第五十六話 スライム釣り
「し、死ぬかと、はぁーはぁー、おもたあ、はぁー、はぁー」
井戸の中から這々の体で抜け出した俺は、仰臥しながら苦しげにそう呟いた。
全身ずぶ濡れで、服が身体に張りついて非常に気持ちが悪い。
「夜雲! 大丈夫?」
メアが俺の顔を覗き込みながら、心配そうにそう質す。
俺は前額に引っついた髪を、両の手で撫でつけると、「ああ、なんとか」と言って、やおら起き直る。
それから、井戸の方に目を向けて切れ切れに言う。
「あれが……スライムか、姿こそ見てないが……俺じゃなきゃ……確実に溺れてたぞ……あれは」
と、俺の言に応える形でメアが呆れた調子で、すかさず言葉を口にする。
「そりゃそうよ。スライムは害悪中の害悪、普通水中に引き摺り込まれたら、その時点でアウトよ。しっかし、スライムに襲われてよく無事だったわね」
「ああ、そのなんだ……俺にはどうやら水中で呼吸できる……スキルがあるっぽいんだ……そのおかげで助かった」
「水中で呼吸? あなた半魚人か何かなの?」
「馬鹿、野郎、どう見ても人間、はぁー、だろうが……そんなことより、どうするよ。またあん中に入んのはごめんだぜ……おえ」
軽口を叩いたメアに、些かぶっきらぼうな調子で、とつとつに応えると、メアが鹿爪らしく腕組みをする。
そうして「うーん」と一頻り唸ると、にわかに、はっとしたように眉を開いて言う。
「誘き寄せて、引っ掴んで引きずり出してみたら? ちょうどそうね釣りみたいに」
その提案を耳にした俺は小さくうなずくと「釣りか……ああ、たしかにその手もあるな」と顎先を撫でながら言って「亀の甲より年の……」と軽口を付け加えようとしたが、メアにギロリと射すくめられて「すみません」と反射的に謝罪の言葉を口にした。
「まあいいわ。じゃあ、早速取りかかりましょう」
数分後、井戸の前に立った俺は、右腕を伸ばした。
「手を差し入れましてっと……こんな感じでいいか?」
そう言うと、左斜め後ろに立つメアを肩越しに見た。
「ええ、それで数分もしないうちに——、夜雲!」
メアの言葉に耳を傾けていた折、急にメアが血相を変えて、大音声で俺の名前を口にする。
前に向き直ると、橙色のゼリーみたいなものが、俺の手にちょうど絡みついているところだった。
俺は「うわ! キモ!」と言い募ると、我知らずその手に絡みついているクリーチャを振り払おうとして、裏拳でもするように腕を振った。
すると、俺の尋常ならざる膂力に耐えきれなかったのか、そのクリーチャーが俺の腕から剥がれて、勢いよく吹っ飛ぶ。
と、すかさずビタという濡れたタオルを壁に叩きつけたかのような音がして、「ぶべ!」とメアが声にならない声を発してもんどりを打って後ろに倒れる。
慌てて、目を凝らすと、仰臥するメア上半身には、橙色のクリーチャーが纏わりついて、仕切にうねうねと蠢動していた。
仰天した俺は「うわ! 離れろ!」と叫ぶと、メアに纏わるそのクリーチャーを両手で鷲掴みにして、「おりゃあ!」と口にして渾身の力で引っ張った。
次の瞬間、そのクリーチャがメアからシールのように剥がれる。
そうすると、今度はまたぞろ俺の腕に纏わりつこうとしたのか、激しく身体を蠢動させ始めたので、間髪入れずに六、七メートル先の大地目かげて放り投げた。
どさっと音が鳴り、草の蔓延る大地に蟠ったそいつがうねうねと怒ったように蠢く。
思わず、心中で、キモすぎる、っと思った俺は、即座にはっとして、メアの方に視線を転じる。
見ると、メアは粘液に塗れて、てらてらと陽光を照り返しており、瞑目しながら、ぐったりとしていた。
「大丈夫か?」
俺はそうメアにおずおず声をかける。
と、メアは目をおもむろに開けて、顔に張りついた粘液を手のひらで拭い取り言う。
「うっわ、くっさ、ひどい目に遭ったわ……」
「すまんな……思いの外気持ち悪くて」
そう謝罪して、言い訳じみたことを零した俺は、目を投げて言う。
「しかし、あれがスライムかうねうねしてるな」
俺の視線の先では、橙色をしたゼリー状のクリーチャーがうねうね動いていた。
見た限り、目や鼻、口のようなものは見当たらなかった。
メアは起き直ると、粘液で濡れそぼった前髪を後ろに掻きあげながら、スライムを一瞥して言う。
「そうね。うねうねしてるわね。でも、水から引き摺り出せばこっちのものよ。あの身体の中で脈打ってる心臓を破壊すれば簡単に倒せるわ」
言われて、目を凝らすと、スライムの身体の中心辺りで、半透明な臓器のようなものが脈打ってるのを見いだした。
「心臓、あれか、よし任せろ!」
言うと、俺は手から『天の剣』を出現させ、スライムに接近した。
それから「悪く思うなよ。えい!」と言って、その心臓と思しき臓器を一突きした。
グサという音がした一瞬後、スライムは暫時激しく痙攣すると、水溜りよろしく、薄くペースト状に広がり息絶えた。
直後、急にその橙色の水溜りの上に、波紋が広がって、その中心部から紫色をした人魂のようなものが踊り出してきた。
それは、俺の目の高さまで、揺蕩いながら浮かびあがると、急に青と赤の人魂のようなものに分離した。
「さぁ、何になるのかしらね」
いつの間にか、隣に並んだメアが言う。
俺はメアの横顔をチラリと見やると、それらの人魂のようなものに向き直って、思わず独りごちる。
「これが水鮫の言ってたやつか」
そのとき俺の脳裏には水鮫の言葉がまざまざ蘇っていた。
『えーとですね。モンスターを倒しますと基本的に死骸と濃い紫色をした魂とに分離するのですが、分離したその魂は瞬く間にさまざまなものに姿を変えるんです』
『肉体から分離した魂は、空気に触れることによって、さらに分離します。具体的には、赤色の魂と青色の魂に分離します』
『分離したうちの赤色の魂は、魔石やアイテムといった目に見えるものに、ランダムで姿を変えます』
『青色の魂は、経験値やスキルポイントなんかの目に見えないものに変化します!』
『……経験値の場合、そのままモンスターの近くにいた人物に吸収される性質があるんですけど……』
『スキルポイントの場合は、肉体ではなくギルドカードに吸収されます』
それらの言葉を思い出した次の瞬間、ポンという音がして、赤色の魂が薄いピンク色の煙と化し、その一瞬後にその煙は霧散すると、あとには緑色をした宝石のようなものが六つ浮かんでいた。
「なんだこれ?」
俺が首を傾げると、メアが「魔石かぁ」と漏らした。
「魔石?」と俺が呟くと今度は、青色の魂が姿を変える。
またしても、ポンという音がしたかと思うと、青いの魂は、薄緑色の靄のようなものに変化し、瞬く間に雲散霧消した。
はてな? と思ったその矢先、俺とメアのポケットが薄緑色に発光する。
「な?」と俺が言って、瞠目すると、「今回はスキルポイントね」とメアが言った。
ブレザーのポケットからギルドカードを取り出すと、カードに埋め込まれた石が薄緑色の光を宿していた。
そうして、これがスキルポイントか、と思った俺は、初めて経験値を獲得したときのことを思い出す。
たしか、あのときは、身体が青白く光っていたっけ。
つまり、経験値だと身体が青白く発光して、スキルポイントだと、ギルドカード(に埋め込まれた魔石)が薄緑色に発光するわけか。
俺はそのことを脳中に刻み込むと、空中に浮かぶ、緑色の石に目を投げて口を開いた。
「これ触っても大丈夫か?」
「ええ」
メアの言を耳に入れると、恐る恐る両手を伸ばし、虫でも捕まえるみたいに、それらの魔石を手の中に閉じ込める。
それから、おもむろに手を開いて見ると、俺の手のひらには、発光するのをやめた魔石が代わりに外光を反射して佇んでいた。
「これって何に使うんだ?」
「え? そんなことも知らないの?」
「俺の故郷にはこんなのなかったからな」
「へー、モンスターが出ない地域もあるのね」
「それは魔石って言って、モンスターを倒すと手に入れることのできる魔力の塊ね。基本的な使い方は、魔力の回復に用いたりするの」
「魔力の回復? 魔力って回復できるのか?」
「ええ。というか、なんでそんなことも知らないの? 夜雲、あなた、魔法使うわよね? 習わなかったの? もしかして独学?」
「まあ、そんなとこだよ」
「まあいいわ。魔力量は人によって異なるんだけど、魔法を使うと魔力量は減って、その減ったぶんを回復するには、時間が必要なの。その回復量も人によるんだけど、最低でも二、三時間はかかるわ」
「けっこう、時間かかるんだな」
「そう、そこで魔石の出番ってわけ」
「なるほどな。で、こいつはどう使えばいいんだ?」
「噛むのよ」
「噛む?」
俺は思わず眉を顰めた。
「そう魔石を噛むの、ああでも前歯じゃなくて奥歯で噛んだ方がいいわ。たぶん前歯だと折れるから」
「ふーん。噛むのか、そうか」
俺は言いながら、内心、氷や飴玉を噛んだときのことを連想した。
そして、ふと気がついて、両方の手のひらに転がる魔石を、左右の手に三つずつ分けて握って、左手をメアに差し出して言った。
「ああ、そうだ、これ、メアのぶんな」
「はい、ありがたく頂戴します」
メアはそう応じると、俺から魔石を受け取って、それを服のポケットに仕舞い込んだ。
「じゃあ、スライムは討伐したわけだし、さっきのお婆さんに報告して、さっさと帰ろうぜ」
俺が言うと、メアはスライムの粘液に塗れた服を右手で摘んで「そうね。湯浴みもしたいし」と応える。
「ああ」と相槌を打った俺は「早くあったかい湯にでも浸かりたい——」と言いかけて、「ハックション!」と大きなクシャミをした。
俺は、その直後、井戸水に濡れそぼった自身の身体を掻き抱くと、「ああ、寒い、このままでは死ぬ」と震える声で言って、思い出したように歯をガチガチ鳴らした。
俺の大仰な言にメアはかすかに「ふふふ」と笑い声を立てた。




