第八話 鬼型ゴーレム
俺は、魔法陣から伸びる巨大な筋張った腕を、その先に生える骨張った大きな手を、凝然と眺めていた。
人間の右腕に酷似したその太くたくましい腕は、仄かに輝く青い水によって構成されているようだった。
しかしながら、人間の腕に酷似してはいると言っても、腕の先に生えている部分には、人間的な爪の代わりにワニを彷彿とさせる鋭い鉤爪が五本生えており、それらの爪が人間らしさを欠く原因となっていることは、火を見るよりも明らかだった。
そんな異様な光景を目の当たりにして、小石のように黙りこくる俺を他所に、魔法陣から這い出す巨大なその何かの姿が徐々に露わになる。
順番に、巨人のような右腕に、左腕、一角獣を想起させる角の生えた頭部、仁王を思わせる屈強な胴体、そして、偉丈夫を連想させる頑強そうな下半身が、続々と目の中へと飛び込んでくる。
牛歩の如き緩慢な速度ではあったが、その存在感は各パーツが現れる度に増していき、全身が露わになった今となっては名状し難い殺気のようなものが、太鼓の撥のように周囲の空気を震わせていた。
目睫に陣取るそいつは、どこからどう見ても鬼だった。
巨大な鬼としか言いようがなかった……。
尻餅をつき、瞠目する俺に、そいつは一瞥くれると、口の両端を吊りあげて、禍々しい笑みをその鬼の面に湛えてみせた。
一方、俺は大皿のように大きく見開いたその目に、塩っぱい水を湛えていた。
そんなさなか、その鬼が、やにわにその大きな口で大きく息を吸い込み始めた。
俺が唖然としながら、その一部始終を食い入るように見ていると、次の瞬間、俺の耳に爆音が炸裂した。
「ぐぅおおおおおおおおおお‼︎」と、突如として鬼が腹の底に響くような雄叫びをあげたのである。
突然のことに、驚きのあまり後ろにもんどりを打って倒れると、間髪入れずに首だけを起こし、水で構成されたその鬼に、目を背けたい、という気持ちを押し殺し、その一挙手一投足を見逃すまい、と勇を鼓して、視線を釘づけにした。
と、鬼は、炯々と光るその双眸を、俺同様に、俺へと、まるで俺の勇気を嘲笑うかのように向けていた。
そうして、互いの視線がばちんとぶつかるやいなや、鬼がおもむろに大きなその口を開いて、びっしり生えた鋭い牙を俺に見せつける。
その光景を目にして、我にもなく死を覚悟したとき、俺の耳に意外な音が飛び込んできた。
「おで……水鬼。ご主人……さま。ご命……令……を……」
切れ切れに紡ぎ出されたそれらの音を皮切りに、自身のうちに、にわかにみなぎった思いの丈を心ならずもぶちまける。
「しゃべれるんかい‼︎」
予想外の出来事に恐怖心が、急速に、わずかではあるが薄まり、我知らずこいつが水鬼か……と心中で独りごつ。
「ご主人……さま。どうぞ……ご……命令……を」
水鬼と名乗ったその鬼型ゴーレムは、俺のツッコミを歯牙にかけることなく、先ほどと同じようなニュアンスの言葉を口にする。
その言葉を受けて、俺は顎に手を当てて、ジーッと水鬼を見ながら考える。
そうして、恐る恐る口を開く。
「な、何ができるん……だ……ですか?」
口籠もりながら、タメ語から敬語に高速で切り替える高等テクを披露しつつ、水鬼の言葉を待つ。
「ご主人……さま。ご命……令……を……」
どうやら、水鬼は主人である俺に似てコミ障らしい……。
それか、ゲームのエヌピーシーのように特定の言葉しか話せないパターンのゴーレムなのかもしれない。
「うーん……命令か? じゃあ……とりあえず、水鬼……お前の本気の右ストレートを、俺に見せてくれ!」
俺がなんとなく思いつきで言った言葉に、水鬼はコクリと首肯すると、ボクサーのようなファイティングポーズを取ってみせる。
それから、「おお!」と俺が感嘆の声を漏らすと、水鬼がロングボウを引き絞るかのようにして、右肘を後ろにしずしずとさげる。
見物しようと立ちあがった俺は、その動作を下から見あげて、ためつすがめつ観察する。
そして、なぜか、後悔する。
どういうわけか、脳内で野生の勘が、今すぐ逃げろ‼︎ と、けたたましく警鐘を鳴らし始めたのである。
俺は、咄嗟にその場から逃げ出そうと思ったのだが、思っただけで、終わってしまった。
端的に言えば、逃げ出すことは叶わなかった。
そう……もう遅すぎたのだ……。
脳から放たれた信号が足に到達する前に、シュッという空気を切り裂く音が耳に届くと、水鬼が拳を放った方向に爆風が巻き起こる。
瞬間、勢いよく蹴飛ばされたサッカーボールよろしく、バウンドしながら、俺の身体が後方へと吹っ飛ばされる。
二十メートル、いや、二十五メートル以上飛ばされたところで、俺の身体が草の生えた大地の摩擦によって、ようやく静止する。
それから、言わずもがな、静止すると同時に、全身に痛みが走る。
幸い骨は折れていないようだが、身体のありとあらゆるところに、擦り傷や打ち身が無数にできているようだった。
俺は身体にいくつもある痛む箇所を庇うようにして、ゆっくり立ちあがると、両膝に両手を乗せ、顔をあげて、水鬼に視線を投げた。
その直後、俺は、またぞろ目を丸くした。
見ると、俺のいた場所から、今いる場所の辺りまで、一直線に大地を覆っていたはずの青々とした草たちが、まるで消しゴムでも滑らせたかのように消失し、茶色い地面が剥き出しになっていたのである。
「マジかよ……。風圧だけで……」
そう呟き戦慄する俺を尻目に、水鬼は鋭い牙の生えた大きな口開くと、単調な口調で聞き覚えのあるセリフを再び紡ぎ出した。
「ご主人……さま……。ご命令……を……」