」


 朗々たる声でそう叫ぶと、右の手のひらがわずかに光り、その手のひらを中心にマンホール大の半透明な魔法陣が、再度展開される。


 それと同時に、水鬼に一瞥くれると水鬼は消えることなく、そこにいて、おぞましい笑みを湛え、繁々と俺を見据えていた。


 俺は安堵しながらも、こっち見んな! あと、笑うな! と理不尽なことを胸中で言い放つと、ふーっと息を吐いて、「よし! 絶対成功させるぞ!」と決意を口にした。


 それから、記憶の糸をゆるゆる手繰り寄せる。


 どうやって、水鬼が召喚されたかを詳らかにするために。


 そうして、思い出す。


 半透明な魔法陣を前にして、水鬼の名前を、魔法名を自分が口走っていたことを。


「これだ! ウォーターレプリカ‼︎」


 俺は声を張りあげ、そう口にすると、続いてすぐに魔法名を叫び、半透明な魔法陣をつぶさに眺めた。


 そうすると、思ったとおり、水鬼を召喚するときと同様に、魔法陣が青く染まり、大きさが『二倍』に拡大した。


 やった! と心中でガッツポーズをした俺は、数歩後退ると、我になく首を捻った。


 召喚するクリーチャーに応じて、魔法陣の大きさが変化するのか?


 そういった考察をしつつ、いそいそと自分のレプリカが召喚されるのを待つ。


 魔方陣が拡大してから二、三秒すると、魔方陣に目に見てわかるような変化が起き始めた。


 魔方陣の中心に、水面に小石でも落としたかのような小さな波紋が生じ、かすかに揺らめくと、それが徐々に蝋燭の火のように輝き始めたのである。


「おお! 来るか!」


 俺は期待に満ちた声をあげ、身を乗り出す。


 と見る間に、魔法陣からいきなり腕が飛び出し、地面から這い出るゾンビさながら……びしょびしょに濡れそぼった俺にそっくりな無表情な顔のクリーチャーが、緩慢かつおどろおどろしい動きで這い出してきた。


 俺は即座に、ギョッとして剥いた双眸で、四つん這いになり、産まれたての子鹿の如く小刻みに震える俺と瓜二つのそのクリーチャーを目に留め、言葉を失い、金縛りにでもかかったかのように硬直する。


 それから暫時、身じろぎ一つせずに、目の前の俺に似たそのずぶ濡れのクリーチャーを仔細に観察していると、にわかにその小刻みに震える濡れそぼった身体がピッタリと静止した。


 何ごとかと思い、思わず目を細める。


 すると、「う、う、う」という苦しそうな呻き声が、そのクリーチャーの口の隙間から漏れ始めた。


 またぞろ、ギョッとして皿のように目を見開く。


 瞼を開き過ぎたせいで、目の表面が若干ひりつくが、目を離すわけにはいかなかった。


 釘づけになる俺を他所に、周囲に満ちたしじまを縫うように立て続けに、草原に四つ這いで釘づけになったクリーチャーが発する呻き声が、小さな羽虫の如く俺の両耳に次々と潜り込む。


 どうするべきか、と逡巡していると、出し抜けに「う‼︎」という大きな音の塊が、目の前のクリーチャーの口から躍り出た。


 その「う‼︎」という一際大きな呻き声を皮切りに、堰を切ったように、立て板に水を流すような勢いでゴホゴホゴボゴボと大量の水の塊が、クリーチャーの口から吐き出された。


 その奇妙な光景を前にした俺は、「うわ!」と我にもなく声を漏らして後ろにさがり、セレブな人々の家のお風呂によく設えられているというライオン型の蛇口と化した、俺にそっくりなそいつを見据えて、心の中でポツリと呟く。


 何これ……? と。


 そして、やにわに、困惑する俺に追い討ちをかけるように「ぐわああああああああ‼︎」という断末魔のような叫び声が俺の耳をつんざいた。


 俺は反射的に、叫び声のした方向に目を向けた。


 そうして、眦が裂けんばかりに目を剥き、絶句した。


 驚いたことに、眼前には水鬼がいて、どういうわけか悶絶しながらその巨体をくねらせていた。


 しかも、よくよく見ると、砂の城が崩壊するみたく、水鬼の身体のあちらこちらが、ボロボロと崩れ始めていることに気がついた。


 突然の出来事に混乱した俺に向けて、その恐ろしい鬼の面に愁いを湛えた水鬼が、呻くようにとつとつと言葉を口にした。


「ご……主人……さま……。ど……どうし——」


 水鬼は言葉を言い切る前に、その存在が最初からなかったかのように、綺麗さっぱり目の前から掻き消えてしまった……。


 お、俺のせいなのか……?


 あ、後味が悪すぎる……。


 その唐突な出来事を呼水に、心苦しさを覚えた俺は、あたかも救いを求めるように、自分は悪くない、と責任の所在を求めるように、水鬼消滅(真偽不明)の直接の原因だと思われる、自身のレプリカだと思しきクリーチャーの方に目を投げた。


 見ると、そのクリーチャーは、前髪から水を滴らせながら、嫌な笑みを俺と瓜二つのその面に浮かべていた……。


 その光景を目にした俺は、再びギョッとして、眦が裂けるほどに、我知らず目を見開いた。


 それからややあって、驚愕する俺の視線と笑み崩れるクリーチャーの視線が、意図せず何かの拍子にぶつかった。


 その刹那、クリーチャーの満面から笑みがたちどころに消え失せた。


 そうして、俺は、無表情に戻った自分とよく似た顔面を見据えて、電撃的に確信した。


 こいつは……たしかに……俺のレプリカだ……と。


 俺はその事実を呑み込むと、途端に毒林檎を齧ったお姫様の如く、力なく、その場に頽れて、「もう……嫌だ。疲れた……。お家帰る……」と澄んだ空を仰ぎ、一筋の涙を流して、独りごちた。


 青く生い茂った草の上で拗ねた子どものように、そんな泣き言を泣きながら言うこの俺を、魔王を倒さなければ帰宅することができない宿命を背負ったこの俺を、レプリカはじぃーっと無機質な目で、ただただ鏡を覗き込むかのようにして見つめていた。

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